どうしてか、その日の頭痛は治まりが悪かった。元より、人込みだったり学校だったり母親の居る病院だったり、そういった場所では、血の流れが凝るかのように鈍く痛む額が、疼くように何かを訴え続けている。
(こころのいたみと、からだのいたみが、あんまりにもばらんすがとれなくて、だから痛くなるんだ…)
 そんなことを誰かに言われた記憶があったが、だとしたら。
 今あたしを襲う痛みは、あたしの心の何処に巣食う痛みなのだろう。
 木造の、電車の轟音に揺れて今にも崩れそうなアパート。由良は二階の部屋の前、手すりにもたれるようにして、背中を向けて座り込んでいた。部屋には入らないのだろうか。
 朝の天気予報の通りに、雨が降り始めていた。
 あたしは二階の廊下の真下で由良を見上げながら、この雨で、桜が一気に散るだろうな、と思って、少しだけ胸がすく気がしていた。母親が桜を好きだったのだ。桜の咲くうちに母の一時帰宅が認められたら、あたしは両親と花見に行かなければならない。冗談ではなかった。
「…由良」
 折り畳み傘の狭める視界を持ち上げて、あたしは名前を呼んだ。
 薄い雨が指先を濡らして、凍るようだった。言葉は白く、雨の中に消えていく。
 …届かない。
 何故かそう思った。
 雨が邪魔だ。傘が、邪魔だ。今何を言っても由良には届かない。
「由良」
 もう一度。それでも何かに抗うようにあたしは声を荒げていた。思いのほかに強い声が出て、怖気が走った。
 雨音の中を、それでも、声は通らなかったのか。由良の様子には変化が無かった。
 だから、あたしはそのまま尋ねることにしたのだ。届いていないのなら、それでいい。
「…あなた、誰なの?」
 …届いたところで、知ったことじゃない。
 由良が膝に埋めていた顔を上げる。濡れた前髪が張り付いて、その目が見えなかった。どうせいつもと同じ目だ。こんなに水の降る日ですら、渇いて、どうしようもなく渇いた、あの瞳。
「――、…。」
 何かを彼が呟いた声は、近づいてきた電車の轟音で奪われていた。レールを叩き、歪ませるあの、音。雨音も何もかも掻き消して。自分の声すら聞こえなくなる。
 電車の音が次第に遠ざかり、その隙間を埋めるように雨音が戻ってきた。
 傘の端から零れる水滴が冷たい。それでも上を見上げた姿勢のまま、あたしは動けなかった。
「由良、だよ。俺は」
 電車の音が遠く、完全に何処か遠くへと消えた頃になって、ようやく由良はそんなことを言ってきた。口元は笑う形に歪められている。けれど、あぁ、笑っていないな、と直感した。
「白百合がそう呼んで、俺が答えたんだから。俺は、由良でいい。」
「……ばっかじゃないの」
 ただ、彼の目を睨んでやりたかった。
 だから、精一杯、嘲りを込める。
「馬鹿じゃないの、あんた」
 目を落す。これ以上彼の顔を見るのは耐えられない。濡れた若葉を、泥ごと強く踏み潰した。耳に入る音は雨音で埋め尽くされている。
 由良はあたしの言葉には、予想通りではあったけれど、答えもせずにドアを開けた。部屋に戻る気になったらしい。
 そしてドアを半分開いた姿勢から、しゃあしゃあとこちらに問いかけてくる。
「寄ってかないの?」
 薄く笑って、彼がそう訊くから、あたしも薄笑いと一緒に吐き捨ててやる。
「寂しいの?…それとも、『幽霊』が、怖い?」
 鈍痛の隙間から零れた薄ら笑いは気味悪くなるほど、あっさりとあたしの口の端で安定してしまった。
「さぁ、…そうかも…」
 ふ、と漏らされた言葉が本音だったのかどうか。目を軽く伏せた表情は虚ろで、そんな単純なことさえ見抜くことが出来ない。


「だから俺は『由良』のままなのかもしれない…」
 ぞわり、と背筋を何かが這った。予感というのか。直感、だろうか。それは。酷く気味悪くあたしの脳髄にまで入り込んでくる。怖い。
 何が?
 あたしは彼に何を見ているんだ…?
 





