田村氏が単身赴任を命ぜられこのマンションに越してきて一月になる。
田村氏は今年で四十二歳(厄年)、職業はごく普通の中間管理職であり、某大手の企業に勤めている。不運なことに、念願かなってマイホームを購入して一年も経たぬうちに彼は上司から笑顔で遠方への転勤を命じられてしまった。已む無く、彼は単身赴任をするしかなかった。折角の新しい我が家。夢のマイホーム。戻れるのはいつになるか未だ未定である。
更に氏の不運は重なった。
「家賃は格安、一人暮らし専用、商店街も駅も近くて利便性の高い場所」という素晴らしい条件を満たしていたマンションは、実はご近所では有名な「幽霊マンション」だったのである。不動産屋の手続きミスだろうか、氏はそうと知らずにこのマンションに入居することとなった。此処が「幽霊マンション」だと彼が知らされたのは入居後のことだった。慌ててみても後の祭りである。
とはいえこの一月で見ている限り、田村氏から見てマンションの住人達は非常に好ましい人々であると言えた。
例えば、毎朝玄関の周囲を掃除しているこの女性。
管理人を任されている彼女は、根岸幾恵という名前であるそうだ。年齢は――流石に失礼かと思い尋ねたことは無い。見た目だけならば60を少し過ぎた程度か、初老の女性である。
「いつもお早いですねぇ、いってらっしゃい。」
彼女はにこにこと人好きのする笑顔で、毎朝田村氏が出勤するのを見送ってくれる。
時折、早朝の管理人室には他の住人達が集まっていることもあった。306号室の竜堂冬瑠は特に朝、田村氏の出勤時間と同じくらいの時間にマンションのエントランスや管理人室に居る事が多い。
「あら、お早う御座います、田村さん。」
微笑んで会釈する大人びた姿は、全体的に幼い容姿とはアンバランスな印象も受ける。見た目だけならば田村氏の長女(高校生)と然程変わらないか、それより幼い年頃にも見える彼女だが、どうやら実は大学生であるらしい。それを何気無いご近所の会話から聞き知った時、田村氏は大変驚いたが、驚かれた本人は少し困ったように笑うだけだった。「よく間違われるんですよ、だからお酒を買う時なんか、身分証明が欠かせなくって困っちゃいます。」
彼女が密やかに、しかし大変な熱意を持ってお酒を愛していることはマンションのご近所さん達には周知のことである。
「お早う、竜堂さん。行って来ます」
「気をつけてくださいね。」
和やかに朝の挨拶を交わしていると、そこへ突然、どたばたと騒々しい足音が飛び込んできた。管理人室に真っ直ぐ駆け込んできたのは、一階の角部屋(108号室)の住人である。こちらも竜堂冬瑠と同じ年頃の、専門学校生であった。
起き抜けの、寝癖もそのままの恰好で現れたその男子学生は、困惑したような面倒そうな顔で管理人室に首を突っ込んだ。本当に起きてそのままやって来たのだろう、寝巻きの上からどてらを羽織っている。
「おばちゃん、ごめん。水道がまたおかしいんだ。蜜か誰か寄越してくれない?」
「志村君」
「お早う。今日は早いのね、志村君」
揶揄を含んで笑いながら、幾恵は手元のパソコンを起動させた。型の古いパソコンが微かに唸りながら起動する。
その起動までの合間に、幾恵は腕を組んで、田村氏に向き直った。
「そうそう、田村さん。ここんとこ、水道の調子が悪いみたいなんですよ。何かあったら先ず、管理人の方に連絡寄越してください。あたしが寝ている時でも、代わりが居ますから遠慮なくお願いしますね。」
隣に居た冬瑠が、その言葉にそっと付け加える。
「あの、田村さんは不慣れかもしれませんけど…あんまり驚かないでくださいね。直ぐ対処すれば基本的には無害ですから…その…基本的には。」
冬瑠の念を押すような言い方に非常に不穏なものを感じこそしたものの――何しろここはご近所でも有名な「幽霊マンション」なのだ――田村氏は頷き「分かりました」と応じるに留めた。深く突っ込んで尋ねて、恐ろしいことを聞かされたら、暫く蛇口を捻ることが出来なくなってしまうではないか。田村氏は大変、「怖い話」が苦手でもあった。
