モクジ
 化け物と初めて呼ばれたのは確か五つにならぬ内では無かったかと思う。
 最初は他愛も無いことだった。子供の癇癪だ。「行かないで」と。仕事に出かける父にそう訴えた。
 父は、それから三日間ほど、家から出ることが無かった――否。家から出られなくなったのだ。
「化け物」
 自分を指してそう呼んだのは、その父だった。母にもそう呼ばれるようになるまで、さして時間はかからなかった。だが、恐れと侮蔑を含んだ瞳に怯えたのも僅かな時間だった。
「見るな」
「そんな目で見るな」
 今度は訴えではなく、命令。一度睨めば父も母も、決して彼に逆らうことは無かった。ただ、それでも、ふとした瞬間に殴られ、家から閉め出され、或いは食事も与えられずに個室に閉じ込められる回数は、格段に増えた。
 それでも彼は大して不幸ではなかった。力を振るうことを、それで他人を屈服させる快感を、彼は僅か六歳の時には既に己のものにしていた。彼はただ見つめて、命じれば良かったのだ。
 例えそれで化け物呼ばわりをされようとも、もう、気になることなど無かった。
 出て行った父親も、自分を閉じ込める母親も、もう、気にはならなかった。



****



「だから――」
『あとはよろしくな、灯月』
 文句を言おうとした通話はぶちりと唐突に途切れた。灯月は深いため息を吐いて携帯電話のディスプレイを睨む。通話時間、2分48秒。3分にも満たない間に頼まれた内容はまたしても――いつものことなのだが――面倒極まりない。
 口では文句を言いながらも確りと内容をメモに取っていた灯月は、改めて走り書きの内容を見て額を押える。
「幽霊絡みの仕事なんかもううんざりだって、何度言えば分かるんだっ、あの女!」
 その手の仕事を引き受けるたびに同じコトを口走ってきた気がするが、飽きもせずに灯月はそう吐き捨ててカレンダーを見遣った。八月末日。どうせ大学の休みは九月までで、バイトと友人との約束以外は暇を持て余しているのも事実だ。
 とはいえ。
(何で俺が幽霊退治なんかしなきゃならないんだ)
 心から納得がいかない灯月はもう一度、携帯電話を睨み付けた。――それが功を奏した訳では無いだろうが。
 全くそのタイミングで、もう一度電話が鳴り響いた。
 ディスプレイに表示された名前――『竜堂冬瑠』。灯月は軽く目を瞠ってから、先程とは打って変わっていそいそと通話ボタンを押す。
「先輩?」
 通話口の向こうからは、外からかけているのだろう。微かなざわめきと、そして。
『よー、トーゲツ、元気?』
 聞こえてきた、耳に慣れた能天気な男の声に、灯月は何も答えず通話を切った。

 電話が鳴ったのは通話を切って本当に数秒も経たない内のことで、灯月は当初は無視を決め込んでいたものの、諦める気配も無く鳴り続ける電子音がどうにも耳障りになり、已む無く通話ボタンを押した。そのまま相手の言葉など待たずに勢い良く通話口に吐き捨てる。
「ただでさえ人がうんざりしてるってのに、二度とかけてくるんじゃない、腐れアロワナ!!」
 そのまま通話を切ろうとしたのだが、次の瞬間、返って来た声に灯月は思わず動きを停止させた。
『…あ、あの、ごめんね…星原君』
 細い高い少女のような声は、矢張り耳慣れたものである。
 たっぷり五秒は動きを停止させて、灯月はやっと動いた。電話を持ち直して、恐る恐る口を開く。
「…………竜堂、先輩?」
『うん』
 すっかり縮こまっているらしい相手の声に、一瞬、灯月は眩暈を覚えた。そうだ、そもそも、さっきからディスプレイに表示されている番号は彼女のものなのだ。
「…いやあの。何ていうか。」
 己の迂闊さを胸中で呪いながら、彼は気を取り直す。こほん、と咳払いなどしてから、何事も無かったかのように。
「…何か、用事だった?」
『ええ、さっき、火蝶ちゃんから電話があったの。』
「――白鳥から?」
 灯月の声が一転して低くなったのも無理は無い。先程彼に仕事を押し付けるだけ押し付けて電話を切ってしまった張本人の名前だったのだ。腕利きの情報屋で、同時に仕事の仲介も行っている彼女の手腕には灯月も世話になっているから強くは出られないのだが、時々ああして如何ともし難い仕事を放り込むことがあり、彼にとってはある種のトラブルメイカーの代名詞である。
 その彼女の名前が通話相手である竜堂冬瑠の口から出てくること自体は、何らおかしなことではない。冬瑠は彼女とは幼馴染で、実に親しくしている間柄だからだ。
 が。このタイミングである。不吉な予感を覚えて、灯月は思わず身構える。
「…あいつ、何だって?」
『あのね、えーっと…』
 少しの間、どう伝えたものかと言葉を選んでいた風だった冬瑠は、やがて弾んだ声で悪戯っぽく、
『星原君、温泉に行かない?』
 ―――そんなことを、言った。