「…っ」
 押し殺したのは嗚咽だったと、あの瞬間は確かにそう思ったが。
 だが違ったのかもしれない。
 母の声がする。
「私は貴女なんか知らない…!」
 お母さんの声、が、
 あたしを、断罪している…。
「私は知らない!月花を何処にやったの!?貴女が殺したんでしょう、貴女が……!」
「そうよ、あたしが」
 「麻生月花」は。
「あたしが殺した…!」
 



 瞬間の回想は奥歯で噛み潰した。それでも自問してしまう。

 あなたは、それで満足だった?







 頭を卓袱台に乗せてあたしは目を軽く閉じた。

 ひやりと冷たい樹の感触に鳥肌が立つ。

「…冷えるわね」
「雨だしな」
「狭いわねー」
「…ほっとけよ」
 由良は、あたしの言葉をどう受け取ったのだろうか。どのみち、あたしの言葉など届いていよう筈も無いのだが。

 何事も無かったかのようにあたしは彼の家でお茶を飲んでいる。

 …それにしても紅茶をよく飲む日だ、今日は。そう思いながらカップを受け取ろうとして、あたしは眉を寄せた。
「これ何、変なにおい」
「アールグレイ」
 差し出したカップに文句を付けられた由良はやや不機嫌な声でそう、告げてくる。
「アールグレイ?」
 名前くらいは聞いたことがあるが実際飲むのは初めてだった。紅茶といえばティーバッグの安物しか、あたしは知らない。

意外と癖のある匂いがした。

「ふぅん。洒落たもん使ってるのね、金欠だとか言ってる割に…」
「いや、貰い物。俺も初めてだけど。飲むの」

 きちんと温められたカップに注がれる紅茶の鮮やかな色彩が安い蛍光灯に晒されて、きらきら、玩具みたいに光っている。

「…誰かの趣味?」
「沙羅の。」
「あぁ…今朝の」

 久々に二時間も授業を受けていたお陰で、随分時間がたった気がしていた。朝のことが遠いことのように感じている。

 …授業のことだけでもない。今日は色々なことを感じすぎた。

 疲れた。

 意識した途端に、身体がどっと重みを増した。何だか意識が鈍くなる。痛みまでもが遠く感じた。痺れたような感覚の中に、ゆらゆらとアールグレイの香りが紛れてくる。

「あぁ…、いい匂い、ね。これ」
「…そうか?」

 由良は、あまり趣味ではなかったのかもしれない。少しだけ口を付けたカップを置いて、こちらを覗きこむ。

「うん…そう、思う」

 確かあのマンションの近くには、紅茶を扱うお店があった。いつも通り過ぎるだけだったけれど。

(…買って、みようかな…お金、余裕あるし、まだ…)