そんな彼が何とか一月、このマンションで暮らしていけたのはひとえに近隣の親切な住人達の色々な手助けと、そして――
「はぁい、いっちゃん、カイリ、呼んだぁ?」
間延びする声と共に、管理人室の天井から人が、――生えた。生えた、としか表現のしようの無い登場であった。
ピンク色の髪の毛を重力に逆らってゆらゆらと揺らしながら、二十代半ば程の女性が一人。管理人室の天井に、上半身だけを見せている。半透明に向こう側の光景が透けて見える身体といい、物理法則を一切無視した登場の仕方と言い、その姿は誰がどう見ても立派な「幽霊」である。
しかし、誰一人その場に動じる人間は居なかった。
「あ、坂下さん」
「蜜ちゃんおっはよー」
底抜けに明るい言動で住人達とも親しいこの幽霊の女性は、怪談の類が大変苦手な田村氏にも直ぐに馴染んだ。氏も最初は驚きこそしたものの、――そう、一言で言うならば慣れてしまったのだ。言動と言い、そしてこの幽霊の女性に対する近所の皆さんの反応の仕方と言い、「恐怖」など感じる箇所はどこにも無かった。
まさか幽霊の隣人を持つ日が来ようとは、と暢気なことを考えながら、田村氏は控え目に彼女に挨拶をする。
「お早う、坂下さん。」
「うん?田村のおじちゃんも居るんだ。これから出勤?」
いってらっしゃあい、と相変わらず間延びした調子で、それも幽霊に言われて田村氏は苦笑する。なんとも幽霊らしくない幽霊が居たものだ。(余談だが家族にはメールでこのことを報告し、田村氏は長女に大層羨ましがられた。彼女がこちらに遊びに来た折には、彼女をこの幽霊・坂下蜜依に紹介することを田村氏は約束している。)
「ああ、蜜。すまないけれど」
その坂下蜜依に、矢張り慣れた様子で話しかけたのは管理人の幾恵だった。気難しげに腕を組んだ彼女は、パソコンのモニタから目を上げ、天井の蜜依を見ている。
「志村君の部屋の水道が調子が悪いらしくてね、誰か悪さをしているのかもしれないわ。見てきてくれないかしら。」
幾恵にそう頼まれた蜜依は「がってんしょーちィ」とやっぱり間延びした明るい声で応じた。ガッツポーズを取って、するりと天井から抜け出してくる。
そのまま彼女は志村青年の傍にすすす、と音も無く寄ると、くんくん、と匂いを嗅ぐような仕草をした。綺麗に整った眉を微かに顰める。
「あらら、これは拙いわね。私も知らない匂いだわ。」
「新参者かな?」
「みたいねー。ここの流儀をきっちり、教え込んでおかなきゃ。」
志村青年とそんなことを言い合いながら、女幽霊は彼と一緒に水道の様子を見るべく廊下に消えていった。それを見送って、冬瑠が一つ大きな欠伸をする。幾恵が、彼女のその仕草を見て皺の増えた顔に苦笑を浮かべた。
「竜堂さんも、早く寝ておいたほうがいいわ。田村さんもそろそろ電車の時間が拙いんじゃないです?」
言われて田村氏は慌てて腕時計を見遣った。ついつい話し込んでしまったが、確かにそろそろ走らなければ電車に間に合わない時間である。
「ああ、これは拙い」
管理人室から飛び出したその背中を、幾恵の声が追った。
「そうだ、田村さん!最近ここらでちょっと危ない連中がうろうろしているから、夜は気をつけて!」
その言葉には手を振ることで返答し、田村氏はその日も駅への道を急いだ。幸い、常と同じ時間の電車には間に合った。
息を切らしながら、満員電車の人混みにぎゅうぎゅうに押しつぶされつつ、田村氏はふと思案する。物思いに耽る位しか、この電車内ではすることが無い。
マンションの住人達は良い人達だ。今のところは、マンションで頻発するという「幽霊騒ぎ」の被害も受けていない。――もしかすると、あの坂下蜜依という幽霊の尽力かもしれない。彼女は幽霊ではあるが、恐ろしいどころかとても楽しい隣人である。
少しばかり騒々しいが、上手くやっていけそうではないか。
そこまで考えて、田村氏は一つだけ、懸案事項を思い出す。
