ディアマイハニー

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サテン地のシンプルなデザインのドレスは、考えてみれば、いつ彼女が手に入れたものだったのか――。
ぼんやりと頬杖をしながらそんなことを考えていて、咄嗟に何をしていたのかを忘れてしまっていた。

肩をむき出しにする、細いストラップで吊るしただけのシンプルなデザインのドレスの色は黒。色彩を全て奪われ、身に纏う衣装さえも色を無くしてしまうという呪詛を受けている彼女にとっては数少ない楽しめる色だ。
身体のラインがはっきりと分かるそのドレスは丈が長く、手に入れた当初、彼女自身は少し不機嫌そうだったものだ。「動きづらい」とか何とか言って。
(…の、癖に)
「おーい、ハニー、いつまで惚けてるんだ。…何だ、見惚れてんのか?」
嬉しそうにカツカツとヒールの高いサンダルで音を立てて歩く女の姿に、彼はうんざりとしつつも、条件反射でお約束の返事を返した。
「ハニーって呼ぶなクソ猫」
「んふふ、照れるな照れるな。私のスタイルだってまだまだイケてるだろ?」
「ああ、はいはい。そうだね」
「適当だなぁ」
ぷん、とわざとらしく片側の頬だけ膨らませて見せてから、しかしすぐに女は満面の笑みに戻る。にやりと笑う口元からは、僅かに牙めいて見える鋭い犬歯が覗いている。
「…母さん、バレッタはどこへやったのさ」
その姿を横目に、少年はそう問いかけた。腰まである長い髪の毛は癖っ毛をそのままにぼさぼさのまま、彼女の背中で揺れている。幾らなんでも正装のドレスにこの髪型ではあんまりであろう。最低限の身だしなみくらいは整えてやろう、と、少年は立ち上がった。晴れの舞台に登場する母親の格好くらい、きちんとしておいてやらなければ、今日ばかりは困るのだ。彼女自身ではなく、彼らの娘が、だが。
「確かあれ、シェイリィからのプレゼントだっただろ」
「うん、ちゃんと持ってきたぞ。…ふふ、昔はあーんな小さくて泣き虫だったシェイリィが、随分立派な大人になったもんだ。あの子が嫁に行くと思うと、何だか感慨深いなぁ」
「娘の結婚式なんて何度目だと思ってんのさ」
「何度経験したって、いいもんだろ、こういうのはさー」
にこにこと笑う彼女は楽しそうで、少年は改めてうんざりと溜息をついた。何が楽しいもんか。手塩にかけて育てた娘がどこぞの馬の骨とも知れない男にもらわれていく光景を、楽しい、なんて断言できる男親が居るのなら見てみたいものである。



つまり、この日は彼らの娘の結婚式であったのだ。それもただの式ではない。シェイリィの結婚相手は近隣の街の若き豪商であり、今日の式は盛大に執り行われる予定になっていた。かの孤児院の「院長先生」、シェイリィの親代わりであるレシゥシェートが、珍しくもドレスなんてものを着こんでいたのはそのためである。
「で、ハニーも出席するんだよな」
「シェイリィのたっての頼みだからね、仕方ない。…と言っても、さすがにこの形で『父親です』とも名乗りづらいから、同じ孤児院の人間ってことで通す積りだけど」
呟く孤児院の事実上の経営担当、ヨルはと言うと、こちらも一応カラーのついたブラウスにリボンタイ、それに黒のズボンにジャケットという正装姿である。ただし彼の場合は、町の住人からのお下がりで借り物であった。その格好で、彼は黙々と、レシゥシェートの長い髪を梳いてやっている。
「えー、別にいいじゃん。私がお母さん代わりで、ハニーがお父さん代わりだろー」
事実なんだから隠すこともないのに、と、つまらなさそうにレシゥシェートは口を尖らせた。身なりは立派なレディのそれで、色彩を失うという呪詛の為に全身がモノトーンの異様な姿とはいえ、スレンダーなスタイルは魅力的、とさえ呼べるだろう。にも関わらず、言動がひたすらに子供のそれだ。
彼女とは逆に、見た目は12かそこらの子供にしか見えないヨルの方の言動は、完全に大人のそれだった。
「…シェイリィにだって世間体ってものがあるだろう。まして今回の式は街の人間も多いし、エルフに偏見のあるような人は居ないと願いたいけど、…あの子は孤児だってだけで、これから色々苦労をするはずだ。余計な苦労を増やしたくないんだよ」
