初めて見た、ピンク色のスカート。冬のさなかに寒そうなふわふわ、軽そうな素材が、薄暗い冬の朝の駅前に目立った。
ごめんね、待った、と問いかける彼女の言葉にわざとらしく腕時計に目を落とし、灯月は慣性に従って彼女の足元をひらりと揺れたスカートの裾を盗み見ていた。
「遅刻だぞ」
「ごめんなさい、直前に火蝶ちゃんから電話があったのよ」
駆け寄ってきた冬瑠は大きく白い吐息を吐きだした。駅から走ってきたのだろう、それくらいは想像がついたけれど、迂闊にもピンク色のスカートがふわふわと揺れたのに動揺して、灯月が口にしたのは言うつもりのない軽口だ。
「まーたどうせ、出かける直前で着替えたり髪型変えたりしてたんだろ。いつもそれで人を待たせるんだからな、先輩は」
むっとした様子で彼女が口を尖らせる。機嫌を損ねただろうか、ちらちらと様子をうかがっていると、やがて彼女はひとつ溜息をついて、スカートの裾をすいと手で撫でる。静電気がぱちぱちしてスカートって、大変なの、苛立たしげな独り言。何か別の言葉を、例えば文句を、言い掛けたのかも知れなかったが、彼女は結局、それきりくるりと踵を返してしまった。
「火蝶ちゃんがね、」
「…ん?」
「このスカート。着た方がいいって、突然言ったのよ」
「……。は。何で?」
「さぁ。…値が張ったのよね、これ、それで勿体なくってなかなか着られないでいたんだけどね、たまに着ないとかえって服が駄目になるって言うのよ、火蝶ちゃんってば」
冬瑠は肩を竦めた。変な火蝶ちゃん、そう呟いて、灯月を見上げる。焦げ茶色の丸い瞳がくるりと表情を変えて、灯月は思わず目をそらしたが、それを追いかけるようにじいっと視線が追いかけてくるのを感じる。
「じゃ、いこっか!」
アスファルトの上で歩き出した彼女のテンポに、あわせるようにピンクのスカートが躍った。
休日恒例の、という程に頻繁ではなかったが、時折予定が重なって、たまたま見たい映画のひとつもあれば、一緒に出掛けることは珍しくなかった――と正直に告白すると友人達からは羨ましがられた。が、冬瑠と自分は(残念なことに)付き合っている訳でもなく、自分の一方的な片思いは4年たって隣同士の席で映画を見ていてさえろくろく実りがない。それを考えれば、羨ましがられるのはとても道理ではない。灯月はそう考えている。4年間なんの見返りも求められず、何に怯えているのか、もう自分でも分からなくなっていた。或いはこの距離が心地良いから、一歩も先に進めずにいるんだろうか。
――まさか以前白鳥火蝶に指摘されたように、彼自身の能力と冬瑠のコンプレックスが原因だとは思えない。
(…それはそれで面倒な話)
溜息をつくと隣の席でポップコーンの最後の一口を齧っていた彼女が不思議そうに首を傾げた。
「面白くなかった?」
「いや、思ってたよりは良かったよ。正直、原作が好きだから心配だった」
「そうねぇ、心配してたほど悪くはなかったわよね」
同意を得られて安心したのか、彼女がにこにこと頷く。映画のエンドロールを横目に、灯月は、機嫌の良さそうな冬瑠の頭を見ていた。平均身長より大柄な灯月と、平均身長より遙かに小さい冬瑠とでは身長差が大きすぎて、彼女の頭のてっぺんのつむじが、実は灯月の一番よく目にする部分であったりするのだが、多分、そのせいだろう。ふと気付いた。
(ああ、髪型変えたのか)
「さて、時間ちょっとあるし、お昼食べる?それとも星原君、お仕事入ってるの?」
へ、と少し間抜けに彼女に問い返す。
「どうしたの、ぼんやりしてた?」
そうかもしれない、灯月は軽く首を振って、まとわりついてくるような周囲の視線を振り払う。ESP能力者には珍しくないだろうが、彼はヒトの多い場所は元々苦手だ。大勢の人の視線や心の中が勝手に意識に入り込んで来るので、恐らく情報を処理する脳に負担をかけるのだろう、偏頭痛がすることもしばしばであった。もっともここ1年くらいは、能力の制御が多少なりとマシになってきたらしく、頭痛はなりを潜めていたのだが。