――彼の隣の部屋、406号室に住んでいる隣人のことだった。
彼は名を星原灯月と言う。大学に通っていることは冬瑠の話で聞いたことがあったのだが、田村氏は最も近くに住んでいるはずの彼のことを殆ど全くと言ってもいいほど知らなかった。その変わった名前と、廊下でたまにすれ違うことはあるので顔は見知っていたが、愛想笑いのひとつも浮かべることの無い隣人は田村氏に一瞥をくれるだけで、あとはせいぜい軽く会釈する程度だ。どことなく目付きも悪く、近寄り難い空気もあって、田村氏も話し掛けたことは無かった。
先ず大体、出会いが最悪だったのだ。
田村氏が隣人と最初に出会ったのは、引っ越してきたその日の夜のことだ。腕から血を流しながら、彼はマンションのエントランスに座り込んでいたのだ。
思わず大丈夫?、と声をかけそうになり、田村氏はその言葉を飲み込んでしまった。
――怪我を片手で押さえ込みながら、彼は酷く剣呑な鋭い目付きで虚空を睨んで居たのだ。そして、田村氏を見るなり、吐き捨てるように一言。
「…何見てるんだよ。」
声はいっそ淡々と静かですらあったが、しかし有無を言わさぬ迫力を感じ、田村氏はすごすごとその場を退散した。自分よりも遥かに年下の相手に情けないことだが、彼はそうせざるを得なかった。
以来、田村氏は一度も彼と会話を交わしていない。時折、近所の住人との会話の中で彼の名前を耳にすることはあったが、
「星原ねー。あの子はちょっと扱いが難しいからねぇ」
「灯月はほら、ちょっと気難しいから」
「昔ッから喧嘩っ早いんだよな。あいつ。口より先に手が出るんだよ。」
「悪い人じゃないんですけどね。」
「そう、悪い子じゃ、ないんだけど」
悪い人では無いらしいが、決して人好きのするタイプでも無ければ、大人しい人間でも無い――ということ、らしい。
田村氏にとって星原灯月という隣人は、謎に満ちた、そして少しばかり近寄り難い人物だった。
(彼ともどうにか上手くやっていきたいものだがなぁ)
がたん、と揺れる電車の揺れと同時に、人混みにぎゅうぎゅうと圧迫されながら、田村氏はひっそりとため息を吐き出す。単身赴任して家族が身近に居ない以上、「幽霊マンション」という一風変わった環境で田村氏のような一般人が暮らしていくためには、ご近所さん達の協力が不可欠なのだ。矢張り隣人とは友好な関係を築きたいものである。
(管理人さんや他の皆さんに助言を仰いでみるかな…。)
そんなことを考えるうちに田村氏は、電車から吐き出されるようにして会社近くの駅へと降りた。窮屈な状態から解放されて、全身の力を抜く。
さて、これから一日頑張らなければ。
遠く地方のマイホームで過ごす家族を思い出し、一家の大黒柱でもある田村氏は気合も新たに歩き出す。ローンだって残っているのだ、近所づきあいにばかり頭を悩ませても居られないのである。中年男だってなかなか色々と大変なのだった。
「ああ、今仕事が終わったんだ。…いや、心配ないよ。上手くやっていけている。…ああ。じゃあ、またね。縁と香莉にも、よろしく伝えてくれ。」
携帯を切ると、田村氏は欠伸をして歩き出した。時刻は深夜に近いが、駅の周辺は明るい。都心に近く、ベッドタウンの役割を果たしているこの街は、夜の方が恐らくは人口が多いのだろう、とぼんやりと田村氏は考えた。同僚とのちょっとした飲み会もまた、仕事のうちとはいえ――少し飲みすぎたかもしれない。
駅の改札をくぐり、外へ出るとぶるりと身震いをする。息を吐いてみたが、白くはならなかった。冷え込むとはいえ、まだまだ秋口だ、と彼は考えて、それから眉を寄せる。
先程の電話は妻からのもので、彼女は「そっちは冷え込むから」とひどく心配をしていた。
実は田村氏、南方の出身なのである。雪も滅多に降らない地方から出て来ているので、これからどれだけ冷え込むのか、想像すると何だか少し憂鬱になってしまうところだ。
――室内用に、あったかいスリッパを入れておいたわ。フローリングの床は冷えるから。