そこまで淡々と言ってから、彼は深緑の瞳をじろりとレシゥシェートの後頭部へと向ける。そんなところを睨んだ所で彼女は痛くもかゆくもないだろうが、それでも睨まずにはいられない。
「まぁ、母さんが式に出る時点であの子はとんだ苦労を背負い込む羽目になるんだろうけどね…」
「むー、それはどういう意味だハニー。私だって一応、フォーマルな場所では礼儀正しく振る舞えるんだぞ」
「知ってるよ、一体何十年あんたと付き合いがあると思ってるんだ。礼儀正しく振る舞いながらトラブルも振りまくのがあんたの流儀だから心配してるんだよ!」
「何だハニー、私のことを心配してくれてたのか」
「するかボケ! 僕はシェイリィの心配をしてるんだっ!」
「…ハニーは娘に甘いよなぁ。何だよー、母さんちょっと妬いちゃうぞ?」
「だからその呼び方やめろって言ってるだろ!」
言い捨てるようにして、ヨルはぱちん、と彼女の背後でバレッタを留めた。――安物のバレッタはドレスには似合わないかもしれないが、今日結婚して独り立ちするシェイリィが、幼い頃に義母のために贈ったものだ。この日に身につけるには、これ以上に相応しいものは無いだろう。
「はい、これで髪型はよし。あんまり暴れて崩さないでよ、母さん」
「ハニー」
「だからその呼び方やめろって…何だよ」
座ったまま、肩越しに視線を投げて来るレシゥシェートは奇妙な顔をしていた。真面目な、とも違うが、どこか困ったような、彼女にしては珍しい、本当に珍しい困惑の表情。ただでさえ珍しくドレス姿であることも相まって、一瞬、ヨルは目の前の見慣れた、見慣れすぎたくらいの人物が知らない女性のような、奇妙な錯覚を覚える。
「んん、いいや、何でもない。…結婚式なんて、何度も見てんのに、何だか変な気分だよ」
娘をこうして何度見送ってきたことか。孤児院の院長であり、子供達の母親代わりを自認する彼女は、奇妙にしみじみとした調子で呟いていた。――常日頃、豪快かつ脳天気に生きている彼女にしては珍しい、感傷的な態度に、ヨルは眉をしかめ、それから恐る恐ると言う風に問いかける。
「…し、シゥセ」
つい、彼女の愛称が口を突いた。呼ぶとレシゥシェートが猫みたいな耳をぴょこりと動かして喜ぶので(そしてそれが案外可愛く見えてしまう自分が心底嫌なので)、滅多に呼ばないようにしているのに。
「…何か悪いものでも食べたの?」
「どういう意味だよハニー。……あのなぁ。私だって女性だぞ、結婚式の一つや二つ見ればちょっぴり考える所もあるんだよ!」
が、今回に限れば、レシゥシェートは愛称を呼ばれたことよりもそちらの方に意識が向いていたものらしい。彼女の感情を如実に反映する猫みたいな獣耳は、神経質に後ろにぴんと向けられていた。猫が不機嫌な時そっくりである。ドレスのスカート部分で覆われて見えないが、きっと尻尾も神経質に細かく揺れているに違いない。
一体どうしたのだろうか、またぞろいつもの気紛れで何か言いだすのではないか。ヨルが一人眉間に皺を寄せていると、ばたばたと廊下を走る足音が聞こえて来る。
「――ああもう、またあいつら。廊下を走るなと言ってるのに」
「いいじゃないか、はしゃぎたい日なんだろ」
肩を竦めてそう応じるレシゥシェートはいつも通りだ。少なくとも表面上はいつも通りに、見えた。ヨルは彼女の微妙な変化に首を傾げながらも、扉を開く。
「こら、走り廻るな! そこらへんの修繕終わってないんだぞ、床が抜けたらどうす――うわあああああ!?」

ちなみに彼が言い終える直前に、今年に入って5度目の床の陥没が起き、子供の一人がそこに落ち、怪我をする直前でヨルの呼びだした悪魔達がそれを助ける一幕もあったのだが、そんなことはさて置いて、結婚式の開始時刻は刻一刻と近づいている。


教会式の結婚式というのは退屈である。司祭のありがたいお言葉を前に船をこぐ子供達を支えながら、ヨルは胸の悪さを顔に出すまいと、神経質になっていた。 ――悪魔を使役する「魔女」であるヨルは(理屈を端折って簡単に言うと)「聖なるもの」全般が苦手なのである。正直に言えば「教会」という、神性精霊が山ほど棲みついている領域に入ることもあまり好きではない。我慢が出来ないほどではないが、少々気持ちが悪くなる。
