竜堂冬瑠が見つけた時、星原灯月は、二人の男女に挟まれる格好で深刻な溜息なんてついていたのである。
「――灯月、お前人の話を聞いていて?」
「はいはい聞いてます」
「何だよそのおざなりな返事。灯月、僕の方が正しいって分かってるだろ?」
「お前が正しいかどうかなんてわたくしは一度も問題にしていなくってよ静火。お前少し黙っていなさい」
「お、お嬢、横暴だよ!」
「わたくしが横暴でなく、横柄でなく、傲慢でも我儘でもない時なんてものが一瞬でもあって?」
「無いです。ごめんなさい。話続けて下さい」
「お前それでいいのかよ静火…。で、お嬢、何の話だったんだよ結局」
「だから、下品な盗人が出たと言う、そういう話よ」
「最初にお嬢、僕のこと疑ったよね。幾らなんでもあれは酷いよね」
「女々しいわね、終わったことをいつまでも愚痴愚痴と繰り返して。もう少し目新しい面白い発言をして頂戴、静火」
「無茶ぶりだよ!」
「………お前ら、仕事の話じゃねーなら帰れよ」
「だから灯月、聞いてってばー」
「灯月、お前、少しは人の話を聞く気は無いの?」
「帰れよもう!」
どん、と灯月がテーブルを叩く。卓上のカフェオレも心もとなげにがたんと揺れる。教科書に僅かに飛び散った液体を苛立たしげに睨み、灯月は胡乱な視線を、自分を挟む位置で座っている二人それぞれに向けた。珍しくも一切の遠慮なく――そう、灯月にしては珍しく。
「もう帰れよお前ら。俺は午後から講義なんだよ!」
「知ってるよ、お前が『仕事』を引き受けるためにカフェで粘ってんのは木曜の二時限目。講義でそこだけ空いてて暇だからだよなー。あと金曜は三時限目だっけ、火曜日も二時限目だな」
「あとはランダム出現だから乱数調整でもしないと捕まえづらい…と、キャンパスでもっぱらの噂になっていてよ、お前。『調査屋』の仕事を嫌っている割には律儀だこと」
「うるせー俺だって生活費稼ぐ必要があんだよ。レポートの資料探しだの何年か前の試験探しだのカンニングした犯人探しだのペット探しだの、くだらない仕事でも金になるんだよ…!」
「…情けないわね。お前のそういうところは本当に『犬』と呼ぶに相応しいわ」
「お嬢、相変わらず口が悪いな…ほんっとに冬瑠さんと似てねぇよ…」
「え、何言ってんだよ灯月。今のはお嬢の最大限の賛辞だよ」
「静火。全ての人間がお前みたいなマゾ趣味じゃないぞ」
「僕のどこら辺がマゾヒストなのさ…ねぇ、お嬢?」
「いえ、わたくしもお前はそっちの気があるものだと想っていたのだけれど…違ったのかしら」
「お、お嬢酷いよ!? 何年僕と付き合いがあるんだよ! もしかしてずっとそう思ってたの!?」
「いいえ。そう思うようになったのはお前と婚約して以来ね。さすがに小さな頃はそんな性癖があるなんて思いもしなくってよ」
「ガキん時にそんな性癖を把握してたらさすがに怖いぞお嬢」
「…僕、お嬢にどういう目で見られてた訳…」
「あー…蔑むような目か?」
「ええ、蔑むような目ね。」
「酷ッ!? 今初めて知ったけど洒落にならないレベルで酷くないそれ!」
「冗談はこの辺りまでにしておいて」
「お嬢…今の割と冗談じゃなかったよね…マジで言ってたよね…?」
「冗談はこの辺りまでにしておいて。――灯月、どうなの?」
「だから何がだよ…。お前らさっきから人を左右から挟んで散々痴話喧嘩しやがって、肝心の『仕事』の話なんざ掠りもしてねーじゃねぇか…」
ぐったりした灯月の溜息に、男女はそれぞれに顔を見合わせあった。駄目だねコイツ。ええ、駄目だわこの馬鹿犬。言葉にせずともはっきり明々白々とそう伝えて来るような視線に、灯月はげんなりと、もう一度溜息をつく。