電話越しの妻の声が笑みを含む。
――縁(ユカリ)と一緒に選んだのよ。
縁(ユカリ)、というのは田村氏の長女であった。次女の香莉(カオリ)はまだ小学生だが、さすがに高校生の彼女は最近いわゆる「思春期」というやつなのか、メール以外で会話することはあまり無くなってしまった。
メールがあるだけいいじゃないですか、と、今日一緒に飲みに行った同僚など嘆かわしげに話していたが。
(難しい年頃、か)
柄にも無く考え事などして歩いているから、突然、田村氏は軽い衝撃に驚いて我に返ることになった。目の前には、どうやら彼がぶつかってしまったらしい青年が大仰な仕草で肩を押えている。
その周囲には彼の友人――仲間?――らしい数人の集団。
大量のピアスに金髪、「いかにも」な若者達に――田村氏は背筋が強張った。
「おい、おっさん」
そのうちの一人が低い声を発する。
まずい、と冷静に思う暇も無かった。身体を揺さぶる衝撃に思わず目を瞑ってしまう。どうやら胸倉を掴まれたらしい、と、恐る恐る目を開いて彼は周囲を見渡し、そう判断した。目の前には剣呑な目付きの若者が居る。
彼は煙草臭い呼吸を吐き出しながら、にやにやと口元を緩ませた。
「人にぶつかっといて侘びも無しってこたぁねぇよなぁ?ああ?」
「おーいてぇ、俺、折れちまったかもよー?」
「イシャリョウ出してもらわねぇとなー?あははは!」
酔いの為だけではないだろう、何やら眩暈がして田村氏は思わず口を噤む。どちらかといえば恐怖よりも、呆れのようなものが勝っていた。――いつの時代でもこう、悪い連中というのは、やることなすこと変わっていないような気がする。
まぁ、彼らにしてみれば、適度なストレスのはけ口を見つけた――という程度なのだろう。そのための言い掛かりなら何でも良かったのに違いない。
妙に冷静にそこまで判断したところで、田村氏は突き飛ばされ、冷たく硬いアスファルトに強かに腰を打ちつけた。痛みに顔を顰める余裕も無く、次の瞬間には腹に強い衝撃を受けてその場にうずくまってしまう。呼吸が一瞬詰まって、げほ、と無様な呻きだけが漏れた。それを聞いた若者の一人が、「何ソレ、何かの鳴き声?」などと言ってげらげらと笑う。
そして次々と、田村氏の身体に横殴りにされるような衝撃と痛みが走った。恐らく彼らに囲まれて、蹴鞠に使う鞠のように(と思い至って彼は誓った。昼休みに若い部下と健康の為と遊んでいたサッカー、あんなことは二度とすまい。)蹴り飛ばされているのだろう。咄嗟に頭を、鞄を抱えた腕で庇うような恰好で丸くなるが、背中や腰や時には腹に入る痛みに涙が出そうになる。
ところが。
全く不意に、雨あられと降り注いでいた蹴りがぴたりと止まった。
危うい所で、実はひっそりと「ああ死ぬかもしれない、ごめん縁、香莉、由梨」なんて思っていた田村氏はそろそろと鞄を顔の前から動かした。
「ああ?何だ、てめぇ」
「このおっさんの知り合いか?」
どうやら彼らの前に誰かが現れたらしい。
この人通りの少ない路地に一体誰が、と顔を上げようとして――田村氏は一瞬、口をぽかんと開けた。(そして切っていた唇の痛みに顔を顰めた。)
「俺は急いでるんだ、さっさと失せろ。」
低い声は警句。
不機嫌そうに――それはもう不機嫌そうに、眉根を寄せて若者達を睨む青年の姿に、田村氏は見覚えがあった。
彼は淡々とした調子で、片手に持ったコンビニのビニール袋を地面に置く。そうして、目を上げるなり、たん、と軽い音と同時に地面を蹴った。
次に何が起きたのか。実は田村氏にはよく分からない。
凍りついたように動かなくなっていた若者の一人が、――何かの冗談のように吹っ飛んだのだ。
「な!」
「この…何しやが」
「遅い」
途端、色めき立って、何か武器でも出そうとしたのだろう、ポケットに手を突っ込んだ一人を青年は低く言い捨てながら蹴り倒した。田村氏は四十二年の人生で始めて、リアルに、回し蹴りが綺麗に相手にきまる瞬間、というものを見ることとなった。