 通院代として預かった生活資金は浮いたままだ。余裕はある。

 それから間近にやって来た、由良の指先を見遣り、あたしは呼吸を軽く詰まらせた。熱い紅茶が気管に流れ込み、思わずむせる。

「うわ、大丈夫か?」

 やっぱり口に合わなかったのか、これ高いしなぁ、とか何とか、微妙に無礼なことを言われた気もするがあたしは無視して由良の指を手に取った。

「あんたこれいつっ」
「何?」

 眉根を寄せた表情は淡々としたままで、本気なのはよく分かった。分かっている。こういう奴だった。そういえば。

 ケホケホ、一度軽く咳き込んでどうにか気管に自由を呼び込み、あたしは由良の指先を思いきり摘んでやった。

「いっ…っ!?」

 これには流石に驚いてか、由良が指を引っこめる。あたしはそれでもわざと指を離さず、声を低くした。口の端が弛むのだけは押さえられない。

「血。出てるよ。」

 由良は、どうも「血」が見えていないらしい。だからこそ気付かなかったのだろう。左の人差し指に、流れた血が半分固まっている。

 大方、包丁で切ったのか。

「…あぁ…、道理で痛いなー、と…」

 恐ろしいほどに呑気に彼はそう呟いた。まるで他人事だ。

 …余り考えたくないのだが…こいつ、万が一通り魔に腹刺されたりしても平気な顔して生活してたりしないだろうな。
 ずるずると内臓を引きずって、それでも、自分の傷に気付かずにこの部屋で呑気にお茶を淹れる彼の姿を想像してしまう。
 だが、同時に。きっと彼は車に撥ねられたって、自分の傷に気付かないのだろうと、思えてしまってあたしは咽喉を詰まらせる。「水城由良」は車に撥ねられて死んだのだ。

「どの辺?」

 指を突き出して、由良が尋ねてくる。

「此処」
「…」

 あたしが投げ遣りに指差した箇所を、由良はしばし眺めていたが、やがて。

「…どうしてだと思う?月花」

 不意に、怪我を眺めながらそんなことを言い出した。
 実際には彼には、自分の怪我が見えてはいない筈だ。どこにあるのかも分からない傷口を捜してか、視線がかすかに彷徨っている。

「何が」
「どうして俺は、血が見えなくなったんだろ?」

 

 途方に暮れたコドモのようなその声は、あたしの今まで知った由良のどんな声ともまるで違った。

 

 それは多分、独り言のようなものだったのではないだろうか。どうして、なんて。彼は気付いているはずだ。あたしにはそういう、確信めいたものがあった。
 …こういう人間を見たのは何も、初めてのことじゃない。
 あたしが何かを口にするよりも早く、彼は次の行動に出ていた。おおよその見当をつけたのだろう箇所に、ちろりと舌を這わせる。

 固まりかけた血を舐め取って、何を感じたんだろう。

 想像すら、出来ない。

 ただ彼は、ふ、と微笑んだ。何かを吐き出すように呟く。

「…マズ…」

 あたしは、目を逸らした。酷い吐き気がした。
 その笑い方はやめて欲しいな、とか少し思いながら。
 いつのまにか、頭痛は治まっていたけれど。

「帰る」
「…何、もう?早いじゃん」
「……うん、でも」

 笑おうとして上手くいかない。

 酷くもどかしい。

「…あたしだって『幽霊』は怖いわよ、由良…?」
「どうせ見えないぞ。『居る』だけなんだから」
「……見えないけど、そりゃ」

 何しろあたしは、当の「幽霊」さんの顔も知らない。
 ただ、何となく分かってしまうことがある。
 幽霊は居るのだ。この部屋に。由良の居る場所に。
 そして多分…水城白百合、死んだあの女性の姿をしている。

