「…で、ハニー。どうしたの?」
「そうだな。とりあえず昨夜のあんたの行動から整理しようか酔いどれクソ猫」
「あれ? 怒ってる?」
「それはもう、今朝の朝食代が支払えない事実に気付いてどうやって宿代を踏み倒そうかって一瞬考えちゃって自己嫌悪に陥る程度には怒ってるよ僕は」
「ああ何だ。踏み倒すんなら先にそう言ってくれればいいのに。早速荷造りして準備を」
「するな。僕はあんたの息子だし悪党だけどそういうことは悪党のやることじゃないだろ!」
「悪党じゃなきゃ誰が踏み倒しなんて酷いことするんだよ」
「………何でだろう、時々、母さんの顔面蹴りつけてぐりぐり踏み込んで踵めり込ませながら『お前が言うなお前がああああああ!!!!』って呪詛を吐けたらさぞスッキリするだろうなって真剣に考えることがあるんだ」
「お前なぁ…そういうプレイはもう少し大きくなってからだなー」
この言葉を聞いたヨルは、躊躇無しに眼前の女のいかにも真面目そうな表情を浮かべた顔面に蹴りを入れて踵をめり込ませて呪詛を叫んだ。
**************
顔面に蹴り痕をつけた女性を床に座らせて、ヨルは腰に手を当て深々と嘆息した。所作は苦労を重ねている大人のそれだが、見た目にはヨルは12歳程度の少年に見える。黒髪に深い緑色の瞳、とことん地味な容姿の小柄で細身の、子供そのものとしか言いようのない姿だ。
「酷いなぁちくしょー」
「…素直に蹴られた挙句『あ、やっぱあんま気持ちよくないなコレ』とか意味不明なことほざくのやめてくれない、母さん。あんたが無抵抗ってだけで結構蹴っててぞっとしたんだけど僕」
「酷いなお前、じゃあ蹴るなよ」
「そっちこそ蹴りたくなるようなこと言うなよ!!」
何だか泣きたい気分になってきて、ヨルは反射的に怒鳴り返したことを反省するかのようにまた、嘆息する。
眼前で床に直に座っている女は、ヨルとは対照的に救い難いほどに派手で悪目立ちする容姿であった。女の身に似合わぬ長身、すらりとした手足や一切の無駄が無い体格や整った見目はともかくとしても、――彼女の纏う色彩はあまりにも異様であった。フード付きのマントで隠している長い髪も、瞳も、いやそれだけではなく、纏っている衣服の全てに至るまで、彼女には「色彩」というものがごそりと欠けているのだ。
フードから零れている髪の色や、ヨルを見上げる瞳の色、服やフードで隠れているが獣の耳と尻尾も、それに爪の先や唇まで、彼女の身体は全てが灰色である。
見た目12歳ほどのヨルから「母さん」などと呼ばれている彼女は、名をレシゥシェート、と言う。大仰な名前で本人はあまり好いていないらしいが、名前は名前だ。他に呼びようもない。
彼女も「見た目だけなら」という注釈をつけた上であれば、20代後半ほどの年頃に見えた。――こちらは見た目以上に大人びた所作のヨルに反して、子供のように不貞腐れている訳だが。
「何だよー。私が何したって言うんだよー」
「具体的に言われないと分からないみたいだから言っておくけどね母さん。路銀が尽きました」
「…え、何で?」
「あんたが昨夜際限なく酒を飲んだからだよ……!」
ようやっと現実を突きつけることに成功し、びしりとヨルが指差した「元凶」は、しばし首を傾げて何やら思案していたが、やがて何かに思い至ったのだろう。ひとつ頷いて、床に座っていた膝を揃える。彼女はヨルの眼前で、真面目な顔でこう言った。
「分かった、私の責任なんだな…。よしじゃあ責任取るから、まずはどこからお金盗って来ればいい?」
「もうだめだ! なんかもう僕あんたの息子でいることに限界を感じた!!」
言語によるコミュニケーションの限界を感じてヨルはもう一度彼女の顔面に蹴りを入れた。
――事の起こりは数日前のことだった。
ヨルやレシゥシェートの居る孤児院は、小さな町にある。街道沿いからも離れて人の出入りも少ない、しかしけして貧乏ともいえない程度には恵まれた小さな町だ。
ある程度の自給自足は出来ているとはいえ、何分、物流面に難のある立地である。町で作れない物を求めようと思えば、定期的にやって来る行商か、流しの旅商人を待つか。あるいは、馬に揺られれば往復で二日――マジックアイテムである「天馬」などを使えば四半日――ほどの位置にある少し大きな街へ向かうか、どちらかである。
「…という訳で、お遣いを頼みたいんだけど…ホントに僕がついていかなくて大丈夫?」
「大丈夫だよ。それよか、町長さんトコ行ってきなよ。今のうちに思いっきり恩売って来年の寄付のコト考えて貰わなきゃ」
「そうよ父さん。医療術の遣える父さんが隣街に行って、ここを留守にする訳にもいかないし。かといって、薬の知識が無い人間が薬を買いに行くのも危険だものね。…それなら、私が適任だわ」
そう、事の起こりは病であった。
常の冬より寒い今年は、性質の悪い風邪が町中で猛威を振るっていたのだ。年寄りや子供といった体の弱いものを襲う病に、簡単なものではあるが医療の知識を身に着けているヨルは引っ張りだこになっていた。本人は、怪我の方が専門なんだけどなぁと愚痴ってはいたものの、この町には薬師は居ても専任の医師が居ない。背に腹は代えられず、やむなく病人の看護に駆け回っていたのだが――そんな中で、備蓄していた薬の材料が切れてしまったのだ。
町の周りの森にも薬草はあるが、植生の関係で手に入らないものも多いし、冬場に乱獲する訳にもいかない。
そこで、隣の街へと薬草を求める必要が出て来た訳だが――折悪く、レシゥシェートは出稼ぎ中で、ヨルですら居場所を把握していなかった。
「私なら、父さんから薬草の知識は教わっているものね。お金目当てに変なモノを掴まされる可能性だって、町の他の人が行くよりは低いと思うの」
「…ホント、ごめんなリィム。薬師のティスがぎっくり腰でやられてなければ、あいつに行かせたのに」
「……ティスお爺ちゃんも結構な歳なんだから、若い時みたいな扱いをしちゃ駄目よ、父さん」
そんなこんなで、孤児院の子供――と言っても二人とももう15歳と16歳、町の基準で言えば成人と同じ扱いになるのだが――が二人、隣の街へと向かったのだ。
しかし、簡単に結論を言えば――
――二日を過ぎ、三日を過ぎても、二人は帰ってこなかった。