がづっ、という非常に身体によろしくなさそうな音を立て、男はアスファルトに突っ伏した。気絶したのだろう。白目をむいている。
「…まだやる?そいつ、多分頭打ったから救急車呼んだほうがいいよ。」
彼はどうやら大変、喧嘩慣れしているらしい。息を切らせることも動じる風も無く、ただ静かに残った若者達を睥睨し、そして彼らが動かないのを見て取ると、ため息をひとつ吐き出し――眼鏡を、外した。
「うわぁぁぁああああ!!」
若者の一人が、彼の視線を受けるなり何かに耐えかねたかのように悲鳴を上げ、ナイフを片手に突進してくる。青年はそれをほんの僅か身体を動かすだけでかわし、すれ違い様に足払いをかけた。バランスを崩して倒れこむ若者には見向きもせず、彼は続いて殴りかかってきた相手に向けて足元にあった小石を投げ付け、怯んだ隙にひょいと、いかにも軽い動きで懐に入り込む。
「わ…!」
逃げようと、身体を引いた相手の顎に、青年の一撃は見事に決まった。
それで、最後だった。五人居た男達は四人がアスファルトに倒れ、一人が逃げ出し、すっかり沈黙してしまった。
眼鏡をかけ直した青年――その顔は間違いなく、田村氏には見知ったものだった。件の隣人、星原灯月である。
彼は普段から変化の少ない(少なくとも田村氏は殆ど彼の表情を見た事が無かった)顔を田村氏に向け、
「…怪我は」
低い声は聞き取りづらく、田村氏は一瞬きょとんとしてから、はっと我に返った。体のあちこちを触ってみる。痛みは驚くほど、無かった。
「……いや、怪我はあまり…」
口の中を切ったのだろうか、微かに血の味はしたものの、どうやら事なきを得たらしい。
田村氏の返答を聞いて、彼は一つ息を吐き出した。「ならいいんだけど」と呟くように言って、ブルゾンのポケットから携帯電話を引っ張り出す。何か慣れた調子で、彼はどうやら所在を告げているらしかった。救急車でも呼んだのかもしれない。
それから彼は再び田村氏を見遣った。この時には、田村氏は立ち上がって身体についた土埃を払っているところだったのだが、この時の灯月の表情は――田村氏の見間違いで無ければ――何と言うのか、非常にバツの悪そうなものであった。田村氏は、次女が悪戯を父親に見つけられた時の表情を思い出す。
二十歳も近いだろう青年に対して抱くには少しばかり不適切な感想かもしれないが、彼のこの時の表情は大変、田村氏の次女の幼かりし頃と似ているものだった。
「…あのさ、えと。田村さん。だよな。」
ああ、彼は自分のことを知っていたのか。
無論、田村氏が灯月を知っていたのだからおかしなことではないのだが、少なからず意外な念を抱いて田村氏は軽く目を瞠った。
「ああ、ええと。初めまして、かな?」
言いながら何とも気まずく、田村氏は意味無く頭をかいたりしつつ、
「…こんな状況で初めまして、は可笑しいか。ああ、そうだ。それと、有難う。助けてくれたんだよね。」
口早に言った田村氏に、灯月は眉根を寄せた。
「……結果的にだけど。…それより、俺、逃げてもいいか。事情聞かれるとまずい。」
確かに、どう見ても相手に非があるとはいえ、救急車が来て事情を聞かれると灯月は少々立場がまずいだろう。田村氏は頷いて、それから、ふと気付いてアスファルトの上に取り残されていたコンビニのビニール袋を拾い上げた。中身はどうやら、牛乳らしい。
灯月にそれを手渡し、田村氏はやっと笑みを浮かべた。
「じゃあ、マンションまで一緒に帰っていいかい。」
私も帰るところだったんだ、と言うと、彼は一度瞬いた後、何も言わずに頷いた。
頼むから黙ってて欲しい、というのが帰り道での灯月の第一声だった。これまた意外な、と田村氏は好奇心を刺激され、尋ね返してみる。
「どうしてだい?結果的にとは言ってたけど、君は私を助けてくれたのだし」
「…喧嘩禁止令出されてるんだよ…。思い出したの、相手に殴りかかってからだったけどな。」
禁止令、という単語に思わず笑ってしまいそうになり、田村氏は必死にこみ上げる笑いを咽喉元で殺しながら問いを続けた。今まで謎の多かった隣人を知る、これは良いチャンスだろう。
