その朝、末姫様は大変、寝起きが悪くていらっしゃった。

 昨夜が遅くまでパーティに付き合わされて、何人かの殿方とダンスを踊られて、神経をすり減らしてしまわれたようだ。
 そのことには、彼女のペットである僕だけでなくて、侍女さんも口うるさいじいやさんも気付いていたようで、普段は末姫様が僕を寝台に入れると「布団が汚れます」と叱る彼らも、今日ばかりは何も言わなかった。
 それで僕は末姫様の暖かくて柔らかい、そして恐ろしく高価な布団の中で目を覚ますことになったのだけれども、僕が目を覚まして身体をもそもそと動かしても末姫様は愛らしい寝息をたてるばかりで気付かれた様子もなかった。
 布団の中は暖かくて居心地が良いんだけど、僕はそろそろ朝の散歩の時間でもあった。落ち着いていることが出来なくて頭を振り振り、布団と末姫様の腕から抜け出る。カーテン越しに朝の太陽が斜めに差し込んで、末姫様の可愛らしいお部屋がきらきら輝いて見える。
 精緻な細工で飾られた鏡台、机の上には末姫様が毎年お父様から――つまり国王様から頂いている誕生日プレゼント、高価そうな飾り瓶の香水が並んでいる。背の低い衣装箪笥の上に、くるくると人形が回って踊るからくり時計がひとつ。その周りには、ずらりとぬいぐるみが並んでいた。
 末姫様はぬいぐるみよりも本物の動物の方がお好きでいらっしゃるから、多分、あれは末姫様のお母様とお姉様がたのご趣味だろう。
 部屋は、お姫様の部屋としてはすごくシンプルな部類に入るんじゃないかと思う。僕も他の国の「お姫様」のお部屋なんて見たことが無いから比較対象が無いんだけど。全体に淡い桃色と白で統一された部屋は、壁紙は薄桃色の単純な柄、ぬいぐるみと香水瓶以外にこれといって派手なものも見当たらない。
 末姫様が寝返りを打つ。寝台は、小さな女の子が一人で寝るには少々大きい。天蓋から垂れ下がる薄布は本物のシルク製で、すごく肌触りがいい上に通気性も抜群だということを僕も知っていた。
「姫様」
 僕が寝台から飛び降りようか、どうしようかと悩んでいた時だった。頑丈そうな、重たい木の扉の向こうから、そう控えめな声がする。
「末姫様。そろそろ起きて下さいまし、もうお昼になってしまいますよ」
 笑み含んで末姫様を呼ぶ、侍女の誰かの声だろう。末姫様がうーん、と唸る。ごろん、と転がった末姫様だけど、続いて扉越しにかけられた声にはさすがに跳ね起きた。
「姫や。そんなに昨夜のパーティは疲れたかい?」
「!!」
 がばりと勢いよく末姫様が飛び上がる。スプリングの利いた寝台が軋んだ勢いで僕はバランスを崩して、ころりと寝台の下へ落ちた。ふかふかのカーペットのお陰で痛くはなかったけど、驚いて僕は目をぱちくりさせる。
「お父様!」
 末姫様はそんな僕をひょいと拾い上げ抱き締めると、大急ぎで扉へ近付き、途中で鏡台の方へと向いて顔を顰めた。末姫様の、金と青の混じる不思議な色の巻き毛は、あっちへこっちへと奔放に跳ね回っている。着ているものは薄い夜着だけ。
「ごめんなさい、お父様、少しだけ待って下さいませ!」
 大慌てで彼女は手櫛で髪を整え、整えながら鏡台の傍の椅子にかけられたカーディガンを羽織った。さっきまですっかり寝入っていた頬には赤みが差して、瞳がきらきら光る。
 末姫様は本当にお父様を好いていらっしゃるんだ、と僕は納得する想いだった。

 ――国王のお仕事も忙しく、更には上に六人も優秀な姫君を持っておられる国王陛下。末姫様は小さな頃から、あんまり陛下には構って頂けなかったらしい。それで、たまにこうして陛下がご訪問なさると、まるで恋する乙女みたいに可愛らしい表情を見せる。

「ごめんなさい、お父様、お待たせして」
