始まりの日は緋色。炎に巻かれ煙の中で見た、金と黒の異相。綺麗だと、まるで、冷たい宝石のようだと、茫洋とした意識の中眺めていた。それが一対の瞳だと気付くまでは少々、時間が必要だった。
 黒と金の瞳は自分を見ても微塵も動揺した気配すら見せず、ただくぐもったような低い声で告げる。その声が低いので、漸く、それを見ていた彼女は彼が男なのだと悟った。
「死にたくなければ出て行け。そうしないなら、この場で殺す。」
 血に濡れた頬を拭うことも、先程殺した男の頭を掴む手を揺らすことすらもせずに。
 炎の中で。
 血の色。鉄錆びた匂い。呼吸も出来ない煙の中、その光景は。
 媚薬めいた色で、彼女の心臓に、突き刺さったのだ。
 だから彼女は嫣然と微笑むに留めた。
「…そうね。出て行かなければならなくなってしまった。貴方が、全部、燃やしてしまったもの。」
 そうして彼女は微笑んだまま、火事の最中に悠然と長い衣服の裾を翻した。裾から覗く褐色の肌。足首には、その褐色の上にもはっきりと、鎖の跡が見える。
 先程まで彼女を繋いでいた、鎖だった。同時に彼女にとっては、それだけが生きていく手段でもあった訳だが。
 だがその鎖は、今は無い。目の前の少年が断ち切ってしまった。
「――御機嫌よう、美人でお節介な殺し屋さん。いつかまた会えるかしら。」
「会えない方が互いの為だ。さよなら。」
「あら、つれないお返事。」
 ふわりと微笑み呟いて、彼女はそれきり振り返らなかったし、彼もそれきり彼女を見ることは無かった。
 それが、出会いの日の話。


 
 二度目の出会いはそれから実に数年の後のことであった。
 宿を失い、職を失い、ようやく得た自由を持て余していた少女は――いや、この頃には「少女」というよりも立派な「淑女」になっていたのだが――、流れに流れて傭兵団に身を寄せることとなった。とはいえ、娼婦として育てられた彼女に戦いの才能などあるべくも無い。ただ、彼女には幸いにして、教養と他には無いちょっとした特技があったので――「宝石遣い」とか呼ばれていたが、その能力について彼女は余り興味が無かった――傭兵団の後方支援、家事の手伝いなどを任されることとなったのだ。
 その内、傭兵団で預かることになった子供に読み書きを教える、などといった役目も任されるようになり、数年が経った頃。
 ――もう忘れかけていた黒と金の異相は、思いもよらない姿で彼女の前に姿を現した。
「――くそったれ、『戦場鴉』じゃねぇか…!」
「下れ!奴、部屋に居る子が目的だ…」
 騒々しい物音は階下から響いてくる。たまたま、団で預かっている子供の勉強を見ていた彼女は眉根を寄せた。近く、騒動が起こるかもしれないとは聞いていたが、こんなにも近くで物騒な事態が起こるとは聞いていない。
 この頃は戦争も無く平穏な日々だったので、剣戟の音も魔法の炸裂する音も随分と久しい感覚であった。ちなみに、戦争の無い間の彼らの専らの仕事は要人警護や治安の悪い地域での商団の警備など。この日も、どこぞのご令嬢だか何だか知らないが、一人の少女を預かっているところだった。
「あら嫌だ。お勉強どころでは無くなってしまったわね、残念。」
 本を閉じて、彼女はにこり、と対面に座る少女に微笑みかける。少女はといえば、強張った表情で硬直していた――そう、この少女が今、警護を任されている「令嬢」だったのである。
「カァラ!その子連れてどっか隠れてて!」
 部屋の外からは緊迫した友人の声。びくりと震えた少女にまた、カァラと呼ばれた彼女は嫣然と微笑んだ。
「隠れても仕方が無いわ。のんびり構えましょう、セリ。」
