ホワイトデー近辺の星原灯月は忙しかった。バレンタインデーもそうなのだが、「相手の欲しいプレゼント調べてくれないか」だの、「彼女に誰か意中の人は居るのか」だのといった依頼が幾つか重複するためで、
「俺が知るか、お前ら調べろよ」
「頼むよぉ。ほら、お前が気にしてた例の授業、代返しとくしノートも貸すから」
「俺は過去問貸すよ!去年のテストだぜ!」
「単位」
――そう言う餌を目の前にぶら下げられると断れぬのが、大学生の性ではあった。
そう言う訳で他人のアルバイトのシフトだの、普段の行動だの、あまり調べていて気持ちのいいモノでもないのだがそうしたものをさくさく調べて報告し、全てを終えて自分のホワイトデーを考えようと思った頃には、もう14日当日だった。
「…うぉ。やべ」
「え?何がー?」
枕から顔をあげ、デジタルの時計に表示された日付を見て唸った灯月に、ベランダの方から呑気な――そして今は聞きたくない声がする。寝癖で跳ねた髪の毛を無意識に抑えながら灯月が顔を上げた先には、朝の陽ざしにチョコレート色の髪の毛を甘ったるく揺らす、少女のような風貌の女性が立っていた。
無論のことだがここは灯月の部屋で、断じて彼女の部屋ではない。途端に――寝起きであまり機嫌がよくなかったことと、寝癖で跳ね放題の髪の毛とか大口あけて寝てた状態とかを見られたことへの気恥ずかしさから、憮然と声を低くする。
「……先輩。ここ、俺の家なんだけど」
「知ってるわよ?カギはちゃんと郵便受け以外に隠しなさい、ってお姉さん言ったわよ」
「…………あのな」
精一杯険しく文句を言おうとした声は、叱りつける母親のような優しくも厳しい彼女の言葉に遮られる。
「それより駄目じゃないの、また洗濯物こんなにため込んだりして」
灯月に、返す言葉は無かった。ただ彼女が手にして干そうとしていたのが自分の下着であったので、ますます憮然とする。
「だからって先輩がやらなくったっていいだろ」
「あら。あなたに任せたら、きちんとシワ伸ばさないで干すじゃない、何度も言ってるのに」
「だからって――」
「星原君がシワだらけのお洋服なんて着てたら、隣のあたしが気になって仕方無いのよ」
もしかすると自分はいい加減に諦めて彼女に合鍵を渡すべきなのではないだろうか、灯月は最近、時折ではあるがそんなことを考えるようになっていた。郵便受けに鍵を隠しているのは、いつ帰ってくるとも知れない彼の養父の為であり、たまにこのマンションに駆け込んでくる緊急の依頼人の為でもあるのだが、最も多く(勝手に)利用しているのはこの女性、竜堂冬瑠である。
とはいえ、本当に彼女が部屋に乗り込むのを阻止したいなら、とうに灯月は鍵の隠し場所を変えている。実際のところは、隠し場所を変えずに居るのが、彼の気持ちを如実に表していると言えよう。
だが、
(でもなー、俺、冬瑠さんの家の合鍵なんか持ってねーし、俺だけ渡すのも不平等だよな…)
妙な意地があったもので、灯月は未だにその考えを実行に移せずに居る。
寝覚めにそんなことを思案して、いよいよ不機嫌になってきた灯月は、いっそ二度寝してしまおうかと頭から布団を被り、
「星原君、もう10時よ、起きなきゃだーめ!」
――相変わらず母親か姉のような説教口調の彼女に布団をはがされる羽目になった。
渋々と、布団を干すのを手伝い終えた灯月は、コーヒーを飲みながら、エプロンを畳む冬瑠に何気ない口調で問いかけた。
「ああ、先輩今日ってオフなんだっけ」
「え?ええ、そうよ。よく知ってるわね」
