白と、黒の、縞模様。鯨幕。ひらひらと揺れて、彼女はそれが現実のものではないような、モノクロの世界の出来事のような、そんな気持ちがしていた。そうであったらどれだけ幸せなことか。
 だが今、白い花と線香の匂いに覆われて(むっとする夏空の下ではいかにも人を苛立たせる、なんて湿っぽさ)飾られている、はにかんだ笑顔の主は紛うことなどありようもなく、彼女の娘であった。
 まだ小学五年生の、娘。
 涙にくれる参列者の中で担任の女教師がお悔やみ申し上げます、突然のことで、と、耳に付く声で喋っていたことだけをぼんやりと、彼女は反芻している。娘さんはとても大人しくて、ですが成績も優秀でしたし、それに絵もお上手で、とてもこんな、こんな、とそこまで言って教師はヒステリックに泣き散らした。自分がどうしていたかは、彼女の記憶にはない。

 自殺なんて、何かの間違い、と、そこまで聞いて、耳を塞いだ。



 娘は自殺だった。校舎の屋上から飛び降りた。教室にいたクラスメイトの一人が、飛び降りる彼女を窓から目撃して、その場で失神して倒れた。病院に通っていると言う。その親が聞えよがしに死ぬならもっと迷惑をかけない方法で死ねば良かったのにとどこかで呟いていたのを彼女は聞いていた。式場のどこだったか。盛大な式は、夫が心血を注ぎこんだもので、彼女はもう興味もなかったが、どうやら学校側から金を貰ったらしく、それくらいは当然だと夫は息巻いていて、彼女は矢張り興味がなかったから、離婚届を見てもゆっくりと判をついただけだ。
 お前のせいで死んだんだぞと夫と姑が叫んでいた。
「違うわ」
 彼女はその言い草がおかしくて、笑った。誰も彼も何か勘違いしているらしかった。警察も医者も夫も友人達も皆、皆、皆、何を勘違いしているんだろう、あれは、自殺などではない、ありえない。
「違うわ。あの子は連れて行かれたのよ。」
 彼女はそれからけたたましく笑い、夫は、離婚が成立したといえ薄気味悪くなったのだろう、彼女を精神病院に連れて行った。病院の医師が夫と何を話したのか、彼女は知らない。ただ、しばらく入院して安静にした方がいいと、そう告げられた。費用は夫が、或いは学校が、いや、もうどうでもいいことだ。