****


 ―――填められた。
 と、灯月が悟るのは、彼女が「温泉へ行こう」と誘ってくれた当日の朝のことである。
 先ず、待ち合わせ場所である駅前のバス停には何故か小柄な冬瑠だけではなく、銀髪碧眼という日本では目立つことこの上ない色合いの、長身の男が居たのである。灯月にとっては厭になるほど――本当に厭になるほど――見慣れた相手だ。
 何しろ一応、相手は彼の養父なのだから。
「……詩律…」
 灯月の心痛を知ってか知らずか(知っていてやってる可能性が高いが)彼、星原詩律は能天気に手を振ってくれた。いつもはスーツ姿なのだが、今日はアロハシャツにコットンパンツという、また何とも不似合いな格好をしている。足元の荷物は必要最小限、と言った風で、唯一の大荷物は全く脈絡無く置かれた大きな水槽くらいなものだ。
「やほートーゲツ、ひっさしぶりぃ」
 軽い口調に灯月は頭を抱えたくなった。それが御年ン百歳になる「父親」の台詞か。
「ああ、一ヶ月ぶりだな。どこかで野垂れ死んでてくれないかと思ったんだが。」
 心からの願望を籠めた言葉はどう伝わったのか、詩律はにっこりと満面の笑み。一見すると近付き難い美貌の持ち主なのだが、そういう表情は人懐っこいものだ。
「心配した?」
 するかボケ。
 小さく吐き捨てて、灯月は小柄な方の人影に向き直る。チョコレートを思わせる焦げ茶の癖毛を肩まで伸ばした女性は、小柄でほっそりとした体躯と黒目がちな大きな目、全体に小作りな顔立ちで、一見して中学生か高校生のようにも見える。が、その実彼女は灯月よりも2つ年上の成人女性であった。
 夏らしい水色と白のノースリーブのワンピースを着て、足元には珍しくミュールを履いている。
「お早う、先輩。」
 相手は挨拶に煩い人なので、灯月は彼女にだけはしっかりと挨拶をした。先輩、と呼ばれて彼女がにこりと微笑んで、小首を傾げる。
「お早う、星原君。昨夜はちゃんと寝た?忘れ物無い?ハンカチ持った?」
「…うん、俺、いい加減そろそろ成人なんだけど、先輩分かってくれてる?」
 まるで遠足に行く息子を気遣う母親の台詞である。しかも、小さく反駁した灯月に彼女はぱちりと一度瞬いてから、
「幾つになっても、おねーさんは心配なんです。」
 何だかもう、抵抗する気力も無くなった。ぐったりと脱力したまま、灯月は最初に感じた疑問をやっと彼女に投げかける。
「……ところでどうして詩律まで居るんだ?」
「えっとね、」
 彼女は本当に罪の無い笑顔で、にこやかに、爽やかに言い切った。
「火蝶ちゃんが、連れて行きなさいって。幽霊が出るっていうのが本当なら、星原君はともかくあたしは危ないから、護衛代わりに、って。…おじさまも温泉、興味あるって仰ったし。」
「―――………………白鳥の名前が出た時点で嫌な予感はしてたんだよ。」
 成る程、『温泉郷に幽霊が出るからどうにかしてくれ』と、確かに白鳥はそんな依頼を彼に持ち込んだのだ。――想像して然るべき事態じゃないか、と灯月は己に言い聞かせる。
 冬瑠からのお誘い、という、魅惑的な餌にあっさり釣られた自分への自己嫌悪で、灯月はバスの車内でもほとんど口を開かずに窓際で頬杖を突いていた。何度か冬瑠が心配そうな声をかけてきたのだが、それは悉く、ちゃっかり彼女の隣に陣取った詩律に遮られている。
「ほっとけトウルちゃん。女に釣られるなんて、こいつ、修行が足りないんだよ。」
 この言い草にだけは灯月は確りと反論した。
「………お前にだけは言われたくねぇ。」