そうして気を揉みながら待っていると、レシゥシェートが稼ぎと一緒にとんでもない話を持って帰ってきたのである。
「ハニー」
「何だよ、後に――」
言いかけたところで、常日頃からふざけたことしか口にしないレシゥシェートが腕組みをして戸口に立つ姿を見とめて、ヨルは態度を変えた。いつもと違う、と、長年の付き合い故に直感的に察したのだ。
数名の町の人間を診た後の室内を掃除していた彼は手を止め、首を傾いだ。
「…どうした?」
「うん、帰る途中でヤな話聞いたんだけど。どうしよう」
「……僕に相談するってことは相当面倒なことだね?」
問いかけには常のふざけた応答が無い。これはいよいよ深刻な話だ、と理解して、ヨルは即座に真剣な目を彼女に向けた。
「…子供達のこと?」
「リィムと、葉貴の件だ」
「だと思った。何か聞いて来たの?」
うん、と頷く義母の頭のてっぺん、猫のそれとよく似た形の灰色の耳は、機嫌が悪いのか、ぺたりと伏せてしまっている。
「ここんとこな、周りでちらほら厭な話は聞いてたんだけどさ。…性質の悪い人買い連中が、近くの地域から流れて来たみたいなんだ」
その言葉に、ヨルはひとつ、頷いただけだった。戸口に寄りかかるレシゥシェートとすれ違い、廊下へと歩いていく。歩みの速度は変わらず、傍目にはどんな感情を窺うことも出来ないが――レシゥシェートもまた、彼との付き合いは長年に渡る。後を追うように歩み寄り、半歩先を歩くヨルを覗き込んで彼女は告げた。
「うわ、怒ってるなハニー」
「当たり前だろ。…場所は、『シゥセ』?」
「お前な、こういう時だけ私を名前で呼ぶのは卑怯だぞ? …仕方ないな、町の方は少し落ち着いてきたし、二人で行くか」
そういう訳で、二人は町を出たのである。
この辺りは土地が豊饒なため、人の暮らしぶりも決して悪いものではない。が、それでもヨルの知る限り、数十年前まで――彼の感覚で言えば「つい最近まで」ということになる――「人買い」は珍しいものではなかった。子供が多く、養えずに、手軽な労働力として売り飛ばす。そういうことが多く行われていたのだ。
最近では少しばかりそうした風習は鳴りを潜めているが、しかしある特定の種類の「人買い」だけは今でも幅を利かせている。
ひとつは娼婦宿へ女性を売りとばす人買い。尤も、最近では人を買うよりも、身を売らざるを得なくなった女性達の仲介役を務めていることが多い。
もうひとつは、――見世物屋や軍や、ある種の研究施設等に「金眼」の子供を売りとばす人買い。
「金眼」を持って生まれた者は皆、精霊に適応し「魔術」を生まれながらに操ることが出来る、通称「魔族体質」である。そのため、戦力として、研究対象として、あるいは見世物として――様々な「用途」に使い道があるのだ。加えて、
「…まぁ、人買い、と言うよりもこちらも最近じゃ仲介屋の色が強いが…でもなぁ、『魔族体質』には風当たり、強いからなぁ」
レシゥシェートがぼやくように、そうした社会的な問題も、ある。「魔族体質」と言うだけで迫害され、差別されてしまう。生まれた時点で、育てることの困難や親自身の差別的な意識から、親が子を売り渡してしまう、そういったケースが多いのだ。かくして需要と供給のバランスが成立してしまい、労働力としての「人」を売り買いする現場が徐々に減ってきた一方で、現在でも「金眼の子供」という「商品」に限れば、取引は全く減る気配もない。
「昔に比べりゃマシになってきてるけどね」
嘆息して応じつつ、ヨルは宿屋からも街道沿いからも離れた森の中で足元へと目を落とす。一度だけちらりと宿屋の方角へ眼をやって、彼は唸った。
「……後でちゃんと支払いに戻らないと」
――結局、目的地も近かったのでこっそりと宿を出てきてしまったのである。事実上踏み倒した格好だ。
「ハニーは真面目だなー」
お前が不真面目すぎるんだ、と怒鳴りたいのを堪えてヨルはじろりと義母を睨んだ。道と呼べる道さえ無いような森の中を、散歩でもするような足取りで歩く彼女はしかしその視線を軽く受け流し、傍目には何も無いようにしか見えない森の下草をつんつん、とつま先で突いた。
「ちゃーんと偽装した痕跡があるな。お前と似て真面目な連中だねぇ、どうせ私に見破られるのにな」
「真面目な連中が人買いなんかするか。…しかし、『魔族体質』の人間を商品にする連中か…」
それまでの道中もひっそりとした声で喋っていたヨルだが、ここでぐっと声を落とした。昼でも薄暗い森の中に、不自然な光の動きや風の流れ、それに加えて静けさを好む木々の精霊が妙に騒ぐのを感じたためだ。レシゥシェートが見つけたという「人買い連中のアジト」とやらが近いのだろう。
「――葉貴が捕まった理由が、分かる気がするよ」
レシゥシェートが、矢張りこちらも音を立てずに苦笑を落とし、ヨルにだけ通る声で応じる。
「…そうだね。あいつは昔、『金眼』を理由に人買いに売られた子だったから」
「放っておけなかった、ってとこかな」
「ふふふ。あいつ、いい男に育ったなぁ」
満足そうに、レシゥシェートが呟く。釣られたようにヨルも、音を立てずに笑みを落とした。
「そうだね。悪党の育てた息子にしちゃあ、上出来だよ」
さてその頃、当の息子と娘はと言うと。
「……葉貴、あんた少しは後先考えて動けって父さんにいつも言われてるじゃないのよ。何間抜けなことしてんのよ。父さんと母さんに指差して笑われたい訳?」
「………返す言葉もねーけどさリィム、ガキが苛められてんの見て速攻でケンカ売りに行ったのお前だよね。尻拭いした俺に対して礼とか無ぇのかよ」
「何よ」
「何だよ」
薄暗い小屋の一室で何度目だか分からない罵り合いをした後、二人は同時にため息をついていた。手足を荒縄で結ばれた上に、葉貴は目隠しまでされている。目を抉られなかっただけマシだよなぁ、と彼はそんなことを考えていた。――魔族体質の人間は、たまに、眼にその秘密があると勘違いされて目を抉られることがある。
(単に、適応してる精霊の力が眼に集中して現れるから金色になってるってだけで、眼球抉られようが眼を塞がれようが、魔術使う分には問題じゃなかったりするんだけどなぁ)
わざわざ勘違いを訂正するほど彼も親切ではないので、その辺りは黙っていることにしているが。