「で…ッ、でも、カリィシエラ…」
「淑女たるもの、取り乱す物ではなくってよ?」
 微笑んだ彼女は、三時のお茶会に遅刻した程度の焦りすら見受けられない。片目を閉じて悪戯っぽく笑む姿は、聞こえてくる剣戟も怒号も、まるで聞こえていないかのようですらあった。咽喉を鳴らし、そして腹を括ったように、半ば浮かせていた腰を椅子に据えたセリを見て、彼女は本を閉じてお茶を注ぐ。
 不可思議な光景ではあっただろう。――戦場と化した宿の一室、悠然とティーカップを傾ける二人の淑女の、優雅なお茶会。一人は青ざめた顔で、交わす言葉も無くただ、お茶を飲む。
 部屋の窓ガラスが突然割れた時でさえ、カリィシエラは微動だにしなかった。そうして室内に侵入した男性の姿を見て、さえ。
 微かに、青磁の色の瞳を瞠っただけ。
「――あら。お久しぶりですわね。」
 明らかにこの部屋を狙ってきた侵入者に、まるで茶会の客人を迎えるかのような笑顔と言葉。
 流石に視線を鋭くして、いつでも逃げられるよう、助けを呼べるよう、腰を浮かせたセリが驚いた様子で二人を見比べる。
 その侵入者は顔を半ば覆い布で隠していたが、その瞳を見れば余りに強い印象に誰もが、目を惹かれるだろう。黒と金の双眸。いわゆるオッドアイ――それも、光る黄金と闇の深さを湛えた二つの視線は、その差異ゆえに、一度見れば忘れることの出来ない鮮烈さを持つ。
 無論、カリィシエラも、忘れたことなど無かった。
 あの日、あの時。燃える宿の中で出会った。
「いつかの殺し屋さんでしょう?わたくしのこと、覚えていらっしゃるかしら。」
「…あの時の娼婦…?」
 一瞬、不審げに目を眇めた男は、くぐもった声でそう呟き、足を止める。黒と金の双眸をぐ、っと眇めた。
「貴方がいらしていたなんて、わたくし存じ上げないで。ごめんなさい。カップは二人分しか用意していませんでしたの。」
 動じた風も無くそう告げる元娼婦の姿に、殺し屋はといえば、――口元を歪めた。どこか苦笑めいた風で息を漏らし、踵を返す。全く唐突な男の態度の変化に、セリが思わず口を開いたのは無理からぬことだ。
「――あなた、私を殺しに来たんじゃなかったの…」
 その言葉に振り返ることなく、彼は手をひらりと振った。
「気が削がれた。その女に感謝するんだな。」
 怪訝に眉根を寄せて、カリィシエラを見遣ったセリに、彼女は静かに微笑を返すだけだ。そして、窓から外へ出ようとする男に声をかける。
「…お茶くらい飲んで行かれたら如何?殺し屋さん。」
「折角のお誘いだけど、悪いな。…さよなら、風の妖精(シルフィード)。」
 男の答えは簡潔極まりなく。「娼婦」を優雅に置き換えただけの俗称を告げた鴉に、カリィシエラはただ、ただ、苦笑で返した。男の方をそれきり見ることも無く、
「今度はドアから入っていらしてね、素敵な鴉さん。…御機嫌よう。」
 
 男が窓から飛び降りるとほぼ同時に、ドアを勢い良く開いて飛び込んできた人物は、周囲を見渡し、窓が割れているのを見て取るなりカリィシエラに詰め寄った。幼い顔立ちだが、不思議と迫力を感じさせる不可思議な少女である。
「――カァラっ!戦場鴉がここに居たでしょー!?」
 戦場鴉―ネヴィン。死体を漁る不吉な鳥の名前で呼ばれる凄腕の殺し屋を敵対していた集団が雇ったというので、彼女はこの部屋にべったりと張り付いて警護していたのである。
 だが、緊張感の欠片も感じさせずに、カリィシエラは優雅に一口、お茶を飲んで答えた。
「ディー。淑女たるもの、いかなる時も冷静に。」
「あ、あんたねぇっ!それどころじゃないでしょ!?」
 物騒な様子にセリが、慌てた様子でフォローに入る。