俺は先輩のスケジュールなら細かいとこまで把握してますよと言いかけてクチを閉じる。一度そのことで、「星原君はちょっとあたしに過保護だと思うわよ」と彼女に口を尖らせて言われたことがあったのを思い出したのだ。答える代りに灯月は、壁にふたつ並んだ書棚――広いとは呼べないこの部屋ではかなりの空間を占めている――を指差し、
「一番左の引出。この間知り合いに貰ったチケット入れてあるんだけど、先輩使わないか?」
「何のチケット?」
「ケーキバイキングの割引券」
熱いコーヒーを一口飲んで付け加える。
「…カップル限定だけどな」
「あら、それじゃ使えないわ」
――時々灯月は本気で、「この人分かっててやってるんじゃ」という気分になることがある。本当に、時々なのだが。
「……一応、デートの誘いのつもりなんだけど、先輩」
「うふふ、やーねぇ。星原君とあたしじゃあデートになんてならないわよ」
(うわぁ。地味に傷つくぞ俺)
灯月の表情が僅かに陰ったことに気付いているのやらいないのやら――後者の方にカシオミニを賭けてもいい、と灯月は思ったが――冬瑠はにっこりと笑って、引出しからチケットを取り出してひらひら振って見せた。
「でもそうね、他に一緒に行ってくれる人がいなさそうなら、星原君と一緒に行こうかな」
俺と一緒じゃそんなにお厭ですか先輩、とその場で彼女を問い詰めたくなる衝動を、灯月はかろうじてコーヒーで咽喉の奥へと流し込んだ。酷く熱くて苦い、ような気がしたのは錯覚だ。錯覚に違いない。と彼は懸命に自分に言い聞かせ、迂闊な言葉を吐き出さないよう、慎重に口を開いた。
「他の奴ったってなぁ……静火なら今日は留守だ。お嬢と旅行だからな。戒利も藤代センセイも今日は用事があるらしいぞ」
「そうなの、残念。それなら、おじさまは?どこにいるか星原君なら知ってるんじゃ…」
「親父の居場所なら俺も知らない…」
と、言いかけたところでばたーん、と派手に玄関の扉が(冬瑠が鍵を閉め忘れていたようだ)開く音がした。ぞっとしながらある種の予感を抱えて灯月が硬直した矢先である。底の抜けた腹立たしいほど陽気な声が響き渡ったのは。
「やっほー!トーゲツ、ハッピーホワイトデーイ!ところでトウルちゃんにマシュマロ買ってきたけどトウルちゃんどこ…」
「帰れえええええええええ!!!!!」
ほぼ条件反射で灯月は玄関に立ち、そこに立っていた男性に殴りかかっていた。
「お前マジで空気読めよ詩律ゥゥゥゥ!!!」
「え?え?いや何なんでオレこんな怒られてんの?オレ悪いことした?」
「全体的に存在が悪ィんだよ!」
最後は完全な言いがかりである。仮にも「神様」と呼ばれる相手にそれは無い。
その「神様」こと、水神様(二流以下)にして星原灯月の養父である星原詩律は殴られた頬を押えてぽかんとしていたが――全力で殴ったつもりだったのだがさして効いた風もないのが余計に腹立たしい――灯月の後ろでおろおろとする冬瑠を見て事態をうっすらと察したのだろうか。にんまりと笑みを浮かべて見せた。大人しくしていれば「怜悧な美貌」とか「奇麗でなんか怖い」とか言われるくらいなのだが、そうして表情を崩すと途端に人懐こそうな印象にがらりと変わる。
「おお、もしかしてお邪魔だったかな、トウルちゃん」
「とんでもない!お久しぶりですおじさま、あの、良かったらケー」
「先輩っ!俺はちょっとこのアロワナに用事があるからっ!!その話は後にしてくれ!!!」
「え?あのでも星原く」
「…いいから頼むから後にしてくれほんっとに頼むから」
勢いに押されて、冬瑠はつい、頷いてしまった。ケーキバイキングのチケットを握り締めたまま、である。途端、拒絶するように玄関の扉がばたん、と――開いた時よりも派手な音をたてて、閉った。
「……変な星原君」
(ねぇ、あの子ホントに分かってないんだと思う?)
