ディアマイハニー

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■ 1 ■

 幼い姿をした少年は、しかし幼い顔立ちに全く不釣合いな表情を浮かべていた。苦い顔で、けれどそれを噛み潰しているような、奇妙な表情。そうして睨んでいる先に、彼の義母である女性が突っ立っている。
 常に全身灰色の服は血で汚れて、薄汚い黒にも見えた。だらりと垂れた右腕に、大口径の拳銃。何度も鉛の弾を吐いて、きっと人の命を何度も喰い千切ったのに違いない、無骨な姿。
 ――元教会の孤児院の庭には不似合い過ぎた。

「…くそったれが。何して帰ってくればそうなるんだ」

 彼の吐き捨てた言葉に、けれど女は欠片も反省した素振りなど見せない。それどころか満面の笑みを浮かべた。

「お出迎え?」
「殴るよ」
「あら、ソフト」
「…鉛弾の方が良かったか」

 過激なやり取りをしている女性の方は、血で汚れている。タオルを投げつけて、彼は、何故か傷付いたような顔をする。それを見て、彼女はふ、と口元を緩めた。血塗れの手で彼の頬に手を当てて、覗き込む。

「…ごめん、心配させた」

 血の匂い、硝煙の匂い、耳に痛い、剣戟の音。

「ごめん」
「知らない、知らない…」

 知らない、と怒鳴るようにして言い目を逸らす。血の匂いが鼻について苦しい。錆びた鉄のような、嗅覚を引っかくような厭な匂いは、呼吸をつめてしまいそうだ。なのに彼女はきっと、この匂いの中でしか生きられない。

「誰がシゥセの心配なんか、」
「…知ってるよ。だから、ごめん」
「……嫌いだ」
「それが一番堪えるな…」

 力無く笑い、彼女はその場に座り込む。自然、少年の方に見下される格好になり、今度は逆に少年が女を覗き込んだ。胸倉を掴み、噛み付かんばかりに顔を近づける。

「金を作る為だってのは知ってる。…でも頼むから、僕に黙って出て行くな。」

 弟達が、妹達が、どれだけ心配したと思っているんだ。鋭く問われて、彼女は力無い笑みのまま、俯いた。

「…今度やったら、ほんとに、嫌いになるからな」

 本当はその言葉はもう何度も聴いたのだけど、彼が実際に、彼女を心から嫌ったことは無い。それを彼女は知っていたが、だからといって今眼前で苦しむ少年に、他に何を言うべきかは思い当たらないのだった。呟くように、肺から言葉を押し出す。

「ハニー。約束する、二度とはしない」
「…。ハニーって呼ぶな」






■ 2 ■

「シゥセ」

 こん、と一つノック。散らかった部屋の入り口のプレートには、子供の文字で「おかあさんのへや」と書かれていた。
 質の悪いクレヨンの、油の匂いがしている。

「…シゥセ、返事は」

 もう一度呼ぶと、室内の奥の方から獣の唸るような奇妙な音が響き、彼はふ、と知らず詰めていた息を吐き出していた。室内の奥、子供たちの「おみまい」が大量に並べられているそのまた奥に、安っぽいパイプベッドが置かれている。洗濯だけは丁寧にされて、けれどもボロボロの毛布が一枚。
 くすんだ毛布と似たような色の、灰色の女がその下にうずくまっていた。

 元教会の建物を改築した孤児院の「おかあさん」であるこの女性は、現在、珍しくも調子を崩している。

「鬼の霍乱、だっけ」
「…何、それ、ハニー」

 義母の疑問の言葉は、彼がぽつりと口にしたことわざに対してではない。彼が手にしている、湯気のあがる小さな器を見ての言葉だ。それを正確に察して、幼い少年の姿をした「ハニー」はまず、顔を顰めた。

「誰がハニーだ」
「お前。…それ、何?」
「スープ」

 言うと彼女は少し、灰色の瞳に険しい色を見せた。吊りあがった鋭い目線はそうすると酷く剣呑に映るが、

「…大丈夫なの、今月も赤字なのに」

 口から聞こえたのはいかにも義母らしい言葉である。少年は口元を緩めた。スープの器をベッドサイドに置くべく、片手でその辺りに広げられたスケッチブックや絵本を押し遣って、

「経理の担当は誰だったか、忘れたのシゥセ」
「お前だな」
「そういうこと」

 言いながら彼は器にスプーンを沿え、半身を起こした女性の額に手を当てた。青白く見える肌は熱を帯びて火照っているのだが、元々この女性は体温が高い。何せ、獣人系の種族の血も混じっているとか。そもそもハーフエルフの少年と彼女では平熱だって微妙に違う。こうして直接肌を触れ合わせても、分ることなど「あーシゥセ暖かいねー」とかその程度の間抜けなことで、彼はそのことに嘆息した。