 
 関東圏内と言っても、行く所に行けば矢張り田舎の風景は残っているものである。
 バスを乗り換え、辿り着いた町で灯月が最初に感じた感想はそんなものだった。普通の田舎町と違うのは、降りた途端に鼻をついた異臭、だろうか。
「わー、硫黄の匂いだぁ」
 彼に続いてバスを降りた冬瑠が、帽子のひさしを押さえながら嬉しそうな声を上げる。それで初めて、灯月はそれが温泉郷につきものの硫黄の匂いだと気付く。――温泉郷、というもの自体、彼は実は初体験なのである。
 周囲を山に囲まれた盆地の小さな町は、石畳の道に古びた商店が立ち並んでいる。あちらこちらから見える煙は温泉の湯煙だろう。夏休みということもあって、ちらほらと観光客らしい姿も見えた。瓦屋根の大きな建物は旅館だろうか。
 風が吹くたび、道の両隣に並ぶ商店のあちこちから、ちりん、ちりん、と風鈴の音が耳に届いた。
 物珍しさも手伝ってその場できょろきょろしていると、先に降り立っていた詩律が呆れたような声で二人を呼ぶ。こちらは元々、日本どころかアジア全域をふらふらしていた経験があるので、今更温泉郷の光景くらいでははしゃいだりしないのだ。
「お前ら何してんの、早く依頼人のトコ行かなきゃ」
「…あっ、そうでした!」
 我に返ったのは冬瑠の方で、彼女は荷物を持っていない方の手で灯月の服の裾を引く。
「星原君、早く行こう!依頼人さん、きっと待ってるよ!」
「あ…ああ。どこだったっけ」
「んもー、しっかりしてよぉ。」
 彼女が口にしたのは町の旅館の名前で、バス停から然程遠くも無い場所にあるらしかった。
「部屋も予約してあるって。火蝶ちゃんって本当に手際が良いわよねぇ。」
 心から感心した様子の冬瑠に、灯月はしみじみと頷く。
「……全くだな。」
 手際が良すぎて時々腹立たしい。



