室内にひそりと息を潜めた翆は、外を降る雨の音をじっと聴いている。聴いていればそれは、彼女の焦れるその人の声にも似ていて、それは寂しいようでもあったが同時に彼女をひどく安堵させた。胸に抱き寄せた小さな金属の塊は、今は蛇の姿をしていた。
 寝台の上に座り込んだまま、翆は、身動ぎもせずに、息を潜めている。
 その瞳が、青い瞳が何の前触れも無く丸く、瞠られた。彼女は一度小さく喘ぎ、呼ぶ。届くはずの無いその人の名前。
「…夜中…?」
 ――彼の魂が、今、自分の感覚に引っ掛かった。翆は小さな未発達の翼を震わせ、天を仰ぐ。そこに何か描かれてでも居るかのように、じっと。雨夜の闇に細く広がる自分の神経が明確にイメージ出来、その感覚に何かがさざめく様に引っ掛かっている。
「…何か起きたの…?」
 亜鉛を抱き締め、彼女はか細い声を震わせた。薄暗い、一点の灯りだけに頼る視界を懸命に凝らして、彼女は腕の中の金属の塊を見つめ、それからまた天を仰ぎ、そして忙しなく自らの夜着の裾を弄った。
「亜鉛、どうしよう…何かあったのかな。」
 手の中の金属生命は、耳を擦るような音をたてるばかりで何も答えてはくれない。否、答えてはくれているのだろうが、残念ながら翆には彼等の言葉が理解出来ないのである。結局、翆は亜鉛の言葉を自らに都合良く解釈することにした。
「…夜中に何かあったら大変だもん。様子見に行くくらい大丈夫よね。」
 幸運にも今日は、雨の闇。月の光は地上までは届くまい。翆はそのことを思い起こして心強くなり――彼女は月の光が嫌いだった――拳を握ってそう宣言した。腕の中の亜鉛が何やらばたばたと動くが、これも彼女はあくまでも都合良く解釈する。
「そうだよね、亜鉛も、そう思うよね?」
 笑顔で語りかけると腕の中の金属の蛇は、まるで項垂れるように頭を下げ、尻尾をだらりと投げ出した。――好きにしてくれ、そう言っているかのようなその様子。
 いざとなれば亜鉛を共犯者に仕立てようとしっかり決意して、翆は寝台から飛び降りる。翠の髪がランプの光を弾く。
 しかし飛び降りた彼女は今度は先程とは違う理由で硬直し、咽喉を喘がせた。小鳥が震えるような声で小さく呻いて、亜鉛を抱き締めなおす。金属の塊が抗議をするように暴れたが、彼女の意図を察したか、直ぐに大人しくなった。
 確りと鍵までかけたはずの扉が、廊下へと続く扉が、ほんの僅かに開いている。
 翆は背筋を冷たい氷が這うのを感じながらも、羽をぶるりと震わせ、息を、吸った。
 夕暮れにも同じことが、あった。
 口の中が乾く。
「掛香、さん…?」
 暗い、ほんの一歩先すら見えぬ塗り潰されたような暗闇から、ぬぅ、と人の腕が室内へと伸びた。夕暮れにも見た、同じ、光景――ただし、突き出されたのは白い腕、正真正銘、人間の腕だったが。
 夜中、と咄嗟に呼ぼうとした口を翆は自ら塞ぐ。夜中を呼んではいけない、仕事の邪魔をしてはいけないという意識が働いたのだ。代わりに彼女は抱き締めていた亜鉛から腕を放し、どうすべきかを少しだけ迷って、それから素早く呟いた。その声は、誰に届くことも期待されていない、独白に似ている。雨音に、似ている。
「…どうしたらいい?」
 独白。誰に問うた訳でも、無かった。
 しかし確かに、翆にだけは、聴こえた。
(大丈夫。全ての死者は、貴女を傷つけず、貴女を、護る。それが約束。)
「誰の…約束?」
 ――部屋の外から絶え間なく響いていた雨音が、途切れた。
 耳が痛くなるほどの静寂に、自らの呼吸の音がやけに響くようで、翆は息さえも詰める。
(月神の定めた律が、貴女に、約束した。)