「…あ、あの。カリィシエラを見たら、何もしないで帰っちゃったんです。…もう、あの人、ここには来ないと思いますよ…。」
「せーりーちゃんっ!あなたを狙ってたのよ、あいつは!プロの殺し屋が獲物目の前にしてむざむざ帰る訳――」
「でも、本当なんです。…気がそがれた、って…それに…」
 言い募ろうとして、セリはこっそりとカリィシエラが人差し指を唇に当てる仕草を見てしまった。内緒にして頂戴?仕草だけでそう告げる彼女の姿に、少しの間迷うものの、結局彼女は口を噤む。
 ディーと呼ばれた少女の、鬱憤をぶつけるような声だけが暫く部屋中を響いたが、カリィシエラは涼しい表情でお茶を飲み続けた。挙句の果てには、「勉強の邪魔でしてよ?」と有無を言わさぬ笑顔で友人を部屋から追い出し、やっと静かになった宿の一室、窓ガラスも割れたままの状態だというのに平然と勉強の続きを始めてしまった。
「…あの、カリィシエラ…」
 それでも矢張り気になってたまらない、という様子のセリには沈黙を守るわけにもいかなかったのだろう。カリィシエラは、薄く、彼女にしては珍しく寂しげな、切なげな笑みを口の端に微かに浮かべて呟いた。たった一言。
「惚れてしまったんですの。もう何年も前に。――それだけの話です。」
 言葉にしてしまえばたったそれだけの、きっとどこにでもある話だ。そう締めくくって、彼女は小さく付け加えた。
「我ながら、厄介な相手に狙いをつけてしまったものだとは思うのですけれど。」
 静かで穏やかな言葉に、セリはそれ以上、何を問うことも出来なかった。



 三度目は、静かな静かな青い夜の底で、二度目の逢瀬から一月も過ぎぬ内に訪れた。
 深夜、宿の一室で一人、綺麗な月を眺めていたカリィシエラは、誰か誘って夜のお茶会と洒落込もうかしら――と、友人の部屋へ向かおうとしていたところだった。不意に、窓硝子を叩く音がしたのだ。
「…次はドアから入っていらして、とお願いしたと思うのですけれど。」
 窓を押し開いて、庭を見下ろしたカリィシエラが微かに呆れた様子で言うその視線の先。
 黒と金の瞳は、夜の最中でもくっきりと強く、彼女を見ていた。
「この間の件もある。表からは入りづらくてな。」
「お茶でも如何?殺し屋さん。――それとも、鴉さんとお呼びした方が?」
「お好きなように、シルフィード。…お茶の誘いは嬉しいんだが、そんな余裕も無さそうだし。」
 実に残念だと肩を竦めた男はちらりと、その否応無く目立つ視線を庭先へと流す。ざざ、と草木が揺れ動くのを見、それなりに戦いに慣れた者の直感として、カリィシエラは視線を硬くした。―人の気配などそう鋭敏に探れる物でもないが。経験則は彼女に危険を告げている。だが。
 尚も。
 カリィシエラは口元に優雅に手を寄せ、くつくつと笑った。声を立てて、笑った。
「…何か、可笑しなことでも?」
 眉を顰めて殺し屋が問うと、彼女は首を微かに傾けて見せた。さらり、と、月の光を弾いて緑がかった銀の髪が流れ落ちる。元娼婦の青磁の色の瞳と、殺し屋の黒と金の眼が夜の青い青い空気の中をかち合って、そうして二人、ゆっくりと口の端を苦笑する風にした。
 何故か互いに互いの意図を読めてしまった気がする。
 ざ、ざ、と木々を揺らす間隔は短くなる。次第に強く強く。夜の空気は張り詰めていく。
 ギギィ、と何かの鳴き声がした。――自然の生き物のソレ、では在りえない、金属質の、或いは女の悲鳴のような声。カリィシエラも幸か不幸かよく知った音だ。知人が好んで使う術で生み出される、外法の存在達の声だった。