 依頼の内容は、単純ではあるが切羽詰ったものだった。自殺者がここ数ヶ月で急増したという観光名所を、どうにかして「自殺名所」なんてものにしないで欲しいという、温泉町の人々からの悲鳴にも似た願いを聞いて、灯月は「現場」である観光名所とやらを訪れていた。自殺者が出るから幽霊が増えているのか、幽霊の所為で自殺者が増えているのか、昼間のうちにそれだけでも調べておく必要はあるだろう。勿論、「幽霊」自体がガセの可能性だってある。
 その灯月の傍らには、冬瑠が居た。灯月は旅館に残ることを強く勧めたのだが、冬瑠は頑として聞かなかったのだ。(ちなみに詩律は旅館で温泉を堪能中である。)
「ねぇ、星原君。ここってどういう『名所』なの?」
 その冬瑠が、胸元で拳を握り締めながら首を傾げる。
 そこは町外れの山道の中だった。大分町からは離れて、鬱蒼と茂った木々が夏の日差しを遮っている。それでも随分と歩かされたこともあって、日傘を差した冬瑠は何度も汗を拭っていた。
 目的地はその山道の奥、元々は古い防空壕が在ったとか言う場所だった。古い上に脆くなった場所が危険だからと、周囲をフェンスで覆ってある。しかし、そのフェンスは今や全く違う用途に使われているようだった。
 そう、例えば――フェンスをびっしりと覆いつくす、南京錠だとか。
「…これ、何?南京錠…?」
 足を止めた灯月を余所に、冬瑠はその南京錠を覗き込んで首を捻る。
 南京錠だ。どこからどう見ても、南京錠である。少し違っているのは、それが一個一個、名前や言葉が書き込まれていることだろうか。
 灯月がふ、と笑った。依頼人に聞いた他愛も無い話を思い出したのだ。ペットボトルのお茶を飲んでから、ぐるりと適当に周囲を示す。
「縁結びの南京錠、だそうだ。ここで名前を書いた南京錠を二人でかければ、末永く幸せになれるだとか、結婚できるだとか、まぁ、ありがちな話だけど。」
「…道理で、お土産物屋さんで南京錠を見かけるなぁ、と思ったのよ。」
 冬瑠もくすくす笑い出す。なるほど、「名所」というから何かと思えば。
 しかし、この土地で暮らす人間にとってはきっと重大問題なのだろう。ましてこんな辺鄙な田舎の温泉町だ。少しでも観光客を呼び込む名物が欲しいのに違いない。
 納得した冬瑠は、静かに目を伏せる。
 灯月とは違い、冬瑠はいわゆる「霊感」はかなり弱い。だが、微弱な気配を察するのは彼女の方が得意としている。
 それを互いに了解しているので、灯月は何も言わずに彼女を見守る。
「…。確かに、居るわ。数は…三、四。それくらいかしら。」
 やがてぽつりと漏らした彼女の言葉に、灯月は息を吐いて頷いた。
「自殺者数はここだけで五人。未遂も含めると相当数らしいが…まぁ、大体の計算は合うか。」
「……そう。そんなに、此処で。」
 冬瑠は静かに表情を曇らせ木々を見上げた。彼女は、それでなくとも人の痛みには敏感な性質なのだが、加えて「自殺」という言葉を特に忌み嫌う。
「…誰か止めてくれる人が居なかったのかしら。それとも、そういうのを惜しくない、と思えるほど死にたかったのかしら…。」
 首を振る彼女の言葉は独り言だから、灯月は特に何か言うことはなかった。代わりに南京錠の一つをじゃらり、と鳴らす。マジックで書き込まれた名前の横には、「二人で幸せになれますように」と書き添えられていた。
「…星原君は、どう?何か感じる?」
 その灯月の隣に並び、冬瑠がそう尋ねてきた。彼女も持ってきていたペットボトルのお茶をちびちび飲みながら、
「それともやっぱり夜にならないと駄目、かしら。」
 ―――幽霊は何故か、夜の方が活発化する。
 それがどうしてなのかは灯月も冬瑠も知らない。詩律に聞けば知っているのかもしれないが、特に尋ねようと思うことも無かった。ただ二人とも、経験則でそれを知っているだけだ。
「いや、」
 だが問われた灯月は、やっとそれだけを口にした。眼鏡の奥で目を閉じる。
「…一人、居るな。特に強いのが。」
「……そう。」
 冬瑠はまたしても、哀しげに眉に皺を寄せて項垂れた。汗をかいた肌に、髪の毛が張り付いている。
 蝉の声が降る。油蝉の声に蜩の声が混じり始めた。風に微かな涼気を感じて、灯月は瞼を開く。汗を冷やす風は、濃密な緑の匂いだけではなく、確かな夕暮れの気配を孕んでいた。空はよく見えないが、見上げれば遠く、橙色の黄昏が見える。
「…黄昏時になるとさすがに拙いかもな…。」
 ぽつりと灯月が呟いて顔を上げたのと、冬瑠が唐突に吹いた風の冷たさに身を竦めたのが同時。
 ざわり、と一際大きく木々を揺らす風が吹いた。


