倒れた瞬間にはもう二度と目を覚まさないかもしれない、という想像を、していない訳でもなかったので、夜中は目を開いても暫し、薄い暗闇の風景に、一度ならず垣間見た死後の世界を見出そうとしていた。
 だがそこはどう見ても、石造りの頑丈な一室で、いつか見た死後の世――『墓所』の絶望的な程の暗闇など見出すことも出来ない。どうやら自分は生かされているらしい、と、判断するのにはまだ、覚悟が必要だった。
「いて」
 呻きながら、身体を起こす。
 寝かされていたのは、石造りの床の上だった。身体のあちこちが痛むのはそのせいもあったのだろう。それから次に肩と腿の痛みに顔を顰める。痛い、というのは生きている、ということだから、有難いような、迷惑なような。
(手当てがしてある、な)
 頭を二度、三度、と振る。幸い、倒れた瞬間の酷い眩暈はもう襲ってこない。ただ、代わりに、耳の辺りに違和感を覚えて彼は思わず手をやった。
 ――獣の毛の、感触があった。
(…ああ、くそったれ)
 毒のせいだろう。身体が弱ったので、どうにか治癒をしようと彼の身体は、持ち主の意に反して必死で試みたのに違いなかった。
 先祖に狼の血が混じっていると言う夜中は、身体が弱るとこうして狼の特徴が身体の一部に顕れてしまう。今は耳、それから多分、尻尾も生えているのに違いない。逐一確認する気分でもなかったが。
(また、翆が喜ぶかも、な…アレは俺の尻尾で遊ぶのが好きだから…)
 苦く笑うと同時に胸が、じりじりと焦燥に、痛んだ。亜鉛はあの幼い魔女の傍に辿り着いただろうか。いや、それ以前に、彼女は無事だろうか。――
 思考が悪い方へと流れそうになり、夜中はもう一度頭を振った。無意識に尻尾も振っていたが当人は気付いていない。
「目が覚めたのか…」
 鋼鉄の扉の向こうから、耳慣れた声がした。皮肉な気分で唇を吊り上げ、夜中は応じる。
「お陰様でな。この治療はお前の差し金か、金糸雀」
「そう言うな。俺はお前と違って、顔見知りが目の前で死にかけてるのに、素知らぬ顔は出来ねぇよ」
 答えて、自嘲するように付け加える。鉄格子の向こう側、僅かに見える燃え立つような赤毛がふるふると揺れた。
「…お陰で、老人連中の覚えはちっと悪くなったようだがね」
「矢張り、俺を殺すつもりか、連中は」
 溜息を吐き出し、夜中は扉へ近づいた。赤毛の人物は、ざらざらと耳障りな声で、唸る。
「…俺も、それにほら、棕櫚兄を覚えているか」
「……棕櫚?…驟雨の弟子だった、棕櫚兄か。忘れる訳がないだろ。三軒隣に住んでて、俺達より少しだけ年上だった」
「俺とお前が悪戯して水鏡に絞られた後に、こっそりレモネードとか持ってきてくれたんだよな」
 ふふ、と僅かに笑う気配。夜中も釣られて笑いそうになり、それを閉じ込めるように口元を手で覆った。
「思えば、俺達が初めての後輩だったんだろうなァ。だからあんなに良くしてくれたんだ、棕櫚兄は」
 懐かしむような口調はむしろ、夜中の傷に再び血を流させただけだ。彼は一度深く目を閉じ、痛みのことを思い起こすと、陰鬱な色をした目を上げた。薄暗がりで、刃の色の目は黒っぽくも見える。
「…それで棕櫚兄が、何の用事だって」
「ああ、」
 夜中の様子の変化に、さすがに金糸雀も直ぐに気付いた。五年程会っていないとはいえ、共に育った家族同然の間柄だ。気づかぬ方がどうかしている。
 陰鬱な、投げやりと言ってしまっても良いような夜中の語調に、金糸雀は目を逸らして、続ける。
「棕櫚兄や俺の方で何とか老『店主』達に掛け合って、お前を殺すのだけは延期して貰ったんだよ。これからの態度次第で、処分を変えようと」
