■ 墓碑の向こう側 ■
――孤児院の裏手には、首のもげた聖母像が広げた手で守る小さな墓地があって、そのうち一つは、町の人達から場所を譲り受けた孤児院の院長の女が、ぽつりと白い墓を立てていた。墓碑に名はなく、土の下には骨の一片さえ埋められてはおらず、だから本当は誰の墓でも構わないのだろうが、彼女は気が向けばその場所に花を手向けることを忘れなかった。
ついでに言えば、町のどこに居ても誰彼構わず、孤児院の子供に囲まれている彼女が、珍しく一人で立つ場所でもあった。
彼女のシルエットは遠目にも目立つ。昔、仕事上のトラブルでかけられた呪詛だか何だかの所為で「色」を奪われた彼女は、全身が灰色をしていたからだ。長い髪も耳もピンと立てた尻尾も灰色で、身にまとう修道服も灰色だったから、彼女の姿はそこだけ風景がくすんだようにも見える。
その彼女が、どこから摘んで来たのか、或いは買ってきたのか、鮮やかな花束を抱えている姿は、酷く目立ったのに、いつも彼女は一人だった。
稀に彼女が一人でないときは、彼女の傍には幼い姿をしたエルフの少年が居た。黒い祭服を着て、少し不機嫌そうにしている。姿ばかりが幼いので、彼の、墓を掃除する手馴れた所作は、灰色の女の姿同様に悪目立ちした。
彼は、彼女がこの町に小さな孤児院を建てた時から彼女を手伝っていた。それは数十年は前の話で、その頃から、彼は殆ど変わらぬ幼い姿で彼女の傍に居る。だから町の人間は大概、彼が見た目にそぐわぬ実年齢だろう事には気付いていた。指摘すれば彼は不機嫌な顔をますます不機嫌にするので、誰もわざわざ指摘することはなかったが。
姿ばかりが幼い少年は、物憂げに緑の目を伏せて、墓に花を手向ける。そういう時、女は、孤児院の子供達の前では決して吸わない煙草をふかしながら、彼の後ろで空を見上げていた。
二人が並んで墓に立つ時は、不思議と、空はいつも曇天で、彼女の灰色の姿を一層、くすませて見えた。
町の人々は、二人が並んで墓に立っている時は、遠慮がちに遠くから見守るだけで、そっとしておくことが多かった。最初のうちこそ、よそ者――それも、元は傭兵だか何だかの怪しい身の上の――の二人に町の人々は冷淡であったが、少年エルフの方が医療魔術を使うと知ってこの態度は随分と軟化した。医療魔術は、特にこんな田舎の町では重宝されるものだ。
そうして受け入れられるようになり、共同墓地に墓を立てることを、女が町に打診したのは、二人が町に現れて一年が過ぎる頃だった。
だからその墓は、数十年の間、そうして町の共同墓地に置かれている。
二人が並んで墓に参るのは年に四、五回もあっただろうか。それを数十年、長命種ゆえの気長さなのか、それとも墓を通してみる面影が、二人にとってそれだけ近しい人物であったのか、二人は数十年の間、飽きもせずに続けていた。
それは大抵、曇天の日で、二人が去った後には、色とりどりの野の花と、煙草の匂いだけが微かに残っていた。
墓の下には誰も埋葬されていない。
骨の一片すら無く、名も残されていない。
■ 墓碑の前にて ■
名も刻まれぬ墓の前に立つ少年は、背後を振り返って苦く俯く。
数十年も前に失くした欠片のようなものを、彼は今でも鮮明に思い出せた。町の人々は自分よりはるかに早く年老いて、そして数十年を長い時間だと、十年一昔なんて括りにして言葉にするけれど、そういう時、彼はつくづくこの身の時の長さを思い知る。
エルフの血を持つ少年は、この数十年、ご近所さんが年老いていく傍らで、未だに幼い姿のまま。
「…僕の同胞って奴は、頭が良かったよね」
エルフは一般的には、森の奥、自分達の集落だけで生涯を過ごす。そういう閉鎖的な種族だ。彼は、人里にあって、身に染みて、そういう彼らの賢さを思い知る。
人間と彼らとでは、流れる時間が違うのだ。共に過ごすことは、時に酷い哀しみを産んだ。
「そうかも知れんが、」
