「星原君、恋って何だろう」
台所で洗い物をしていた彼女が突然そんなことを口走ったので、灯月は思わず飲んでいた食後の中国茶を噴出した。
―――何事だ。
「わ、ごめん。あたしそんなに変なこと聞いたかな…」
灯月の驚きぶりにこそ驚いたのだろう、冬瑠が慌てた様子でタオルを手渡してくれる。それを受け取り、灯月は胡乱な目付きで彼女を見上げた。
「先輩、……す、す…好きな人でも出来た?」
どもった。
隣で慎ましく沈黙を守っていた隣家の幽霊、坂下蜜依と、同じくお茶を飲んでいた養父・詩律はその灯月の様子を見、互いに目を見合わせ、口にこそしなかったが同じことを考えた。
どもった。
どもったよ。灯月が。
普段は「近寄り難い」とか「クールな印象」とかご近所でも評判の灯月が。
そんな彼らの動揺など知る由も無い冬瑠は、濡れた手を拭いながら灯月の方へと向き直った。少し困ったように首を傾げて、
「ええとね、バイト先で少し…困ったことになっちゃって。あたしを紹介して欲しい、って、バイト先のお友達の男友達が言ってるんだって。…星原君、どう思う?」
「どう、って」
止めておきなさい、友達を仲介して声をかけるなんてそんな根性の無い野郎。
という言葉が咽喉元までせりあがったが、灯月はかろうじて言葉を飲み込んで無難なことを口にした。ここで狭量な所を見せる訳にはいかない。
「…そんなの、先輩が決めることだろう?」
冬瑠は灯月の対面に座ると、美味しそうにお茶を啜った。その隣で詩律が、お茶のおかわりを注ぎながら告げる。
「逢うだけ逢って見れば?」
無責任な口調は確実に半ば、灯月の反応を見て愉しんでいる。クソ野郎、と灯月は胸中だけで毒づいた。
「そうねぇ。逢うだけなら別にどうってことも無いんだし。」
友達を介してって言うのがちょっと気にならないでもないけどねぇ、とこれは蜜依だ。お茶を飲めない幽霊の彼女は、卓袱台に頬杖をついてにやにや笑って居る。詩律と同じ魂胆なのだろう、灯月は胸中でこれまた毒づいた。この根性悪の迷惑幽霊。いずれこの部屋に結界敷いて追い出してやるから覚悟してろ。
無論、目の前に可愛い想い人が居る時点で決して口には出さないが。
「でも、どうしてそれで突然『恋って何だ?』なんて哲学的なお話になる訳?」
その幽霊女が不意にそう問い掛けて、冬瑠は今度こそ困ったような、泣き出しそうな表情になる。
「……一目惚れ、したんだって、そのお友達は言ってたんだけど…。本当に一目惚れなんてあるのかしら、とか、あたしに一目惚れするなんて余程特殊な趣味の人なのかしら、とか、色々考えちゃって」
「ああうん先輩に一目惚れってどう考えてもロリコ」
「貴様は黙る」
何かを言いかけた灯月の口の中に、突然、お茶請け代わりの漬物の切れ端が詰め込まれた。迷惑幽霊・蜜依の仕業である。
咽る灯月を神様と幽霊は完全に無視する恰好で、冬瑠にかわるがわる話しかけた。
「あのねぇ冬瑠ちゃん、冬瑠ちゃんはそりゃー見た目はちょっとアレでソレだけど、顔立ちは綺麗な方なんだし」
「綺麗って言うか可愛いって言うか。でも人柄が出てると思うよオレ。」
「そうそう。だから卑下する必要は無いの。確かにちょっと人より幼いけどね?うん」
「それに一目惚れっていうのは無い話でも無いんだし」
「実際に逢って見たら、思っていたのと人柄が違って、あっちが勝手に冷めてくれるかもしれないしさ」
「だからとりあえず、逢うだけ逢ってみな?」
「え、ええと。それは分かったんですけど、星原君は大丈…」
『ほっとけこんな奴』
図らずも声は二人同時だった。すっかり気圧された様子で、冬瑠はもじもじと頷く。何やらそれでも煮えきらぬ様子に、詩律が首を傾げた。
「何が不安な訳、トウルちゃん?」
冬瑠はその問い掛けに、上目に詩律を見、それから恥ずかしそうに目を逸らして、ぽつりと一言。
「…あの、初めて会う人だし、ちょっと不安だから、星原君かおじ様に一緒に行って貰えないかな、って思って……」
詩律は爆笑し、蜜依は呆れ果て、そして灯月は――漬物をどうにか飲み干して、それからこっそりと胸を撫で下ろした。何ていうか、この調子なら安心だろう、色々と。
「……でも星原君、結局、恋ってどんなものなのかしらね。」
ぽつりと冬瑠が最初の疑問を混ぜ返したのは、灯月にとっては煩わしいことこの上無い二人(神様と幽霊だからこの数え方が正しいかは分からないが)が立ち去った後のことだ。「お裾分け」と称した中国茶詰め合わせを受け取った灯月は、玄関先で胃の辺りを押えた。眉を顰めて、一言。
「…頭痛がする」
「押えてるのお腹よ、星原君」
「胃も痛い気がする」
「病気?」
きっと病気みたいなもんだろう。灯月は頷いて、冬瑠の頭を軽く叩いた。撫でるでもなく、殴るでもなく。
「…恋愛感情ってそういうもんじゃないのか、多分。俺も分からないけど。」
冬瑠は――
不思議そうに一度瞬くと、首を傾げた。そういう仕草をすると全く子供にしか見えないのだが。
「星原君、誰か好きな人でも出来たの?」
彼女が出来たら一番にあたしに紹介してね、とにっこり微笑んで言われ、灯月は胃の痛みにその場でうずくまりたくなった。
―――ああ、本当に、恋ってどうしてこんなにムチャクチャなんだ。