幸い、同行者であるリィムの方は両手を縛られている程度のようだ。その辺りを漂っている、自分に適合している精霊の気配を感知しながら、葉貴は安堵していた。魔族体質者は基本的に、生まれついて数種類の「精霊」に「適合」しており、その精霊の流れや姿、時には意思のようなものも感知することが出来るのだ。
(それに、その気になれば、ここを抜け出すくらいは出来ると…思うんだけどなぁ)
「あ、リィム。近付いてくる奴が居るぞ。多分そろそろ飯じゃね」
つらつらと考えながらも、葉貴はふと「感知」した情報をリィムに伝える。精霊のお蔭で、かなりの広範囲に渡って葉貴は「人の居場所」を察知することが出来るのだ。
「…ご飯もらえるのは有難い、って言っとくべきなのかしらねぇ…」
リィムの声の調子は複雑そうで、葉貴は声には出さずに、ただ首を横に振った。睡眠薬入りの飯なんて、とてもじゃないが有難がる気分にもなれない。
などと思っている合間にも足音が近づき、部屋のすぐ外に人の気配が生じた。無言で乱暴に扉を開いたのは男で、彼は無言で、部屋に転がっている二人を顎でしゃくる。するとその背後から、小さな影が姿を現した。
幼い子供のようだった。垢染みて擦り切れた衣服に、痛々しいほどに華奢な手足。伸び放題の髪で殆ど顔は見えないが、僅かに覗く瞳にはまるで生気が無い。その幼い子供が、男に小突かれて、頼りない足取りで部屋の真ん中へと歩み出て来るその手には、汚れた皿に載せられたパンの欠片が少々。横に盛られているのは多分何か食べるものなのだろうと思うが、リィムは自信が持てなかった。
(…なんか母さんが作る料理に似てるような)
「食事だぞ。残さず食えよ。余計な真似なんざしたら、コイツがどうなるか分かってるよな?」
面倒そうに男が言いながら、皿を部屋の床に置いていた子供の背中を無造作に蹴り飛ばした。悲鳴も上げずに――悲鳴を出すだけの気力が無いのかもしれない――子供は突き飛ばされ、置いたばかりの皿を巻き込んで床に倒れ込んだ。
葉貴が残念な状態なので、彼の分も込めてリィムは男を精一杯険しい視線で睨み据える。
昔話に出てきた怪物みたいに、視線で人を殺すことが出来ればいいのに。心底から思いながら、唸る。
「…分かってるわよ。さっさと出て行って」
「はぁ? お前、何様の積りだ? 俺に指図すんのかよ、商品の癖に」
(あっちゃぁ)
葉貴が「刺激してどうすんだお前…」と言わんばかりに肩を落とすのが見えた気がする。
「少し痛い目見なけりゃ自分の立場も分かんねぇのか?」
男が苛立たしげに腰にさげている短刀に手をやるのを目にしてさすがにリィムの肩が強張る。が、廊下から響いた気だるげな声に男はすぐにその手を引っ込めた。
「おい、商品だからって傷モンにすんじゃねーぞー」
「…くそ、分かってるよ。値段が下がったら頭にぶっ殺されちまう」
もう一人の男は廊下でどうやら見張りに立っていたらしい。面倒そうな彼の言葉に、渋々という様子で男は踵を返した。
「こいつらが飯食うの見張ってろよ。妙なことしてたら報告しろ。いいな」
扉を閉める際に、部屋に取り残した子供にそう言いつける。覚束ない足取りでようやっと立ち上がろうとしていた子供はその言葉に機械的に頷き、扉が閉まると同時に、矢張り機械的な動きでリィムの手を縛る荒縄を慣れた様子で解いて行った。間近で俯いて縄を解くその子供をじっと観察して、リィムは深めに嘆息する。
酸っぱいような、腐ったような、糞尿の匂いも混じった酷い臭いから察するに風呂もまともに入れられていないのだろう。服装も擦り切れて垢に塗れ、その服から覗く肌には手と言わず足と言わず無数の傷跡があった。火傷や裂傷、想像するのも悍ましいような形の傷跡もあった。癒えていない傷もあるのか、膿と血が混じっているのが分かる。
薬師としての教えを受け、治癒の心得を持つものとしてはどうしても看過できず、リィムは、荒縄を解いてすぐに葉貴の方へと向かおうとするその子供の腕を取った。触れるとぞっとするほどに、その手には肉が無い。骨と皮だ。
(ウチに来る子にたまに状態酷いのが居るけど、ここまでのは流石に滅多に居ないわよ)
この子供を虐待しているのは、まぁ考えるまでもなくあの男たち、人買いの一団と思しきここの連中だろう。怒りを腸にため込みながら、リィムは険しい口調でその小さな子供に告げる。
「ここから逃げたくないの?」
子供は、告げられた言葉の意味が解らない、と言うように、感情の無い硝子玉みたいな眼でリィムを見返すだけだった。葉貴が、リィムの嘆息とそっくり似たような嘆息をしながら、代わりと言うように回答する。
「……逃げるって選択肢が無いんだよ。酷い目に遭ううちに、逃げようなんて気力も、逆らおうって考えも浮かばなくなるんだ。…何も考えない方が、楽だって思っちゃうんだよ」
「そんな――」
「リィムは信じられないかもしれないけど…俺、分かるよ。俺もそうだったから」
目隠しはされたままだったので、葉貴の目に浮かぶ感情は窺えない。それでも苦いような、何とも表現できない感情を噛みつぶしているらしいのは見て取れた。リィムは自由になった手で彼の肩を宥めるように叩く。
「父さんと母さん、心配してるかしら」
気を紛らわせる積りで、問いかけるでもなく独白するように呟くと、葉貴の肩がすとん、と力を失った。
「…あんな人達だけどなぁ、心配はしてるだろうなー…。…ミュカの奴、熱下がってるといいんだけど」
最後にふっと名前が出たのは、孤児院で留守番しているであろう子供達の一人の名である。二人にとっては、末の弟、という感覚だ。まだ小さな義弟は、二人が町を出るその日、町の流行病のあおりを受けて絶賛発熱中であった。急いで薬を手に入れたかったのは、正直に言えば、何よりもこの義弟を助けてやりたかった、という理由も、ある。
幼い末の弟のことを考えた二人の連想はやがて自然と、眼前で膝を抱えて虚ろな目で座り込んでいる子供の方へと向かった。葉貴の方は目隠しがあるので、気持ちだけ向けた。
小さく小さく縮こまって、まるで置物のようにそこに居る幼子に、二人の声は自然とひそやかになる。
「…あの子を助けてあげるのってお節介、かしら」
「うーん」
リィムの言葉に葉貴は少し思案したようだ。
