ごめん、ね、と、震える声が届いた。
「謝らなくったっていいけど、姉さん、大丈夫なの?」
ごめんね、と、また声が届く。空気を震わせるわけではなく、その声はただ、脳裏でだけ優しく響いた。だから彼は腕に力を込めて、彼女を抱き上げ直す。手に触れる彼女の身体は冷たくて、少し硬質でざらついていて、それから、濡れそぼっている。
彼の目の前に投げ出されている彼女の脚――否、脚だったもの、は。
魚の形に、なっている。
ごめんね、と、また脳裏で声がする。優しい声。懐かしい声。―――何か記憶が酷くざらつくのだけれど、その原因までは思い出せない。
目の前の彼女は口を開いても音を漏らすことが無くて、喋ることが出来ないらしかった。
そうだよな、姉さんは喋れないんだ、と、彼は一人内心で頷く――思い返してみればそれはまるで当たり前のことだったかのようにすとんと胸に落ちて、馴染んだ。
どうして今この瞬間まで忘れていたのか分からない、くらいに。
「姉さん、逃げよっか?」
――どこへ? と脳裏の声は不安げで、目の前の彼女も不安そうに瞳を揺らしている。黒い、黒い、月の無い夜の海の水面のように黒い瞳は見ていると吸い込まれてしまいそう。
「えーと…。そうだ、俺、姉さんと…どこに行こうとしてた、んだっけ…? 病院…」
ざり、と、脳裏に酷いノイズが走って、彼は一瞬だけ顔を顰めた。腕が緩んでしまいそうになるのを堪える。抱えている身体は存外に重たく、おまけに濡れていて、人の肌ではない彼女の黒い鱗が滑ってしまいそうになる。
(病院、…違う。病院は駄目だったんだ、それで。ええと…いや、待て? 何が『駄目だった』んだっけ…?)
奇妙な感覚が抜けてくれない。
――最早、手はありません。痛みを和らげてあげるくらいしか。
――手遅れ。何もかも。
脳裏をよぎる声と断片的な単語は、言葉は、胸を暗く沈める絶望的な感情は一体何の記憶だろうか。
「…おっかしいな…俺、姉さんと…何か…探してた、よな?」
彼の腕の中の――人魚、としか表現のしようのない姿をしたそれは小さく肩を、唇を震わせて、泣きそうな瞳を伏せる。人魚。人魚の血。
(人魚の血を飲めば、どんな病も、たちどころに消えて――不老の力、を、貰える、って)
ざり、ざりと。
頭の中で砂嵐が鳴りやまない。
「あれ、俺…?」
腕の中の人魚。
逃げなければ。
――どこへ。どこへ? 何故?
そもそもここはどこだっただろうか。見渡す限りに薄暗い廊下が続く、どこかの建物の中らしい。そうしてやっと思い出した。
「…あ、そうだった。人魚の血…アレを回収に来たんだったよな。…何で姉さんまた人魚化してんだよ」
黒い瞳の人魚は泣きそうな瞳を一度だけ上げて、また長いまつげを伏せて、触れた指先から言葉を伝えてくれた。
そう――喋れない彼女の唯一の会話の手段が、それだった。触れた相手にだけ伝わるテレパシー。人魚だから特別な力があるのかと思ったけれど、彼女は随分な例外らしい、と、最近では彼にも理解できつつある。
『力を使いすぎたの、ごめんなさい。また、レドに迷惑をかけて』
「いいよ。俺が勝手についてきてるんだし。姉さん一人だとたまにこうやってドジ踏むしな?」
からかうように言うとやっと彼女は、腕の中で力の無い笑みを浮かべてくれた。
『…逃げましょう。人魚の血は、回収したから』
彼女の手の中には小さな瓶がある。茶色いそれは中身を視認しづらいが、粘った液体が入っているのは何となくでも見て取れた。人魚の血。不老不死の妙薬――それを確かに誰かに飲ませたかったはずなのに、不思議と、彼には思いだせなかった。今はただ、不当に人間達の手に渡ってしまっているそれを、回収してしまわなければと。そればかりを願っていて。
腕の中で小さく縮こまる黒い瞳と黒い髪と黒い鱗の人魚が、音の無い声で言う。
『帰りましょう、レド』
「そうだね、帰ろう、姉さん――」
――パズルのピースがひとつずれてしまっているような。
――奇妙な違和感だけが、胸の中で燻っている。
「レドが、飲んで」
人魚の血。赤でもなく黒でもなく、奇妙に青味がかった粘つく液体は、微かに潮の匂いがしたけれど、飲み下すと咽喉が焼けるようだった。胃の腑に落ちるそれは劇薬としかいいようがなかった。次第に身体を焦がしていく感覚に悲鳴さえあげられず倒れた弟を、血の失せた顔色で姉が見守っている。
「…私は、もういいの。お前は生きて。それから――」
レドとよく似た、赤毛の姉の姿の、後ろ。
小柄で黒い髪と、濡れたような黒い瞳の少女が、真っ青になって立ち尽くしている。
「ありがとう、人魚姫――あなたの血をくれて。レドを、助けてくれ、て」
血を吐いたのは、姉と弟、どちらだったのか。
末期の力を振り絞るように手を伸ばした彼女の、骨と皮ばかりになった病んだ指先を掴んだのが、誰だったのか。
「……私は、もう、」
「姉さん?」
海にたどり着く頃には、黒い人魚はとっくに人の形に戻っていた。油断をすればこそ陸上で魚の姿を晒してしまうが、普段の彼女は、すらりと伸びた足で地面を歩いている。その彼女が、暗い昏い海を見て、声の出せぬ唇で何かを口ずさんでいた。
「どうしたの?」
問えば、彼女はまず指先を伸ばしてくる。レドがその指先に触れると、彼女の声はまた、脳裏で響いた。
『――ごめんなさい』
「……姉さんはどうしてやたらと俺に謝るのかな」
応えは、無い。
ただ黒い瞳は悲しげに、濡れたような色を湛えて、彼を、彼の忘れてしまった記憶を惜しむように――眺めているばかりだ。
***
――魅せて欲しい 夢の続きまで 世界
――溺れてたの 海よりも深い 初めまして
(深海のリトルクライ/sasakure.UK)
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