 そう考えた瞬間、あたしは驚くほど冷ややかに口を開いていた。部屋に敷かれた薄手のカーペットの毛玉を睨み数えながら、

「でも、幽霊はあんたが生きてる限り、消えないわよ。由良」
「……」

 鞄を片手に抱えた格好のままで、あたしは暫く由良の答えを待った。返答に何を期待したわけではなく、ただ、身動きが取れなかったのだ。自分の吐いた言葉に。

 毛玉を15まで数えた時、不意に、由良が立ち上がった。

 返答を、期待していたわけではなかった。

 何も期待なんかしていなかった。最初から。



 轟、と電車が狭い部屋のガラス戸を揺らした。



 由良の呟きが聴こえることは、無かった。




彼がふらりと立ち去った後も、あたしは鞄を抱えて座り込んでいた。
 我に返ったのは、この部屋にはそぐわない水音をはっきりと意識した時だ。
 
慌てて風呂場に駆け込んだあたしの目の前で、由良は驚くくらいに穏やかに微笑んでいて、幸せそうだ、などとあたしは余りにもそぐわない事を瞬間、思った。
 ただ、その余りの赤さで次の瞬間には、意識を引き戻される。
「ばっ…」
 声は、咽喉に詰まって止まった。鉄錆臭い匂いがどろりと肺にまで入り込んで、酷い眩暈がする。呼吸をするたびに血臭が咽喉にこびり付いてくるようで。
 震える腕を、幸い身に付けていた携帯に伸ばす。当然119を押そうとして、掠れた、少年じみた由良の声を聴いた。
「…助けるの?…」
 悪いが、本気で腹が立つ台詞だった。
 あたしは濡れるのも、血で汚れるのも構わずに由良の腕を掴んでやった。見事にやったもんだ。ためらい傷すら見当たらない…いや、血塗れで確認できないだけなのかもしれないが。
 とりあえず、あたしは派手に出血している首の傷を直接手のひらで押さえ込んだ。ぬるりと掌を伝う血は熱いのに、制服の内側へと伝い落ちていくそれはあたしの体温を奪うほどに冷たい。
 強く押さえたので恐らく、本人、呼吸が若干苦しいだろが、あたしは気に留めなかった。それだけ、腹を立てていたのである。
 声は血の冷たさで震えてはいたが。
 あたしは彼の目を今度こそ睨み付けた。
「…誰があんたなんか助けるのよ。寝言なら死んでから言え!」
 
 乾いて黒ずんだ血痕の上に、由良から飛び散った血が被って混じり合う。
 それはまるで。
 至上の交わりのようだと、あたしは流れる血の中でそんなことを考えていた。




 

 雨は、その日から三日間降り続いた。






 雨が止んだのは土曜日のことで、桜の花弁は散り、べたりとアスファルトにへばり付いていた。総合病院前のバス停から病院までは桜並木が続いている。

 春になってからこっち、一度も病院に来なかったのはこれのせいもあったのか、と今更気付いて、花びらを踏みつけながらあたしは空に向かって少しだけ笑った。雨は止んだはずなのに、曇天は低く重く、寒い。

 

「…父さん?そう、あたし。月花。…うん。今からそっち行く。…ううん、病室じゃなくて…ロビーで待ってて。他に用事があるの。」

 

 ポケットの中には間に合わせのカッターがある。空いた片手でその冷たい感触を、確かめた。
 携帯を握りなおしてあたしは歩き始める。

 三日、考えて、決めたことがある。

 空を仰いで、小さく呟いた。



「…お望み通り殺してやるわよ、お母さん」


休日の込み合うロビーに既に父は待っていた。何ヶ月ぶりに会うのか、それももう覚えては居ないが。何しろ、母がおかしくなった頃から、この人はロクに家にも戻っては来なかったし。
 それでも母を入院させてる費用も、あたしの通院費もこの人が出してくれているのだから、まぁ、今更恨み言なんか言うつもりは欠片も無い。
「…月花、」
「久しぶりです。…毎週、見舞いに来てるんですか、あの人の」
 父はそれには応えなかった。後ろめたいのだろう、と思う。
あたしが頑なに学校へ行くのと、きっと同じ理由だ。
 欲しかったものは、欲しかった姿では、手に入らなかった。お互い。
「月花、今日は…診療の日なのか?母さんの方には、寄って行ってはくれないのか?」
 父は待合室の椅子に座り、あたしにも座るよう促したが、あたしは首を振った。用事はすぐ済むことだし、こんな場所でこの人と話しこむような趣味は無い。
「…知り合いが此処に入院したんで、その見舞いに来たんです」
「そうか。…じゃあ、その後ででも、…せめて顔を見せてやるだけでもしてくれないか。母さん、お前のことをそりゃあ酷く心配して…。『月花は大丈夫かしら』って、そればかり言うんだよ」
 そりゃあそうだろう。あたしはあの時、母に向かってこう告げたのだから。
 …麻生月花は、あたしが殺したのだ、と。
 母が未だにそれを信じているかどうかは分からないが、恐らくはそうなのだろう。
「大丈夫な訳が無いでしょう。馬鹿馬鹿しい」
 あたしはそう言い捨て、ポケットのカッターを取り出した。
「…月花。そういう言い方は…」
 父の言葉を遮って、あたしはカッターの刃を伸ばす。そして。