ちなみに、同じく神性精霊を不得手としているレシゥシェートはと言うと、ちゃっかり「ちょっとお花摘みに」などと嫌味ったらしい程に上品に告げて席を立っていた。多分、司祭様のお説教が終わったら戻ってくるだろう。あの女は原則的に腹立たしいことしかしない。
「ね、ね、父さん、花嫁さんのパレードはまだー?」
小さなひそひそ声で彼のジャケットの袖を引いたのは、隣でさっきまでこっくりこっくりと船をこいでいた孤児院の娘だった。滅多に着られない「余所行き」のワンピースにご満悦な様子の彼女は、きらきらとした目で誓いの言葉に答える花嫁の後姿を見ている。この子もいずれはああして嫁に行くのだろうな、と思うと矢張り腹立たしく、ヨルはむかむかする気分を必死に抑え込みながら応じた。
「キスが終わったらね」
「キスだって!」
「シェイリィねーちゃんがちゅーするの」
「ふふ、キスだってー」
「……静かにしなさい、お前達」
幸いにして、周囲の大人達は、ひそひそ声で囁き合う子供達に、何とも優しい視線を向けてくれている。その視線がかえって心苦しく、縮こまりながらも「静かに」と改めて強調していると、
「おい、ハニー」
「……ああ、一番面倒なでっかい子供が戻ってきた…」
思わず頭を抱える。厳粛な雰囲気などどこ吹く風、ずかずかと教会の廊下を歩き、「ちょっと失礼」と無造作に椅子を乗り越えて自分の元へやってきた義母に、ヨルは咎める視線を向けた。が。
――そのまま耳打ちされた一言に眉根を寄せて、問いかける目を彼女に向ける。
「ホント?」
「ん。…ああ、もう、ミディったら、涎垂らして。一張羅が台無しだ」
くくっ、と猫のように咽喉を鳴らして笑うと、椅子の上に眠りこける子供に、レシゥシェートは羽織っていたショールをかけた。
「……父さん、母さん、何かあったの…?」
「シェイリィ姉ちゃんのこと?」
二人の緊張を察したか、起きている子供の中でも年長の二人が顔を見合わせ、そう問いかけて来る。他の子供達、と言っても起きているのは残り一人なのだが、その一人に気遣ったか、声は低められていた。
「ふふん、心配いらないよ。母さんが心配ないって言って、ヤなことが起きた試しがあるか?」
にやりと笑って、レシゥシェートが子供達にそう囁きを返す。
孤児院で、レシゥシェートの持ち込む様々なトラブルに揉まれて育つ子供達はどこか大人びた風に育つ。この二人もそうで、二人は目線を交わし、どちらからともなくため息をついた。肩を落とす所作は、母親代わりの彼女よりも、父親代わりの小さな彼にとてもよく似ている。
「…ヤなことは起きなくっても、どうせ母さんが騒いで父さんが胃を痛めるんでしょう、それくらいは分かるよ」
「まぁ、事情はよく分かんないけど…行っておいでよ、母さん、父さん。ミディとファズの面倒は俺達で見てるからさ」
「悪いね。――花嫁のパレードの前には、戻るよ」
「あてにしないで待ってるわ、父さん」




大きな結婚式の終わりには、決まって花嫁行列が街を練り歩くことになっている。街でも有数のお金持ちの結婚とあって、教会の周囲には話を聞いた街の人が冷やかし半分に集まっていたり、小さな子供達の中には目をきらきらさせて花嫁を待ち望んでいる者も居る。
そうした人々の中に、見慣れた顔があったもので、ヨルはちらりとレシゥシェートと視線を交わし合い、それから嘆息した。
「あーうん、なるほどね」
「だろ?」
ほら見ろ、厄介事になりそうだろう。レシゥシェートはふふんと得意げに鼻を鳴らしている。それを無視して、彼は大股にその人物に近づいた。あちらもあちらで、何しろ「色が無い」せいでやたらに目立つレシゥシェートにはさすがに気付いたものらしく、目を丸くしてから――頭を抱える仕草をした。
「…こんなとこで何してんのさ、ハーセント。ウチの娘に祝儀のひとつでもくれるって言うならありがたく歓迎させて貰うけど?」
「げ、居たのかよ小さいの!」
追い打ちをかけるように、ひっそりと近付いたヨルに背後から声をかけられ、彼女は更にうんざりとした声をあげた。今度は天を仰ぎ、それから――自分の隣にいた、教会を冷めた目で睨んでいた男に顔を向ける。彼女はそのまま、さばさばとした口調できっぱりと言った。
「おい依頼人。悪いがこの仕事、キャンセルだ。違約金は払うから根には持つなよ」
「何?」