「…ちゃんと平熱、計っておいてね、って僕は言ったはずだよね。こういう時に面倒だから」
「いやー、平熱を毎日計れなんていわれた日には、とうとうお前が私に夜這いでもかけるのかって母さんちょっと感激したよハニー」
 こんなに小さかったお前が立派なオトコノコに育って!と大仰な動作で言う義母を少年は冷ややかに見遣り、身体を離した。
「アホなこと言ってる余力があるなら平気だね。ってか何その発想。平熱計るのが何で夜這いに繋がるんだよ。」
「あ、ゴメン嘘冗談すごく辛いんだよコレはマジ。だからお願いもーちょっと、」

 言って、彼女は少年の服の裾を掴む。熱で潤む切れ長の瞳で、少年をじっと見つめて、

「…くっ付いてて」
「厭だ」

 少年の返答は実にすげない。言葉通りに身体を離すと、彼はあっさり彼女の熱の状態を調べることを諦めた。本人申告で辛いって言ってるんだから辛いんだろう。彼女は現役で傭兵もやってるし、身体は資本だ。最低限の自己管理は出来ると、少年はそう判断した。

「スープ飲んだらさっさと寝て」

 言って、スプーンを差し出す。木製の、少し擦り切れたスプーンを受け取った義母は僅かに目線を投げて、呟いた。

「せめて『あーん』くらいはしてくれると思っ」

 馬鹿馬鹿しくなったので少年はそこで踵を返し扉まで歩いた。途中床に転がったぬいぐるみを踏まぬように気を配りつつ部屋の入り口に立って、振り返る。文句を言うだろうと予想していた義母は何も言わず、スプーンを握ってじっと彼を見ていた。熱のせいか、焦点の合わない蕩けたような瞳。

「…『母さん』」

 何かを殺すぐらいのつもりで彼は寝台の女性にそう呼びかけ、その視線に応じた。女は熱の中でもふん、とその言葉を受けて笑う。

「ちゃんと休んで。皆心配しているんだから」
「ガキどもの心配なら百も承知。私が心配してる、なんて聞きたいとしたらお前の言葉だけだ、ハニー?」
「母さん」
「無理だろ、お前、そんなんでちゃんと隠してるつもり?」


 この人はとうの昔に、見透かしている。全て。彼の想いも言葉の意図も覚悟も彼女は知って、そして、嘲笑しているのに違いなかった。お前馬鹿じゃない?彼女はそう言い捨てるのに違いない。それでもね、それでもねシゥセ、彼は胸中だけで呟く。僕は、腹を決めなきゃいけない。何故なら。

「…僕は男なんだよ」
「知ってるよ。ついでに言えば、男が大概馬鹿だってことも、私は知ってるし、」

 彼女はスープを一口すすり、ゆっくり味わうように飲み込んでから、ゆっくりと付け加えた。踵を返そうとした少年は、言葉の続きに気を奪われて歩みを進められず、言葉をじっと待っていた。



「それに、お前がいい男だってのも知ってる。…そう育てたのは誰だか、忘れた?」
「『母さん』だね」
「そういうこと」




 勝ち誇る女の顔に本気で鉛弾を撃ち込みたいと思ったのは今までの人生で一度や二度ではない。彼は小さく毒づいた。どこのどいつだ、恋愛は惚れた方が負け、なんて都合のいいことをぬかしたのは。
 本物の恋愛の勝者ってのは、あの女のことだよ。







■ 3 ■

 レシゥシェートは三日寝込んできっかり三日目に復活した。復活するなり壁に落書きをしていた子供たちの上に雷を落とし、快気祝いと称して鶏をとっ捕まえて自ら捌き、首を落とした鶏が走るのをげらげら笑って眺めた挙句、焼き鳥にされたその鶏の骨を玩具にして子供達を追い回し、滅多に飲まない酒を飲んで倒れた。ヨルは周囲の子供達から「母さんを止めて」と懇願されたがこれをきっちり無視し続けた。
「僕に止められるならとっくに止まってる」
というのが彼の主張である。



 とかく、四日目の朝、ようやく孤児院はいつもの朝を迎えたのであった。
 鶏小屋からタマゴを幾つか失敬し、ヤギの乳を搾り、子供達がそうやってそれぞれの仕事を終えて台所へ集まるころ、彼らの「おかあさん」はようやく目覚めて寝台から抜け出してくる。彼女を起こすのは家族の中でただ一人、ヨルの仕事だった。ヨル以外にこの仕事をこなせる人物は過去に一人きりで、その一人は既にこの世には亡い。