(やーね、気付いてて気付いてないつもりになってるのよ、きっと)
(あたし達に分かる訳ないけどね)
冬瑠の真横、玄関に置かれた小さな壁掛け鏡から囁くようにそんな声もしたのだが、幸いにしてというか不運にしてと言うべきか、冬瑠にはその声は届きはしないのである。
「ケーキバイキングなら行きたいなー」
にやにや笑いながら、玄関の扉を閉めた瞬間に養父がそんなことをのたまったもので、灯月はうぐ、と唸ってしまった。
――冬瑠は少し前、「理想のタイプは?」と訊かれて「おじさまみたいな人」と答えていたことがある。それを思い出すと、心臓の辺りが鉛でも詰まったみたいに気分が悪くなる。
(言い得て妙だよな、俺達能力者は鉛が苦手だし)
「…詩律」
「うん?何だよ、神妙な顔して」
「仮に――仮にだぞ。冬瑠さんがお前を好きだったとして、どうする?」
「え?うーん、それは困るなー。オレ、トウルちゃん大好きだけどさ、オレにとってトウルちゃんってほら、息子のお嫁さんで義理の娘、みたいなもんだし」
「……だよな。悪い。今の質問は忘れてくれ…」
ふぅ、と長い溜息といっしょに灯月はそんなことを言ってその場にへたり込んでしまった。詩律の返すであろう回答なんて知れていたと言うのに、それでも確認してしまうのは男の情けなさ、だろうか。
「ところでさー、トーゲツぅ」
「…何だよ」
さて、どうやって冬瑠さんを言い包めて、自分とケーキバイキングに行って貰うか。そんなことを考えて頭を悩ませていると、座り込んだ彼の頭上から詩律が覗きこんでいる。口を子供みたいに尖らせて、
「いい加減、オレに合鍵くれよー。郵便受けの鍵、たまにないことあるジャン」
「ありゃ勝手に使う先輩が悪いんだ。それにお前に合鍵渡したらどっかでうっかり落として来そうだから嫌なんだよ」
「うわ失礼な。オレそんなに信用ないかな」
「信用の問題じゃねぇよ。お前、元の姿に戻ったらモノ持てねぇだろうが」
――水神である詩律の本来の姿は、大きな青銀のアロワナである。当然ながら人のように道具をつかんだりなんて器用なことができる訳もない。飲み込むことなら出来るかも知れないが。
「そういやそっかー。…あ、じゃあトウルちゃんに合鍵渡せば?」
それが素直に出来るなら苦労はしないのだ。灯月は抱えた膝に額をつけて目を閉じた。
「……俺もそれが一番いいってのは、分ってるんだけどな。なんか意味深じゃねーか、合鍵渡すなんて」
「うん、エロいよね」
「エロいとかゆーな!!」
本日最も深い深い溜息を吐きだして、灯月はのろのろと立ち上がった。それよりも――そう、ケーキバイキングだ。
冬瑠は世間の女性の例に漏れず、甘いものには目がない。ホワイトデーはそう言う意味で、彼女の好感度を大きく上げる無二のチャンスなのだ。無論、灯月はホワイトデーであれただの平日であれ、冬瑠へのアピールを欠かしたことはないのだが、彼女は基本的に人から物をもらったり、奢ってもらったり、そうしたことを苦手とする性格だから、贈り物をするのにホワイトデーというのは非常に口実として都合が良い。
どうせならもっと雰囲気が欲しいところだけどなと自嘲気味に呟く。
「まー無理だよな、トウルちゃんじゃなぁー」
「冬瑠さんだからな…」
結論は常にそこへ行きついてしまい、男2人は知らず同時に溜息をついていた。
結局何の手立ても思い浮かばない。――冬瑠はどうしても、自分ではなく、詩律とケーキを食べたいのだろうか。そんなにこのバカオヤジがいいのだろうか。僻みたくもなるし拗ねたくもなるが、だからといって長々と廊下に座り込んでいる訳にもいかない。
「星原君、お話終わったの?」
部屋へ戻ると冬瑠が、当たり前のように座ってコーヒーを飲んでいた。
彼女のコーヒーは砂糖とミルクをひとつずつ、少し甘めの味付けだ。――灯月には薄らとしか味は分からないが、彼女の飲み方はよく覚えている。
そのコーヒーに突っ込んだスプーンをくるくると回し、彼女が小首を傾げる。
「ああ」
「トウルちゃんお久し振り!元気してたー?」
その後ろから現れた詩律がにこにこと能天気な挨拶をする。冬瑠がぱっと微笑んだ――それはそれは嬉しそうに。