丸いテーブルを挟んでいる男女は、一人は灯月のよく知っている地味な容姿の男性で、もう一人は異常なほど小柄な女性だ。知らない人間が見れば「少女」と呼ぶかもしれないがこれでも20代である。大人の女性扱いをしないと失礼な年頃だ。
男性の方は一応は身なりには気遣っているらしいが、深緑のパーカーにダメージジーンズ、スニーカーとこの上なくラフな格好。髪型も、お洒落心でそうしていると言うより「寝癖をそのまま放置しました」と言った風な乱れ具合である。
片や女性は全く正反対に、和装をきっちりと決め込んでいる。淡い色合いの着物の上に、濃紺に薄らと牡丹の柄をあしらった羽織を着こんでいた。小柄な体格だが姿勢の良さと立ち居振る舞い、そして何よりその口から零れる毒混じりの口調はやたらに威厳があり、不思議と小柄さを意識させない。
とはいえ何より目立つのは、その小さな女性の目の色であろう。
黒髪に、平均的日本人よりは多少白い程度の肌、顔立ちも彫が特に深い訳でもない。
ところがその瞳だけが、青い。灰色がかった青色は透き通っているようにも見える。
――が、彼女を見ていると、灯月はそれよりもずっと別のことがいつも気にかかって仕方がない。彼の良く知る大切な「ご近所さん」に、この女性は酷似しているのである。それはもう、カラーリングだけ違えた2Pキャラの如く。
頬杖をついて、灯月はその女性から視線を逸らした。どうにも「彼女」に似ているせいで、この女性には強く出られないのである。彼が強く出られない女性は彼女一人には限らないが、それは今は置いておくことにする。
「事の起こりは先週になるわ。一度しか話さないからよく聞いておいで」
名を「篠崎燈璃(とうり)」という青い目の小柄な女性は、ちょっとした有名人でもある。宝舞町からは少し離れた高級住宅街、小高い丘の上にどんと構えるお屋敷の主である彼女は、篠崎家、という旧家の当主様にして、日本有数の「予知能力者」である。その異能に加えて、神秘的な青い瞳と黒い髪という変わった外見のお陰か、テレビ出演の依頼も時折舞い込んでおり、そう言う意味でも有名人だ。
そんな彼女は、小高い丘の上、大きな大きな金木犀を抱くようにコの字の形に作られた日本家屋――といっても内装は和洋折衷だが――に、「婚約者」である皆川静火と、ひっそりと暮らしている。家事の一切は通いのお手伝いさんと、殆ど主夫と化している静火任せ、少しばかり屋敷が広すぎることを除けば悠々自適の生活だ。
そんな大きな、いつもは静まり返っている屋敷内の一角で、先週、事件は起きたのである。
「静火!」
滅多に声を荒げないお嬢様の大声に驚いて、ハーブ園に居た静火は飛びこむようにして庭から屋敷へ戻ってきた。手袋には土がついたままだし洋服も土と草塗れという格好で、声の聞こえた場所を探して広い邸内を走り廻る。とはいえ、彼ら二人が生活している空間は限られている訳で、目当ての人物はすぐに見つかった。
風呂場の更衣室近く、その人物は腰に手を当て怒りも露わに、静火を見つけるなりひりつくほどに冷たい視線のまま、開口一番、
「静火、数が足りないわ!」
「え、あの、お嬢、何が?」
当然、静火は彼女の怒りの原因など知る由もない。無理もない。この言葉で何を察しろと言うのか。が、我儘かつ横暴で横柄で傲慢な御令嬢は、そんな彼の困惑に対する配慮など一欠けらもなく、
「信じられない。わたくしのお気に入りだったのに…ッ!」
「いやだから、何が?」
「下着ですよ、若」
