クリスマスのお話



 レポートを終えて夜のさなかに洗濯物を干そうとベランダに立ったのは深夜のことだった。零時を過ぎているから締切当日である。ほとんど音も立てずにかごを抱えてベランダに出たところで、微かに煙草の香りを感じ、灯月はベランダから下を覗き込んだ。
 マンションのベランダ、階下に黒い頭が二つ。煙草の先が赤々と闇に映え、灯月はそれを認めて洗濯物をはたく手を止める。階下の二人は彼に気付いた風はなく、防火壁越しにのんびりとした調子で、紫煙の合間に言葉を交わしていた。404号室と405号室の住人だ。


「寒いですね」
「冬だもんねー。ホタル族は辛いわ」

 ぷかりと吐き出す煙が小さくゆらゆら。上階の灯月の鼻先を掠める。階下の赤のうち一つは確かマルボロライトだったか、それほど煙草に興味もないので銘柄までは覚えていない。対してもう一つの赤の方ははっきり確信を持って銘柄まで特定できる。ピンクにホログラムの小さな装飾のある可愛らしい箱の、名前は「ピアニッシモ・ペシェ・メンソール・ワン」だ、確か。香りがあまり強くないことが彼女が気に入っている理由らしい。
(ニオイが気になるなら煙草なんかやめりゃあいいものを)
 胸中だけに呻いて二人の会話に再び耳をそばだてる。洗濯物はかごごと足で追いやっておいた。

「ところで冬瑠ちゃん、何かあったの」
「…あははー。バレますねー、やっぱり」
「バレるわよ。煙草吸うの、そう言う時だけでしょ」
「だから人前で吸うの、嫌いなんですよ…桐子さんが居るのなら部屋で吸うんだったな」
「ま、見つかっちゃったものは仕方ないわね。さっさとゲロして楽になりなさいよ」

 ふぅ、と、ため息なのか、煙草を味わう満足なのか、どちらとも知れぬ吐息が聞こえてくる。小さな吐息は彼女のものだろう。姿だけなら高校生か中学生にも間違えられがちな彼女と「喫煙」という行為は、こうして目撃してさえ、どこかそぐわぬイメージがある。
(案外、酒も好きだしなぁ…)
 自身の姿、年齢にそぐわぬ幼さに対するコンプレックスが根底にあるのかもしれない。柄にもなく彼女の心理を分析し、そしてその分析結果を灯月は脳裏で自ら握りつぶした。馬鹿馬鹿しい、仮にそれが本当だったとして、それが彼女の何を損ねるって言うんだ。煙草も酒も彼女は度を弁えているんだから、家族同然といえ他人の彼に言うべき言葉などありはしない。

「言いたくないなら当てちゃうよ?」
「…嫌がる人にESP使ったら一応は違法行為になりますよ」
「ンなもの使わなくても分るわよ。どうせ灯月のことでしょうよ」
「何で分るんですか…」
「モモが言いふらしてたわよ、あんた達が朝から言い争いしてたって」

 どうせ原因はあいつなんでしょーと無責任なことを言って桐子がからからと笑う。むっつりとそれを聞いていた灯月はよっぽど「悪かったな」等と声を出してやろうかと思ったが、やめておいた。ためらいがちに冬瑠が口を開いたからだ。

「いえ、あの…全然、大したことじゃなくって」
「そりゃそうでしょ。世の中、その手の喧嘩は『犬も食わない』って言ってね、くだらないことが原因ってのが相場よ」
「…くだらないことって言い捨てられちゃうとなんかこうちょっともやっとするものはありますけど、きっと傍目にはくだらないことなんですよね…。あの桐子さん、ところで犬も食わないのは夫婦喧嘩ですよ、姉弟喧嘩は違うんじゃないですか」
「似たようなも…いえその前に、冬瑠ちゃん、ほんっっっとーにその認識変わらないのね…」

 ある意味灯月を尊敬するわと、呆れ気味の桐子の声。ああ、お陰さまで苦労してるよとヤケクソ気味に胸中だけで灯月は返答した。冬瑠さんは四年間揺らぎもせずに俺の姉貴面をしてくれてるよ、俺の気持ちなんか知ったこっちゃない顔で。