 果たしてざ、と庭の藪と影から現れたのは、ゴーストの集団。女の姿だったり男の姿であったりするそれは、一つ残らず頭を潰されて死んでいた。半透明に透ける身体は彼らが実体でない事を示す。月明かりに透けるゴーストの一団に囲まれて殺し屋は無言で、そっと、腕を振り抜いた。
 月に煌く一瞬の、一筋の輝き。
 断末魔の悲鳴は耳を劈くような凄まじい音を立て、そうして半透明の首無しどもの一部が、掻き消えた。
 他方。
 ゴーストは生きる者を無差別に攻撃する悪癖がある(高度に複雑な術を組んで支配下に置いた死霊である場合は異なるが)。当然、庭に身を乗り出しているカリィシエラとて例外ではない。
 庭から湧き上がったゴーストに襲い掛かられたカリィシエラはしかし、指を少し振っただけでこの悪霊どもを追い払った。文字通り、「追い払った」だけであって退治はしていない。殺し屋がその様子を見てまた、苦く笑った。笑いながらも周囲の断末魔は途絶えないのだから、なかなか凄絶な光景ではあり、心ひそかにカリィシエラはお茶請けくらいにはなりますわねと判定をくだした。
「『宝石遣い』か、初めて見る。…助力を頼んじゃまずいだろうか」
「別に構わないですけれども、わたくし、高いんですのよ?」
 笑顔でしゃあしゃあと答えて、彼女は指輪の水晶に口づけた。また、彼女の周囲で弾かれて悪霊が怒りと苛立ちの声を上げた。
 宝石遣いという職種はマイナーであり、そして現存する全ての使い手が非常にギャランティが高いということは有名な話だ。だからカリィシエラの台詞は、冗談でも無ければ洒落でもなく単なる事実である。何しろ彼等は存在それだけで十分希少な「宝石」を惜しげもなく壊れるまで酷使するのだから無理も無い話ではある。
 彼はその言葉に口元をに、と微笑ませた。周囲を睥睨する、不遜ささえ感じさせる視線。
「それじゃ仕方が無い、一人で対処はしよう。」
 言って、鴉の名を持つ殺し屋は右腕を一閃した。――夜の微かな光を集める、一筋の糸が夜を裂く。腕を千切られて近付いてくる、手を伸ばし、怨嗟の声で彼の動きを止めようとするゴーストに、哀れみの笑みすら浮かべずに。
「この場所は僕の場となる。認めざるは僕ら全ての一つの名を疑うことと識れ。」
 目を細めると微笑んでいるように見えなくも無く、その表情をカリィシエラは静かに眺めた。――指輪の水晶には皹が入っている。ゴーストは数が多く、何処からか送り込まれている様子だった。鴉が何をしようとしているかは分からないが、何か手を打たなければ事態は悪化するだろう。とはいえカリィシエラは不思議なくらいに楽観しているが。
 早口に呟く声と同時に、彼の周りに薄く、夜闇をほんの少し払う薄い、光が生じた。彼は左の指でを虚空に動かす。すい、と引かれた指の動きを追うように、金の光が生じて残った。残像。
「…立ち去れ。戻ることも無く。空も時も無く。ここにあるべきものを規定するのは、僕と僕の全ての同胞のみだ。立ち去れ!」
 音は。無かった。
 一度強い耳鳴りが、体中を通り抜けるようにして響いただけだ。それだけで。
 彼を中心として、ゴーストが消失した。悲鳴も断末魔も怨嗟の声すらも無く、文字通り砂のように消えていく。
(…『ターン・アンデッド』…)
 聖職者が良く使う、対アンデッド用の魔術の様相とそれは似てはいた。しかし「聖職者」と目の前の殺し屋はどうやっても結びつきそうにない。妙なことだ。