おっとりとした声が、燈璃の背後から聞こえてくる。綺麗に畳まれた数枚のタオルを抱えて歩いてきたのは、地味な藍色の着物に白いフリルエプロンを着けた、ある意味で趣味的な格好をした女性だった。年の頃は30代の後半といったところだろうか。この屋敷に通っているいわゆる「お手伝いさん」の一人である。
「え、下着?」
その単語にいよいよ訳が分からなくなり、静火は助けを求めるように現れたお手伝いさんに視線を向ける。彼女は律儀に丁寧に、にこにこ笑顔のままで説明をしてくれた。
「つまりですね、お嬢様の下着が足りないのですよ。それもお嬢様のお気に入りでいらっしゃる薄いピンクのパン…」
「詳細な説明はしなくていいのよ、倉崎!」
「はいはい、相変わらず横暴ですねウチの雇い主サマは。…要するに、お嬢様の下着がどうやら盗まれた恐れがある、ということです」
「え、盗まれたぁ?」
お手伝いさんの説明のお陰で、事の次第をようやく理解して、静火は思わず素っ頓狂な声で繰り返してしまった。セキュリティの厳しいこの邸内で盗難事件、という点でも驚いたが、その内容が「下着泥棒」では呆れるしかない。お手伝いさんや、それこそ燈璃本人が紛失した、と言われた方が余程説得力があるというものだ。そう思って口にしようとしたのだが、静火の言葉は神妙な調子のお手伝いさん――倉崎さんの言葉に遮られた。
「若、今のうちに正直に自白していただければ、私ども家政婦一同も若のベッド下という聖域に強制捜査のメスを入れずに済むのですが如何ですか」
「うん、ええと、その、まず一応突っ込んでおくけど僕の部屋和室だからベッド無いよね」
「そうでしたね。――では、盗品はどこに隠されたんですか?」
「え、あれ、なんか前提がおかしいよね? 何で僕が盗んだことになってんの? お嬢も何か言ってよ」
「…静火。下着くらい、お前の頼みなら使用済みのものを融通してやったのに。何も人の一番のお気に入りを盗むことはないでしょう」
「うわぁどうしよう、よりによってお嬢の言葉がツッコミどころが多過ぎてどこからどう突っ込めばいいのか分からないなんて! 僕そろそろ婚約解消を視野に入れていいかな!?」
「冗談よ」
「冗談ですよ。若、少し落ち着いて下さい」
「冗談だって言っていいことと悪いことがあるだろお嬢…!」
「冗談よ。お前はわざわざ盗まずとも、わたくしから堂々と譲り受けていけばいいのだもの。…あら、ちょっと待って? 盗むことそれ自体のスリルを味わっているとしたら説明がついてしまうわねどうしましょう」
「説明つけなくていいよそこは。何で意地でも僕の犯行に持っていこうとするかな」
「その方が面白そうだからに決まっていてよ、ねぇ倉崎」
「はい、その方が面白そうですもんね、お嬢様。家政婦連盟一同、見逃せない事件だという意見で一致しています」
「解雇されてしまえ家政婦連盟め! て言うか盗んだところでどうするんだよ!! お嬢の下着なんて見慣れてるのに何に使うってのさ!?」
「…嫌だわ静火。女の口から何て事を言わせる積りなの?」
「若ってば卑猥ですね、若がイケメンじゃなかったらセクハラとして使用者の立場から訴えさせて頂きたいレベルです。恥じらう女性の口からえっちな言葉を聞いて喜びたい男性心理ですか?」
「今まさにドSの女性達に甚振られてる僕としてはむしろ君らの方こそ変態なんじゃないかって問いたい。ちくしょう…こいつら魔女だ…真性の魔女だ…」
「お前の方こそ『本物の魔女』の癖に何を言っているの、馬鹿ね。――それで、本当に冗談はここまでにするのだけれど」
