お願い。そんなに苦しまないで。
 ――わたしはとても、しあわせよ。
 そう告げたいのにもう、言葉を紡ぐ力さえ無い。
 彼は表情さえ無く、ぽつりと耳元で零した。狂おしいほどに細く、鋭く、険しく、それは自らを傷付ける声。
 お願い。
 そんなに傷付かないで。
「…かわせみ、すまない」
 謝らないで。
 あなたはこんなに、私を幸せにしてくれるのに。あなたが傷付くのだけが、私のたった一つ、悲しい記憶になって残ってしまう。
 お願い、笑って。
 声はもう出ないけれど、伸ばした指は彼の手に触れたらしい。暖かな感覚があんまり嬉しくて、泣きそうになった。
「すまない――」
 いいえ。謝らないで。
 私は幸せだった。
 あなたに手を握って貰えたのなら。それだけで。

「――、」

 囁かれた声が麻酔のように甘かったから。



 彼が振り下ろしたナイフが、自分の胸を貫いた痛みなど、もう、感じることさえ無かった。


「………っ…」
 翆は殆ど跳ね上がるように飛び起きて真っ先に胸を押さえた。先程冷たい刃に食い千切られた心臓を抑え、鼓動を確かめる。呼吸が荒く、全身にびっしり汗をかいているのを感じる。触れた胸の奥、心臓は鼓動していた。どくん、どくん、と常よりも激しく。
 身体を震わせて、幼い少女は涙を零した。
「……いま、の、」
 触れた胸に、くっきりとナイフの刺さる感覚が残っていた。刃が皮膚を抉り肋骨に触れ心臓を貫く、その冷たささえ思い出せそうな気がして、翆は全身をぞくりと粟立たせる。汗が冷えて、恐ろしいほどに寒い。寒かった。
 ――末期の声だけが、鮮明だ。
「夜中…」
 あの声は――聞き間違う筈も無い。あれは間違いなく、夜中の声だった。末期の記憶。細く消えていく自分の命を確かに感じた。夜中が、私の胸に、ナイフを突き立てたのを。確かに憶えている。

 私は、死んだ?殺された?

 酷い混乱で翆は頭を抱えてしまった。確かに夢の中で消えようとしていた自分自身の命の感覚が怖い。そして今、ここにいる自分が何者であるのか分らないのが怖い。
 末期の記憶。
 ぶるりと身震いして、彼女は布団をかき寄せようとし、伸ばした腕に違和感を覚え、自分の身体を見下ろした。幼い腕は細く小さく、夜中から借りた夜着にすっぽりと収まっている。眠る前に捲くっておいた袖が掌までも覆い隠しているのに気付いて、翆は袖口を顔の近くに寄せた。
 はぁ、と息を吐きかける。だが、彼女の口から零れる吐息には、温度がない。冷えた掌を暖められる訳がない。
「…からだ…冷えちゃったんだ…」
 これだけ汗をかけば当然かもしれなかった。
 翆の身体は、悪い夢を見て泣く事も、こうして寝汗をかくことも出来たが、実際には本物の肉の器ではない。「人形」と呼ばれる、外法遣いの手によって作られた「作り物」だ。翆の魂は、この身体を仮宿としてこの世に留まっている。
 この「人形」は食事も出来るし、肉の器と何ら変わることは無い、非常に高性能な品物ではあった。だが矢張り、所詮は「作り物」でしかない。例えば、血の代わりに彼女の体内を流れている体液の色は銀色をしているし、ちょっとした拍子に身体から魂が離れてしまうことも多い。
 それに加えて、この身体には、「体温」が無い。
 身体が冷え過ぎると動きが鈍くなる為、彼女の身体は定期的に、誰かから体温を奪わなければ動き続けることが出来ない。
(私の『本当の身体』は、何処にあるんだろう…)
 そんなことを思いながら、夜中に体温を分けてもらおう、と、翆はベッドを抜け出そうとして、ふと、先程の悪夢を思い出す。暖かい、涙が出るくらいに懐かしい人、大切な人。夜中は記憶の無い彼女にとって、そういう人物だった。その彼が、夢の中で自分を殺した――