「はい、おじさま。おじさまもお元気そうでなによりです。お仕事だったんですか?」
「ううん、昔の知り合いに呼ばれてね、ちょっと旅行行って来たの。でもほら、そろそろホワイトデーだったなーって思って、ほら、トウルちゃん、バレンタインにチョコレートくれたでしょ?お礼をしようと思って、ちょっと立ち寄った訳」
「何だ、また出かけるのか」
灯月のさしはさんだ質問に、詩律は笑顔のままで頷く。――何とまぁ律儀な男だと灯月は呆れ、感心さえしたが、そもそもこの男は女性のことに関してだけはマメなのだったと思い起こしてまた眉根に皺を寄せた。彼が女性にマメなのは、彼が水神の属性以外に、女性と子供の守り神という性質を持ち合わせているが故だとしても、矢張り気分のいいものではないのだ、自分の想い人が養父に対してあからさまに好意を示しているという現実は。
「はいこれ、お土産!バレンタイのお礼も兼ねて」
ブルーのリボンのついた可愛らしいラッピングを詩律が手渡すと、冬瑠が少し困ったように受け取る。
「そんな、気になさらなくて良かったんですよ?お菓子を作るのは自分の楽しみついでですし、それに、おじさまは味の感想、きちんと教えてくださいますもん。…星原君と違って」
「悪かったな、どうせ俺は味音痴だよ」
「別にいいのよ、あたし、星原君にそんなこと期待してないもの。だから星原君にはお菓子じゃなくって、毎年別のものをプレゼントしているんだし」
「え?そなの?トーゲツもオレ達と同じじゃなかったの?オレはてっきり、同じモノもらってんだと思ってたよ」
トーゲツだけずるい、と詩律が子供のように口を尖らせた。逐一言動が子供じみた神様である。
「ねぇねぇ、トーゲツ何もらったの?」
興味津津、と顔に描いてあるような表情で詩律の青い瞳が隣に座る灯月を覗き込んだ。
「ああ。映画のチケットだよ」
「えー。いいないいなぁ。それで?一緒に行ったの?」
「……井川と行ったぞ。文句あるのか」
井川、というのは言うまでも無く男性であり灯月の友人の一人である。詩律があからさまに落胆の表情を浮かべたが、落胆したいのは俺の方だと灯月はその場で主張したかった。これ幸いと冬瑠を誘おうと思ったのに、彼女の返事は実にすげなく、
『ごめんなさい。あたし、ホラーって苦手なの』
というものだったのだ。一体これは何の焦らしプレイ、否、実は先輩サド属性有りか?と灯月がその場で彼女を問い詰めなかったのは――ある意味、奇跡に近いかもしれない。
「ふーん。それでお礼がケーキバイキングかー」
冬瑠がテーブルの上に並べていたチケットをひらひらと振って、詩律が含みのある物言いをしたもので、灯月は一度ため息をついた。
「何だよ、文句があるのかよ」
「あのさー。オレちょっと面白いこと思いついちゃったんだけどね、トウルちゃん」
にやにや。
詩律の笑みが悪戯を思いついた子供そのものだったもので、灯月は悪寒を感じて眉根を寄せた。養父とはそれなりに長い付き合いだが、こういう表情をしている時には今までロクな目にあった記憶がない。
「何ですか?」
「トーゲツ、お前、トウルちゃんにお菓子作ってプレゼントしてみたら?」
はぁ?と灯月が意図を捉えかねて顔を顰めたのと、冬瑠がきょとんと首を傾げたのが同時だ。詩律は得意満面に、自分のアイディアをそんな二人に説明しはじめる。
「つまりね、トーゲツに、たまにはトウルちゃんの苦労を味わってもらうの。コイツ自分で料理なんて殆どしねーし、トウルちゃんがごはん作ってくれなきゃいつも外食かコンビニかお惣菜でしょ?しかも料理の味なんかロクに分からないし」
「悪かったな…」
――そう、灯月は少々人に比べて味覚が劣る。
その為、何かと濃い味付けを好む傾向があり、料理に大量のソースやマヨネーズやケチャップをつけて食べるもので、料理好きの冬瑠にはいやな顔ばかりさせてしまっているのだ。
とはいえ、
(そこは個人の嗜好なんだし、放っておいてほしいとこだぞ)
唐突な養父の提案に灯月は心底からうんざりと溜息をついた。多分、冬瑠も似たようなものだろう、彼女こそ彼の味覚のひどさを一番理解しているのだから。