 煩いくらいに鼓膜を叩いていた蝉の声が――ぶつり、と途切れる。
 二人は顔を見合わせ、身体を緊張させた。前兆だ。何かが、起こる。
 果たして。
 彼等の目の前に、不意に、白い人影が現れた。髪の長い、女。黒いワンピースを着て、足は裸足だ。赤いペディキュアが嫌に目立つ。
 飛び出し掛けた濁った瞳がぎょろり、と、二人を見遣った。冬瑠が小さな悲鳴を飲み込む。
 濁った眼球。首に絡んだ紐は蛇のようにも見える。口の端から唾液が泡のようになって、垂れていた。
 明らかに、死んでいるその姿。
「……を、……しに、…の?」
 女が口を開く。声は、潰れていた。
 聞き取りづらい声にそれでもどうにか耳を澄ますと―――
「…どうして、生きてるの?」
 女はそんなことを、彼らに尋ねている。
「…?何を言って…?」
 灯月は眉を顰めて、女に向き直った。そっと、眼鏡を外す。冬瑠が後ろで何かを言おうとしていたが、彼は反駁の間など与えず彼女に眼鏡を押し付けた。そうして、改めて女を睨みやる。
「――お前、ここに来た連中に何をした?何を、言った?」
 低い声は常と変わらないはずなのだが、奇妙な強制力を持っていた。冬瑠はぞくりと背筋を震わせる。
 ――眼鏡を外した、制御を自ら手放した時の灯月は、少し、怖い。邪視、と呼ばれる彼の異能は、「視線だけで相手に暗示をかける」という力を持っているのだ。普段は彼はそれを伊達眼鏡で封じ込めているのだが。
 女はじ、っと灯月を凝視した後、ニィ、と口元を歪めた。笑った、らしい。
「…あなた。私と、同じね。…一緒に楽に、ならない…?ねぇ、」
 そう言って、彼女は灯月へと手を伸ばす。だが。
「触れるな」
 いっそ、平板で、淡々としてすら居る声。だが。
 女は弾かれたように、灯月から飛び退いていた。怯えたように彼を見、そうして彼に伸ばしかけていた手を信じられないように見る。
「どうして…?ねぇ、…一緒に…行きましょうよ。…生きてるの、…辛いでしょ…?」
 冬瑠が、後ろで服の裾を引いている。灯月はしかしそれを無視して、笑った。
「…辛いでしょ…?あなたは、私と、同じ側だわ。生きていても、良いことなんか無い…。」
 さ、っと周囲が暗くなっていく。それでも灯月の目には、目の前の幽霊の姿が鮮やかに映る。
「…そうやって、ここへ来たヤツの中でも不幸そうな連中を引きずり込んだか」
 鼻で笑い飛ばして、灯月は女を改めて見た。――見つめた。
 またしても、懲りずに灯月へ触れようとしていた女はその視線に、動きを止めた。何かに全身を絡めとられたかのように、不自然に動きが止まっている。
 凍りついた彼女を容赦無く睨みつけ、灯月は口元を歪めた。笑みではなく、どちらかといえば、苦いものを噛んだ様に。
「親父を呼んで、先輩。」
「え」
「こいつは駄目だ。…除霊しよう。」
 冬瑠は、ちらりと幽霊へと目を遣り、それから頷いた。ただ調べるか、説得するなら灯月や冬瑠でも可能だが――除霊、となると、詩律の力は不可欠になる。
 そしてこの幽霊は。
 少しの接触だったが灯月は直感していた。もう、何人かを――自分で手を下した訳では無いだろうが――間接的に殺しているのだ。後戻りは出来ない。説得でどうにか出来る相手では無かった。
(これで依頼は終わりか)
 睨む視線はそのまま、灯月はそんなことを思う。だが。
 ほんの少し気を緩めた瞬間、だった。女の低い、耳障りな声が、囁くように言ったのだ。