すとん、とそれまで口元を覆ったり静火を叩いたりするのに使用されていた、燈璃の扇子がぱちん、と音を立てて閉じられた。それと同時に二人は揃ってそれまで騒いでいた口を閉じ、改めて、この屋敷の主、「篠崎家」の当主様であらせられる小さな小さな女性に向き直った。その視線は先程までのおふざけの色は無く、実に真摯なものである。
「――盗まれた品についてはともかくとしても、この邸内に不届きものが侵入したという事実に関しては見逃し難い。静火。お前、あの犬に繋ぎを取って頂戴」
「犬…ああ、灯月に?」
「調べ物ならばあれに任せるのが最善でしょう」
「――とまぁそういう事情なんだよ」
「警察行けよ。」
灯月の返答はそれだけだった。取りつく島もない。
「…いやそのね、だから、ほら、灯月の方が情報が早いかなって思ったんだよ」
「警察行け。盗難事件だろ。篠崎の権力ちらつかせておけば警察も真面目に仕事すんだろ。以上終わり。他に何か必要か?」
「…あの辺りで他に盗難事件は起きてない?」
「その手の盗難については俺の把握する限り起きてない。詳細は警察行って確認して来い」
「じゃあ、心霊犯罪は?」
大真面目な静火のこの問いに、灯月はようやっと、それまで完全に興味を失って教科書に落としていた視線を上げた。
「『そっち』なら、それこそ静火の専門だろ? 何で俺に訊くんだ」
「…だってさぁ。篠崎のお屋敷は、僕が結界を敷いてるんだよ」
眉根を寄せて、静火は告げる。
「なのに僕に一切感知させないで、『誰か』が屋敷に侵入して、あまつさえお嬢のお気に入りのピンクのパ」
「静火。それ以上言ったらただではすまなくってよ。覚悟はできていて?」
「――お嬢のお気に入りの一品を盗んでいった訳。犯人、どう考えても只者じゃないだろ? もしかして魔術師かな、と思ったんだ」
「…と、言ってもな」
やっと、少しは真面目に考えようという気になったらしい。灯月は何かを思いだそうとするかのように眉根を寄せていたが、やがて諦めたように頭を一振りした。
「宝舞は、能力者の宝庫で心霊災害多発地域で、お陰さまで心霊災害研究の最先端だ。ここに来る魔術師なんてそれこそ毎日掃いて捨てるほどに居るんだぞ。さすがの俺だって全部は把握してないが…うーん」
唸りながら、灯月は鞄から携帯電話を引っ張り出す。慣れた手つきで画面を確認し、ちらりと目を上げ静火と燈璃を交互に見やった。
「…ざっと確認する限りだとそういう情報は無い。タマや他の土地神連中からも…幾つかの報告は来てるが…静火の結界を抜けられるほどか、って言われると疑問符がつくな。となるともしかして、名前や力を隠して侵入しているような奴かもしれねぇ」
「名を隠して、侵入できるほどの腕前の魔術師か、もしホントにそうなら厄介だね…。狙いは何だろう」
「まさかお嬢の下着が欲しくてたまらなかった、ってこともねぇだろうしなぁ」
――篠崎家の屋敷には、静火が結界を敷いている、というのは先程の彼の発言の通りである。魔術的には水も漏らさず、蟻一匹通さぬ徹底した布陣に加えて、物理的な方面でも屋敷の警備は万全だ。庭を住人以外が通ろうものならば即座に警備会社に連絡が行く。
そのセキュリティの網を潜り抜けてまで、下着を盗む――そんなリスクを冒すような下着泥棒がいるとは俄かには考え難い。
「…お嬢や静火に対する警告かもしれない。お前の結界だって抜けられる、っていう挑戦かも…」
「警戒をしておくにこしたことはなさそうだね――」
そんな深刻な会話が行われているまさにその現場に、のんびりと柔らかな声が割って入った。
「あら、三人揃っているなんて珍しいわね」
灯月がぱっと顔を上げ、他の二人も現れた人物にそれぞれに挨拶をする。席を勧めながら、燈璃が珍しくも苦笑のようなものをこぼした。