「どこがいいアイディアなんだよ、バカ詩律――」
だがそう抗議しかけた灯月を遮ったのは、全く予想とは正反対に、楽しそうに目を輝かせた冬瑠だった。
「いいアイディアです、さすがおじさま!」
「ええええっ!?」
「だろだろ?うん、決まり。トーゲツ、お前これからお菓子作りなさい。トウルちゃんに喜んでもらえる美味しいヤツ」
「む、無茶言うな、いきなり…!」
かくして。
星原灯月、人生初めてのお菓子作りが始まったのである。
相手が欲しいプレゼント、というのは案外難しいところで、「気持ちがこもってれば何でも嬉しいよ!」と人は口先では言うものの、「でも手作りはちょっと」とか「嫌いなもの渡されても困るよね」とか、そんな愚痴を同時にこぼしたりもする。
そう言う訳で、灯月は大抵、「相手に何をプレゼントしたらいいか?」を調査する際には、「相手の趣味嗜好にあわせ、出来れば消費できて、渡されても負担にならないもの。手作りや消費できないようなものは厳禁。」というルール内で提案することにしていた。――勿論、既に恋人同士の関係であれば、もう少し事情は違って来るのだろうが、親しき仲にも礼儀あり、友人程度の間柄であれば、それなりに気を使うことも必要だ。
灯月は、それを自分と冬瑠の間にも当て嵌めて考えて来た。少なくとも誕生日やホワイトデーのプレゼントに関しては、そうだった。
恋人同士、と言う訳でもなく。
しかし友人と呼ぶには近すぎる距離。
(――冬瑠さんは家族って言うけど、そんなにいいもんでもないよな)
強いて表現するのならば、冬瑠はきっと嫌な顔をするのだろうけれど、2人の関係は「主と番犬」が近いと灯月は思って来た。だからこそ。
彼はプレゼントにおけるその、自分なりのルールを守って来たのだ。
それをいきなり「手作りのお菓子」などと。詩律がずかずか自分のルールに踏み込んで来たようで灯月は酷く不愉快だったのだが、何となく従ってしまったのは、全く予想外に嬉しそうな顔をする冬瑠を見てしまったせいだろう。
灯月は鬱々とした気分で、何で拒絶をしなかったのだろう、とひたすら後悔をしながら、パソコンの前に座っていた。考え込みながらも慣れたもので、指先は既にキーの上を滑らかに動いて、幾つか初心者でも作れそうなお菓子のレシピをネット上から拾い上げている。
可愛らしいデザインのページに飾られた甘ったるいお菓子の写真の数々に頭を抱えたい気分で、灯月はしばしの躊躇の後――携帯電話に手を伸ばす。
そうして誰か手の空いてる奴はいないかと、アドレス帳を繰り始めた。
そうして、時刻は変わって午後3時半。
ケーキバイキングに満足し、ついでにちょっとした買い物を済ませて帰宅した冬瑠の目の前には、勝ち誇った顔で皿にクッキーを並べた灯月が居た。
「…星原君、ここ、あたしのおうちなんだけど」
「当たり前だろ。俺が知らないとでも思ったのか?」
「……。どうやって入ったの?」
「ベランダから」
真顔で言われて、冬瑠はため息と共に額を押える。
時折、家の中のことが気になって灯月の部屋の鍵を失敬して勝手にあがりこんでいるのは冬瑠も同じ事で、だから別に彼の不法侵入を咎めるつもりはないのだが、
「…ベランダ伝いに入るのやめなさい、ってお姉さん言ったわよね」
「俺は落ちたりしないし、3階から落ちたくらいじゃ死なない。よって問題ないな」
「あたしの心臓に悪いの!夜中にいきなりベランダに人が立ってたら、下着泥棒か何かかと思ってビックリしちゃうでしょ!」
「だから夜に先輩の部屋に行く時はちゃんと事前にメールするじゃないか。ってか先輩の下着は全部風呂場で室内干しなんだから、下着ドロの心配なんか必要ないだろ」
「そういう問題じゃないんだってば!…って何であなたあたしの下着干してる場所のこと知ってるのよ!?」
などと諸々の抗議をしつつも、冬瑠は結局諦めて、ミュールの細いストラップを外した。灯月が玄関へやってきて、彼女の抱えた荷物を持ってくれる。彼は養父の教育の賜物なのか、それとも師匠の受け売りなのか、こう言う時に妙に紳士的だ。
「これ、何?」
「ストール。そこのイスに置いておいて」