「なら殺せ」
 間断なく夜中は、応じた。低く、獣の唸るような迷いの無さで。
「殺せ。…こんな場所に閉じ込められて生かされるなど、侮辱もいいところだ。お前達が殺さないなら、俺は今この瞬間に死んでやる」
「お前」
 金糸雀は、扉の向こうで拳を握り締めた。
 五年前にもそうだったと、無力感に打たれたような心持で、金糸雀は語気を荒げる。
 あの時も。夜中はそれがどれだけ愚かで罪深いことなのか、説得しようと言う彼等の言葉には微塵も心を動かしてはくれなかった。
「もういい加減に分るだろうが!お前のやってることは、罪なんだよ、夜中!魔女を『墓所』から連れ出して、そんなことをすれば、」
「……死後の世に慰めは消える。死者の魂は、それに耐え切れずに、こちら側の世界へ溢れ出すかも知れない」
「分ってんのなら何故だ、夜中」
「何故?」
 馬鹿馬鹿しい、とでも言い捨てそうな気配があった。撓んで強く反発を押し返す鋼鉄のような、歪んだ感情が、薄暗い地下の空気を尚も暗くする。
「阿呆か、お前らは。アレがそんなに大層な女に見えるのか?」
 ――金糸雀は、瞬間、言葉を失う。
 新月の月神に選ばれた、尊き魔女に向かっての評価とは思えぬ台詞だったからだ。
「翆は。あの魔女の小娘はな。たった一人で今までもこれからも、死人の為だけに歌い続けてるんだよ。…こんな馬鹿げた話があるか?アレはただの小娘で、それ以上でも以下でも無いのに、何で世の中の連中の死後の面倒なんか見なけりゃならんのだ」
 そんな謂れは無い、と、夜中は断じた。新月の月神の加護を受け、死後の世に住まう伝承の魔女を、そう、言い捨てた。
「俺はそんなの御免だ。死ぬのが怖いなら勝手に怯えてろ。あの娘にその怯えを、恐怖を押し付けて、のうのうと生きるなんてそんなの――死んでも御免だ」
 そこまで言って、夜中はすとん、と言葉を切った。それ以上は語る言葉など持たぬという風に。溜息を吐き出す音だけが、一度響いて、それきり彼は沈黙した。
「お前は…じゃあ、あの魔女を、どうするつもりだよ?」
「――『棺』に届ける」
 低い声はそう応じた。
「そういう約束で、依頼だ。俺はあの娘の魂を、『棺』へ送り届けると、『郵便屋』として約束した。一度交わした依頼を違えるなんてのは論外だよ。俺は『店主』なんだからな」
 それから彼は少しの間沈黙し、どうやら何かを考え込んでいるようだった。金糸雀はしばし思案し、その夜中の言葉を待たずに、口を開く。
「…水鏡に聞いた話、覚えているか」
「何のだ」
 婆さんからは山ほど話を聞かされた、と呟く夜中にそりゃあそうだ、と苦笑を漏らす。力の使い方、力を振るうことへの気構え、『店主』としての在り方から食事の作法に至るまで、全てを彼らは師匠である水鏡から教授されたのだから。
「――『店主』の、…『外法遣い』の始祖のお話だ。…『律』を外れた魔物は、月神の力の加護を受けぬ代わり、月神の力に裁かれる事も無い。無力を嘆いた人々の一人が、自らをも魔物と化して、人々を護る事を思いついた」
 同じ『律』より外れた、外法の力であれば、魔物を裁くことも叶うやもしれぬ。
 ――その人物の目論見は見事に成功した。だが。
「その人物もまた、魔物になってしまっていた。月神からの加護も、最早受けることは出来ない。彼が狂って、自らも人を害する魔物になるのも時間の問題だった――」
「何が言いたい、金糸雀」
「いいから、最後まで聞けよ。俺も今思い出して、含蓄ある話だったんだと納得してるところなんだよ」