「ヨル兄さん、母さん起こしてきてくれる?」
「…いつも思うんだけど何で僕なのさ」
「だって兄さんくらいしか起こせないでしょあの人」

 返す言葉も無く、しかし何かに抵抗するような心持で、幼い姿をした少年エルフは言い募る。低い声で。

「別に、僕じゃなくたっていいはずなのに」

 抵抗はすげなく無視され、彼は結局、愚痴を零しながら義母の部屋へ向かうこととなる。分っていることだ。彼女を起こせるのは、自分だけ。
 彼女の領域に立ち入れるのは、もうこの世には彼一人。
 そして多分、彼女の心を支配できるのは、もうあの世にしか居ない人だけ。

「…僕じゃなくたっていいはずなんだ」

 誰でも良かったはずだ、と彼の理性は思う。彼女は寂しかっただけだ。魂の半身だったパートナーを失った彼女は、寂しさの余りに、傍に居た彼に手を差し伸べたに過ぎない。
 人の気も知らないで。そんな苛立ちが、扉を叩くノックに混じった。
 いつものことだがノックに応じる声はなく、彼は無断で扉を押し開く。軋んで開く木の扉の向こう側は、今日はクレヨンの油の匂いはしていなかったが、代わりにインクの匂いが鼻をついた。顔を顰めて彼は室内をぐるりと見渡す。床の一角に、青いインクが零れて染みを作っていた。

「シゥセ。朝だよ」

 インクの惨状に頭を抑えつつも彼は、部屋の奥へ呼びかけた。唸るような声は、低い。
 彼が様子を伺った寝台には、灰色の巨大な猫がうずくまっていた。呆れ果て、少年は溜息を吐き出す。寝惚けて獣姿に転じてしまったものらしい。
 灰色の耳、灰色の長い尻尾。ふわりと靡く鬣は朝日を浴びて、細やかな銀色にも見えた。猫のような姿だが、身体のしなやかさは家猫のそれではない。その上、背中の辺りには、一対の腐乱した翼が生えていた。骨ののぞく翼の禍々しい形のお陰で、それは猫というより悪魔の様相を見せる。
 それでも彼にとってはその姿は見慣れたものでしかなく、

「シゥセ」
「ぎゃんっ!」

 乱暴に尻尾を引けば、悲鳴じみた声――鳴き声?をあげて、巨大な猫は目を覚ましたようだった。灰色の瞳を鋭くヨルへ投げかける。責めるような視線を、しかしヨルは気にした風もなく、

「朝だよ」

 ああ、と猫は頷いて、毛布の中へと潜っていく。尻尾だけを残して毛布にすっぽり包まると、次の瞬間には、

「…ヨル、服」
「はいはい」

 毛布の下から伸ばされた腕は、ほっそりと白い人間の腕だった。




「機嫌悪い?」

 服を着込んだ義母の第一声はそれだった。ヨルが何で、と目線だけで問えば、彼女は鏡台の前で寝癖を乱暴に撫で付けながら、

「乱暴な起こし方だったからなぁ。普段はもっと優しく、こう囁くように――」
「誰がだ。…別に、少し、ホギのことを思い出しただけ」
「ホギを?」

 鏡を覗き込んでいた義母はその言葉に、くるりとヨルの方へ向き直った。灰色の瞳が不審げに揺れる。
 ホギ、と言うのは、かつて彼女が失った半身のことで、ヨルにとっても彼は家族同然であったから、別にヨルが彼を悼むことはごく当然の流れではあったが、

「別に命日でもないだろ。何で急に?」
 義母の疑問も当然と言えば当然のことだ。

「…ホギが居た頃は、母さんを起こすのは、ホギの仕事だったなって」
「ああ、私を起こすのが面倒になったのか」
「違う」

 彼は呟くようにそれを否定したが、かといって何か、付け加えて言うべき言葉も思いつけず、それきり沈黙した。鏡台からレシゥシェートが立ち上がる。彼女は、昔のことを思い出す時によくそうするように遠くを見て少しだけ笑った。
 ホギの死を、彼女はもう、昔のことと受け止めている。それに気付いたことで、ヨルには酷く狼狽するような感覚もあった。

「墓参りにでも行くか、ヨル」

 彼女はそんなことを、言う。意図を掴めず眉根を寄せたヨルを見遣り、レシゥシェートは長い尻尾をゆらりと動かした。寝癖がついていないかを確認し、自慢の尻尾にブラシを当てて、

「…別にお前に甘えるつもりなんて、無かったよ。最初から。」


 その言葉は嘘だ、とヨルは思い、その言葉は嘘だ、と、レシゥシェートは静かに目を伏せた。 


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