 最後に鏡台の前でにっこり、笑顔の予行演習をしてから、末姫様は扉を押し開いた。廊下には、末姫様とどこか似た面差しの、長身の男性が立っておられる。金青の巻き毛には白いものが混じって見え、着ているお洋服も、朝のお散歩の帰りでらっしゃったんだろう、乗馬服に外套を羽織った簡素な格好であったけれど、貫禄ある立ち姿。
 この小さな王国を支える国王陛下であらせられた。
「いいや、姫や。それよりも、昨夜はよく眠れたかな?」
「ええ、お父様…いやだ、あたしこんな時間まで眠っていたのね!」
 さすがの末姫様も恥ずかしそうに、頬を押さえて目を伏せる。
「大変だわ。今日はシスター・メイフィーの授業があったのに」
 シスター・メイフィーは、末姫様に礼儀作法を教えるシスターだ。国王陛下が低く笑った。お腹の方から響くような、豊かな笑い声だった。
「お前のことだから、シスターの授業をサボる口実が出来てよかったのではないかね?シスターはお前のお転婆ぶりに、いつも嘆いているよ、フィーナ」
 ずばりと指摘されて、しかもそれが図星だったものだから、末姫様はまた、頬を染めて俯いてしまわれた。全く、お転婆で元気が取り得の姫様だけど、国王陛下には頭が上がらない。
「シスターには、昨夜の疲れがあるのだろうと伝えて、今日はお休みにして貰った。気にせずに、夕刻まで疲れを癒しなさい。」
 言いながら、国王陛下がお部屋へと足を踏み入れる。末姫様はさっと、室内にある椅子を引いてお父上に勧めると、陛下の後からついて入ってきた中年の侍女に会釈をした。
「朝食には少し遅いな。ブランチをここへ持ってこさせようか」
「そんな、お父様、お忙しいのに…」
「何、たまに娘と食事をするくらいはどうということは無いよ」
 笑って萎縮する末姫様の頭を撫でると、陛下は控えていた侍女に「では、頼む」と鷹揚に告げた。畏まりました、と一礼して侍女が部屋を退出する。
 それを見送って、ようやく陛下は大きく息を吐き出して、末姫様を悪戯っぽく見遣った。
「ようやく父娘、水入らずだ。フィーナ、昨夜の話を聞かせてはくれんかね?」
 末姫様は深々と、溜息。侍女の目も無いから彼女も肩肘を張る必要が無いらしい。
「…お父様まであたしの結婚のことばっかり口になさるのね。まるで噂好きのシェレンヌ男爵夫人みたい」
「おや。シェレンヌの奥方と一緒にされてしまうのは叶わないな。」
 彼女に掛かれば、私のつまらぬ散歩さえゴシップになってしまうんだから!と陛下は肩を竦めた。
「私は単純に、娘の身の振り方を心配しているのだよ、フィーナ」
 それから、陛下は軽く、溜息をついた。
「…帝国の皇子が来ていたね、私も驚いたが。」
「…」
 末姫様の、瞳が暗くなる。昨夜のことを思い出したのだろう、彼女は唇を軽く噛んで――それでも聴かずにはおれなかったんだろう、思い切ったように、父王の顔をひたと見据えた。
 青い瞳は強い意思をはらんで、炎のよう。
「あたしがお父様の立場なら、こう言うわね。『これほど良い縁談は無い、是が非でも帝国へ輿入れを――』」
「フィーナ」
 嗜めるように、陛下が腕の辺りをひたと叩く。が、末姫様は首を横に振ってその仕草を拒絶すると、言葉を続けた。
「あたしだって、馬鹿ではないのよお父様。…ティグ皇子がもしも、帝国の威光をもって『是非に』と、あたしを欲しがれば…この国にそれを断ることが出来ないことくらい。解っていてよ。」
「…フィーナ」
 再び名を呼んだ陛下の声にも、僅か、力がなかった。
「今のところ、ティグ皇子からは何も言ってこない。」
 それは僅かな猶予を意味しているのか、それとも、もしかすると本当に昨夜の末姫様の啖呵に彼が愛想を尽かしたのか。末姫様はきっと心底、後者であることをお望みであっただろう。
「もしかすると、本当に今回の件は彼の気紛れでしかなかったのかもしれない。帝国でも、彼の地位は決して高いものではないからね。噂は色々と聞いているが、どうもつかみどころの無い人物のようだ」