「ここの連中って下種だけどさ、嫌なことに統率取れてんだよな」
「あー、そうね。…捕まった直後にそんな話、してたわね、葉貴」
長いこと強い力で縛られていたせいで血の気の失せて強張ってしまった指先で、探る様に、葉貴は目隠しを外す。外しながら、面倒そうにリィムの言葉にひとつ、頷いた。
「さっきの奴もそうだろ、下っ端っぽかったけど、煽られても俺達を直接傷つけには来ない。…きちんと組織だった連中だってこと、なんだと思う」
隙を突くのが難しい、と言うことだ。顔を突き合わせた二人はそれぞれの顔色にその結論を読み取って、うーん、と唸る。そしてまた、部屋の隅の子供に目をやった。考えたことは互いの目を見るまでもなくひとつだ。協力してもらえれば一緒に逃げられるかもしれない。
正直なところを言えば、ここから抜け出すだけなら、二人だけならばどうにかできる――そのくらいの自負は二人ともにあったのだが、しかしそれを実行できていないのはこの子供に後ろ髪をひかれてしまったからに他ならない。どうにか助けられるものなら、ここから助けて逃げられないか。そう考えていたのだ。
「…ね、」
床に落ちたパンを拾い上げて顔を顰めながら、リィムがさり気なさを装って子供に声をかける。子供はぴくりともせず、聞いているのか、聞こえているのかさえ判然としない。下手をすると耳が聞こえないのかもしれない、と真剣に考えてしまうほどの無反応だ。
「あのさ、ひとまず確認したいんだけど…君、男の子? 女の子?」
「え、いや、リィムそこか? 最初に訊くべきことかそれ?」
「…あ、あと名前。名前聞かないと呼ぶ時困るから、名前教えてよ」
――反応は、無い。
困ったなぁ、と天井を仰いでリィムはパンを口に放り込む。じゃりじゃりとした嫌な触感が舌に乗るが、空腹は耐えがたいし、我儘を言えたものでもない。ついでに彼女の鋭敏な舌には、僅かに、睡眠薬の独特の苦みが触れたが、これもまた無視して嚥下する。それから彼女はすぐに、傍らの葉貴に釘を刺した。
「葉貴はやめときなよ、薬が仕込んである。私は耐性あるから平気だけど」
「…お前の薬漬けの生活がこんなところで活きるとはなぁ…」
力なく嫌味を口にする葉貴をひと睨みしてから、彼女はつかつかと幼い子供に近寄った。最初の内は垢じみた臭いが鼻をついたものだが、残念ながら今現在では慣れてしまって、感じる臭気もすっかり弱まりつつある。
華奢な体躯を見下ろしてふん、と鼻を鳴らした後、彼女は無造作に――子供の衣服をはぎ取った。まずは上着、それから下着。手つきには迷いも容赦もない。
「うーわー、汚れてるしサイズあってないし。あんた、ウチに来たらまずは服調達するところから始めるわよ。基本お下がりだから多少継ぎあてやら丈合わせやら必要だろうけど…あ、そうそう。繕い物は出来る? ウチじゃ必須スキルよ?」
問いに答えは無い。ようやっと反応らしき反応を示した子供は、それでもまだ虚ろな目で、ぽかんとリィムを見上げるばかりだ。
「繕い物が出来るかどうか、って私は聞いてんのよ?」
「………」
気圧されたのか、ふるふる、と、首を横に振る子供。その子供に投げ捨てるように擦り切れたぼろ布のような服を返し、腕組みをしたリィムはそう、と鷹揚に頷き、何事か思案するようにしばし閉じていた目をカッと見開いて告げた。
「女なら繕い物のひとつも出来ないと、死ぬわよ!」
「死ぬのか」
思わず、と言う風に口を差し挟む葉貴に、リィムはただただ無表情に力強く、
「死ぬわ!」
高らかに断言する。呆れたように葉貴は額を抑えた。それでも一応、無駄口だと分かっていても言わずにいられなかったのでひとつだけ指摘しておく。
「レシィは女だが繕いものが出来なかった気がするんだ」
「父さんが出来るから問題ないわ! 死なない!」
「死なないのか」
それならいいや、と諦めを込めて葉貴はまた口をつぐんだ。リィムはそんな彼を背景のように無視してまた、幼い子供――脱がせてやっと「少女」であることが判明した訳だが――に向き直る。
「さて、ウチに連れ帰る前に訊いておくわ。まず名を名乗りなさい!」
命令口調に、恐らくこれまでの生活で意識の奥底まで沁み付いた防衛本能が刺激されたのだろう。幼い少女は罅割れた唇を開き、やっと――本当にやっと、少女が、声を漏らす。声、と言っても明確な言葉とは言えないような、咽喉から呼吸と一緒に音を漏らすような、しばらくもがく様にそんな音を繰り返し、
「………ツィ、ア」
そんな風な言葉、として聞こえる音になるまでは少し時間が必要だった。
――余程、喋らない時間が長かったのに違いない、そう想像して僅かに顔を顰めてから、リィムはまた頷く。今度は彼女に目線を合わせて、優しい調子で。
「ツィーア? ツィア?」
ツィーア、の方で少女は頷いたようだった。リィムは背後の葉貴と目を見かわしあって、それから二人でにっこり笑った。
「ツィーア。私達と一緒に来ない?」
「口やかましい現役魔女と、駄目人間の元魔女が経営してる孤児院なんて、胡散臭さで言えば人買いにも劣らねぇけどな」
「でもご飯は美味しいし、兄弟もたくさんいるし。選択肢としちゃこんな肥溜めみたいなトコよりずーっとマシだと思うわ、掃除が大変だけどね」
「そうだな、お下がりだけど綺麗な服もある。――ああ、繕い物ならリィムや親父が教えてくれるさ。多分な」
二人は口々に言い、まだうまく事態を呑み込めていない風の幼子に、二人それぞれの位置から手を差し伸べた。
「助かりたければ、手を伸ばしてくれ、ツィーア」
「そしたら私達、あなたを助けてあげるわ、ツィーア」
――名を。
そんな風に名を呼ばれたのがいつ以来か最早思い出せず、幼い少女は、――もうずっと名前で呼ばれることのなかったツィーアは、訳の分からぬ感情に身が震えるのを覚えて、そんな自分の身体の反応が全く理解できずにその場でしばし呆然とする。いつものように何も感じず、何も考えずにいられれば多分楽になれる。襲ってくる暴力の痛みや耐えがたいほどの飢えと乾き、膿んだ傷口が熱を持ち眠ることさえ叶わない夜、そういう全てを、ただ身を固くしてうずくまってやり過ごしてきた。そのうちに、もう、何も考えられなくなってしまった。
助ける?