こちらは、この時ようやくレシゥシェートとヨルに気付いた様子だった。地味で目立たない容姿をしている――半分はエルフの血筋のはずなのに、美形ぞろいのエルフの特徴を欠片も継がなかったらしい――ヨルはともかくとして、繰り返すがレシゥシェートの容姿はとかく悪目立ちする。その彼女の姿にさえ目もくれなかったくらいだから、相当、教会へ、正確には恐らく教会の中で行われている式の方へ意識を傾けていたのに違いない。
その彼は、顔をしかめて傍らの女を睨んだ。
「…どういうことだ、ハーセント・ハーチェット・レガス!」
「仕事をキャンセルってのはアタシとしても流儀にもとるんだが、さすがにこればっかりは勘弁してくれ。…<無色>と<影>を同時に敵に回すほど、アタシはまだ人生見限ってない」
彼女はそう言って腕組みをした。
ハーセント、と呼ばれたのは、妙齢の女性だった。ぽっちゃりとした唇とたれ目がちの大きな目に日焼けした赤銅色の肌。グラマラスな肢体も含め、地味な町人風の衣服に身を包んでいてさえ、匂い立つような色気が溢れだすようである。レシゥシェートとは違った意味で、人目を惹く姿だ。
「こいつらじゃなければ、あんたの依頼、やぶさかじゃなかったんだがね。幸せな花嫁さんに魔物けしかけて阿鼻叫喚…なんてそんな楽しい話、乗らない手はないし」
「相変わらずお前死ぬほど悪趣味だなハーセント…」
「だって悪党だもん、悪趣味に決まってんじゃんか」
ニヤニヤと笑いながら、ハーセントは自分より頭一つ分小さなヨルの額をつんつんと突いた。その親密そうな仕草に、男が苛立たしげに身体の両脇で拳を握りしめる。顔色は蒼白だ。
「は、話が違うだろう…! 違約金だの何だの、金で済む話じゃないんだぞ!? お、俺の恨みを晴らしてくれると言うから雇ったのに…!」
「恨みィ? 何だお前、ウチの娘に何か話でもあんの?」
レシゥシェートがその眼を眇めて男を睨む。奇妙に迫力のある長身の女性に、男ははっとしたように顔を上げた。
「…娘…? あの女はみなしごだと聞いたぞ。だ、だからわざわざ、この俺が取り立ててやろうとしたのに、あの女ときたら…」
その物言いに、レシゥシェートが苛立たしげにすぅと息を吸う。自分の娘を「あの女」呼ばわりされていい気分のする親がどこに居ると言うのか、怒りの言葉をぶつけようとした彼女だったが、しかし言葉が口から出るより先に、
「どこの馬の骨とも知れないみなしごの分際で、この俺を…しかも自警団に俺のことを訴えるなんてふざけたことぬかしやがって…お陰で俺は仕事を――がっ」
不愉快な呟きが唐突に途切れ、男の身体がぐらりと傾ぐ。
石畳で舗装された道路に顔面から倒れる男の背中を容赦も遠慮も、そして周囲の目を気にする配慮さえなく踏みつけたのは、小柄で華奢な、見た目12歳程度の少年。どうやら背後から、今も手に握っている拳銃のグリップで殴りつけたらしい。言葉よりも先に手が出るなんて、普段であればレシゥシェートのやりそうなことなのに、いつも彼女を諌める立場の彼がこういう行動に出るのは恐ろしい程に珍しい。
「…よ、ヨル? おーい、ヨルさん? ナハト・レガス?」
「は、ハニー…?」
「…どうしたの、二人して青い顔して」
男の背に乗せた足に体重を乗せそのままぐりぐりと抉るようにしながら、常と変らない淡々とした視線で、ヨルは二人の女性を見上げた。
「も、もしかして、今、ものすごい怒ってるのか…?」
その彼に、ハーセントが引き攣った笑みを向けながら恐る恐ると言う風に問いかけて来る。ヨルは、ほんの僅かに口の端を緩めて、笑みとも言えない淡い笑みを見せた。
「何言ってるの、ハーセント。そんな訳ないだろ」
「そ、そうだよなー…。感情に任せて突っ走るのはお前の相方の得意技だし、それを諌めるのが特技の<影のレガス>に限って、いくら愛娘を侮辱されたからって怒りに任せて通りすがりの男を殴り倒して踏みつけるなんてそんなこと」
「ところでハーセント、シゥセ、コイツこのまま始末したいからちょっと街の人達の視線遮っておいてくれる?」
「レシィ! 怖いよ! あんたの相棒兼恋人が怖い!!」
悲鳴を上げて後ずさるハーセントに訴えられたレシゥシェートはと言えば、のんびりと。
「ねぇハニー、殺すと後が面倒だし、それよりあの辺りをもいでやったら? ハニーの魔王様ならそういうこと出来そうだし」