 長くなりすぎた黒髪を思い切り、切り取った。
 
あたしの奇行に、父は言いかけた言葉を見事に飲み込んでしまったらしかった。口を開け、目を丸くする父の表情にあたしは思わず、小さく笑う。
「これ。見舞いの代わりです。あの人に渡してください。それから、」
 あたしは一度こくりと唾を飲んだ。その言葉を口から吐き出すことを、軽く、涼しくなった肩が、後押しする。頭痛が、引いていた。手の上の黒い塊は、こんなにも重たかったのだろうか。私は随分自分が軽くなってしまった気がしていた。
「叔父さんが私を引き取ってくださるそうです。」
「…月花?」
「……15歳になれば、自分の意思で養子に入れるんだそうですよ。知ってました?」
 口が引き攣るけれど、その力に私は抗った。笑うか。こんな所で。笑って堪るか。
 せいぜい冷たい、顔でも、してやろう。何を考えているかも解らないほどに。
「…『麻生月花』は、死にます。私が、殺します。」




 廊下を歩く髪の軽さと寒さと。涼しい風は項を冷やしてくれる。頭痛は、ひいている。

 麻生月花は殺した。

 これで、いい。

 三日間。雨の降る中、学校には行かずにただただ考え続けた。叔父は、母の弟に当たる人で、あたしの提案に嫌な顔ひとつせず頷いてくれた。母があたしにナ イフを突きつけたことを、親戚の中で唯一知っている彼は、昔から、やや過敏な気の強かった母のことをよくしっている人物でもあった。

「…君が悪い訳じゃないと思う。姉さんは、少しだけ、君に期待をしすぎたんだね…」

それは果たして悪いこと、だったのだろうか。彼女があたしにかけた期待。確かに重圧でしかなかったけれど、それは。果たして悪いことだったのだろうか。

…あたしがそう言うと、叔父は電話口で苦笑したらしかった。

「悪いことなんて無い。何か、取り返しの付かないことがおきた時に、決定的に悪いことをしている人間なんか何処にも居ない。僕は一度は義兄さんを責めた し、君の事も…今だから言うけど、心の中で責めたことがある。姉さんがあぁなったのは、君が、家に引き篭もったからだ、って」

 あたしは返す言葉を失くした。事実だった。それまで何の問題も無く期待に応えていたあたしが家に引き篭もり、学校にも行かなくなって、母は、次第におかしくなっていった。現実を見なくなった。

 あたしは家の中で、外に出ることもせず、母の幻想に付き合って演技を続けた。母は勝手にあたしの姿を自分の理想どおりに置き換えて見ていたし、あたしは 家から出なくても、母はまともな判断力を失っていたから大した問題にはならなかった。その方がいい、と思っていたのだ。あたしには母の期待には応えきれな い。母がこうして勝手な夢の中に居てくれれば、あたしは何もしないで済む。そんな安易な理由だった。

  だが、叔父は続けてこうも言った。

「君は悪くは無い。ただ、間違えた判断をしたのは事実だ。家に帰ることをやめてしまった義兄さんも、勿論、現実の君と向き合う努力を放棄した姉さんもね。 間違えたんだ。やり直したいなら、やり直すために努力するところから始めればいい。出来ないことではないと思うよ。相応の時間は、必要だろうけどね。」