 ぽつりと脳裏に落とされた言葉がそれで最後だったのかどうかを確かめる術は無い。ただ確実なのは、翆に聴こえた、彼女にしか聞こえぬ言葉はその夜は、それきりだったということだ。
 小さく開いた扉の隙間から腕を差し入れた人物が、こちらを覗いている。
 ほとんど何も見えないに等しい暗闇で、扉の隙間から覗く、何者かの瞳が見え、翆は確信して息を呑んだ。
 夕暮れに彼女を労り、優しく声を掛けてくれた青年が、暗闇に灯りも持たずに、無言で立って居るのだった。瞳に明確な感情は察することが出来ず、翆は警戒を崩さずに、それでもゆっくりと扉に近付いた。自らにしか聴こえぬらしい囁きは、彼女には信じるにたるものであるように思われたのだ。哀しげなあの声は、思えばずっと昔から、夜中よりもずっと昔から傍にあって、わたしを、

 そこまで考えて翆は鋭く脳裏を焼いた痛みに顔を顰めた。
 思い出してはいけないと、まるで「人形」に過ぎないこの身体さえもが、そう主張しているかのようだ。その皮肉に、彼女は僅か、幼い口元を歪めた。この心さえ何も覚えていないのに、偽りのこの肉の器は、何を覚えていると言うのか。

 差し入れられた腕が彷徨っているのを、翆は近付いてそっと、触れた。「人形」に過ぎない身でも、ぞくりとするほどにその指先は冷たく、翆は一瞬だけ躊躇は覚えたが結局、その手を握る。もう片方の手で縋るように亜鉛を抱いたまま、彼女は扉の向こう、意思の感じられないその瞳に向き直った。
「…掛香さん…ですよね?…どうして、ここに?」
 怖れはまだ消えずにあったが、幸い言葉は震えなかった。
 翆の鈴を振るような美しい声、その音に、掛香の瞳にごく僅か、感情のようなものが、過ぎる。
 それは夕方の時と同じ、ただ、翆を気遣うような、心配しているような、ごく単純な色。
「――逃、げ、……」
 掛香がそうして放った言葉は、くぐもってまるで夕方とは別人のような声色だった。翆は身を引こうとし、踏み止まって、もう一度問う。彼は今、何と言ったか?
 逃げろ。
 そう言われたように思う。
「どう、して?」
 だが問い返した言葉に応えたのは、彼の言葉ではなかった。ぐい、と異様に強い力で腕を引かれ、翆は訳も解らず廊下へと引きずり出される。そのまま、彼女は冷たい床に投げ付けられ、背中を強く打ち付けて、自らを襲った暴力に呆然とした。それでも事態を把握しようと、顔を上げる。
 夜の最中にはただただ不似合いなだけの真昼の青空の色をした瞳に映ったのは、灰色の人の形をした靄の塊だ。大人の身の丈程のそれの頭の部分には、ぽかりと二つ、黒い穴が空いていた。意思の無い瞳に似た、黒い空洞。
 床に打ち付けられ立ち上がれぬままその空洞を見上げ、翆はただ息を呑む。咽喉が渇いて仕方が無い。声が出せない。
 雨の音が、聞こえない。
 頭上で、がちり、と硬いもののぶつかり鳴る音がして、翆はようやく視線を動かした。重たい音ではなく、軽い音ではあったが、がちがちがちと繰り返される音が背筋に冷たい。
 そろそろと強張っている身体を動かし、視線を上げる。
 黒く塗られたような夜闇に仄白く、乾いた音をたてているのは、それは、人の頭蓋骨であった。虚空にひとつ浮かんで、がちがちと、歯を鳴らしているのだ。
 翆がそれを見上げたのと、その骸骨のぽっかりと黒く空いた眼窩が翆をぐるりと見下すのとが、同時であった。
 翆は悲鳴をあげかけ、それと同時にまたずるりと長い髪を引き摺られる痛みに眼を閉じそうになった。頭の皮を引き剥がされそうになる痛みで涙が滲む。だが、引き摺られた事で、結果的に、頭蓋骨が翆に飛びかかろうとするのを避ける恰好になった。薄く、湿気を含んだ床板が、乾いた骨に衝突され、軋む。