「一生不能にしてやるくらいなら簡単だけど…それじゃあんまり大した苦痛にならないし」
「いやエグいぞ。それかなりエグいぞ」
残念ながらハーセントの呟きは怒れる母と父の耳には届いていなかったようだ。二人はそのまま穏やかな調子で、あくまでも足は男を踏みつけたまま、古今東西ありとあらゆる拷問方法を悪魔的に語らっている。怒れる親というのは恐ろしいものだ、と、その日ハーセントは心にしっかと刻みつけた。彼女自身はといえば呑んだくれの母親に暴力をふるわれたりろくでなしの父親に売りとばされたりしたので親と言うものに良い思い出がろくになかったのだが、これは見識を改める必要がありそうである。
などと考え込んでいたのだが、さすがに「大の男を少年が足蹴にしながらにこやかに会話をしている」という図はいささか奇異なものに映ったらしい。
「あー、すみませんが…そこの、ええと、結婚式の出席者の方ですか? 話を聞きたいんですが」
おずおずとかけられた声に顔を上げれば、いつの間にか周りにはちらほら自警団らしき紺色の制服を着た集団が見えた。
「ああ、いけない」
ぱちくりと子供のように瞬いて、ヨルが男の背中から足を退ける。
「いえ、ちょっとこの男が不穏な動きをしてたもんですから」
「あれ、あんた、隣村の医療術師の…」
自警団の一人がヨルの顔を見て言いかけた言葉は、形にはならなかった。ヨルやレシゥシェートが自警団に意識を向けて距離を置くのを待っていたのだろう、いつの間に意識を取り戻したものか、男が立ち上がり、血走った目で何かを掲げていたからだ。
黒く染められた石のように見えるそれを見て、「あ」と気まずそうな顔をしたのがハーセント。事態を把握できずにきょとんとして動きを留めたのが自警団。ヨルとレシゥシェートの反応は、ハーセントから一拍遅れた。
「みんな下がって!」
ヨルが警告し、同時にレシゥシェートが地面を蹴る。石畳を穿つ程の力を込めた踏み込みで、殆ど瞬間移動でもしたんじゃないかと思わせるほどのスピードで彼女は男の背後に回っていた。そのまま男の手から黒い石を叩き落そうとしたが、
「その小鍵をもって開門とする! …どいつもこいつも馬鹿にしやがって、滅茶苦茶にされちまえッ…」
ヤケクソ気味に叫んだ男の手の中、黒い石を中心にして、ごう、と魔力を帯びた不愉快な風が吹く。それなり程度に魔術の知識があれば、次元をかき乱す<異風>であると気付いたはずだ。耳鳴りと、次元が歪む際に起きる眩暈に見舞われ、その場にいた一般人までも悲鳴を上げて逃げだし、魔力に対する耐性が低い者などはその場に倒れてしまう。
その風の発生地点では、異変が起こっていた。黒い石を中心として、黒い、穴――としか呼べないものが生じている。そこから、一匹、また一匹と、小型の魔物が出現しているのだ。
犬のような魔物がひとつの群れなるほどの数出現した所で、ぶつり、と太い紐が千切れるような音をたてて、黒い穴が消失する。
一頭一頭は黒いいぬのような、しかし明らかに異様な緑眼を爛々と輝かせ、牙を見せる魔獣の群れは、それを合図にしたように一斉に動いた。
――男の方へ。
「ぎゃあああああ!!」
凄絶な悲鳴に、辺りの人々さえも身ぶるいし耳を塞いだ。平然としていたのは他人の痛みを屁とも思わない悪党どもだけである。
「…ん、とはいえここで死なせて楽にしてやるのも惜しい」
「ハニーってばあくどいなぁ」
「あんたに言われたくない」
耳と腕の一部を食いちぎられ、それでも運悪く――としか言いようが無い――気絶も出来ずのたうつ男に、レシゥシェートが一歩近づいた。周囲の小型の魔物が、獲物をとられるとでも思ったかざわりと彼女を取り囲むが、
「…<群れ>で僕に挑もうなんてのがそもそも馬鹿げてるよ」
ヨルがひとつ腕を振るだけで、骨だけの身体に錆びた鎧と剣で武装した骸骨騎士達がその囲いに襲い掛かる。露払いで開けた道を突破し、レシゥシェートは倒れ伏す男の元に辿りつくと。

蹴りあげた。

問答無用で蹴り上げた。華奢な細い足に一体どれだけの力がこもっていたと言うのか、ぐぇ、と肺腑から呼気を漏らす異様な音をたてて男は宙を舞い、そして寸分違わず、魔物達の群れの外へと顔面から着地した。石畳に、である。凄絶な音――骨が折れるような――と共に、今度こそ気絶する男を、わらわらと近付いてきた自警団の男達が保護していた。
