「うふふふー」と幸せそうに笑って冬瑠はくまのぬいぐるみを抱き締めた。緩みきった笑顔で床に足を投げ出している。灯月がその対面でうんざりしたような表情で、冷やした烏龍茶をグラスに注いでいた。
「明日、バイトだろう。二日酔いになるぞ。」
「大丈夫ぅ、よぉー。星原君ってばぁ、あんまり細かいこと言ってると、女の子に嫌われるわよぉー?」
「………うん、ああ、そーだな…。」
酔っ払い相手に何を言っても無駄だ、と灯月は諦めて烏龍茶を差し出した。「ほらこれ飲んで」と無理矢理押し付けるが、彼女は不服そうに口を尖らせる。
「まだ飲むのぉ!」
「あんた幾つの子供だ。」
「にじゅういちでーす」
どこからどう見ても立派な酔っ払いの21歳である。横に居て――何が楽しいのか――一緒に騒いでいた蜜依が、笑う。
「冬瑠ちゃんってホント派手に酔うよね。」
「派手すぎて困るんだよ、俺が。飲み会の度に呼び出されて後始末任されるんだぞ。」
苦虫を噛み潰したような灯月の言葉に、蜜依は遠慮なく大笑いした。ピンクの髪を揺らしながら、灯月の傍へとふわりと寄ってくる。そうして彼女は、半透明の腕で彼の頭を撫でた。
「苦労してるわねぇー」
「…そう思うなら、これどうにかしてくれよ。」
灯月の顎で示した先では、冬瑠が空になった一升瓶を諦め悪くひっくり返している。まだ飲み足りないか、と、灯月は周囲の残骸を見ながらそう思った。ビール缶三つに一升瓶。それも殆ど彼女が飲んだものだ。灯月は香りの強い芋焼酎をちびちび飲んでいる所だった。
「先輩、いい加減にしろ」
しかし彼女はむぅ、と口を尖らせて、子供のような仕草で怒るだけだ。
「いやーよー。飲まなきゃやってらんないわよぉー」
「何かあったのか?」
「…あたしは悪くないもん、悪くないもん!!」
――拙い事を訊いただろうか。灯月は唐突に投げ付けられたくまのぬいぐるみを受け止めながら眉を潜めた。先程まで陽気で我侭な酔っ払いだった冬瑠が、見る間に怒り上戸か泣き上戸の酔っ払いになってしまっている。
「だーって、星原君が!」
「俺が何したって」
酔っ払いにいちいち反論など無駄だと分かってはいたのだが、思わず灯月はそう言い返してしまう。
「星原君がいけないのよーう。星原君が顔ばっかり良いし、痴漢退治したり、女の子助けたりするからー」
「…?俺、そんなことしたか?」
「ほら、そうやって直ぐに忘れるぅ。殴った相手の顔は覚えてる癖に助けた相手の女の子の顔覚えてないなんてぇ、貴方おかしいわよ、絶対おかしいわ、女の敵ぃ」
論理が飛躍している。と灯月は思ったが、その点を突っ込むのは止めた。一升瓶との格闘を諦めたか、やっと烏龍茶に口を付けた冬瑠が再び口を開くのを、待つことにする。
ごくごくと勢い良く烏龍茶を飲み干した冬瑠は、灯月に投げ付けたぬいぐるみをわざわざ身を乗り出して取り返すと、改めて抱き締め直した。そうしながら、殆ど怒鳴るように言う。
「ねぇおかしいわよね坂下さんっ!」
「え?う、うん、そうね。ていうか灯月あんたいつの間に女の子助けたりしてたの。」
「え?あ、いや。…えーと。」
そんなことしたっけ俺。と、虚空を見上げて考え込む灯月。彼には本当にそんな記憶が無かったのだが。
「げつよーびの朝ぁ、駅で絡まれてる女の子助けてぇ、相手の人殴ったでしょぉー」
「殴ってないぞ」
酔っ払いらしからぬ的確な日時に、該当するだろう記憶を思い出して、灯月は即答した。真顔で一言。
「蹴り倒して思いっきり踏みつけただけだ。」
「同じことでしょ!」
「違う。全然違う。結構手加減したんだぞ。」
言い合いを始めた二人を見て、蜜依は顔を引き攣らせた。――もしかしなくても、これは確実に。