 翆を引き摺ったのは、先程からそこにあった、掛香の声をした灰色の人影であった。
「逃げ、て」
 影は再びそのように囁き、今度はしっかりと、翆は頷きを返した。命を救われたのだからその方法に文句をつけるのは後回しだ。痛む頭を抑えながら立ち上がり、走り出す。灯りの無い廊下を手探りで走るので、時折壁にぶつかったり転倒したりもしたが、構わずに走った。
 がちがち、と。姿の見えない乾いた音が背後から追って来るのだけを、ひしひしと背中に感じていた。
「夜中!」
 姿の見えない白い頭蓋骨の存在を、必死に神経を研ぎ澄ませて探りながら、翆はとうとう叫んだ。
「夜中、来て!…死んだ人、ずっと昔にここで死んだ、墓所に送られなかった魂がここに居るわ!」
 ――翆の「死者を見る目」は確かである。それがどんな姿に変じていようとも、彼女には生前の魂の姿がくっきりと見える。この暗闇でもそれは同じで、それだけが彼女の救いだった。暗闇に目をこらしながら、手探りに壁の場所を探り、走る。
 がち、
 がちん。
 だがとうとう、耳元の近くでその音が響いて、翆は呼吸さえ忘れて飛び退いた。肩越しに振り返り様に、眼前に、頭蓋骨が迫っている―――
 喰われる。
 それは理屈ではなく、本能で、翆はそう感じて思わず目を強く、閉じた。
 がちん、と、間近で乾いた軽い音が響く。全身をびくりと震わせた翆は、しかし覚悟していた衝撃や痛みが無いことに気付いて恐る恐る目を開いた。
「…よなか…」
 目を開いて翆が真っ先に口にしたのはその名前だったが、直ぐに彼女は口を閉じた。目の前に居る人物はじっとこちらを覗き込んでいる。その瞳の色は渋茶色で、彼女の望んで止まぬあの灰銀色ではなかった。
「魔女ダ、魔女ノ匂い、だ…おまえハ魔女ダナ、娘?」
 その人影が口を開いて零れ出たのが酷くしわがれて聞き取り辛いそんな声色であったので、翆は咄嗟にはその人物の名前が思い出せなかった。
 水色の夜着が、暗闇に慣れた瞳に映る。
 ――雲雀さん?
 瞳に映っているその姿と声とが結びつかずに翆は混乱した。ただ、その人影の傍らに浮かぶ白い乾いた骸骨を見て、彼女はまだ自らを覆う危機の去っていない事だけは、確信していた。死者の澱んだ魂は、この魔物を活性化させる。まだ封印は、成っていないのだ。
 夜中、何処にいるのよ!
 八つ当たり染みた思考さえ頭を過ぎるが、その人物に咽喉を掴みあげられて翆は呼吸さえ出来ず喘いだ。この身は人形だが生身と同じで呼吸は必要で、だから咽喉を捕まれ気道を塞がれると、普通の人間と同じように彼女の意識も朦朧とし始める。
「忌々シイ、月神の魔女メ…なニユエ『魔女殺シ』ト共ニ居ル!」
「…『まじょごろし』…?」
 耳慣れぬ、しかし、呼吸の出来ない苦痛以上に胸をえぐる様な妙な悪寒を感じるその言葉に、喘ぎながらも翆は目を見開いた。何故だろうか、その言葉は酷く恐ろしく忌まわしいものである気がして、ならない。酸素を求める意識の中でさえ胸を強烈に締め付ける、切ない痛み。
 朦朧としながらもその言葉の意味を考え続けていた翆は、意識が薄れる寸前に身体を掴みあげる力から解放され、床に強か打ちつけられた。開いた気道に一気に酸素が流れ込み、咳き込みながら必死で肩で息を繰り返す。そうしながら目を遣った先、翆を襲った人影は、鉛色の小鳥――亜鉛の鋭い金属の嘴で顔面を突かれ、悲鳴のような唸り声をあげていた。
「あ、亜鉛」