「いじめですかね――」
 参列した一人の人物の言葉に、辺りの人々は咎めるような眼をやった。喪服を着た男が一人、汗を拭いながら立っている。どこからか話を聞きつけた記者だろうか。手にはメモ帳を持っていた。警戒心も露に、一人が鋭く言う。
「滅多なことを言うもんじゃないですよ。校長先生は何も無かったって仰ってるじゃありませんか」
「でも自殺なんですよねぇ、まさか、事故ってことはないだろう」
「あの年頃は感じ易いんだから、きっと何か思いつめてしまったんでしょうよ。見てご覧なさいな、あそこのお母さん、すっかりおかしくなっちゃって、今は精神病院だって言うじゃないの、元々ちょっととっつき難い人だったしねぇ、きっとあの娘さんもお母さんに似てたんだよ、何かそういう要因があったんだよ」
 辺りの参列者は殆どが、死んだ娘のクラスメイトの保護者達だ。それを知っていたから、その反応にへぇ、とうすら笑いを浮かべて汗を拭き、男はその場を立ち去った。
 読経の流れる中に、奇妙な緊迫感を残して、親達が項垂れる。言葉を何一つ口にしてはならないという、そこには暗黙にそれを強いる空気がじっとりと流れていた。
 飛び降りて死んだという娘の写真は静かに微笑んでその参列者の姿をじいっと凝視している。
 控え目な微笑は幼い顔立ちの中にあってただただ静かで、写真がモノクロであることも災いしたか、酷く彼女の存在感を希薄なものにしている。この写真が撮られたのがいつのことなど誰の耳にも知る由はないがこの娘がもしいじめられているとしたら、(もちろん仮定の話だ)それもそうと納得はできたかもしれない。大人しくか弱げな笑みは彼女の後の運命を象徴しているようでもあった。
 死んだこの娘は、死ぬ瞬間、飛び降りていたあの一瞬にもそうして微笑んでいたらしいというのがクラスメイト達の専らの噂だ。噂の出所は例の、彼女の飛び降りの瞬間を教室で目の当たりにして心労で倒れた生徒で、数日のうちにその話は学校中に広まるだろうし親達の耳にも入ることだろうが、大人達の多くはそれを子供の戯言として気にも留めぬだろうし、多くの子供たちは大人にそのことを告げることさえしないだろう、そうした噂は子供の間だけで密やかにかわされてこそ価値のあるものだ。
 どっちみち娘は死に、永遠にその一瞬の真実を知る機会は奪われた。目撃者の少女は当時の話をするだけで錯乱状態になるのだから元より、一体その噂がどこから出たものなのかすら謎だ。
 死んだ彼女がいじめられていたかどうかも、矢張り、謎のままになっていた。娘が遺書を残さなかったからだ。ただ彼女の机には彼女が好きだった淡い水彩色鉛筆を使った絵が置かれていた。死の直前に描かれた、遺書のつもりだったのだろうか、そこには暗く立ち込める空と、クラスメイトらしい黒と灰色で塗られた人影と、それから、地面に落ちて血を流している彼女の絵が、あくまでも淡い色遣いで描かれていた。それから手、
「手が描いてあった…」
 ぼんやりと呟いたのは式場に代表として来ていた生徒の一人だった。
 彼女がいじめられていたかどうか、生徒達は薄らとではあったが知っていた。彼女は多分、誰かにいじめられていたのだろう。だが彼らはそれをあえて告発しようとも追及しようとも思わなかった。全てはうやむやのうちに終わりそうだったし、大人達はそれを望んでいるようだ。わざわざ混ぜ返す必要もない。それに彼らは、彼らだけは確かに知っていたのだ。
 彼女は、彼女が死んだ理由は、いじめられていたから、それを苦にして飛び降りたのではないのだ。

「連れて行かれたんだよ、きっと」
「そうだよ、連れて行かれちゃったんだ」

 大人達が戯言と言って叱り飛ばすその言葉だけが、子供たちの口に繰り返し上っていた。
「あの手。あの絵に描いてあったよ。きっと連れて行かれちゃったんだ」
 彼女の残した絵の隅には、誰のものとも知れぬ手がひとつ、唐突に浮かんでいた。それは頭を割って地面の上で血を流す彼女自身の上に、差し伸べられるように描かれていた。
「連れて行かれたんだ」
「連れて行かれたんだよ」
 子供達はさざめきあう。大人達の知る由のない場所で、密やかに。
「だから笑ってたんだ」
 誰かが呟いて手を固く握りしめた。そうしないと自分達まで「連れて行かれる」と信じているようだった。


「連れて行かれるって…誰に?」
「教室の隅に居るでしょ。知らないの?」
「誰が、居るの?」
「見えないの?忘れたの?何で忘れちゃうの?」


 母親が静かに、笑う。
「連れて行かれたのよ」
 娘の遺した絵に触れて、母は笑った。
「どうして誰も彼も忘れてしまうのかしらね、どこの教室にだって、必ず隅の影に居るのに」
 何を馬鹿なことをと、夫は取り合おうともせず、うつろな目で微笑む妻から目を背けた。視界にさえ入れたくないと言いたげだった。
「お前がしっかりしていれば、あの子の変化に気付けたかもしれないだろう。何で死なせてしまったんだ…」
 口をつくのは繰り返される恨み事ばかりだ。だが母は、絵を撫でて、くつくつと、そしてやがてヒステリックに甲高い声で笑い出した。
「ほうら、そこの影にも居るわ、私を迎えに来たのね…」

 母の手から画用紙が落ちる。何度も何度も愛でられ、少しぼろぼろになった質の悪い画用紙には、暗く立ち込める空と、クラスメイトらしい黒と灰色で塗られた人影と、それから、地面に落ちて血を流している彼女の絵が、あくまでも淡い色遣いで描かれていた。それから手、
「どこにだって居るのに、大人はなんにも見てない」
 子供の誰かが小さく小さく呟いた。

 画用紙に描かれた差し伸べられる手は、ふたつに、増えていた。
 誰のものとも知れぬ、細い手が、差し伸べられるように、ふたつ。