ふぅんと――多分、ストールが何なのか彼は理解していないのに違いない――興味無さそうに頷いて、灯月が荷物を持ってリビングへ向かう。一方冬瑠はいそいそと、テーブルに並んだ大皿をのぞきこんだ。
少し前に焼き上げたのだろう。香ばしい匂いがわずかに残っている。きっと灯月の部屋はもっといい匂いが漂っているのに違いない。
「星原君が、作ったの?」
半信半疑で尋ねると、「作れって言ったのはそっちだろうが」と灯月が憮然とした表情になった。
「うん、そう、なんだけど…うーん。作ったのよね…。」
「何だよ、文句があるなら喰わなくていいぞ」
「べ、別にそう言う訳じゃないのよ。ただ…」
冬瑠が言いよどむもので、灯月はますます憮然とした顔になる。折角苦労して材料から揃えて作ったのに、幾らなんでもこの反応はないんじゃないだろうか。
「――ちょっと見たかったなぁ…」
もう帰ろうか、などと考え始めたところで、冬瑠がぽつりとそんなことを口にしたのが耳に届いた。
「何を?」
「星原君が生地練ってる姿。想像できないんだもん」
「失礼な。…俺だって一応、レシピがあれば料理はできるんだぞ」
というか、彼は割に器用な方だったので、レシピさえあればそれなり程度には料理を作ることはできる。レシピに従っている限りは、彼の味音痴は料理の方には影響しないからだ。逆に言うと、レシピがないとてんで駄目、ということになるのだが。
「そうよねー。それは分かってるんだけど」
冬瑠はしげしげと、大皿に並んだクッキーを見つめる。――彼の家の台所には型抜きなんてものは置いていないから、きっと何かで代用したのだろう。四角と丸ばかり、生地もプレーン一色、と見た目に地味なのはいかにも彼の作ったお菓子らしい。
とそこまで考えて、冬瑠はとうとう笑い出してしまった。
「…幾らなんでもそれは無いだろ、先輩」
「ご、ごめんなさい、だって、…あはは!やだもう、不似合い過ぎる…!」
「……。もう持って帰るぞ、くそぅ」
「あ、ごめんごめん、食べるから!」
笑いの残滓を引きずって目元をぬぐいながら、冬瑠がクッキーに手を伸ばす。まず、手に取ったそれを二つに割り、
「あら、ちゃんと中まで焼けてる」
本当にこの人は俺をなんだと思っているんだろう、と灯月はそんなことを思ったが、もう口には出さなかった。拗ねたみたいな口調になりそうで嫌だったのだ。
代わりに黙って、彼女がさくさく、クッキーを齧る音を聞くことにした。――まじまじと食べている彼女の表情や、その視線を――視線に含まれた感情の方まで――探りたくなってしまうので、興味がない風を装って背中を向けて。
さくさく、さくさく。
さく。
「…まぁまぁかしら」
「うわぁ。何だその台詞」
いつの間にやら二つ目のクッキーを手にして、冬瑠がぽつりとこぼした感想に、灯月は背中を向けたまま呻いた。――冬瑠は伊達に大学の夜間部で栄養学や家庭科教育に関する勉強をしている訳ではない。こと、料理に関しては本当に彼女は厳しいのだ。
「でも、うん。美味しいわよ?」
「…どうせ先輩が作ったものほどじゃないよ」
「あら。それは年季の違いだもの、仕方無いわね」
にこにこ笑いながら、冬瑠が早くも三つ目に手を伸ばし――そして躊躇したように、止まった。真剣な顔で呻く。
「いけない。嬉しくってつい食べ過ぎちゃうとこだったわ。…ケーキをお腹いっぱい食べて来たんだから、今日はもう、甘いものは控えなくちゃ」
ふぅ、と溜息をついた彼女の言葉は、灯月の気のせいでなければ、酷く名残惜しそうだった。先輩は太ってても別に可愛いと思うぞ、と、危うく妙なことを口走りそうになり、灯月は言葉を飲み込む。――太ったら、なんて、仮定であっても女性に対して言うべきではない言葉だ。以前同じ事を口にして、酷い目にあった記憶が彼にはあった。
「残りは明日頂くことにするわね、星原君」
彼女は大皿に丁寧にラップを被せながら、背を向けたままの灯月の背に視線を投げかける。彼が視線を察知できるということを知っているから、彼が振り返らないのは気にしなかった。
「――ありがとう」
「どういたしまして」
「あ。ねぇ、後片付けはきちんとしたの?」