 キィ、と、名を呼ばれた小鳥はいつものように金属の擦れる音でそう応じ、応じた時には人影に思い切り振り払われて廊下に叩きつけられている。それを見て、思わず駆け寄ろうとした翆の肩を誰かが引き寄せ、留めた。
 ぎょっとして振り返ると、そこに居たのは、矢張りどこかで見た人物だった。――矢張り彼女の望む人では無かったのだが。
「…鶯、さん?」
 翆は目を瞬かせた。何故彼が、此処に居ると言うのか――暗闇にも分かるほど険しい顔をして、息を切らせて。
「…あの…?」
「ころせ」
 低いしわがれた声色が、命じる。鶯の瞳が強く揺らいだ。翆から目を逸らして、彼はただ、少女の肩を掴む手に力を込める。痛みに顔を顰める翆の様子になど構うこともなく。しわがれた声は、女性の、人の咽喉から発せられているとは思えぬ獣染みた色合いで空気を不快に引っ掻き続けている。
「殺セ。ころせころセコロせ殺セ。月神の娘ヲコロセ!ソウスレバ、こノ女ハ喰ラワずニ居テヤるゾ!」
「ッ!!」
 月神の娘。それはこの場においては自分の他に居ない。その事実にやっと気付いて、翆は自らを掴む腕から逃れようと遮二無二暴れた。と同時、床に叩きつけられていた亜鉛がむくりを身を起こす。
「本当だな。本当に、この娘を殺せば、雲雀を殺さずに…」
「疑ウならバこの場デ喰ッテシマオウカ」
 魔物が口を開く。その姿は――確かに雲雀の、女性のものであるのに、獣の様に口を開く姿はどこか禍々しく、鶯はひ、と息を呑み、頷いた。翆の肩を掴む手が否応無く力を増す。
「殺す。この娘は殺すから、だから雲雀を返してくれ!」
 翆は力を込めて、腕を振り払おうと動いた。肩が痛むが気にしてもいられない。その彼女の必死の様相に応えるように、鉛色の鳥が動いた。鋭い金属音をたてて、僅かな灯りを目掛けて飛び掛る。
 襲い掛かられた鶯は咄嗟に顔を庇い、その拍子に、翆を掴む腕の力が緩んだ。一瞬の隙を逃さず、翆が全身のばねを総動員してその場を逃げ出す。
 床を殆ど転がるようにして、翆はそのまま、立ち上がる時間すら惜しんで走り出した。
「夜中っ!もう、どこに居るのよぅ、夜中ってばぁ!!」
 悲鳴は、小鳥が天敵から逃れようとあげる警告音とそっくりだ。夜の静寂など引き裂いて、廊下を響き渡る。
 悲鳴を一度あげたらその後は、無かった。翆は声をあげる間さえ惜しく、ひたすら暗い廊下を走り抜ける。殆ど真っ暗な視界でも今度は転ばずに居られたのは、後ろから追って来る鶯が手に灯火を提げていた為であった。
「…ッ、何で、…!」
 何かに向かって嘆きたくなり、堪らず翆は廊下を折れて階段を駆け下りながら、とうとう涙を零した。殺されようとしている状況が恐ろしかったのではない。――翆は不思議と、自分の死は恐ろしくなかった。
 ただ、ナイフを片手に――そう、先ほどちらりと見えた時、確かに彼はナイフを握っていた――自分を追って来る鶯の必死の表情が、彼女には辛いものだったのだ。
(どう、して)
 亜鉛が鋭く小さく鳴いた。翆の髪を掴もうとする腕を嘴で容赦無く突く。血を流す腕を堪らず押さえた鶯から逃れて、翆は部屋のひとつに飛び込んだ。
 ―――そして飛び込んだ先で、誰かと目が合った。



**********



 幼い少女が凄まじい勢いで飛び込んで来たもので、掛香はぎょっとして顔をあげた。見開かれた青空色の瞳と目が合って、彼は考えるよりも先に動いている。
 彼女の腕を掴んで、部屋の奥へいささか乱暴に放ると、青年は無言で扉に鍵をかけた。木製の扉に鍵をかけた程度のことでどれだけ追っ手を阻めるかは怪しいものだが、それでもこの行為には意味があると――彼は、知っていた。
 知っていたのだ。