「どう見てもお前が蹴りあげた方が重傷だったぞ、今の」
それを遠目に見ながらヨルは告げ、ふん、と鼻を鳴らす。
「どうせなら僕がやればよかった」
「お前がやったら加減を間違えて殺すだろう、絶対」
苦笑しつつもレシゥシェートはいきり立つ魔物達を睥睨し、一言。
「ヨル、ハーセント、後よろしく」
「えええっ、姐さんは!?」
「…私、今日武器持ってきてないんだよ。汚れるの嫌だしさー」
「はぁ!? な、なんだよそれ、姐さんらしくない…」
汚れるのが嫌、などと。
暴力と子供が三度の飯より好きなレシゥシェートの台詞とは思えない。ヨルもさすがに唖然として彼女を見やったが、当の本人はどこ吹く風で欠伸をしつつ、ヨルとハーセントを盾にする位置に移動していた。文句を言おうと二人は各々口を開きかけたが、襲い掛かってきた魔物達にその言葉は遮られてしまう。
「ええい鬱陶しい…! ハーセント、お前だろう、あんなよく分からん魔道具を作って依頼人に渡したのは! 何とかしろ!」
「ああ、悪ぃ悪ぃ、あれ使い捨ての道具だからさー、呼び出すだけ呼び出して終わりなんだよ」
「おいこら<偽書作家(エミュレイター)>! 後始末の方法くらい考えとけ!」
「あはは、お前の説教も久々だなぁ」
笑いながらハーセントはひょいと魔物の突進をかわし、マントから一冊の本を取り出す。ぺらぺらと適当にめくるそれは真っ白で、なにも記されていないが、
「そうだなぁ、白いのがいいな、あの魔物どもは黒いから。小鍵の対だから、うーん、なんか綺麗なのにするか」
すらすらと、魔物の攻撃をかわしながら彼女はページにペンを走らせていく。かわしきれない攻撃からは、ヨルの呼びだした骸骨の騎士達が彼女を庇って砕け散った。砕けて、そしてまた元の姿に戻る。それを二度ほど繰り返したところで、ハーセントがペンを懐にしまって顔を上げた。
「さァて皆様お立会いィ! カタギにアタシの芸を見せるなんざァ、そうある機会じゃないぜ!」
麗々と、朗々と、高く良く通るハーセントの声が魔物達の唸りを圧倒した。語りかけるような芝居がかった口調は人々が視線を思わず吸い寄せられてしまうほど。まるでそれ自体が魔術ででもあるかのようだ。
そして実際、それは彼女の魔術の一部である。古ぼけた本を片手に、彼女は芝居のように腕を振り上げ、
「黒き駒を圧倒するのは白き駒、ってなァ。さてさてこれにて芝居は終幕、茶番劇には石のひとつも投げておくれなさいな!」
腕の中、白紙に即興で図案の記されたページを彼女が破り捨て放りあげる。
丸められた紙切れは、瞬時にその姿を白い石へと転じた。手の中に落ちてきた白い石に、ハーセントは口づける。嫣然としたその仕草。
「あっははァ。星の時間に従って、黄道の門よ、開け!」
笑いながら、くるりと彼女がその場で廻ると、先の魔物の出現とそっくり同じ現象が起きた。<異風>が吹き荒れ、虚空に穴が開く。ただしそれは先の黒いものではなく、白い輝きを宿していた。人を本能的に落ち着かせるような、穏やかな光だ。そうして出現した、魔物とは逆に白い――それは蝶々の群れであった。
無数の羽ばたきは<異風>の中でさえごうごうと唸るような音として聞こえて来る。そうしてその群れは、魔物達を次々と呑みこんだ。あっと言う間に辺りから黒い四足の獣姿の魔物は一掃され、残っていた白い蝶の群れも、
「良い子は門限の時間だぜ。黄道の門よ、閉まれ!」
ハーセントの声と同時、風船が弾けるような気の抜けた音を立てて消えていく。銃声に似た軽い破裂音はひとつの群れが消えるまで続き、それが終わると、そこには何も残ってはいなかった。魔物も蝶も。



――婚礼の日を台無しにしてやりたかったのだ、と男は後に語ったと言う。が、それはあくまでもヨル達が後に、町の自警団の一人から聞いて知ったことだ。
魔物を全て消し去って、ハーセントは自警団に事情を聴かれる前にと逃げ出してしまった。大方面白半分で男に手を貸したのだろうが――どだい、レガスの魔女を巻き込んで何かしようというのが間違いなのだ。白い蝶の群れに紛れるように消えたハーセントのことを考えながら、ヨルは深々と溜息をついた。息を吸い込んだ拍子に不愉快な血の臭いがする。
その金臭い不愉快さを打ち消す様に、頭上から重々しくも華々しく鐘が鳴り始めた。