「まぁいいわ、続けてよ」
「…星原君が、その、昨日の夜なんですけど」
「ああ、初雪の割には積ったわね。事故が多くて参ったわよ」
「電車が止まっちゃったじゃないですか、それであたし、バイトの後、終電、逃しちゃって」


 ――何で俺に電話しなかったんだよ。


(あー。…あー、うん。あれな)
 今になって思い返してみれば本当に犬も食わない、くだらない話だ。
 更にその日は、クリスマス・イヴだったのだ。別にロマンチストを気取る訳ではなかったが、元ホストの女性の守護神様である養父に言われずとも、サンタクロースの実在を信じていなくても(というかサンタクロースは実在するのだが、彼らはクリスマスの夜に子供達の靴下にプレゼントを入れて歩いたりはしない ――季節問わずに奇跡を配りに現れるのが彼らなのだから)やっぱり理由があれば喜ぶ顔見たさにプレゼントを用意してしまうのが人の心というものではないだろうか。
 それで、灯月は柄にもなく彼女には内緒でプレゼントなど用意して、帰宅をひっそりと待ちわびていた訳だが、

「仕方がないから火蝶ちゃんにお願いして、その日は火蝶ちゃんのおうちに泊ったんです…もう遅い時間だったから星原君には明日連絡しようって思ってて――あ、ほら、連絡しないとあの子、人を心配して探して歩き回った挙句に肺炎起こして倒れて病院担ぎ込まれたりするじゃないですか」
「……えらく具体的な心配ね、もしかして昔そんなことがあったの?」
「えーと。…まぁその昔のお話です、それにあの時はあたしが変な人につきまとわれてたから余計に心配させちゃって、だからその、今の星原君はそこまでおばかさんじゃないですよ?」
「……冬瑠ちゃんに関する限りは今でも昔でも変わらず底抜けの馬鹿だってことはよく分かったわ」

(うるせぇ、余計な御世話だ)
 誰に狙われるかも分からない、見る者によってはその存在そのものが垂涎の的という恐ろしいプレミア付の相手に惚れてみろ、と桐子に言ってやりたくなる。美女に惚れて嫉妬に狂って監禁した男の話を何かで読んだ気がするが、気持ちは本当に分からないでもない――タチの悪い虫がつく、どころの騒ぎじゃあないんだぞ、その人の場合は。

「星原君は本当に、心配のし過ぎだわ」

 憂鬱そうな言葉と煙。彼女はフィルターを噛んでいるんだろうとぼんやり灯月が思い起こすのは、彼女の部屋にひっそりと置かれた小さな灰皿の事で、ファンシーな彼女の部屋に恐ろしく不似合いなそれは、いつでもフィルターを噛み潰した吸いがらばかりが放り込まれている。
 そういやストローも噛むもんなぁ、冬瑠さん。
 彼女の言葉に思わず反駁しそうになった自分を、そんな関係のない物思いで諌めた。

「…やれやれ、あの男も本当に報われないわね」

 ぷはー、と少し長めに吐き出された煙は少し香りが強い。暗い夜の闇、部屋の明かりを反射して立ち昇る煙を灯月が睨むその足下で、桐子が肩を竦めながら灰皿に短くなった煙草を押し付けていた。

「冬瑠ちゃん、昨日はクリスマスイヴよ」
「知ってますよぅ。だからウチ、バイトの子が三人もお休みで、あたしヘルプで入ったんですよ」
「そーじゃなくってね、人にプレゼントして喜んでもらいたい奴には、それなりに理由が要るってことよ」
「え?えーっと…?」