と。大皿を戸棚に仕舞い入れながら、冬瑠が不意に思い立ったように問いかける。灯月はその言葉にやっと振り返り、うん?と彼女の質問の意図を問うように首を傾げて見せた。
「お菓子を作った後って、散らかるでしょう」
「ああ。確かに。…先輩もいつもあんな風になるのか?」
「そうねぇ」
苦笑して頷いた冬瑠に、灯月の目が僅かに丸くなった。まるで初めてそのことに思い至った、といった様子で、
「大変なんだな」
「そうよ、大変なのよ。…で、お片付け、したの?してないなら、手伝うわよ」
彼女がそう提案したのは別に好意からではない、と灯月はちゃんと弁えている。――彼女にとってどうやら「台所が汚い」というのは耐え難いことらしい。まして、灯月の家の台所は、半ば以上冬瑠の所有物と化している感があるから、彼女は余計にそう感じるのだろう。
そんな彼女の反応を、灯月はちゃんと予測済みだった。今度こそ、僅かに口の端をあげて、彼は得意そうに、ふふん、とわざとらしく笑って見せた。
「片付けも掃除も済ませたぞ。――料理は片付けまできちんと出来なきゃ意味がない、んだろ?」
彼がまさか後片付けまでしているとは予想外だったのか、目をぱちりと瞬き、冬瑠は少し寂しいような気がして、小首を傾げた。
正直に言えば、彼が自分に頼らず全てを一人で済ませられた、という事実を受け入れると、自分が必要ないようで、受け入れがたかったのだ。それでつい、皮肉っぽい口調でこう返してしまった。
「星原君にしては気が利くのねー。…さては、誰かに手伝ってもらったんじゃあないの?」
が。
冗談めかしたその皮肉は、藪を突いて蛇を出す結果になってしまった。
「ああ。雪希さんが」
「…。せつきさん?」
冬瑠の声が唐突にこわばったので、――自身の失態に全く気付いていない灯月は、うん、と気圧されながら頷く。
「さすがに俺一人じゃあオーブンの使い方とか、不安だったからな。手伝ってもらったんだが」
「………ふーん。そうなんだ。そうなのね…」
「あ、あのな、先輩。でも少しアドバイスをもらっただけで、後は俺が一人でやったし…」
「……………」
―― 無言の圧力に耐えかねて冬瑠の部屋を出た(今度はきちんと玄関のドアから出た)灯月は、ふに落ちない気分で首を捻りつつ、ポケットに突っ込んでいた手を引っ張り出してああ、しまったなぁ、と自らが何に失敗したのかを振り返っていた。残念ながら、彼は自分の致命的な失態には全く気付いていないので、
(やっぱりあれか。俺一人で作らないと駄目だったか?)
と、微妙にピントのずれたことを考え込む。ポケットから取り出した鍵を、手持無沙汰に弾いて、投げた。
金属の澄んだ音をたてて、冬瑠用に作った真新しい合鍵は、春めいてきた日差しの中をくるくる回って落ちて、彼の手に戻ってくる。
「…渡そうと思ったんだけどなぁ」
台所を片付けないでおけば、もしかすると、鍵を渡す口実くらいには、なったのかもしれない。
そんなことを、思う。
冬瑠は室内で膝をかかえて、真新しいストールを睨みつけていた。自分で自分の気分がふに落ちないが、――別れた彼女を手伝わせるなんてあの子は少し無神経すぎないかしら、と彼女もまた、ピントのずれた結論で自分の気持ちを落ち着かせようとしていた。
断固として、「嫉妬」という単語は浮かんでこないものらしい。
春めいてきたし、帰宅した後の灯月の顔を見るのも楽しみで、浮かれた気分で購入したピンクのストールが今は少しだけ恨めしい。
それから、カバンに仕舞ったままの、灯月用の新しい合鍵も。
(ベランダから落ちたら大変だと思って、作ってはみたけど…もう一週間も渡せないままなのよね)
彼女はため息をついて、それから戸棚を開けて、ラップの下のクッキーをもう一枚だけ、取り出した。
「今日は、甘いものはこれが最後」
自分に言い聞かせながら、――少しだけ甘過ぎるクッキーを齧る。
明日には、――クッキーの感想と、大皿を返すついでに、今度こそ鍵の話をしてみよう。
胸に誓って、もう一口クッキーを齧る。さくさくした食感が、さっきは確かに美味しかったのに、何でだかさっきほど美味しくないような気がした。