「式が終わっちゃったね」
「何言ってんだ、これから花嫁行列だろ! そっちのがメインじゃないか」
「……あのね母さん。本来、結婚式における花嫁行列っていうのは、結婚式の前にやるものでね――最近のこういうパレードみたいなのは、賑やかしのためのお祭りで付け足しだよ。ちゃんとした結婚式じゃないの。蛇足だよ蛇足」
「何十年前の常識で語ってるんだよハニー。そんなんだからエルフは人間から『頭が固い』って馬鹿にされんだぞ」
「僕は半分しかエルフじゃないし、『長命種』って言うんなら母さんだって同じだろ」
肩を竦めて応じながら、ヨルは腕を振った。いつものことだがそれだけの仕草に全ての魔術儀式が凝縮され、彼の命令に従って、彼の周りに僅かに残っていた骸骨の兵士たちが姿を消していく。
野次馬達が、好奇と恐怖と、それから時には嫌悪を込めてこちらを睨んでいるのを感じつつも、ヨルはあえてそれを無視した。シェイリィには悪いことをしたな、と少しだけ思う。
教会の中では外の騒動など知らなかったのだろう。
やがて鐘の音の中、扉が開いた。中から現れる花嫁と花婿のいかにも華やかな姿に、それまで魔物への恐怖から遠巻きにしていた人々が戸惑いがちにではあるが教会へと近づいてくる。新婚夫婦と、教会から出てきた式の客人達は、何故だかしばらく静まり返っていた外の人々に驚いたようだったが、すぐに彼らが口々に祝いの言葉を口にし始め、用意されていた花弁を振りまき始めたので、すぐに懸念は忘れたようである。
輝くような笑顔で、花嫁――シェイリィは笑っている。
ヨルもレシゥシェートも遠巻きにそれを見守っていたが、不意に、視線をさまよわせていた彼女の瞳が二人を捕えた。
「父さん、母さん!」
にこにこ笑いながら、彼女はそう言って手を振る。仕方なしにヨルは手を振り返し、それからレシゥシェートは、
「シェイリーィ! ブーケちょうだい、ブーケ!」
「母さんったら、十年前のナーリャ姉さんの結婚式でもブーケおねだりして貰ってたじゃないの。駄目よ!」
口を尖らせて言うシェイリィに、ちぇ、と舌打ちしつつもレシゥシェートはにっこり笑い返した。客や野次馬の視線は、どう見ても花嫁とは似ても似つかぬ「猫耳」の「母親」と、少年にしか見えない「父親」をかわるがわる見やっている。
(視線が痛い)
溜息をつきつつも、野次馬達が何やら気を利かせたつもりか花嫁の方へと押しやるもので、二人は新婚夫婦が降りて来る教会の階段下へと追いやられていた。ヨルの方は少々魔物の返り血など浴びているもので気が気ではない。目立たないとはいえ、結婚式の雰囲気を台無しにしては大変だ。早々に退散してしまおう、と、彼は花嫁を手招いた。
花婿に何やら断りを入れて、彼女はブーケを大切そうに抱えたまま、二人の所へとことこと近付いてくる。ヒールの高い靴には不慣れだと式の前に随分とぼやいていたが、足取りに不確かなところは欠片も見られない。そのことが何故だか、ヨルは少し寂しいような気がしていた。女の子はいつだって、知らない所でどんどん大人になっていってしまうのだ。
「シェイリィ」
そんな漠とした感情は押し込めて、ヨルは彼女の名を呼ぶ。
長くて白いスカートの裾を大儀そうに折り曲げ、たくしあげて、彼女が膝を折ってヨルに目線を合わせた。
「なぁに、父さん?」
「……いつでも帰ってきていいんだからな。オンボロだし、この馬鹿が居るせいで大概騒々しいけど、あそこはお前の育った場所だし、幸い僕も母さんも寿命は退屈しそうなくらい長いからさ」
「ハニーは相変わらず素直じゃないなぁ、花嫁さんに言うべきことはひとつに決まってる、って、ここ八十年くらいずーっと言ってるのにさー」
シェイリィを挟むようにして、反対側にレシゥシェート。彼女も膝を折ったシェイリィに合わせるように膝を折り曲げ、彼女とヨルに視線を合わせる。
「こう言う時はあれだろ、」
「分かってるよ。『幸せになりなさい』だろ」
「そうそう、よくできました。ハニーにしちゃ上出来だ」
にんまりと笑うレシゥシェート、うんざりしたように溜息をつくヨル。正反対の感情を浮かべつつ、二人のシェイリィの「育ての父と母」は、義理の娘の頬に同時にキスをした。
――そして二人、同時に笑う。ヨルの方は僅かに苦笑気味に、レシゥシェートの方は本当に楽しそうに。