「何で、助けてくれたんだい?」
この問いには灯月は田村氏を見遣り、険のある目付きになる。聞いてはいけなかったか、と一瞬たじろいだ田村氏だったが、どうやら彼が険しい表情をしたのは別の事柄に対してであったようだ。
「一対一の喧嘩なら見て見ぬ振りしただろうさ。多数対多数でも同じ。…ただ、多数対一人、っていうのはどうにも腹が立つんだよ。」
俺も人を殴ることはあるから、と彼は淡々と言った。
「…何ていうか。許せないんだ。人を殴るっていうのは、凄く重いことだと思ってるから。…それを一人を囲んで、鬱憤晴らしみたいなくだらないことに使うのは、」
そこまで言って彼は言葉を切り、空を見上げた。歩くペースは緩めず、田村氏も空を見てみる。家族の居るあの場所よりも、空はネオンに照らされて、赤く暗く、星は見えない。
「……まぁ、その」
田村氏は言葉に困り、言ってから、灯月を見た。最初に見た時よりは、隣人はずっと身近に感じられた。
「黙っててくれ、というのは守るよ。私も助けられた訳だし、こういうのは…ええと。ギヴアンドテイク?」
そこまで言った所で、二人はそれぞれに足を止める。マンションはもう目の前で、しかも上の方から明りが漏れて、道を照らしている。見上げた灯月が小さく呻くのが聞こえ、田村氏も目を上げた。
三階のベランダで、どてらを着込んだ竜堂冬瑠が、二人を見下していた。
「星原君!何してたのよ、遅いー!」
彼女は開口一番にそう言い、それから普段の朗らかな様子からは想像も出来ないような低い声で、
「…まさかと思うけどどっかで喧嘩に割り込んだりしてないでしょーね!?あなたこの間、腕の骨折ったばっかりでしょう!」
彼女はそんなことを言って、それからようやく、彼の隣の田村氏に気付いたらしかった。はたと動きを止めて、
「ああああ、あの、田村さんご一緒だったんですかっ」
「あはははは。うん、駅からの帰りに一緒になったんだ。」
笑ってしまったのは、灯月の言っていた「禁止令」を出したのが誰なのか予測がついてしまったからだった。
晩秋の冷える夜にベランダに出てまで、灯月の帰りを待っていた彼女は、彼を心から心配しているのに違いない。
「こんな機会も無いから、つい彼と話し込んでしまったんだ。心配かけてしまったなら、申し訳ない。」
ついでに田村氏がそう言い添えると、冬瑠はとりあえず納得した様子だった。隣で灯月が驚いた風に此方を見るのを、田村氏はただにっこり笑って返す。言葉は無いが、意図は通じただろう――さっきのお礼だよ、と。
「ああ、そうだったんですか?…なら良いんですけど…もう、心配させないでよ。」
言葉の後半は灯月に向けられたらしい。彼は「信用無いな…」とか小さく呟いて、それからベランダの冬瑠に向かって声を張り上げた。
これまで田村氏が見た中で、一番優しげな声で。
「そこ寒いだろ。牛乳ならすぐ持ってくから、さっさと部屋入って、大人しく待ってなよ、先輩。」
ベランダの彼女を見上げる視線は先程とは打って変わって笑みすら含んでいたので、田村氏は一度目を瞬いて、それから笑いを堪えるのにまた、苦労した。
―――隣人は意外に、分かり辛い様で分かり易い性格をしているらしい。
隣人は三階の可愛らしいあの女性に牛乳を届けるとかで(こんな時間に人を遣うなんてどういう神経だよとかぶつくさ言っていたが、決して嫌そうではなかったことを追記しておく。)、エレベータから一人降りた田村氏は、家族へ送るメールの内容を考えた。誰も居ないのを良いことに一人、思い出し笑いなんかしつつ。
父さんはここで、どうやら、上手くやっていけそうだよ。
一時間後、就寝前の一杯でもやろうかとお湯を沸かそうとした田村氏が、突然水道の蛇口から流れ出た長い黒髪に悲鳴を上げ、
(ああやっぱり引越しを考えた方がいいかも…!)
なんて思うのは、家族へメールを送った後のことだったが。
それはまた、別のお話である。