 こくん、と冬瑠は多分、首を傾げたんだろう。焦げ茶の頭が揺れたのが見て取れる。

「すみません先生、分らないんですが」
「――だ、そうよ、星原ぁ。あんたの隠し事、冬瑠ちゃんに教えていいのー?」

 唐突に目があった。全く想定していなかった桐子の行動にぎょっとして一歩後ずさった灯月の、後を追うように冬瑠の小さな悲鳴が聞こえてくる。ぱたぱたと部屋へ駆け込む足音がしたのはきっと煙草を捨てに行ったんだろう、どういう訳だか、彼女は自分の前では絶対に煙草を吸う姿を見せてくれた試しがない。彼女に煙草など似合もしないしさっさとやめればいいとも思うが、その珍しい姿を見られないのは多少惜しくもある訳で、少々名残惜しく思いながら灯月は下のベランダ、こちらに向けて舌を見せている女をじっとりと睨んだ。

「いつから気付いてたよ」
「あんたの気配って強いのよ、すぐに分かるわよ」

 大体、私、これでもESPなのよと彼女は意味なくふんぞり返って見せた。手すり越しに灯月を見上げればまぁ、否応なくふんぞり返って見えるから、意図したものでもないのだろうが、腹立たしいものは腹立たしい。灯月はため息を混ぜて階下の煙草の本当に微かな匂いに意識をじっと澄ませた。彼女の体を害するという意味では好きになれぬ匂いだが、だが、まぁ、こうしていれば悪いものでもないような気がしてくる。憂鬱な時に限って彼女がこっそりと煙草を吸うのはこの匂いの為なのか、と考えていると、今度は彼の部屋の玄関が騒がしい。

「ほ、ほしはらくんっ!どういうことなの!?どこから聞いてたの!?ああもう、忘れて!忘れてよぅ!ばかぁ!あたし煙草なんて吸ってないもん!」
「先輩深夜だ黙れうるさい」
 背後にそんな声を投げつけて、階下の世話焼きな女刑事に舌を出して見せる。

「人にちょっかい出してる暇があるならさっさと男作れよ、イヴに一人でパソコンでゲームしてただろ、いい歳こいて乙女ゲーか?」
「ぎゃあああ!いやああ!ちょ、ちょっと何であんたが私と私の嫁のクリスマスパーティを知ってるのよぉぉ!悪いか!画面から出て来ない二次元恋人とクリスマス過ごして悪いかばかぁ!」
「…………そうだったのか。いや俺はそこまで言ってないんだが。」

 クリスマスパーティと称してパソコン画面前でシャンパンを開ける彼女が何故だか容易に想像できてしまい、一種の侘しさというか、身をつまされるような居た堪れなさというか、どちらともとれぬ感情に目頭が熱くなったような気もしないではなかったが、

「ほしはらくん!開けなさい!」

 深夜だということを迂闊にも忘れてしまったのか、玄関で騒ぐ冬瑠の声の方が気になったので、ベランダで「打つ出し脳」と今にも言い出しそうな様子の桐子のことは放っておくことにした。多分、そっとしておいてあげたほうがいいんだろう、きっと。別に首つったりもしないだろうし。




「うるさい」

 玄関を開けるなり、半分涙目の彼女の視線が全身に突き刺さった。混乱していたのか、扉が開くなり部屋へ飛び込もうとして灯月に体当たりし、突然のことに受け止めきれなかった灯月はそのまま玄関に引っ繰り返った。げた箱に腕がぶつかって、ばらばらとサンダルやら捨て忘れた古いスニーカーやらが落っこちて来る。最後に、バランスを保とうとして結局保ち切れなかった冬瑠が落下してきて、それら全部に踏みつぶされる格好になった灯月のうめき声は冬瑠の控え目な悲鳴でかき消された。
 理不尽だ、俺の方が絶対に痛い目を見てるじゃないか。と、誰にともなく文句をつけつつ、打ちつけた腕をさすり身体を起こす。彼の膝の間に納まる格好になり、胸に全体重を預けている冬瑠が慌てているのは、間近に見ていて目にも楽しく、正直このまま話を聞いてもいいかなとちらりと思いもしたのだが、

「ご、ごめんなさい星原君!」

 ひょこりと玩具みたいに冬瑠が飛びあがってしまったので、結局、肩に回そうかどうしようかと躊躇していた手は行き先を失った。いつもこれだ、と軽く自分に舌打ち。全く、そこで躊躇しなけりゃあいいものを!