「御機嫌よう、竜堂さん。三日ぶりになるかしら」
「御機嫌よう、篠崎さん。三日ぶりですね」
二人の女性は互いに会釈するが、知らぬ人間が見ればそれは、まるで双子の姉妹か何かのように見えたはずだ。何しろ新たに現れたこの女性――あまりにも小柄なので「少女」と呼びたくなるが、れっきとした二十代で「女性」と呼ぶべきお年頃である――、身にまとう色彩さえ除けば顔形といい、年齢にそぐわぬ小柄な体躯といい、本当によく似ているのだ。
ただし、こちらの女性は、黒髪に青い瞳、という見る人に違和感さえ感じさせる色彩ではなく、日本人としてはやや色素が薄いかな、と言う程度の溶けるチョコレートのようなこげ茶色の髪と、同じような色合いの瞳をしているのだが。
「先輩、何でここに? 俺、何か忘れ物でもしてたか?」
その女性に向けて、今度は灯月が問いかける。眼鏡越しの彼の視線に振り返った女性はにこりと笑いかけ、違うわよぅ、と言う風に笑んだまま首を僅かに横に振った。そうしてまた、目の前の自分そっくりの青い瞳の女性、燈璃に向き直る。
「あたし、篠崎さんに会いに来たんですよ」
「あら、わたくしに? 貴女が? 珍しいこともあるものね」
「…むぅ。別にあたし、篠崎のお家が嫌いな訳じゃないですからね。そんな拗ねたみたいな言い方しないで下さい。…星原君に会いに行った、って、倉崎さんが教えて下さったんです。それで」
「って、倉崎さんに逢ったってことは、わざわざウチまで来てくれたの? なんか悪いね、手間かけさせちゃったみたいで…何か急ぎの用事だった?」
静火に問われて冬瑠は、少し困ったように眉を下げた。曖昧に微笑みながら燈璃に視線を向け、手に提げていた小さな手提げ袋を掲げて見せる。ファスナーでしっかり閉じられたそれは、透視能力者でもない限り一瞥しただけでは中身は分からない。
「これをお返ししなくちゃと思ってお伺いしたんです」
「…何か、貴女に貸している物があったかしら…」
「日々、山のよーにお借りしております…」
冬瑠が項垂れて恥ずかしそうにそう告げたのは、彼女が学費などの一部について篠崎家の潤沢な資金に援助を受けている身の上だからである。――双子のようによく似たこの二人は、実は従姉妹同士なのだ。親戚を助けるのは当然でしょうと言わんばかりの燈璃に、いつも冬瑠は申し訳なさそうにしている。敬語を決して崩さず、「篠崎さん」などとどこか他人行儀な呼び方を貫くのも、それが原因の一つである。
「…それはそれとして、お返しできるものはお返ししておかないといけませんから」
そうして、冬瑠はその手提げをそっと燈璃に手渡す。受け取った燈璃が中身を確かめようとするのを、彼女は慌てて遮った。
「え、えと、あの、あんまり人前では開けない方がいいです…ッ!」
「……本当に、わたくし、貴女に何を貸したのかしら」
「じゃ、あたし、これで。…あ、星原君、今日はあたし帰り遅いから、お迎えは要らないわ」
「先輩一人で、夜道は危ないだろ」
「『危険感知』のあたしには無用な心配よ、って、何度言ってもあなたは聞いてくれないわよねぇ」
冬瑠は最後、ほろりと苦笑をこぼすと、三人に手を振って去って行った。急ぎ足で時計を気にした所を見ると、これからアルバイトなのかもしれない。篠崎家からの援助を最低限しか受け入れない彼女は、専らアルバイトで生活費と家賃を稼ぐ生活をしているのだった。
「…いい加減、素直に生活面の援助も受け入れてくれれば良いのに、あの子ときたら」
冬瑠とよく似た苦笑を落として、燈璃はふと、手渡された手提げ袋へと目を落とす。矢張り中身が気になったか、彼女は身体で隠すようにしながら、ファスナーを僅かに開いて中身を覗き見て――