「灯月、酔ってる?」
「酔ってない」
「いや、酔ってるよ。あんた。その言動は。」
「俺が酔う訳無いだろ。何言ってるんだ蜜依。」
真顔だったが蜜依は確信した。ああ、これは完全に酔っ払いだ。冬瑠とは違い、一見して言動もまともに見えるが、これが灯月の酔い方なのである。それを知っていたので、蜜依は反論を諦めた。
―――酔っ払い相手に何を言っても、無駄なのだ。
「ああ、うん、そうね、酔って無いわね。…で、それがどうかしたの?灯月は良いことしたんだから、怒ることじゃないんじゃない、冬瑠ちゃん。」
あからさまに話を逸らした蜜依に、しかし酔っ払い二人は特に気にした風も無い。冬瑠がまず、くまのぬいぐるみを振り上げた。
「あのねぇ坂下さんー。星原君が助けた子はねぇ、あたしのバイトの後輩だったのよぅ。」
「あらそれは凄い偶然。世間って狭いわね。」
「そうでしょそう思うでしょー?それでね、その子も気付いてすぐにね、大喜びして、星原君に話しかけたのぉ。『今朝は有難う御座います』って。『お礼がしたいんですけど』って。」
「うん、それで?」
ようやく、ここまで言われて灯月が反応した。
「…ああ、あれ、あの時の子だったのか。」
「………あんた、今の今まで気が付かなかった訳!?」
「助けた相手になんか興味無い。」
きっぱりと言い切り、灯月は焼酎をグラスに注いだ。ペースが上がっている。
「ねぇ?この通りなのよぅ。何て返事したのか、想像つくでしょー?」
冬瑠は憤慨した様子で言って、またぶんぶん、とくまのぬいぐるみを振り回した。蜜依はふと、そういえばここは灯月の部屋なのに、どうしてあんなぬいぐるみがあるんだろう、と全くどうでも良いことが気になった。酔っ払い二人に挟まれる恰好になり、いささか話にうんざりしていたこともある。
「『あんた誰?』って言ったのよ!?…その後あの子、傷ついてこっそり落ち込んでたんだからぁ。」
「仕方が無いだろ。俺は覚えてなかったんだ。」
「ルカちゃんはねぇ、朝からずーっと、『助けてくれた素敵な人』の話してはしゃいでたのよぉ。助けた相手を忘れるくらいなら女の子なんか助けるんじゃないわよ!ばか!」
「ば…」
無茶を言うのは彼女が酔っているからだ、と。理解しているはずの灯月が、その言葉に絶句した。
「『カッコイイ人だったの』ってルカちゃんすっごく嬉しそうだったんだから!」
「……それは俺の責任か?」
「星原君の責任ですー!貴方が顔ばっかり良いからいけないのよ!」
「……冬瑠ちゃん、さり気なく『中身は駄目』って言ってない?」
「そう言ってるんです!!」
握り拳でそう断言した冬瑠に、灯月は今度はその場に伏せってしまった。さすがに憐れに思い、蜜依も何も言えない。――訊かなきゃ良かった。
「…冬瑠ちゃんってさ、もしかして、灯月のこと嫌いなの?」
それでも思わず蜜依はそう問いかけ、灯月は「聞きたくない」とでも言いたげに耳を塞いだ。冬瑠はきょとん、と目を丸くしてから、特に気負う風も無くあっさり、一言。
「大好き」
「あー灯月ほら、耳塞いでる場合じゃなかったわよ今の」
「嫌だ騙されるか!これ以上言われたら俺はしばらく立ち直らないぞ!!」
「立ち直れない」ではなく「立ち直らない」と言う辺りが彼らしい。それから暫く、灯月は耳を塞いだままで、それを余所に冬瑠がにこにこしながら――感情の起伏が激しいのが彼女の酔っ払い方の一番顕著な特徴かもしれない――「可愛い自慢の弟」である灯月を褒めちぎっていたのだが、それを延々と聞かされる羽目に陥った蜜依は相槌を打ちながら心の底からこう決意した。
二度とこいつらの酒宴になんか顔を出してたまるか。