「それじゃな、シェイリィ」
「じゃあ、またね」
「はぁい、父さん、母さん」
にこりと笑って、シェイリィは立ち上がる。二人に同時にキスをするのは難しそうだと思ったので、彼女は親達に投げキスを返した。
「――二人の方こそ、幸せにね」
告げる頃には、二人は野次馬に紛れるようにしてその場を立ち去っている。
(またどうせ大方何か騒ぎを起こしたんでしょうね、父さんと母さんのことだから――なんて言ったら、父さんは『あれは母さんのせいだ』って主張するんだろうけど)
彼女はそう考え、思わずくすくすと笑いながら花婿の元へと戻る。

「…あれって義父さんと義母さんだよね?」
「うん、そうそう。ちゃんとした紹介はしてなかったよね、今度二人で挨拶に行こうよ――」







「…っていうかさ、ハニーはウチの子供達にはちゃんとキスする癖に、私にはしないよな」
「して欲しいの?」
「うん」
「断る」
「即答!?」
愕然とした様子でレシゥシェートが唸る。
二人の背後で、ごぉんと余韻を残して鐘が鳴り終わった。これから花嫁と花婿は、祝い事があったことを町に告げて回る――まぁ要するにちょっとしたパレードだ。人々は二人の門出を祝い、幸せのお裾分けをしてもらう。
それを見下ろしている二人が居る場所は、教会の鐘楼だった。一瞬で、ヨルの契約している悪魔の力を借りてここまで「転移」したのである。
式場にはまだ孤児院の子供達も残っている。少し静かになった頃を見計らって迎えに行かなければ、などとヨルは考えながら、すとん、と腰を下ろした。
当たり前のように隣に座る灰色の女をじろりと睨む。
「それで、シゥセ?」
「……うーん。ハニーに名前を呼んで貰えるのは嬉しいんだけど説教の気配がするな。何?」
「心当たりはあるんだろ。…何だよ、『汚れるのが嫌』って。それが<レシゥシェート>の吐く台詞か?」
言葉は心底からの嫌悪に満ちていた。視線も軽蔑するような色を帯びている。本気だなぁ、とレシゥシェートは思ってしまって、肩を竦めた。誤魔化す訳にもいかないようだ。
「だってさ。本当にそう思っただけなんだよ。…私は着飾るのは嫌いだし、服なんて着ないで済むなら着たくないし」
「いやそこは着てくれ。頼むから。」
「…でもさぁ、大事なものが汚れるの嫌じゃん。それにあの場にはお前もハーセントも居る。私は確かに暴力は大好きだが、弱い者いじめはそこまで好きでもない、ってのはお前も知ってるよね、ハニー」
「………」
確かにその通りだ、とヨルは無言のうちに認める。レシゥシェートはむしろ、強い相手とのギリギリの殺し合いが好きで、物量に任せた今回の魔物のような相手にはあまり興味を示さない。それでも暴れる口実にはなるから、普段であれば嬉々として先陣を切りそうなものなのだが。
そこまで考え、ヨルは彼女の言葉にはた、と思考を止め、思わず反芻してしまっていた。
「…『大事なもの』が汚れるのが嫌?」
「うん」
レシゥシェートが笑う。やっと気付いたか、と言いたげな笑顔がカンに障って、ヨルは口に出してしまったことを後悔した。そして――別に、忘れていた訳じゃない、とも思う。ただ彼女が、暴れるための口実があれば嬉々として飛び出してしまう彼女が、その衝動を抑えるくらいに「それ」を大事にしていたなんて欠片も思っていなかっただけのことで。
場にはしばらく、沈黙が降りる。眼下の光景、教会から次第に街の広場へと向かう賑やかで華やかな花嫁達の行列と、それを言祝ぐ人々の声ばかりが響いている。
「……別に汚れたって、…あんたのドレスくらい、また新しいの、買ってやるよ。それくらいの余裕はある」
やがて、その賑やかな声が遠ざかる頃、遠ざかる声にさえ負けそうな程小さな小さな声でヨルが呟いた。人より遥かに聴覚の優れているレシゥシェートが、勿論その言葉を聞き逃す訳もない。彼女は眼下の花嫁の、日差しの下で眩しいくらいにキラキラ輝く白いドレスを頬杖ついて見つめながら、

「折角だから白いのがいいなぁ」

と、呟く。
「うん……えっ?」
残念ながら彼女は義理の娘の晴れ姿に夢中だったので、その瞬間、ヨルがどんな表情をしていたのか――それを知ることはなかった。


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