――何やら深々と、嘆息した。
「…血が繋がっていると趣味も似るのかしら」
「え? どうかしたの、お嬢」
「何でもなくってよ。…静火、帰りましょう」
「帰るって…お嬢」
静火は困ったように灯月の方を見、また、燈璃を見る。燈璃は首を横に振り、傲岸不遜な彼女としては珍しくも疲れたように額に手を当てて唸った。疲れたような、脱力したような、彼女らしからぬ声であった。
「…犯人が分かったの。もう犯人探しは無用でしてよ。帰りましょう」
「えー!? 誰だよ、お嬢の下着を盗むなんて不埒な真似したのはっ!」
「……あ、俺、察しがついた…」
立ち上がって息巻く静火を余所に、灯月が不意に遠い目をして溜息をつく。その彼へ、燈璃は扇子の先端を向けた。
「灯月、お前の予想を話して御覧」
「……冬瑠さんだろう、犯人」
その言葉に、燈璃はふん、と鼻を鳴らす。いかにも高慢なその仕草が、彼女なりの満足を表していることをよく知っている静火は、一瞬の間をおいて灯月の言葉の意味を呑みこむと、ぽかんと口を開けた。
「腐っても調査屋、カンが鈍っていないようで何よりですこと」
扇子をぴしりと開いて口元を覆った燈璃が忍び笑う。そうして彼女は流れるような動作で立ち上がると、慌てて彼女の後を追おうと荷物を抱える静火を気遣う素振りさえなく、手提げひとつを手にして悠々と去っていく。
「ま、待ってよお嬢、どういうこと――」
「少しは頭をお使いなさいな、お前、魔女の端くれでしょうに」
「それ今関係なくない!?」
一方的かつ理不尽な言いがかりに文句を返す、彼と彼女にとってはいつも通りのやり取りを交わしながら。
後に残された灯月はぐったりと椅子に身体を沈め、携帯を改めて見やった。情報を得ようと入力しかけていたメッセージを消して、新着メールに目を通す。
そうしながらも何やら徒労感に襲われて、彼は本日一番の、深い深い溜息をついたのであった。
「…ああ。そういえば冬瑠ちゃん、泊まりに来てたね…」
「そういうことですわね。あの子ときたら、着替えを持ってきた癖に下着を忘れたのだそうよ。わたくしの下着を一枚拝借して、今日それを返しに来たと、そういうことだったようね」
「……何だよ、もう、緊張したり考え込んだりして損したよ…。僕の結界を破らずこっそり侵入するような奴が居るのかと思った僕の悔しさを返してよお嬢」
「わたくしに無茶を振らないで下さる? ――それよりも問題はね、静火」
「うん、何?」
「竜堂さんが、この手提げに添えていた手紙の内容です」
「どれどれ? ――『倉崎さんが「お嬢様の下着をお使い下さい、サイズは同じはずですから」と仰るのでお借りしました。ちゃんと洗濯しておきましたので』……え、倉崎さん? ちょっと待って、これって」
「倉崎は全てを承知の上でわたくし達の勘違いに便乗して遊んでいたと。そういうことになりますわね」
にこり。彼の「お嬢様」は微笑む。外見の頼りない幼さなど吹き飛ばすほどに艶やかに笑う。
「――さて静火、あの家政婦連盟を、わたくし達はどうするべきかしら」
(…解雇にならないといいねー、倉崎さん以下家政婦連盟の皆ー…)
静火はちらりとそんなことを一度は考えたものの、思い返してみれば自分こそ酷いことを散々に言われ放題に言われたような記憶が蘇ってきて、芽生えた同情心は一瞬にして萎んでいった。彼は力なく、彼女に笑みを返す。
「…どうぞ、お嬢のお気に召すままに」
「最初からその積りでしてよ」
ふん、と彼の言葉を鼻で笑って、お嬢様は堂々たる足取りで屋敷へ帰る道を歩き始めた。