 新月の月神だけが、その人の苦しみを見ていた。
 月神の『律』より外れた存在に、最早どんな救いを与えることも叶わない。新月の月神はそれを承知していたが、人を魔物から救いたい、どういう理由であれ苦しむ人が居ることを悲しむ、その人の心に新月の月神は打たれたのだ。

「『あなた方が、謂われなく苦しみ悲しむ人を救う為に力を振るうのであれば、その外法の力は、あなた方を害することはありますまい』」
「ただし、その力で人を傷付けるのならば、あなたは再び魔物へと堕ちましょう、それでも構わぬというのならば、子々孫々にその力、受け継がせましょう」
 ――とうとう月神は、『律』を歪めた。と言っても、一柱の月神に過ぎぬ新月の月神には、このように定めを変えるので精一杯だったのだが。
 こうして、この時から、『外法使い』――後の世には『店主』と呼ばれる人々が生まれることとなる。彼等はあくまでも私利私欲ではなく、誰かの悲しみのために、誰かの苦しみのために、それだけのために力を振るうことを定められている。そうでなければ、魔物と化すからだ。

 夜中とてその話を忘れているわけではない。皮肉に口元を歪め、彼は神経質な笑い声をあげた。
「俺は、だからきっと、魔物になるんだろうよ。だが知ったことか――」
「いいや。お前は魔物には堕ちない…と、思うぜ、俺は」
 意外な反駁に、夜中は眉をひそめる。何を言い出したのか、と、牢の中から戸惑うように赤毛を見上げる。
「謂われなく苦しむ者、理由なく悲しむ者、その為だけに力を振るえ。それが俺達の、絶対にして唯一の『律』なんだよ、夜中。なら…てめぇの力の振るい方、間違っちゃあいないんだろうさ」
「……さっきどっか打ったのか、お前」
「あのな!」
 人が真面目に話してるんだから聞けよ、と怒鳴ろうとして、牢の気配の変化に気付く。金糸雀は背伸びをして、鉄格子越しに薄暗がりを覗き込んだ。それまでの緊張感が嘘のように解けて、夜中がここ五年で初めて感情を露にしているような気がしたのだ――が。
 ――金糸雀の視界には真っ先に、ふさふさの狼の耳が見えた。
「ぷっ」
「………おい金糸雀」
「わ、悪ィ、そういやそうか道理で毒が抜けるのが速ぇと思ったよ、お前そういう特技があったよなァ。病気する度に尻尾が生えて…」
「くそ、思い出させるな!笑うな!!お前だって出るだろ翅とかッ!!」
「翅は概ねキレイで評判イイし問題ねぇもん、お前、いい年してその尻尾はねぇよ。女に『可愛いー!』とか言われそうじゃねぇかその尻尾」
 ぐ、と牢で夜中が言葉に詰まる気配がした。おやまぁ、と目を瞬かせ、金糸雀はしげしげと夜中を見遣る。さすがに五年も離れていれば、見違えるほどに成長してはいたが、幼い頃から見知った間柄だ。彼の表情の変化にはすぐ気付いた。刃の色の瞳が険を帯びているのを見、どうやら自分は痛いところを突いてしまったらしい、と思い至るものの、
(夜中に向かって『可愛い』なんぞとほざく女が居たのか?)
 それはそれで、想像すると笑いがこみ上げてくる。とうとう耐え切れず、金糸雀は声をあげて笑い出してしまった。夜中は苛立たしげに背を向けたものの、金糸雀の笑い声につられたように、ふ、と息を吐き出した。それまでの緊張が緩んだような気がする。胸中を焦がす痛みが僅かに和らいだと思ったのは、郷里へ許しを請いたい気持ちが少しでも残っていたからか。
「――ああ、くそ、笑った笑った。お前、怪我しようと毒飲まされようと、その尻尾は考え物だな。ちっとも緊張感が出ねぇ」
「…放っておけ」
 ふいとそっぽを向いて答えると、鉄格子越しに覗き込む顔はまた笑い――しかしすぐに真顔へ戻った。彼は目を伏せ、窓に手をかけて、少し声を低めて夜中に鋭く問うた。
「夜中。ひとつだけ認めてくれ。お前が『墓所』から連れ出している依頼主…謂われなく苦しんでいるその娘さんを、お前は、」
 一度言葉を切って、考え込む。他に言い回しがないかと散々考え、それでも結局思い当たらず、金糸雀はゆっくり首を振り、諦めたように続けた。
「鶺鴒を、鶺鴒との婚約を捨ててもいいって思うくらいに、その『魔女』を助けたかったのか。夜中」
「…それが『店主』の定めで、務めだろう」
 夜中は、微笑む。誇りがそうさせる表情だった。罪人とは思えぬほどに、凛と彼は顔を上げた。
「あの娘は世界中から死への恐怖を押し付けられて苦しんだ。今までずっと孤独に耐えた。――もう充分だろう。俺が解放してやれるのなら、俺がしてやらねばなるまい」
「それはお前が『店主』だからか?それとも、――その『魔女』を想うからなのか?」
 夜中は一度目を瞬き、それから少し皮肉っぽく顔を伏せた。先程までのあの、撓む鋼鉄のような硬質な感情がちらりと覗く。いや、それはそれは、類の違う硬質さであったかもしれない。
「俺は『店主』だよ、金糸雀。誇りがあって、そこに依頼者が居れば、罪だろうが、神様相手だろうが何だろうがやってやるさ。だが…そうだな。情が無かったなんて、とても言えない。俺は、アレに出会った瞬間、」
 彼は遠くを見た。どこか遠く。暗い暗い牢の中でさえ燦然と輝いて見える、過去の亡霊。
「――他に選べる全ての未来を、捨てても良いと思えたんだ」