「…盗み聞きするつもりはなかったんだ、悪い」
「…う、うん」
「あのさ…先輩、俺、心配し過ぎか?」
「え、ええと、正直ちょっとだけ鬱陶しいかなと思うことがないでもなかったり」
「…」
「……」
「いや、そこは否定してくれないと俺としては立つ瀬がないんだが」

 立ち上がった拍子に、大して多くもない靴がばらばら転がって落ちる。その中、白だの黒だの地味な色合いに混じって、赤いリボンと緑の包装紙の可愛らしい包が転がり、ことんと少し重たい音を立てて玄関にぶつかる。二人、同時にそれを見て、灯月は頭を抱え、冬瑠はその灯月をじぃと見上げた。

「あの…えーっと、もしかして、昨日ずーっとあたしの帰りを待ってたのって、原因」
「いや、あのな、違う、ほら、クリスマスだから、あんまり深い意味は」

 普段色々世話になってるしと口早に続ける灯月を見上げる冬瑠の視線が、きょとんとしたものから次第に嬉しそうな感情に変化していく。幸か不幸かその変化が手に取るように分かってしまう灯月としては気恥しさでもう一度座り込みたくなった。うつだしのう。思い浮かんだフレーズはよりにもよってそれだけである。

「ありがとう…」

 居た堪れなさに背を向けた灯月の背後で、やがてゆるゆると冬瑠が微笑んだ。肩越しに思わず振り返った灯月の目の前、拾い上げた包みを胸に後生大事に抱えた彼女が、少し俯きがちに、

「あ、ありがとう、星原君!ごめんなさいあたしってば…あ、そうだ、ケーキ!明日ケーキ作るから!ホントにありがとう…!」
「いや、…ありがと」
「な、なんであなたがお礼を言うのよぅ」

 くすくすと笑う冬瑠を前に、ああ、この顔見たさに用意したんだった、と灯月は彼女の手の中の包みを見やった。中身は大したものではない、散々迷った割には何の芸も無い、色とりどりのマカロンの詰め合わせだ。去年の誕生日もケーキ食べ放題のバイキングを奢っているし、どうも俺は芸がないなと灯月は思ったものの、包装紙を解いた冬瑠は心底嬉しそうにえへへー、と相好を崩したので、まぁ、当たり、だったんだろう。そう思うことにする。

「でも、どうしたの?今までクリスマスにプレゼントなんて、くれたこと、なかったじゃないの」
「あー…ま、何となくだよ」

 今までは――どちらかというとクリスマスは憂鬱な季節だったのだ。別に一緒に過ごしてくれる恋人がいないからではなく、単純に「良い思い出がない」という意味で。恐らくそれは冬瑠も同じではあるまいかと勝手に想像し(そして多分実際、そうだったんだろう)、灯月は付け加えた。

「いいじゃねぇか。たまにはクリスマスに、いい思い出のひとつも欲しくなったって、それだけのことだよ」
「そんなこと言ったって、いい想いしたのはあたしの方だし、それに」

 彼女は時計をちらりと見て、

「…26日。クリスマス、過ぎちゃったわね…」
「2日3日くらい大したことじゃないだろ、別に」

 灯月は本当に心底からそう思っていたのだが、冬瑠はそうだけど、とばつが悪そうに俯いてしまう。そもそも、彼のクリスマスのプレゼントの機会を奪ってしまったのは、直前でバイトの予定を入れてしまった自分が悪い――などと思っているのではあるまいか。そう考えて、灯月は思案し、ふと提案してみた。

「…来年は予定開けておいてくれるか?」

 冬瑠は一度瞬いて、おかしそうに笑いだした。

「そーね、恋人がいなければ、考えておくわ!」

 ああ全く、そうなることを(或いは首尾よく、恋人の座に納まれていることを)祈るよ。灯月の胸中の祈りを彼女は知る由もないし、ましてや一年後、二人がどうなっているかなんて、知る術もあろうはずはなく、だから、

「折角だからツリーも買って来ましょうか?」

 嬉しそうに言う彼女の提案を、退ける理由も、思いつきはしなかった。