その言葉の意味を、幼いツィーアは最早、理解ができないのだ。今の、この地獄のような境遇以外の場所を知らず、人としての尊厳も彼女は知らない。だから分からない。リィムと葉貴が何を言っているのか。
ただ――こんな風に温かいものに触れたのは、随分と久方ぶりのような、気がした。もっと触れていたいと、そう思ってしまうもの。そんなことを願っても、思っても、叶う訳がないから、そういう気持ちもずっと身体の奥にぎゅっと固めて、そうして今まで生活していたのに。手を伸ばす二人の姿を見ていると、自ら固く閉じた気持ちが、解けてしまいそうだ。
助かりたい、というほどに強い衝動ではなかった。もっと弱く、小さな、ただ、彼らの差し伸べた手に触れたい、というだけの気持ちが、それでもツィーアを動かした。
――ツィーアは、ゆっくりと手を伸ばす。
触れた手は想像していたよりも冷たかったが、それでも身体の奥の方で何か冷たいものが解けるのを、確かに感じたのだ。
森の奥の小屋で、男達は笑い声と共に売り上げの勘定をしているところだった。
つい先日捕えてきた少年と少女は特にいい。少年の方は<金眼>なので言うことなしに高値が期待できるし、少女の方も悪くはなさそうだ。しばらくは食事と水を最低限しか与えず弱らせ、抵抗する気力を削ぐ必要があるが、時期さえ過ぎればいい儲けになるだろう。下卑た期待に、男達は酒を煽りながら笑いあう。
だが。
ふと、そのうちの誰かが怪訝な声を上げる。
「おい、ところでおかしくねぇか?」
「何がだよ」
「いや、見回りの連中だよ。そろそろ戻ってる時間だろ」
言われてみれば確かにそうで、酒の回った頭に冷や水を入れられたように男達は眉根を寄せる。そこへ、一人の男が現れた。
「あ、頭」
――奇妙に昏い眼をした男は呼びかけにも応じず、辺りを見渡して舌打ちをした。
「てめぇら何呑気に飲んでやがんだ、オイ。報告が来てねぇぞ!」
「す、すんません、頭! 見回りの奴らが戻ってねぇもんで…」
「戻ってない? ……ああ? ふざけんなよ!? なのにここで飲んでたのかよてめーらは!」
途端、癇癪を起した男の周りで弾けるように鋭い音が鳴り、辺りに居た男達は腰を浮かした。運悪く逃げ遅れた一人が、悲鳴と血飛沫を上げて床に崩れる。
「……後片付けしとけよ。それと、さっさと様子を見てこい。<金眼>だってンなら気ィ抜ける相手かどうか、お前ら分かってんだろうが」
吐き捨てるような言葉に他の男達は身を竦ませ、怯えるように慌ただしく場を去って行く。その背を睨み舌打ちをした頭目の男は、そんな男達の所作さえも腹立たしげに、その辺りにあった椅子を蹴りあげた。と、その椅子が空中でばらばらに切り裂かれて床に落ちる。
それを睨む陰鬱な色を浮かべた男の眼は、褐色の中に金の色が混じる。
――世間で<金眼>と呼ばれる、色をしていた。
「クソったれが!」
収まらぬ癇癪をぶつけるように、その男は床に横たわって動かぬ人影を蹴りつける。悲鳴も上がらなかったところからして昏倒しているのだろうか。その身体を睨みつけて、獣のように唸る。暴力的なその声にまるで中てられたかのように、男の周りで暴風が唸りを上げ、蛇のように横たわった身体に絡みついた。更に血が跳ね、物言わぬ身体が大きく跳ねるのを見て、ようやく溜飲を下げたのか。男はそれきり後ろも見ずに踵を返して去って行く。
「……<金眼>か。余計な手間ァかけさせやがる…」
陰鬱な声に重なって、遠方から物騒な物音が幾つも響き始めた。一度大きな破壊音を立てると、逃亡者は開き直ったのか、続けざまに悲鳴と、何かがぶつかるような音と、それに加えて何か耳慣れぬ音も聞こえる。
相手が<金眼>であれば、当然、簡単なものであれ魔術を扱えるはずだ。恐らくその魔術によるものなのだろう。
どん、と床を打ち鳴らして、男も音の発生源へと向かおうとし、だがふと足を止めた。
――この人買い共の頭目であるこの男も、また、見てくれの通り<金眼>である。精霊と呼ばれる存在を感知するその男には何が見えたのか、ぐるりと視線を巡らせて壁の向こう側を睨み据える。そのまましばし、どこか遠くへ意識を集中させていたようだが、やがて眉根を寄せた険しい表情のまま、その場を立ち去った。逆方向、つまり捕えた「商品」達が逃げた方角が俄かに騒がしくなった為だ。舌打ちをひとつして、足早に場を去って行く。
打ち棄てられた瀕死の身体がひとつ、床に落ちているばかりのその場所に、ふ、と小さな呼吸の音が漏れたのはそれからまたしばらくが過ぎてからのことだった。
一方同じ頃、早々に捕えられていた部屋を抜け出したリィムと葉貴、二人に手を引かれたツィーアという三人は、盛大に破壊をまき散らしながら走っていた。とにかく辺りのものを手当たり次第に破壊しながら、三人はひたすらに逃げていたのだ。
出来ることならば見つからぬ内に逃げてしまいたかったのだが、そうそう簡単にはいかず、見張り一人を昏倒させてしばらくすると、どうやら連絡が来ないことを不審に思ったか――別の男達に見つかってしまった。
「あ、このガキども! てめぇら…!」
「クソガキ、裏切りやがったな!? どうなるか分かってんだろうなァ、おい!」
怒鳴られる度にツィーアは身を竦めたが、細い身体を庇うように、葉貴とリィムはそれぞれに動いた。まずリィムがツィーアの手を引いて男達から逃げる方向へと駆け出し、葉貴が道を阻むように立ちふさがる。そして、
「リィムー! 確認するけど、お前金属とか持って…」
「ないわよ! さっさとやっちゃって!!」
「あいよ」