 ――末期の声の記憶ばかりが、彼女の中で、未だに鮮明だった。




 月神の定めた「律」が全てを支配する世界において、律から外れた力を有した人々の集団がある。それが今は「店主」と名乗る人々であり、「外法遣い」の末裔達である。
 そもそも「外法」の始まりは、自らの欲の為に「律」に背いた人々の成れの果て――死してなおこの世に執着するもの、他の存在の死を冒涜するもの、月神に近しい存在たる精霊の禁忌を犯したものなど――「魔物」を退治する為、ある人物が新月の月神に願い出たことが始まりであったと、される。つまり、彼等はそもそも「魔物」退治の専門家の集団であったのだ。そして同時に、各地で「律」から背いた行いをする者を狩る、そういった役割も負っていたようだ。
 現在では、彼らにはそれほど強い権限も無く、また、当時の威光も失われて、ただ「怪しい力を使う集団」という認識しかされていない場合も、多い。
 没落した外法遣い達は、しかしそれでも、今でもなお、細々と生きている。
 その日。「人形」に魂を宿す一人の魔女と、彼女の手を引く「郵便屋」の青年が目指していた小さな町もまた、そうして細々と生き残る、かつての「外法遣い」の末裔――今は「店主」と名乗る彼らの住む、小さな小さな隠れ里のひとつだった。



 幼い姿をした魔女は、深夜の暗がりにおずおずと足を進めていた。緑色の鮮やかな髪の毛に、小さな小さな翼を持つこの少女は、暗い場所ではろくに目が見えない。
 廊下の窓から零れる星明りを頼りに、壁伝いに彼女は隣の部屋の扉を軽く叩いた。
 小さな軽い音であったのだが、室内の人物からは意外なことに返答があった。正直な所、眠っているだろうと踏んでいたので、彼女は驚いて眼を瞬かせる。
「夜中、」
 木の扉を押し開くと、ランプの明りが眼に染みるようだ。明りに眼を慣れさせようと瞬きをしながら、彼女はその人の名を呼んだ。
「…起きてたの?」
「今、起きた」
 少し眠たそうな声は嘘をついているようには思われない。彼はランプの明りに上半身だけを起こして、ベッドの中で本を読んでいたが、彼女を見るなり本を寝台脇のテーブルに置いた。
「翆が、そろそろ来るだろうと思ったから」
「…何よぅ、それ」
「いつもだろ。夢見が悪くて、俺の布団に潜りに来る」
 言いながら彼は無表情に、少女を手招いた。おいで、と言われれば断る理由も無いので、翆は素直に従うことにする。ぱたぱた駆け寄って、彼に抱きつくようにした。
 途端に触れた場所から体温が染みこんで来る。眩暈がするような感触。
 群青色の、雑に切っただけの髪。ナイフの刃と同じ色の、銀の瞳がじっと彼女を見ている。それを見上げると、ふいに、翆はぞくりと肌が粟立った。
 ――あれは悪い夢だ、そう思うのに、自分の末期の感覚が心臓の辺りに居座っている。
 自分をナイフで貫いた彼の顔を思い出して、翆はしゃっくりをするような妙な声をあげてしまった。ぱちりと、青年が銀の眼を瞬く。暗がりではランプの光を弾いて、銀がよく目立つ。
「どうした?」
 僅かに笑みを含んだ声に問われて、翆は言葉をうまく選べない。
 ――夢の中で、夜中が私を殺したの、なんて、訊く訳にもいかない。どう言えば上手く伝えられるのかが分らず、彼女は口の中だけで小さく、
「…やな夢を、見たの」
 とだけ応えた。そう、と夜中は興味の無いように頷いて、彼女の頭を優しく撫でる。どんな夢、と尋ねられたらどうしようかと思ったが、彼はそれきり沈黙する。
「どんな夢だったか、訊かないの?」
 それで思わず、翆がそう尋ねて見ると、彼はふと目を上げて彼女の瞳を見遣った。銀の瞳は、ランプの光を硬質に弾いて、感情をうかがわせない。
「訊いて欲しいのか」
 そう問い返されれば、返す言葉など翆にはなかった。だから黙り込む。夜中はそんな彼女をしばし無造作な視線で眺めて、ぐしゃりとその髪を少し乱暴に撫でた。
 染みこんで来る体温に翆は泣きたくなる。
 このひとはこんなに優しいのに、どうして、私はナイフをかざしていた彼の顔を思い出してしまうのだろう。
「…夜中、」
 撫でられながら翆は、青年の胸元に頬を寄せた。熱を逃がさないようにしているのか、それとも単にそうすることで何か伝わるのではないかと期待してしまうのか。緑の髪を柔らかく撫で付ける手の所作は、乱暴な癖にもどかしいまでに優しい。
「…夜中は、私を、」