 魔術の気配を察知したか、それとも先程のゴースト騒ぎで既に起きていたのだろうか。宿の中でざわざわと人が目覚めて騒ぎ出す気配があった。カリィシエラの部屋へ、周囲に警戒を促しながら駆けて来る足音もある。それを認めて彼女は改めて庭を見遣った。鴉は庭からまだ、此方を見上げていた。疲労感はあるが、足取りはしっかりとしているようだ。奇妙なことではあったが、警戒の人員が庭へ出て来る気配は無かった。彼が先程放った魔術に何がしかの仕掛けがあったのかも、しれない。
「…シルフィード」
 彼の声は低いが、驚くほど明瞭に耳に響いた。呼ばれたカリィシエラがにこりと微笑む。
「今の盛大な騒ぎは…わたくしのお茶の誘いの所為かしら?」
「まぁ、そんな所だが。―――出来れば女子供は殺したくないっていうのが本音だ。」
 酷く端的な言葉だけでカリィシエラも殺し屋も事情を十分に伝えられたと確信している。先の、セリのことだ。彼は彼女を殺すことなく、雇い主を裏切った。故に、報復として追われている。二人はそのことを会話していたのである。
 余りに端的ながら、実に殺し屋らしくない小さな本音に、カリィシエラは小首を傾げた。
「…そうなのですか?初めて、耳に致しました。貴方の噂話なら、わたくし、誰にも負けないほど存じている自信があったのですけれど。」
「矢張り、…あんただったのか」
 小さく息を吐き出して、殺し屋は視線を落とした。金色の光はとうに消え去り、月明かりだけが周囲を照らす。
 数年前から、自分の情報を追跡しているらしい人物の影があると。それは、彼と仕事を共にしている相棒からの忠告だった。悪意は感じない。でも、確かに、彼を追う人物が居ると。
 悪意も害意も無い。追跡能力自体も大した物ではない。他愛も無いことだと、どうせ直ぐに諦めると、殺し屋は高をくくっていたのであるが、この数年、その追跡は付かず離れず、彼を追いかけ続けていた。
 果たして、元娼婦は悪びれる風も無く、頷く代わりに一言だけ。
「…お詫びにお茶でも?」
 …この数年の、追跡者の正体が、この彼女。
 気が抜けたのか、それとも意外に思ったのか。驚いたのか。自分は今どう感じているのだろう。己の胸中の動きを追っても不可解ではある。
「残念ながら、それほど長く居られないんだ。」
「そう。…面白い術をお遣いになられますのね。」
「知っているんじゃないのか?」
「噂だけ、と申し上げましたはずですけれど。」
 くすりと彼女は笑って、
「そうですわね。…そういえば噂に小耳に挟みましたわ。鴉は、変わった魔術が得意だと。」
 それ以上は何も言わない。食えない女だ、と、殺し屋はひそりと笑った。意外にも、不快さを感じない。だから代わりに、殺し屋はこう問うことにする。
「何故、僕を追う?」
 カリィシエラは、あの夜と同じように嫣然と微笑んで見せるだけ。何を考えている?と思案し、殺し屋は高揚する気分を感じていた。先程も思ったのだが、人を食ったような彼女の言動は不快感よりも、寧ろ彼に愉快さをもたらすものだ。
「止めてもまた、追わせて頂きますわよ。」
「何故?」
「恋をするのに、理由が必要?意外に無粋を仰るのね。」
 ―――嗚呼。
 その単語を耳に染ませて漸く、殺し屋は、瞼を下ろして己の胸中を悟った。悟って、微かに苦笑する。
 恋を。
 それを、その感情を、そうと呼べるほどの確信も経験も無いが、殺し屋はしごく静かにあっさりと認めていた。月明かりの下、追われながら不意に彼女のことを思い出して此処へ来た、理由。
 そんな、笑ってしまうほど稚くて綺麗な単語を、自分に当てはめる日がまさか来ようとは思いもしなかった。と、彼は酷く可笑しくなってしまった。
 その殺し屋を見て何を思ったのだろうか。カリィシエラは静かに、艶やかに、ゆっくりと微笑を解いた。引き結んだ唇から言葉が毀れるまでは少しの間があった。
 ドンドンドン!