 聞いていた部屋番号を確認する。見慣れない名前に苦笑が漏れた。

 ノックすると、少年じみた掠れた声が返ってくる。

「開いてますよ、どーぞ」

 扉を開けると、個室のベッドに半身を起き上がらせた格好の少年が似合わない白い寝巻きを着て、こちらを見、それから、一瞬送れて眼を丸くした。

「何だ、月花か。どうしたんだよその髪」

「ちょっとね。すっきりしようかと思って」

「ふぅん。似合ってないな」

「ほっといて頂戴。」

 言いながらベッドサイドの椅子に腰掛ける。花瓶の花は趣味の悪い真っ赤な薔薇で、あたしは苦笑した。

「何、この薔薇」

「あぁ、見舞い。実紅からの。」

 ついでに引っ叩かれた、と憮然と彼は言った。彼の「客」の女性だろう。何をしたのか知らないが、興味は無かった。大体予想はつく。

「…殺されたって文句言えないわよ、あんた」

「何で」

「死にたかったんでしょう?」

 言ってから、あたしは自分で自分の言葉に咽喉を詰まらせた。死にたかったのかどうか知らないが、少なくともあの瞬間、あんなにシアワセそうだった彼を、 死なせなかったのは間違いなくあたしだ。それを今更思い出したのだった。あの後、血塗れになった制服を捨てるしかなくて、腹立たしかったけれど。もしかし たら彼も腹をたてていたかもしれない。あの世行きを邪魔されて。

「あぁ」

 あっさりと彼は頷いて、それから、ゆるゆると首を振った。

「由良は死んだよ」

「そうね。」

 そうだと、良いね。

 あたしはその言葉だけ飲み込んで、窓の外を見た。曇天で酷い寒さで、病室には多少強すぎるくらいのエアコンが効いている。ざらつく部屋の空気が咽喉に絡む。

 由良を見ると、彼もまた、窓の外を見ていた。訊いてみる。

「ねぇ、由良」

「うん?」

「部屋の表にあったけどさ。『杉沢誦』って誰?」

「…なんか俺の名前らしいけど」

 くっ、と咽喉の奥で由良を名乗っていた少年は、笑った。

「久しぶりすぎて実感、湧かない」

「何それ。」

あたしも笑った。笑って、彼のベッドにぽてりと頭を落す。消毒液臭い匂いに混じって由良――誦、と呼んだほうがいいんだろう、多分――の匂いがした。あたしは目を閉じて呟く。

「…ここに、居ないといけない理由なんか本当は無いんだろうね」

「はぁ?」

 ベッドに顔を埋めたままに呟いたあたしの言葉に、彼は変な声を上げた後、

「それ弱音のつもり?」

「愚痴よ、ただの」

 あたしはそう言い返して、もそ、と頭をこすり付ける。いい匂いがする、とぼんやりと思う。

「でも、居ちゃいけない理由なんてのも、無いのよね…」

 もう幽霊なんか出てこなければいい。彼の場所に、心に、幽霊なんてさっさと成仏してしまえばいい。そうだったら、いい。

 そんなことを思いながらあたしはその姿勢のまま、暫く動かずに居た。

 彼が不意に呟いたのが、それからどれだけ経ってからだったのか。

「あれ…?」

 淡々とした調子が常の彼にしては珍しく、驚いたような口調。あたしがゆるゆる顔を上げるのと、彼が続けて呟くのが同時だった。

「………ゆき?」

 そう。

 藍色に染まり始めた曇り空の下の空気を、ふわり、と。白いものが掠めていく。

 雪が、降っていた。

 あたしは思わず窓に駆け寄り、窓を開けてみた。ざらつく病室に、湿り気のある酷く冷たい空気が流れ込んで、ざわりと全身が鳥肌立つ。

病院の中庭に面したそこからは、雑草のまばらに見える地面と、真ん中にぽつりと立った桜の木が見える。地面にはべたりと一面、桜の花弁が張り付いていて、雪はその上に降っていた。ふわり、花弁に触れるとあっさりと消えていく。幾つも、幾つも、幾つも。

 あたしは暫く呆然として、それから、急に堪えられなくなって、気が付いた時には、声をあげて笑い出していた。

 止まらない。腹筋が痛むのを感じながらそれでも笑うのが止められない。

「…つき、か?」

 またしても驚いた様子で、この間まで由良だった彼が言うのがまた可笑しくて、あたしは笑う声を一層大きくした。

 雪は静かに降り続けている。こんな時期に。こんな桜も散ったようなこんな時期に。

 所詮は春の沫雪だ。すぐに止むだろう。それでも。

 それでも、ただ、ひたすら静かに。






 笑う声はやがて、嗚咽に変わっていった。


 それでも、ただ、ひたすらなまでに、静かに。



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