「ばけもの」

 灯月は目を瞠る。女の声が―――何か、記憶に棘のように絡んだ何かを、引き摺った。
「化け物。生きていては、いけないの、あなたは」
 女がじっと自分を見ているのを確認し、その言葉が自分に向けられている、と、やっと気付く。冬瑠が声を、荒げた。珍しく怒りを孕んで、
「ちょ、ゆ、幽霊にそんなこと言われたく無いわ!ましてあなたみたいに、何人も――」
 だが灯月はその反論を遮った。頭のどこかでは、養父を待つべきだと冷静な警告が鳴り響いているのだが、口の動き出すのを止めることは出来ない。
 声を。上げる。
「……ああ、そうかもな。」
「星原君…!?」
 ぎょっとした様子で冬瑠が呼びかける。それと、同時だった。灯月が女を睨む視線に力を籠める。
 除霊をするなら詩律を待とう――等と。
 そんな悠長なことを言っている気分では、無くなっていた。
「化け物」
 三度。繰り返された言葉は、灯月には耳慣れたものだ。いっそ懐かしい、と灯月は唾を吐くようにそんなことを思った。
 逃げ出そうとする女を灯月は一際強く睨んだ。途端、女がひっ、と引き攣れた悲鳴をあげる。その体がまた、縫い止められたように動きを止める。――灯月の能力だ。
「そうやって、他人の傷を引き摺り出して自殺させていたんだな。」
 低い恫喝に、女は操り人形のような動作で頷いた。頷いてから、愕然とした表情になる。身体に、心を裏切られたとでも言いたげに。
「そうか。――なら、もういい。消えろ。」
「ッ!?」
 悲鳴を呑んだような小さな音は、彼の背後で聞こえた。
「星原君、駄目よ!」
 細い高い声の忠告など無視して、灯月は怯える幽霊の目を、睨み遣った。直接視線を合わせれば、例えそれが生きていようと死んでいようと、灯月の異能に屈服しない相手は滅多に居ない。
「い、いや…!」
 まるで生きた人間のように身体を震わせた女の、恐怖の表情に薄らと笑みを浮かべて、灯月は更に告げる。
 歪んだ愉悦を、思い出している。
 相手を屈服させる瞬間の、背筋の震えるような、恍惚とした感覚を。
「消えろ。お前は、此処には居ないのだから。」
 冬瑠が、灯月の視界へ飛び込んだのはその時だ。
「――だめ、だってば!!」
 そう叫んで、冬瑠は彼の服の裾を強く掴む。その動きに集中を乱され、力を使い続けて頭に血が昇っていたこともあっただろう。彼は思わず、彼女を睨んで居た。叫ぶ。
「触るな!!」
「………ッ!!?」
 びくん、と。
 強く痙攣したような動きで、彼女の手が、放された。静電気に吃驚して手を放すような、そんな動きだ。自分の手を抱くようにして、冬瑠は灯月を見上げた。視線が怯えにも似た何かを孕んで、強く揺れている。
 大きく瞠った彼女の目を見て、灯月の頭に昇っていた血が音を立てるような勢いで下がっていった。一瞬、呼吸も忘れて灯月は、後ずさる。
「……あ…。」
「―――二人とも!」
 浴衣にからころと下駄を鳴らしながら、詩律が到着したのはその時だった。何とも締りが無いが、彼は直ぐに二人の向こう側の幽霊を察したらしい。普段は軽薄な表情を鋭くして、何事か呟いた。途端。
 ざぁ、と水音がして――次の瞬間には、耳を塞ぎたくなるような蝉の声が降ってきた。
 ふわりと湿気の強い熱気を感じ、灯月はその場に座り込みたくなる。ああ、戻ってきた、と直感した。――もうあの幽霊の視線は感じない。
 だが、安堵は一瞬のことだった。突然、硬直していた冬瑠が駆け出したのだ。
「……ごめんなさいっ、散歩してきます…!」
 どこか、泣きそうな声で彼女はそんなことを叫んで走り去る。
 灯月は呆然と、それを見守ることしか出来なかった。