「少し人に酔ったのかもな」
「大丈夫?」
「いつものことだ」
頭痛がないだけマシだよと彼が付け加える。心配そうな彼女の視線を感じたが、意識的にそれを彼は無視した。
「…大丈夫」
少し強く繰り返す。不承不承だろうが、彼女は頷いた。
「帰ろうか?」
それは勘弁してほしい、灯月は胸中で呻いた。折角久方ぶりに二人で外出が出来たのに、せめて昼食くらいまでは楽しみたい。
「本当に大丈夫だから…それより俺、腹減ったしさ、飯食おうぜ。どこ行く?」
映画館を出るくらいの頃には次の目的地は決まっていた。どこでもいいと灯月が言うのにも構わず冬瑠は「人の少ない場所」と主張し、互いの財布と相談した結果、映画館から少し離れた通りへ入ることにする。昼時には少し早かったのは幸いだろう、この辺りも休日の昼食時となればそれなりに混雑するのだが、目星をつけた小さな洋食屋はまだ客数もまばらだった。
「良かったね、すぐに座れて」
メニューを片手に冬瑠が微笑む。自分を気遣ってくれているのは嬉しいようであり、なんとなしに情けない気分にもなる。
「先輩、何にするんだ?」
「レディースセット」
にっこり笑う冬瑠の目線が少しばかり茶目っけを含んだのは、まぁ、多分自分に対するちょっとした悪戯だろうか。灯月は小さく舌打ちなんかして見せる。睨んでやろうかとも思ったが、いくら眼鏡越しでも危ないかもしれないので、それはやめておいた。(――灯月は視線それ自体に力を持つ能力者である。)
「…俺が頼めないの分かってて頼むんだからな、たちの悪いことを」
同じのでいいや、と言おうと思っていたのに。
最も冬瑠はそれを見越してわざわざレディースセットなんて頼んだのだろうが。
「星原君はちょっと食べ物にこだわらなさすぎるわよ」
「何だよ、それ」
「少しくらい、作っている人に感謝しなさいってこと」
冬瑠が不満そうに口を尖らせる。きっと時折、食事を灯月に作ってやるのに、彼が無反応――どころか料理に大量の調味料をぶちまけて食べることを言っているのだろう。理解は出来るのだが、とはいえ、
「…そう言われても俺、味分かんねぇし」
「でもほら、誠意ってものがあるでしょー?ソースぶちまけるのはなしよ、無し!」
あれすごく失礼なのよと冬瑠は頑として譲らない。仕方なしに灯月ははいはい、と適当に頷いてあしらい、何とか話題を変えようと試みた。この話題は自分にどうも不利に働きそうだ。
「先輩、髪、切ったのか?」
冬瑠は水を一口飲んで、つん、とそっぽを向いてしまう。違ったかと灯月が内心で慌てたのを尻目に、彼女は少々素気なく言い放った。
「――切ったの三日も前。遅いわよ、今更」
「…あ。うん…ごめん」
何で俺は謝ってるんだ。
「星原君ってほーんと鈍感よね、鈍感!そんなんじゃ女の子にモテないんだから」
俺はあんたにモテればそれで充分なんだけどとは口に出さない。出せない。その前に、どうやらすっかり機嫌を損ねてしまったらしい彼女のご機嫌を取り戻さないと。何と言えばいいのかと彼が思案に暮れている間に、彼に追い打ちをかけるように外で低くゴロゴロ、雷鳴が聞こえてきた。ああ、と灯月は頭を抱え込む。冬瑠がますます口を尖らせてしまった。ちくしょう、気象庁め、お前らは予報外しても困らないだろうが、俺はこんなに窮地に立たされてるぞ。
「…雨、だな」
場を繋ぐつもりがそんな分かり切ったことを口にしてしまった。冬瑠がむっつりとしながらグラスの中の氷を揺らす。からからと音がして、頬杖をついた彼女の眼前、ガラスにぽつぽつ水滴が落ち始めた。通りを歩く人が慌てて店の軒先に駆け込むのが見える。
「見れば分かるわよ」
「…ごめん」
だから何で謝ってるんだよ、俺は。
「ああ、朝からヤな予感はしてたのよ…洗濯物、入れて来て良かったわ」
「ん…先輩、傘は?持ってるのか」
「カバンに入れてあるわ、それくらいレディのたしなみよ?」