「…貴方は、」
 息をするので精一杯と言う様子の少女が、荒い呼吸の合間に何かを言おうとして口を開く。涙の浮かんだ少女の顔に、掛香は無言で微笑み、首を振った。――ああ、そうだ、と、思い出す。
「知っているよ。…だから何も言わなくていい。」
「さっきも、助けてくれた。……私を助けてくれようとしてたの…?最初から…。」
 翆は目を逸らし、そうして強く、目を閉じた。
 がんがんがんがん。
 扉を破らんばかりに乱暴に叩く音。
「開けろ…開けろ!」
 扉の向こうから届く恫喝に一度びくりと身を竦ませ、少女は縋るように周囲を見渡す。そうしながらも、恐怖を堪える為だろうか。彼女は震える声で、言葉を続けた。
「そうね。貴方がもう死んでいるなら…私を助けてくれて、当然ね…」
「うん。…君が娘に似ているから心配なんだと思ったけれど、どうやら違うらしい」
 掛香はふ、と溜息を吐く。
 何故、今になって気付いたのだろう。
「君は『月神の魔女』なんだね。……とっくに死んでいる僕が、助けたいと思うのは、当たり前の事だったんだ…」
 灰色に霞み、輪郭さえまともに保てない自らの姿を見下して、掛香は今度は声に出して笑った。自らを嘲るように。
 少女は――少女の人形にその魂を宿した魔女は、その表情に唇を噛む。幼い姿には不似合いな表情を浮かべ、そうして彼女は涙が膜を張った瞳を、窓の外へと遣った。暗闇の空には、星どころか月さえも見えない。
 ――そうだ、と掛香は、軽く目を伏せた。思い出した。何もかも。
 僕は、死んでいるのだ。――雲雀の、宿の主人の奥方の姿をした魔物に魂を喰われて。
 彼は、娘にも妻にも逢えずに、数日前に死んでいたのだった。
 何かを言いかけ口を噤んだ翆と、自分の正体に気付いた青年の死霊の間に重たい沈黙が落ちる。だがそれも数秒の間のことで、二人はすぐに我に返った。のんびりと感傷に耽ることが出来ない状況である事は、二人とも解っていた。扉を叩くというよりも殴るような音は、先ほどから激しさを増している。
「開けてくれ、開けてくれ…」
 翆はその鶯の声に、目を伏せた。耳も塞ぎたかったが、それはしなかった。顔をあげる。そうして凛としていれば、十二、三の幼い顔つきは、急に大人びたようにも見えた。
「夜中が何処に居るのか、知りませんか。…来てくれないなら、私の方から行かなくっちゃ。」
 逃げるなり、対策を講じるなり、どちらにしても今やるべきことは夜中を助ける事だ、と翆は結論付けていた。力を込めて一人頷き、先ほど床に打ち付けられた亜鉛を改めて抱き締めなおす。
「これだけ私が呼んで応えてくれないってことは、夜中は動けないんだと思うの」
 亜鉛は、この考えにははっきりと同意を示して頷いてくれた。見守る青年は逡巡をしたものの、まさか「月神の娘」に否を言うつもりなどあるはずもない。死霊にとっては、彼女に従う事は本能のようなものだったから。
「…彼なら、一階の廊下だよ。案内しよう。」
 灰色に澱む姿は、俯いているように見える。翆は瞬間、何かを言おうと口を開きかけたが、結局のところ口を噤み、頭を下げるに留めた。
「お願いします」
「とりあえず、此処からどうやって…」
「それは大丈夫。窓から行きます。…一応私、飛べるんですよ。夜中も時々忘れているみたいだけど」
 翆は言って、小さな翼を震わせた。途端、乳白色の無機質な翼は少女の身体を覆う程に大きくなる。そうして窓に手を掛け、彼女は一度、ふいと振り向いた。
 ドアの蝶番が、軋んでいる。木の扉は外れかけ、その向こうからじっとこちらを覗く目を感じて、翆は慌てて目をそらした。