****


 ことの次第を依頼人へ報告し、詩律が「もう、幽霊が原因での自殺者は出ないでしょう」と告げると、依頼人である旅館のオーナーは心から安堵した様子だった。(詩律も真面目な顔をしていれば、それなりに説得力のあることが言えるのだ。)
「どうぞ、ごゆっくりなさって行って下さいね。あまり大したものはありませんが、温泉だけは自慢なんですよ。」
 にこにこしながら自ら部屋まで案内してくれたオーナーに、灯月はふ、と目を向ける。
 ――実は先程走り去った冬瑠に眼鏡を持っていかれてしまったため、他人に視線を向けるのには注意が必要だったりしたのだが。
「すみません、ところで、俺達の連れ…見掛けませんでしたか」
「は?ああ、あの可愛らしいお嬢さんですか?」
 オーナーの男性はにこりと笑った。小太りの顔に浮かべる笑顔には愛嬌がある。
「ええ、お見掛けしましたよ。商店街の向こう側の、川の方へ向かっていたみたいでしたが」
 そこまで聞いて、灯月はすぐに部屋を飛び出した。取り残されたオーナーと、詩律に向けて叫ぶ。
「親父、あと頼む!」
 
 部屋に取り残された格好になった詩律は、軽く息を吐いて、お茶を啜った。
「…せーしゅんだねぇ。そう思いませんか、オーナー」
「ははは、全く。私にもあんな頃がありましたよ。」
 笑って答えたオーナーだったが、不意に首を傾げる。
「…。ところで、『お父さん』にしてはお若いようにお見受けするんですが」
「お気になさらず」
 ――あの馬鹿息子、こういう時ばかり「親父」呼ばわりしやがる。




 もう夕暮れも落ちる薄闇の河川敷は、水の匂いと緑の匂いが混じり合う。虫の声が響いて、川面を渡る風が心地よい。
 どこかからちりん、と風鈴の音。
 ひらり、薄い青い闇に翻ったスカートに、灯月は声をかけることを、暫く躊躇した。