 殺したり、しないよね。

 翆は最後の言葉を飲み込む。見上げた先で、銀の瞳が一度、無表情に瞬いた。チカ、とランプの光を弾く。ナイフに似て無機質な瞳。彼は彼女の言葉に何を察したのか、一瞬だけ手を止めて、まじまじと彼女を見つめた。
 綺麗な目だ、と翆は思う。
 確か、目覚めて最初に思ったのもそんなことだった。ナイフの色に似た瞳。綺麗な色だと。
 ――綺麗な目の色ね、
 脳裏で誰かが呟く声がする。私はそんなこと、言ったことが無い。けれど記憶の底から、その声は聞こえたように思われる。
「…忘れていて欲しいんだ。俺の我儘かも知れないが――」
 夜中が、低く囁く。それは、記憶の底から聞こえる声に、まるで応えたようでもあった。翆は頷くことも、首を振ることも出来ずに、銀の瞳を見返す。彼女の青い瞳は薄闇に沈み、陰鬱な色をしていた。
「夜中は、私に何を忘れていて欲しいの?」
「…」
 夜中はこの問いに、珍しく迷ったようだった。言葉を選ぶ間を置いて、彼は俯く。群青色の前髪がさらりと落ちて、銀の瞳の鋭さに翳りを作った。ランプの光の中で、群青の髪は黒くも見える。
「解らない」
 彼はぽつりと呟いて、翆から目を逸らす。

「…わからない。もしかしたら、…翆が『魔女』だってことを、忘れていて欲しいのかもしれない…」

 無理な相談だ。翆は思わず、苦しい笑みを零す。
 私は記憶が無い身ですら、自分が魔女である事実を否応無しに知っている。それは理屈とか知識ではなく、身体に、魂の奥底に染み付いた感覚だった。存在そのものに刻まれた感覚だった。
 私は、新月の魔女。
 新月は、眠りや死、全ての「終わり」を司る月だ。その月神の「魔女」である翆は、ただ存在しているだけで、世界を不安定にしてしまう存在だった。
「…無理だよ」
 それでそう応えると、彼ははっとしたように目を上げた。まるでそこに翆が居ることに、改めて気がついたような顔で、驚いたように。それから苦い物でも噛んだ様な顔をしながら、翆の額の辺りを撫でた。
「そうだな。お前が魔女であることは、この世が此処にあるのと同じくらいに当然のことだ。お前にそれを忘れられる訳がないんだ。…大事なことは全部忘れちまうのにな」
 言葉は決して責めるようなものではなかったが、翆は首を竦めてその言葉を受けとめた。その仕草を見て夜中が息を吐く。
「…別に、それが悪い訳じゃない。…もう寝ろ、明日も早いんだから」
 それから彼は、何かを思い出したようにまた、今度は溜息と判る長い吐息を吐き出していた。
「それに明日は多分…色々と、面倒だからな」
 言い淀む口調に翆は何か、恐らくは彼が言いたがらない面倒ごとが起きるのだろうと予感はしたが、それが何なのかまでは推測が出来ない。一緒に、という訳ではなかったが、夜中のしたような溜息を小さく零した。それから少し身体を起こして、夜中の頬に口付ける。
「おやすみなさい、もう寝るわ」
「そうしろ、おやすみ」
 幼いキスを受けた夜中は僅かに口元を緩めると、優しく、翆の緑の髪にキスを落した。それから目を閉じた彼女の瞼にも、そっと。
 もう、悪い夢を見る訳は無いと、翆は知っていた。