「…そのカバンに?」
思わず疑わしげな目を向けてしまう。時々思うことがあるのだが、女性はあの小さいバッグの中にどうして化粧品だの何だのと大量のものをしまいこんでおくことが出来るのだろうか。対して、冬瑠は得意げにカバンをがさがさと探ってから、
「ほら、小さいでしょー?」
と、傘とは思えないくらいに薄っぺらい物体を取り出した。超薄型の折り畳み傘は確かに小さい。得意げな冬瑠を前に、グラスの水を飲んでいた灯月はあからさまに顔を顰める。あーあ、と胸中だけで呻いて天を仰いだ。あのサイズじゃあ、駅まで傘に入れてなんてとても言い出せたものじゃない。
「星原君は持ってないでしょ、傘」
「…よくお分かりで」
「オトコノヒトって、どうしてズボンのポケットに財布入れてそれだけで出掛けられるって思うのかしらね」
こういうこともあるんだから、あたしの方が正しいわよ、そう言いたげに笑う。
「…飯食ってる間にやむかもしれないだろ」
「そうかしら?あたしのカンだときっと今日はやまないわよ、この雨」
「……先輩のカンは洒落にならないんだから、やめてくれよ」
言い合っている間にも雨脚は強くなるばかり、冬瑠の「あたしのカン」が冗談であれ本気であれ、小一時間程度ではとてもおさまってくれそうにもない。通りに面したガラスに滝のように雨が流れ落ちるのを恨めしい気分で睨んでいると、同じ方向を眺めていた冬瑠が不意に声をあげた。
「あ、そうだ」
「何だよ」
「ねぇ、どう思う?」
「…何を」
「髪切ったし、スカートもおニューなのよ」
拗ねたように、目の前の彼女は口を尖らせた。
「ねぇ、お姉さんに言うべきことがあるんじゃないかしら」
言葉を失った。
ああ、もう、言うつもりでずっと言わずにいるから、こういう目に合うんだよ、自嘲気味にそんなことを考えつつ、灯月はガラスをじっと見ていた。ちくちくと刺さる冬瑠の視線は愉快そうな気配を含んでいて、それで余計に、とても彼女の方を見ることが出来ない。
「ああ、いいんじゃないの」
「こっち見て言いなさいよぅ」
「あーもーいいだろ、そんなの、どうでも、」
「よくないわ。もー、駄目よ、そんなコト、女の子はマメに褒めてあげなくっちゃ。お姉さんは気にしませんけどね?」
「いや、そこは気にしようぜ」
「何それ。…んもう、どっちにしろ、あたしはいいけど、余所で女の子にそういう態度とったら嫌われちゃうわよ、気をつけなさい?」
いや、だから――と言いかけて、灯月はため息をついて言葉を咽喉に押しこんだ。どうせ何を言ったって、彼女の姉貴面はきっと変わり様がないんだ、そんな諦めで肩が落ちる。それでも諦めたままでいることが悔しくて、灯月は一度、今度はため息ではなく腹を決める為に息をついて、
「――可愛いよ」
真正面から言うと、彼女は一瞬驚いたように目を丸くして、きっとそんな風に真顔で言われてしまうなんて彼女は思っていなかったんだろう。予想の裏をかけたのが少し嬉しくて、気恥しさで頬杖ついていた腕を下ろして、灯月はもう一度口にした。今度は多分、自分の方がよっぽど愉快そうな顔をしているんだろう、そう思いつつ、
「似合ってる」
「な、な、な」
冬瑠は二、三度口ごもってからぱっと頬を染めて、それから灯月に向かって手持無沙汰にいじっていた紙ナプキンを投げつけた。
「お、お姉さんをからかうんじゃありません!」
――どうしろってんだよ、全く。
食事を終えても冬瑠の予想通り雨はやまなかった。
小さな折り畳み傘一本ではとても二人分の雨は防げず、駅に着く頃は二人揃って濡れ鼠だったが、大して気になる様なことでもない。意味がないじゃないと彼女が駅の直前でとうとう傘を畳んだとき、不意に雨脚が弱まった。様子を見るように手をかざして空を見上げた彼女が笑う。
「びしょ濡れね。これじゃ電車に乗れないわ」
「茶でも飲んでくか」
雨が止んだら虹が出るかもしれない。そんなことを、思った。