「…先輩」

 ようやっと開いた口で呼びかける。――何故だか、声は震えた。振り返ってくれなかったら、どうしたらいいのか。そんなことばかり脳裏を過ぎる。
 だが、冬瑠は意外にあっさりと振り返った。
「……星原君。」
 そして彼女は、ぎこちなく口元に笑みを浮かべて、
「大丈夫だった?」
 そんなことを言うので、思わず灯月は言葉を失くした。――何を答えろって言うんだ。
「…先輩こそ、」
 言い掛けて、また言葉を呑む。…今、それを尋ねることは出来なかった。
 だって傷付けたのは、俺の方なのに。
「………ごめ、ん。」
 俯く。
 薄闇の中でも彼女を見つめるのは怖かった。
 ――小さな足音が、下草を踏んで近寄ってくるのを感じる。それでも灯月は視線を上げず、自分の爪先とその周りの草を眺めていた。
「…大丈夫なら、良かった。…無理に相手を消せば、負担がかかるんでしょう?」
 声は怒りも、あの瞬間見せた怯えも、含んでは居なかった。その事に酷く安堵しながら、答える。
「ほとんど親父が…詩律が、消したから。俺は、動きを止めてただけ。」
「…」
 くす、と彼女は微かに笑ったらしい。顔を上げたい衝動に駆られながら、灯月は頑なに俯いたままを保った。今彼女の顔を見ることは出来ない。――情けなくて、どうしようもなくて。
「星原君って、おじ様のことお父さんだって、ちゃんと認めているのよね。」
 しかしこの言葉にだけは、灯月は確りと反論した。
「いやそれは無いな。」
「…何も即答しなくてもいいじゃない…」
 はぁ、とため息のように長い吐息。傍らで冬瑠が、顔を上げる気配がした。星原君、と呼ぶ声はいつもどおり、何一つ変わりは無い。
「――此処はきっと、星が綺麗よ。」
「…かもな。田舎だし。」
「ね、」
 ふわり、と風を感じた――と、灯月は一瞬思った。次の瞬間、頬に体温を感じてぎょっとする。硬直した灯月に、冬瑠がくすくす、と笑う声が届いたかどうか。
「ほら、平気でしょ?」
 言われてやっと、灯月は彼女が自分に触れていることに気付いた。小さな身長で背伸びして、精一杯腕を伸ばした彼女の指先は震えている。――先ほど灯月に「触るな」、と暗示を受けてから、少しも時間は経っていない。
「先輩!」
 思わず咎める口調で、灯月は顔を上げて呼びかけていた。無理に暗示に逆らうことが悪いことと言う訳ではない、が、相当な無理を強いるのは事実だ。
 灯月のかける暗示は、新たにかけ直したりしない限り半日もあれば解ける程度のもので、だからこそこうして彼女が無理をする理由は無い。
「…何やってんだよ、先輩…。」
 指先をそっと払いのけ、灯月は呆れた。彼女は一体、何をしたいのか。それがさっぱり分からない。
 しかし払われた手で今度は逆に、灯月の手を握り返して、冬瑠は彼を覗き込んだ。慌てて後ずさる灯月を追いかけるようにして、強く叫ぶ。
「星原君、あたし、大丈夫だから」
「な、何がだよ…」
「大丈夫だよ!あたし、それほど弱くないもの!」
 ぎゅ、と強く灯月の手を握って、今にも泣き出しそうな瞳が薄闇に微かな光を弾いている。
「――だから、大丈夫だから……あたし、」
 それから彼女はゆっくりと笑う。呆気に取られる灯月の目を真っ直ぐ、怖気づくこと無く、見据えて。挑むように。
「あたし、あなたを怖がったりなんかしないから。」
「っ、…」
 視線を逸らすことを一瞬忘れて、灯月は目を瞠った。小さな子供のような少女は、ただ優しく、彼の手を握り締めている。
「ごめんね。さっきは吃驚しちゃったから、…その、いきなり逃げちゃったりして。」
 無理も無い、と思うので、灯月はゆるゆると首を横に振った。手を放した冬瑠は、その仕草に安堵したように笑う。そしてもう一度、
「…ごめんね。」
「気にしてない。悪いのは、俺だし。…ごめん。」
 今度はきちんと答えることが出来た。灯月はそうして、少しだけ苦笑した。
「……先輩、悪いけど…眼鏡、返してくれるか?」
「あ、」
 その言葉でやっと思い出したのだろう。冬瑠は慌てたように小さな鞄を開いた。彼女のハンカチに包まれていたそれを取り出して――それから、何か思いついたように、手を止めた。
「?」
 怪訝に首を傾げる灯月に、彼女はちらりと舌を出す。悪戯を思いついた子供のような仕草で。
「ね、星原君、あたしアレ飲みたいなっ」
 指差した先には薄闇に明りの漏れる小さな店舗。古びた木造の店先には、氷で冷やされてラムネ瓶が売られている。一本、八十八円也。
「…。奢れって?」
「一本で良いよ。あたし炭酸苦手だから。」
 二人で飲もう、と提案されれば、奢るくらい、吝かではない。灯月は両手を挙げた。
「―――了解、お姫様。」
 だから眼鏡返せよ、と言うと、彼女は何だか惜しむような顔をして、だって星原君、眼鏡してない方がいいと思う、などと言うものだから、灯月は言葉に困ってその場で足を止めてしまった。





モクジ
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