森の中の細い道を、青年と少女が歩いている。
 青年の方は怪我こそ無かったが、――どうした訳か、群青色のふさふさした尻尾が、生えていた。無論、普段の彼にはそんなもの生えていない。更に見ると、大型の狼の耳のようなものも生えている。
「…夜中、それ、どうしたの?」
 ずっと気になってたんだけど。と前置いて少女が尋ねると、夜中は途端に不機嫌そうに眉を顰めた。呻くように応じる。
「怪我の治療用だ」
「怪我…」
 そういえば、床に倒れていた時、彼の周りには酷い血だまりが出来ていた――思い出しても背筋が凍るような気がして、翆はすぐに思い出した光景を振り払った。
「怪我を治すと、尻尾が生えるの?」
 代わりにそう尋ねながら、歩調に合わせて揺れる尻尾を眺める。
「体質だ」
 そう、体質なのである。
 ――夜中は見た目こそ人間だが、「店主」の常でその血筋には様々な種族の血が混じっている。この狼の耳と尻尾も、その血筋ゆえのものだった。普段は引っ込めておけるのだが、深い怪我などで身体が弱るとこうして表れてしまう。
「この程度の怪我なら、一日あれば治るからな。そしたら引っ込むだろう」
「え、引っ込んじゃうの?」
 何故か残念そうな翆の言葉に、思わず振り返った夜中は冷たく言い放った。
「…お前、まさかずっとこのままで居ろなんて言うなよ、翆」
 言いながら、彼の耳がひょこりと動いたので、翆はおかしくなって噴出してしまう。夜中は、それを見てますます不機嫌になったようで、それきりそっぽを向いて歩き出してしまった。怪我をしている翆のことなどお構いなしである。ましてまだ深夜だ、夜道は暗く、鳥目の翆には一歩先さえ見えない。
「よ、夜中待って!」
 慌てて駆け出そうとして、次の瞬間に翆は、唐突に立ち止まっていた夜中の背中に顔面から突っ込んでしまった。いたた、と顔を抑える彼女を他所に、彼は低く呟く。
「……行き掛けの駄賃だ、もう一仕事していくぞ」
「え?…あ…」
 彼の見ているものが、何なのか。
 例え夜の闇の中でも「それ」は確かに見えたので、翆は一転して表情を物憂げなものに変えて、悲しげに頷いた。その頭をぐしゃり、と少々乱暴に撫でて、夜中が付け加える。
「翆を助けてくれたの、あんただろ。…掛香。」
 





 
 その朝は、細い雨が霧のように立ち込めて居た。雨の匂いが強く薫って、それで薊は目を覚ましたのだった。
 傍らに、すがり付くようにして娘の芹が眠っている。昨夜も散々、「父さんはまだなの」と不安げにしていた。宥めすかしてどうにか寝付かせたものの、薊は娘の不安も理解している。彼女とて、嫌な予感を拭い去れない。夫は、予定ではもう帰っているはずなのに――もう予定から三日も遅れている。
 だから、戸口で僅かに物音がした時、薊は慌てて駆け寄っていたのだ。
「掛香…?」
 問い掛けるが、戸口からはもう音はしない。気のせいであっただろうかと、薊は溜息をついて、そうして戸を押し開けた。優しく鼻をくすぐる、雨の匂い。それだけだ。人の気配も無く、ましてや慣れた夫の気配さえない。そこにあったのは、いつも通りの町並み。
「…?」
 いや、そこで薊は足元に置かれた物に気がついた。戸口のすぐ傍に、雨に濡れて何か鮮やかなものが置かれている。
 鮮やかに染め抜かれた布と、そして木彫りの玩具が一つ。
 ――それは、夫が行商帰りに必ず土産として持って帰ってくるものであった。
「…掛香…?」
 薊の声に、応じる声は無い。

 ただ雨の向こうに、雨の中を寄り添う一匹の群青色の狼と緑色の小鳥が見えたような、そんな気がした。