頷いて、葉貴が目を細める。襲い掛かってくる男達のことを極力意識しないようにしながら、彼は素早く呟いた。――呪文。音声言語というおおよそ人間にとって最も親しく扱いやすい「言葉」による、精霊の呼び込みと、「どんな風に動いてほしいか」という、命令というよりも「お願い」を込めた術式構成。
「久々にいっちょ頼むぜっ! <雷撃>!」
単純な言葉に応じるように、耳が痛くなるような衝撃音と、目の眩むような一瞬の閃光。瞬きをする程の間に、襲い掛かってきた男達は廊下に倒れ伏している。それを確認することなく、一目散に葉貴もまた、リィムが逃げた方角へと走り去っていくが、倒れた男達を踏み越えるようにして次々と追手は増えるようで、葉貴は走りながら顔を顰めた。
「雷」の精霊、という、なかなかに珍しい精霊に対する適応を持っている葉貴だが、あいにくと彼は魔術師として専門的な訓練を積んでいない。適当に集めた精霊を、適当に増幅して、大雑把に放つ程度のことしか出来ないのだ。
とはいえ、それでも衝撃と、そして何よりも強烈な閃光は、相手を怯ませるには十分――そのはずだった。が。
「役に立たねぇクズどもだな、さっさとやっちまえよ!」
怒鳴り声と同時、狭い空間を風が吹き抜けた。雷撃に焦げ付き、崩れている箇所もあるとはいえ、不自然な程に強烈な風に、葉貴が顔色を変える。彼はその場から逃げ出そうとして、足をもつれさせて倒れ込んだ。
風の精霊による術だ、と、気付いたのは恐らく自身も<金眼>の葉貴だけだっただろう。
「ようっ…」
先んじていたリィムがその姿に気付いて、足を止めかける。が、葉貴は倒れながら鋭く叫んだ。
「お前はさっさと逃げろ!」
「……!」
逃げるべきだ、自分が居ても助けになる訳ではない。そんなことは百も承知であっても、それでも、迷わずに逃げることなどそうそう出来るものではなかった。迷うように足を緩めたリィムに、更に追い打ちがかかる。
「…おいガキ。てめぇよ、ここから逃げられる積りだったのかよ?」
奥から現れた怒鳴り声の主が悠々とした足取りで現れた途端、リィムが手を引いていたツィーアが足をぴたりと止めてしまったのだ。縫い止められたかのようにぴくりとも動かぬ彼女を見て、リィムは唇を噛んだ。
「ツィーア! 逃げるの!」
手を引いても、そこに鎖でもあるかのように、蒼褪めたツィーアはびくともしない。むしろリィムをその場に留めようとするかのように力を込めてその場に踏みとどまろうとする。その彼女に、頭目であろう男が唇を吊り上げた。
「てめぇの主が誰だか、よく分かってんじゃねぇかガキ。そこで抑えてろ。――お前ら、あの小娘は殺しちまえ」
「いいんですかい、頭?」
「構やしねぇ。<金眼>に比べりゃ値も落ちるし、それに、ちったぁ痛い眼見せなきゃどうやらそっちの<商品>は大人しくしてくれそうにねぇしな?」
商品、と、名指されて、葉貴の瞳が曇る。
――かつてそんな風に自分を呼んだ人間達がいたことを、否応なしに思い出してしまっているのだ。彼の過去を知るが故にリィムはそれと察して、いよいよ顔色を変えた。青い顔で、身体に刷り込まれた恐怖故にか男の命令に従おうとするツィーアと、倒れたまま動かない葉貴、誰に、どこに、何を伝えればいいのか分からない。
ツィーアが自分を抑えようと力を込める細い掌を、リィムはただ、握り返した。喘ぐように息をして、何かを言いたいのに言葉が出てこないのだ。
「何だ。売らねぇんなら、俺らで『使って』もイイんじゃないっすか、頭」
ニヤニヤしながら迫る男が言うのを、頭目は面倒そうに首を横に振った。
「いや、始末しとけ。下手に抵抗されても面倒くせぇしな。死体でヤりてーってンなら止めねぇが」
「ンな趣味は無いっすよ…やれやれ。じゃあさっさと片しちまうか」
葉貴がその言葉にもがこうとするが、精霊を呼ぶにも魔術を放つにも間に合わない。振り翳されたナイフに身を竦めながら、ようやく、リィムは荒い呼吸を縫うように言葉を押し出した。
「…ツィーア。逃げて」
その言葉が届いたのが先か、ナイフが振り下ろされたのが先かは分からない。
無造作に振り下ろされたナイフが、肉を切り裂く音。血の匂い。そういうものが目まぐるしく飛び込んでくる中、咄嗟に目を閉じていたリィムは、覚悟していた痛みではない別のものに気が付いて目を瞠った。
「……ツィーア!」
それまで石にでもなったように動かなかったツィーアが、リィムを庇う位置に飛び出していたのだ。ナイフは彼女を抉り、リィムの身体に血を落としていた。苦痛に顔を歪めるツィーアに、ナイフを持っていた男が舌打ちしながらナイフを抜き取る。血飛沫が上がり、顔に血を浴びたリィムは慌てて細い身体を抱き留めた。
「何してくれてんだ、このガキ!」
苛立たしげな怒鳴り声と共に、再びナイフが振り下ろされる。咄嗟にツィーアを庇うように、今度こそと覚悟を決めて目を閉じたリィムだったが、しかし二度目も彼女にナイフが突き刺さることは無かった。
代わりに今度は、悲鳴が上がった。リィムのものでも、ツィーアのものでも、そして葉貴のものでさえ無い。
ナイフを持っていた男の悲鳴だ、と、場の誰もが一瞬理解できずに硬直する。その、ほんの寸の間の沈黙を破ったのは矢張り場の何者でもなかった。突如として現れた、第三者。
――それは灰色の、獣の形をしていた。
「なっ…何だてめぇ!? どっから入りやがった!」