 彼女が沈黙している間に、部屋の扉を叩く音が響く。
 時間が無い、と、彼女は残念そうに息を吐きだし、殺し屋も身体を翻そうとした。が。
 その背中に向けて、声が飛ぶ。

「賭けをしましょう」
 
 凛、と響いた声に肩越しに振り返る。女はしごく真面目な表情で、彼を見ている。
「賭け?」
「ええ、とてもシンプルな。」
 そして彼女の告げた賭けの内容は実際に単純明快。
「…わたくしは貴方を追います。もしもまた、どんな偶然でも、貴方に会うことが出来れば、わたくしの勝ち。」
「あんたが勝ったら?」
 ドアを叩いていたらしい人物達が、たまりかねた様に声を上げている。「…ちょっとカァラ、起きてるんでしょ!?狸寝入りなんかしてたら深神にドアぶち壊させるから覚悟しなさい!?」「僕は嫌だよマスター」「つべこべ言うな!」「落ち着いてよ、ディー…カァラ姉に万一なんてこと、ある訳無いじゃない」「あんたのその無意味な自信はどっから湧いてるんだ思羽!」「だってあの人がウチで一番死にそうに無いよ。」
 どうやらこのままでは扉が無理矢理押し開かれるのも時間の問題だ。カリィシエラはしかし慌てることなく、相変わらずの調子で彼の質問に答えた。
 いっそ睨みつけるように殺し屋の黒と金の両目を見つめ返し、口元には薄く笑みを乗せて。
 命じる。

「わたくしの物に、なりなさい。」
 
 この言葉に殺し屋は―――笑った。
 見ていたカリィシエラが一瞬目を疑うほど鮮やかに、笑って見せた。声すら立てて。
 そうして再び身を翻し、彼は手を振りながら応じた。曰く、
「乗ろう。」
 シンプルな返答に満足し、カリィシエラはもう此方を見向きもしない殺し屋に優雅な一礼をした。
「『いつかの五月に』会いましょう。鴉さん。」
「ああ、楽しみにしているよ。…シルフィード。」

 名前を教え忘れたし聞きそびれた、とカリィシエラはその時気付いたが、何かを言う暇も無く、何だか凄まじい音と同時にドアが蹴り破られた。はぁ、と密かにため息などついて彼女はゆっくりと振り返る。肩で息をしながらこっちを睨んでいるのは親友だった。オレンジ色の髪に紫の瞳、見た目だけなら小柄な子供に見える彼女は、通称ディーと言い、本名をオラディア・レィラ・レガスと言う。
「カァラ!」
「…騒々しいですわよ、ディー。鍵が壊れてしまっていてよ。」
「あんたね、起きてるなら返事位しなさいよ心配するでしょ!!」
 一息にそういいきったディーに肩を竦め、カリィシエラが振り返った時には、殺し屋の黒い後姿は何処にも見えなくなっていた。庭にも数名、警戒の為だろう、同じ宿を寝床にしている傭兵団の面子が見える。
「ゴーストは湧いて出るし、庭には変な結界張られちゃうし、心配するのが当然!」
 ディーはそう主張したが、その肩に乗った黒い小さな人影は妙な表情をしていた。黒髪に金の瞳のその小人はディーの使い魔で、名を深神、と言う。見た目は可愛らしい人形のようだが本性は永い時を生きている悪魔だった。
「……。カァラさん、誰と逢ってたの?」
 その深神は、少しの間を置いてあっさりとそう看破するので、カリィシエラは内心驚いて彼を見つめた。金色の瞳は、先程まで会話していた相手の右の瞳と同じ色だ。
「はぁ!?」
 ディーが目を丸くして、「誰か居たの?」とまたしても詰め寄ってくる。
「嫌だわ、深神。気の所為では無くって?」
 手を口元に寄せて笑うと、元来表情に乏しい黒い使い魔は憮然と、眉を顰めた。が、それ以上何を尋ねるでもない。
「それならそれで別に構わないけど」
 含みのある言葉にディーはまだ納得がいかない様子であったが、彼女の後ろにくっ付いていた幼い少女――猫耳の生えたその少女は、ディーの姪っ子でカリィシエラが世話を任されている子供でもあった――が欠伸をしたことで、渋々という様子で引き下がった。
「何かあったんなら、真っ先に相談しなさい?」
 それが最大限の譲歩だ、とでも言いたげに彼女は部屋を去り際に振り返った。心配げな視線に笑顔で返す。
「有難う、ディー。愛してるわ。」
 投げキスをしてやると、ディーは呆れた顔をしてドアを乱暴に閉じた。蹴り開けられたドアは、それでなくても古くなっていたのに更なる衝撃にいよいよ破壊されて、完全にドアとしての機能を失ってしまった。カリィシエラはその様子に何度目かのため息を吐き出し、そして寝台に潜ることにした。――修繕なぞ明日にでもすれば良いのだ。



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