「…今日は雨だね」 僕の呟きは遠雷にかき消えた。どのみちオフィーリアに僕の言葉が通じるはずもないので気にはならない。これは雨音に向けて会話を試みようとするのと同じだけの徒労で徒労だと理解しているから僕は呟いている。 今日は雨だった。 憂鬱だ。カフェテラスの前のアスファルトにはいつも大きな水たまりができるし、カフェテリアには人が多くなるし、人が多いとカフェテラスの主であるオフィーリアに会えない事がある。幸い今日は彼女はいつも通りカフェテラスの最奥を我が物顔で占めていたが、水たまりを横断してカフェテラスに入った僕のズボンの裾は濡れて重たい。やっぱり憂鬱だ。 カフェテラスに居ない時のオフィーリアがどこにいるのかは僕は知らない。そもそも彼女が存在してるのかどうかさえ胡散臭いのにそんなこと知り得るはずがない。 オフィーリアは本を読んでいる。 「――雷の音がする」 「尋ねられても困るわ」 「尋ねてないよ別に。事実を述べたまでだよ」 「あら。聞こえないもの」 彼女はページに目を落としたままで肩をすくめた。遠雷の音がする。ごろごろと。雲の上を渡って行く。聞こえていないはずがないのだが、そんな当たり前のことを気にしていたらオフィーリアとは付き合えない。彼女が聞こえていないのなら彼女には聞こえていないのだろう。 今日は何を読んでいるのだろうとちらりと彼女の手にしている文庫本を見たらタイトルは思いのほか軽かった。「よく分かるケルト妖精学」。――何の為に読んでるんだろうそんなもの。しかもよく見たら逆さまに構えてるし、本当に読んでるんだろうか。 でも気にしない。 ――オフィーリアだからね。 その一言で彼女の周囲の出来事は全て片付く。 彼女はそう言う存在だった。 あんまりにも造作が綺麗過ぎて現実感がない。度が過ぎて美人なものだから、幻想染みていてはっきり言えば不気味ですらある。 実は幽霊説。精神病棟の患者がリハビリに図書館に通っている説。普通の学生説。どこかの演劇団員による悪戯説。彼女の存在には様々な噂が纏わりついているが、多分どれもがある意味においては真実で、どれもが本来の彼女から遠ざかり続けているのだろう。全ての記号が彼女を彩り、彼女自身を消失させ、彼女自身になりかわり―― オフィーリアはそうやって今ここに居て、僕の目の前でやっぱり読んでいるのだかどうだか怪しい恰好でしかし「読書をしています」と言わんばかりのポーズをとり続けている。読書をしている、という記号だけ。オフィーリアの周りに大量の記号がばら撒かれながら何一つ意味を成さないのと、同じで。 「私は雷というのが好きでもないし嫌いでもないわ、雲の上のことだもの」 「落雷は?」 「――遠く意味もなく落ちてきてもいないのに。ただ記号だけがある」 ぎょっとする。一瞬僕の思案を見抜かれたのかと思った。 「そういうもの、世界は。手もとが見えていない癖にね。人は。意味だけを知っている」 「じゃあオフィーリアは…」 「私はどこにも居ない」 すたん、と。断ち切られるように瞬間会話が成立し、成立した瞬間に途切れた。 連想の連鎖。類推の作り上げるネットワーク。人は意味に絡みとられて生きている。意味の世界でしか人は対象を認識できない。では全ての意味を集めながら無に帰していくオフィーリアは人なのか。僕は否ではないかと考えている。――彼女の存在を胡散臭いと思ってしまうのはそれが原因だ。人らしくない。人の形をしているのに。 もちろんこんな思索ですらオフィーリアの前では意味を成さない。意味はあるのだろうが、意味づけられるのと同時に意味が消えていくのだから。 「…雨ね」 オフィーリアは読んでいる訳の無い本に目を落としたまま僅かに瞼を伏せて微笑みそう呟いた。 確かに外は雨だった。 でもオフィーリアは外が晴れていても雨だと嘯くだろう。 「遠雷の音は好きよ、」 くすりと小さな音が漏れる。オフィーリアが咽喉を鳴らした。まるで人がそうするように。 「――姿はなくとも人は雷を知っている」 「…実在に意味がないとか、そう言う話なの?それって」 僕の問いに彼女が少しでも答えようと努力をするのならばオフィーリアも人なのだと僕は得心できただろう。 オフィーリアはそんな徒労に終わる努力など重ねたりはしない。僕と違って。 彼女の薄い唇は笑みを象ったまま、笑みという記号を象ったまま、 「記号なの。全てが」 僕は問い返すという徒労を続けるべきかどうか瞬間迷ってやめた。外を見る。雨が降っている。 再び視線をオフィーリアの居た方へ戻したら、もうそこには誰もいなかった。 「よく分かるケルト妖精学」がひっくり返ったまま、湯気の立ち上るティーカップの隣に置かれていた。 僕はティーカップを手に取り「よく分かるケルト妖精学」の項を意味もなく捲る。口に含んだミルクティは甘ったるくて僕の趣味ではない。 ――ほらね言っただろう。あれは「人」ではないのだと。 窓の外には濡れるオフィーリアが居た。赤毛を肌に張り付かせた彼女は満面の笑みを浮かべていた。多分歌でも歌っているに違いなかった。 *** 090313 誰のための言葉? 私のため、あなたのため、いつか生まれてくる私のような誰かのため 白い病棟、檻の中、ここは私の安息の場所 世界は夢に似て、 ――私は人がましくあろうとするがあまりに、 こんなにも壊れてしまったのに。 (だから私は人がましくあることをやめた) |