彼の呟きに、背後で煙草をふかしていた女が応えた。ハスキーな声は久方ぶりの煙草の味にか、僅かに緩んで、墓前に立つにしては軽やかだ。
「だけどな、ハニー。それ言ったらホギなんて、私より寿命が長いんだぞ…本来は。なのにあいつも、あいつの兄弟も、そろいも揃って人間大好きで、寿命の短い人間に関わってばっかりいるんだ。お前の理屈で言ったら、あの一族は揃って全員愚か者ってことになるぞ?」
ホギ、と彼女が呼ぶのは、墓の下に眠っている――と言うことになっている、存在だった。「なっている」というのは、ホギと言うのが実際には精霊のような実体を持たぬものであったので、墓に埋葬すべき死体も名前も無かったからだ。
それでも墓を作ったのは、多分、彼女自身が悼むためであっただろう。
彼女に言わせれば、「そもそも墓なんてのは、生きてる人間のためのものだ」だそうだ。
「…馬鹿で居られる強さがあるんだ、別に、あいつらはそれでいいんじゃないのか」
女の問いに応じて、少年は墓へと目を移す。名前も何も刻まれず、何も埋葬されてなど居ない墓を、空虚だと呼ぶ人は居るだろうか。
それでも数十年の長きにわたって、花の絶える事の無いこの墓を。
空虚だと誰が呼ぶだろうか。
「お前は可愛くないなぁ、ハニー」
「誰に似たんだろうね」
「ホギだろ、きっと」
くく、と咽喉の奥で独特の笑い声をたてて、女が尻尾を機嫌よく揺らした。死人に口なし、言いたい放題だ。少年は顔を顰めて、溜息を吐いた。墓に向かって呻く。
「ホギ、この通り、母さんは相変わらず酷い人だよ。何でこんな酷い人を僕に押し付けて、とっとと死んじゃうのかな、お前」
義母を守って死んだ、精霊のことを思い出す。こんな曇天の日、彼は逝ってしまった。
実体を持たない彼らは消滅すれば、この世に何の痕跡も残さない。
「酷い人、ってのは褒め言葉か?ハニー」
低い声が、煙草をもみ消す気配がする。自分を守って死んだ使い魔を思い出してか、彼女は煙草の匂いをさせながら、屈んだ少年の頭越しに墓石に手を突いた。
「そう聞こえるんだったら勝手にそう思ってれば」
「お前はつれないね、そういうところはホギに似てないなぁ」
「じゃあきっと母さんに似たんだ」
少年の耳元でふ、と笑んで、彼女は墓石についた手で、刻んだ言葉をそろりと撫ぜる。安らかに眠れ、と常套句の一文。それ以上は何も記されていない、まっさらな墓石だった。
いつか私の墓を立てるって約束してたのになァ、お前。
「私が墓守になるなんて、ホントに悪い冗談だ。」
彼女は苦笑して零すと、また来るよ、と墓石から手を放す。
「ま、ハニーが居るからいいけどさ。」
「何が?シゥセ」
「ホギと約束してた件。お前に任せるわ」
女は咽喉の奥で笑うと、何だよそれ、と眉を顰める少年の頭を乱暴に撫で回した。
■ ある夜の ■
「…何」
計算をする手を止めて、背後を見遣る。今にも彼に抱きかからんばかりにしていた長身の女がち、と舌打ちをした。
灰色の修道服に灰色の長い髪。灰色の目に灰色の猫の耳が、楽しげに一度、薄汚れた天井に向かってぴょこりと動いた。
「いや、驚かそうかなと思って」
「それで手元が狂って計算間違えたら責任取ってくれるの、シゥセ?」
鋭く問われて、つまらない、と彼女は口を尖らせた。
「お前、言うことが最近どんどんホギに似てきたな」
「そりゃ光栄」
「そういう皮肉なトコもホギにそっくりだ」
なんで私に似なかったんだろうとしみじみ女が言うのがおかしい。彼女は自分にとっては半分は母親のようなものだった。もう半分がどういう存在なのか、彼はまだ、言葉にしたいとは思わない。
ただ彼の目の前で、唐突に女はにへら、と緩んだ笑いを浮かべた。
「『責任とって』ってイイ言葉だなぁ」
「…何想像したんだよ、馬鹿」
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