 そう、と頷いて、末姫様は膝に抱えた僕に視線を落す。気落ちした様子の彼女に、陛下はこほんと咳払いをしてから、
「…そうそう、それとだね、フィーナや。」
 困ったような顔をして、陛下は彼女をじっと見つめた。
「はい、なぁに?お父様」
「お前のその、何事も忌憚のない意見を言える…いやなんだ、正直な性質は非常に好ましいものだと私も思っているよ?」
「はい」
「だがな、嘘も方便と言うかだな、貴族同士の間ではもう少しもって回った言い方というのが大切な状況ということも在る訳だ。お前は頭のいい子だ、解るな?」
 こほん、とまた咳払いをする陛下に、末姫様は白々しく無邪気な笑顔を見せた。にっこり。陛下が困惑を深めて視線を彷徨わせる。
「勿論、解っていてよ?お父様」
「…。フィーナ。」
 無邪気を装う末姫様に、とうとう陛下が根負けしたように溜息をついた。
「…ギレム公爵の奥方が、お前に苦言を呈しておられたよ。可愛い可愛い息子をあのようにあしらわれたのでは、公爵家の面子にも関わると。…ギレムの奥方の、息子を溺愛していることなど、お前も知っていように」
 切々と語る陛下の苦悩に、僕は思わず末姫様の膝の上で笑ってしまった。笑い事じゃないんだけど、末姫様ってば、ギレム公爵家のご子息を、遠まわしに「痩せてから出直せ」と言ってしまったんだから、そりゃあ文句のひとつも出ようというもの。
「お父様、ごめんなさい」
 仕方ない、諦めよう。そういった様子で末姫様は肩を竦めて軽く頭を下げた。
「言葉には気をつけなさい。ましてお前は、…お前の望むと望まざるとに関わらず、…王家の姫なのだから。いいね。」
「…はい、お父様」
 今度は茶化したりせず、真摯な声で末姫様はそう応じた。よし、と頷いて陛下がようやく笑みを見せる。机の上で組んでいた指を解いて、陛下は末姫様を優しい瞳で見遣った。
「…それとだ、フィーナ。いいかい?私は、シューフィア…お前の母と、自らの意思で結ばれたのだ。シューフィアは元は商家の娘で、貴族の出ではなかったが、それでも我が国では、そういう結婚も可能だ。少なくとも、私はこの国に、そういう国であって欲しいと思っている」
 ――王家の人間は、色んな意志に絡められて生きている。これは僕が末姫様と幼い頃から接してきて、よく知っていたことだった。だからこそ、結婚だって自分の意思だけではままならない。
 だけどもこの国王陛下は、かつて周囲の反対を押し切り、今の王妃様と結ばれた人だ。
「…だからね、フィーナ。お前が、例え帝国の皇子と言えども、『結婚したくない』と言えば。私は最大限、その意志を尊重するよ。…娘一人の意思さえ護れず、私は父などとは名乗れぬよ。」
「ありがとう、お父様」
 末姫様が、ほんの少し首を傾げて微笑んだ。嬉しそうな、はにかんでいるような。
「…でも、無理はなさらないでね。あたし、今のところ、特に結婚したい相手なんて居ないのだもの。いざって時は、帝国でもどこでも嫁ぐわよ、その為の『お姫様』じゃない。」
 彼女はそう、わざと軽い調子で答えた。陛下がその言い方に嗜めるような表情を浮かべるのにも構わず、
「それにお父様、ティグ皇子は…あたしの勝手な感想だけど。『帝国』っていう武器でこの国を脅かすような真似は、あんまり好いてはおられないと思うわ」
「そうか…」
 陛下は頷いて、妙に真摯にその言葉を受け止めた風だった。
「お前がそう言うなら、その評価を信じてみようか。お前は人を見る眼があるからね」
 あら、お上手ね、と末姫様は茶化したけれど、陛下は本気のご様子だ。




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