 ――あなたは誰、と、怯えたように誰何する彼女の美しい声は、今でも耳に鮮明に残っている。
 
 かつんかつん、と靴音が響いたのはこの時だった。金糸雀が慌てたように咳払いして扉に背を向ける。現れたのが何者か、夜中の場所からでは見えなかったが、金糸雀の大仰な声がそれを知らせた。
「陽炎様。何かコイツに用事でも?わざわざこんな地下牢まで来るなんて珍しい」
 しわがれた老人の、くぐもった声が慇懃に答える。かつん、と忙しなく床を鳴らす音はどうやら杖の音であるようだ。
「フン。『墓所』の平穏を乱そうなんぞと考えるフトドキモノに、ワシとて関わりたくなぞ無い。だが長老様の命でな。一応は言い分を聞いておけとの仰せだよ。全く」
 馬鹿馬鹿しい、と、老人は鼻息も荒く続ける。
「『魔女』を連れ出すなどと、『店主』が聞いて呆れるな。死後の世の平穏を治めるあの『魔女』が居なければ、人々は死を恐れるようになるだろう。慰めを得られぬ死者達にも、魔物と化して害を為すモノが居るだろうな。ワシとて冗談ではないぞ、『魔女』の慰めも無い『墓所』に入るなどと…」
 舌打ちをして、老人はまたこつん、と石造りの床を杖で打った。
「しかしどうせ、『魔女殺し』の奴めはこのまま捨て置いても魔物に堕ちるばかりだろうな。話では反省はしていない様子だと聞くぞ。今のうちに殺すのが町の、引いては『墓所』の為でもあろうよ」
「まあ…昔ッから人の言うこと聞くような奴じゃないし、第一、言われて反省するなら五年も月神サマに背くような真似しねぇだろうし」
「貴様は、年上への言葉遣いというものを考えろ。金糸雀。…お前、随分とこの男と親しかったそうじゃあないか。それを理由に、先だっての『上級』の資格、剥奪されるように仕向けてもいいんだぞ、ん?」
「へいへい、解りましたよ」
 クソジジィ、と呟く声は幸いにして夜中にしか聞き取れなかったようだ。
「それで、夜中とか言ったな、『魔女殺し』。――お前とクチをきくのも汚らわしいが、言い分はあるか?どうせ無いだろうがな、『魔女』を殺そうなどととち狂った真似をするような輩に」
 魔女殺し、という忌み名に、夜中の背筋が震える。――それは、魔物の名だ。それも月神達すら忌み嫌うと言われる、文字通り、『魔女』――月神の寵愛を受け、特別な力を授かった人々の総称――を殺す魔物の。だから彼にとって、それは、まだ自分は魔物じゃあない、と信じたい心情を揺らがせる言葉であった。その名で呼ぶな、と怒鳴りたくなる。
 だが同時に、金糸雀の言葉が染み透るように思い出される。
 お前は、魔物には堕ちないだろう。
 まるでお守りのように、その言葉が夜中の正気を支えた。それまでずっと、彼は諦めてきたのだ。己は何れ、『魔女殺し』に、無差別に魔女を殺す魔物に成り下がり、やがては同輩に殺されるのだろうと。――もしも翆を害するようなことになるのなら、いっそその方がいいとさえ、思い続けていた。
「どうした。言葉も忘れたか、魔物風情が。『店主』の恥曝しめ」
「俺は、」
 呟く声は、この五年で初めて口に出来た彼の本音でもあった。
「魔物じゃあないし、魔物に堕ちはしない」
 ――俺は翆を害する存在にはならない、と。
 その想い一つが、彼にそう叫ばせた。



 だがその叫びは、胸中に沸き起こる不安を打ち消す為のものでもあった。
 彼は覚えている。
 掌に残る、ナイフの柄を人の胸へと差し込む、骨に触れる、臓腑を抉る、生々しい人殺しの感覚を。
 断末魔の息を、声を。
 そしてその、美しさを。
 ――最期の瞬間ばかりが鮮明に、記憶にある――



 鮮明な記憶はまだ、不安を呼び起こす。だから彼は、鉄の扉へ叩きつけるように否定の言葉を、投げた。
「『魔女殺し』などと俺を呼ぶな!」