誰何の声に応える義理など無かろうに、律儀にもその灰色の獣は足を止めてにっこりと男達に微笑み掛ける。見事な美貌だが、しかし髪の毛も瞳も唇も、皮膚までもが灰色がかった異相が整った顔立ちを全て台無しにしていた。人の形をしてはいるが、異形とも見えるその姿。
「そりゃお前、正面からお邪魔したに決まってるだろう。出迎えが無かったが、取り込み中だったか?」
ニヤニヤと笑う異形の女は、腰に手を当てて男達を見渡す。
「何者だ?」
鋭い誰何は、頭目の男のものだった。ちらと視線を投げてから、彼女は堂々と胸を張った。
「私? ふふふ、そんなもん、ガキのピンチに飛び込んでくるのは『お母さん』に決まってるだろ」
その姿にようやっと、葉貴が反応した。男達に抑え込まれた格好のまま、彼は目を丸くして、
「れ…レシィ!? 何でここに…!」
「何でって、今言ったじゃん。子供のピンチに助けに来るのは、お母さんの役割だぜ?」
「お前ら何ボサっと突っ立ってんだ、やっちまえ!」
声に被さるように同時、低く怒鳴る号令が響き渡り、我に返ったように男達が一斉に飛びかかる。ある者はナイフを、ある者は棍棒を、ある者は弓を構え、狭い廊下も障害物を駆使しての波状攻撃だ。
「おぉ、ド田舎の下種にしちゃ訓練されてること」
その攻撃に、女は堪えきれぬように笑みを浮かべ、楽しげに呟く。抑えきれない劣情を漏らすように吐息を漏らす時には、彼女の姿は掻き消えている。否、掻き消えたかのように見えた。後には焦げたような、破壊された床や壁が所々に残されている。
――凄まじい脚力が床を蹴りつけ、壁を蹴り、縦横無尽に狭い廊下を走り抜けたのだ。
「ひゃっほう!」
子供がはしゃぐような歓声が上がる頃には、男達はまるで糸の切れた玩具の様に床に倒れ、叩きつけられ、酷いものは壁に突き刺さっていた。残った男達はその惨状に、さすがに色を失う。
「くそッ…何だてめぇ、一体なんだってんだ!」
頭目が叫びながら、どん、と床を蹴りつけた。集まった風が破裂し、遮二無二、辺りに破壊をまき散らしていく。近場に居た部下達さえも巻き添えに、女を巻き込んで攻撃しようという魂胆だ。が、女はちらと眉を上げて、しかし笑みは崩さず、腰だめに拳を放つ。
――途端、狭い場所を荒れ狂った風に、やや離れた位置に居たリィム達さえ吹き飛ばされて床に転がった。もう少し近い場所に居た葉貴は派手に吹き飛ばされるが、こちらはどういう訳か、突然床から現れた無数の白いモノが受け止めている。
「!?」
ぎょっとしたように葉貴が見やった己の下、衝撃を受け止めて砕け散っているそれは、どう見ても人の白骨であった。無数の骨が彼を受け止めていたのだ。
「お、親父?」
それを見た葉貴が思わず呻く。と、応じるように、廊下の向こう側、出口に近い場所で少年の声がした。
「ぼうっとしてる場合?」
「あ…」
幼さに似合わぬ冷ややかなその声に、我に返った様子で葉貴は自分の近くに転がっていたリィムと、彼女が抱き締めていたツィーアをそれぞれ引っ張り上げる。と、ツィーアの怪我の具合を見咎めたのだろう、出口近くに陣取っていた黒髪の子供が近寄ってきた。
「…ふむ。少しマズいね。ここで応急手当てをするから、お前達は先に逃げなさい」
「親父、その子――」
何かを言いかけた葉貴に、分かっている、という様子で彼は頷く。
「あそこで、あの連中に逆らう根性が無いなら助けない積りだったけどね。リィムの命の恩人だから、無碍には扱わないよ」
「と、父さん、それよりさっき母さんが! あいつら、魔術使うの! 母さんが大変…」
「ああ、それも心配ないからさっさと逃げなさいリィム。あの人は魔王級でも殺せないから安心していい」
「冗談言ってる場合じゃ――!」
言い募ろうとしたリィムの言葉に被さる様に、廊下の向こうから悲鳴が聞こえてきた。男の悲鳴だ。
「…言っただろ。あの人に並みの魔術なんか通用しないよ」
分かったらさっさと行きなさい、と、少年はなおも冷静な様子で言う。リィムと葉貴は半ば呆然としたまま、促されるままにその場を後にして駆け出すこととなった。
さて、子供達を促して逃がしたものの、少年――二人の養父であるヨルはさして中のことは気に留めていなかった。預けられたやたらと栄養状態の悪そうな幼い少女を自らの精霊術でもって癒すと、ちらりと奥の方へと目線だけを向ける。
廊下の奥には、灰色の姿――二人の子供の養母であり、少年にとっても母親のような姉のような師匠のような、要するにその全てを兼ねた女性が立っている。
握りしめた拳で彼女が虚空を殴ると、遠目にも<金眼>と知れる男が目を剥いた。
「精霊が…砕けた…だと!?」
「砕いてないよ、ンな器用なこと出来ないよ。私、魔術の適応、全部失くしちゃったし」
さらりと気軽に男の疑問に答える女に、少年は小さく嘆息した。どうやら彼女、相当にご機嫌なようだ。説明しなくていいことまで説明してやっている。
「ただ空気ぶん殴って風を相殺しただけだし。大したことしてないよ」
そんな真似が出来る人間が他に居るなら見てみたいよ、と、少年は思ったが口には出さない。
風の精霊魔術だ、と判断した瞬間に、彼女はその尋常ならざる膂力でその魔術そのものを拳で殴りつけたのだ。本当に単純に、破壊力に任せて殴っただけ。彼女はそれだけで魔術が砕けると言うのだから、世の魔術師が存在意義を失って自殺しかねない事実である。幸いなのはあの技術、彼女以外には真似できそうな人間が一握りしか居ないことだろうか。
「さァて。お前はそこそこ楽しめそうだが、どれくらいハンデつけるー?」
心底楽しそうな。
愉悦に溢れすぎて、どうしようもなく相手の感情を逆なでする台詞であった。男がぐっと怒りを目に浮かべ、腕を振るう。
「ぬかすなクソアマ…! 集え、絡め、縋れ!」
単純な音の羅列による呪文か、とヨルは頷く。そして実際、呪文に応じて集まった精霊は大気の鎖となり、女――レシゥシェートに絡みついた。
(随分と器用な魔術を使うな。…相応に訓練を受けたクチか、厄介な)
とはいえ、と、彼は嘆息した。見えない鎖に絡め取られたまま、レシゥシェートが尚も牙を剥いて笑みを見せるのを遠目に観察しながら。
(…ま、でも、相手が悪かったよね)
「ウチの息子と娘に手ェ出しといて、タダで済むと思うなクソ野郎!」
鎖に両手両足を絡められたまま――レシゥシェートは力任せに、足を進める。
さすがに蒼褪める頭目の眼前までそのまま進み、彼女は男が後ずさる間を与えずに腕を振りかぶった。
「ハンデ付だからな、楽に死ねると思うなよ!」
「あー母さん、殺さないでね、後片付け面倒だから」
「……ハニーから指示が出たので半殺しだ。まぁ考えてみたら、お前なんかに地獄は勿体ないな! いずれ私とハニーが行く予定だし!」
「人を勝手に地獄に落とさないでね母さん。天国に行く積りも無いけど。…やれやれ、それにしても、また出費が増えるなぁ…」
人の頭蓋が砕けるような鈍い音がどこかから聞こえてきたが、ヨルは聞こえなかったふりをしておいた。あれはもしかして半殺しじゃなくてホントに死んだんじゃないかなぁ、とも思ったが、その点も気付かないふりを通しておく。どっちにしたって、面倒事に変わりは無いのだから。
――ツィーアを孤児院に連れていき、容体を安定させるまではしばしの時間が必要だった。身体の怪我も重たかったが、彼女の心の方もなかなかの重傷を負っていたのだ。だが、それは本当に後日のことである。
「親父、レシィ、その――」
「心配かけて、ごめんなさい!」
孤児院に戻った二人を待っていたのは、他の兄弟姉妹達の「どうしたの?」「大丈夫だった?」「おかえりー!」という騒々しい出迎えと、
「――まずは事情を説明して貰おうか、二人とも」
という、険しい表情の養父の言葉であった。二人は目を見かわしあい、それからどちらからともなくため息をつく。
「…その、なんていうか」
「あのツィーアを…見かけちゃって…」
「何だか尋常じゃない様子だし、放ってもおけなかったんだ」
「……そしたら捕まっちゃって…あの、ごめんなさい、薬草も所持金も取り上げられちゃったの」
孤児院の事務室を兼ねた院長室で、大きな文机にちょこんと腰を下ろして、見た目10歳と少しにしか見えない二人の養父は膝に頬杖をついて二人を睨んでいる。見た目は幼い癖に無暗やたらと威圧感があった。
「――幸いミュカは持ち直したし、薬草については…まぁ、母さん戻って来たし、あの人を買い物に使うからいいけど」
「…ハニー、私をパシリに使うなよ…」
こちらは文机の傍で椅子に腰かけたレシゥシェートの台詞だが、ヨルは無視する。
「お前達、反省すべきがどこか分かってるだろうね」
「ええと…余計なお節介焼いたことかしら?」
「実力差を見誤って逃げ損ねたこと、か?」
二人の言葉に、ヨルは深々と息を吐き出す。中てつけるような所作に、もういい年になっている癖に、二人は身を竦ませた。何かと口煩い養父が、お説教を始める時の癖だったからだ。
「――それについてはもうとやかく言わない。第一お前達はもうすぐ一人前になるんだから、お前達の判断を、それが間違っていたとしても、僕も母さんも口出しはしないさ」
そう告げて、彼は頬杖していた腕を後ろに回し、二人を睥睨するように――実際には彼の背が低いので見上げられているのだが、どうにも見下されているように感じるのは葉貴の卑屈な気分ゆえだったかもしれない――、
「だから反省会はお前達二人でやれ。今回のこと、僕と母さん抜きで、お前達二人だけでも解決できる方法があったか、無いならどうすりゃ良かったのか。せいぜい考えなさい。…で、それとは別に」
ひとつ咳払いをして、ヨルが文机から降りる。二人に近付いて、深緑の常に冷静な色を浮かべた瞳で息子と娘の顔を覗き込んで、一言だけ。
「心配した」
そう告げて、それきり後ろも見ずに部屋を去ってしまう。その背中に何を言うことも出来ずに見送ると、部屋に残された養母、レシゥシェートがくつくつと咽喉を鳴らすような笑い声をあげた。
「ふっふっふ、あいつ、すげー心配してたからな。二人とも、せいぜい死ぬほど反省しておけよ?」
「…母さんからは何か、無いの。今回の一件について、お説教とか」
「無事だったんだからいいさ。これでどっちか一人でも死んじまってたら死ぬほど説教したけどな、墓の前で」
「……そりゃ勘弁してほしい」
弱々しく唸る葉貴に、灰色の異形は、しかし瞳を微笑ませた。あの暴力の場で見せた嘲るような、愉悦に満ちたような笑みとは違う。異形と言えども、その笑みは本当に優しいものを湛えていた。彼女は椅子から立ち上がり、すらりと長い――しかし幾つも傷跡の残る白い腕を二人に伸ばす。
「お前達が大きくなってからは、随分とこうしてなかったなぁ」
そうして彼女は二人をぎゅう、と抱き締め、また咽喉を鳴らした。
「レシィ、俺、もう16なんだけど。さすがに恥ずかしい」
「そうよ母さん、私だって15歳なのに」
「ふふ、そう言うな。――心配したんだぞ、本当に」
最後には珍しくも真剣な語調で言われてしまい、葉貴もリィムも返す言葉を失くして、大人しく彼女の胸に抱かれることになった。
Copyright(c) 2010 yako all rights reserved.