田村さん、幼女(1)に出会う


 根岸幾恵は、幽霊マンション管理人の初老の女性である。品の良い笑みを浮かべて毎朝挨拶をしてくれる人物が不在だと、田村氏が聞かされたのは昼のことだった。
「うん、なんか、用事だってさー。やらないといけないことがあるんだって。」
 答えたのは、女子高生だ。
 普段から開け放されている管理人室は住人達の憩いの場と化しており、その日の正午を少し過ぎた時間、卓袱台に頬杖をついていた住民が二人居た。一人は立花竜花(りゅうか)。田村氏の問いに答えてくれた女子高生だ。普段着のシャツにジャージのズボンと言うラフな恰好で、彼女は音をたててお茶を啜った。その対面では、もう一人の人物――東雲名鳴(ななり)がばりん、とこれまた音を立てて煎餅を齧っている。こちらもラフな恰好をした少年で、赤味の強い茶色の瞳が少しばかり変わっている以外、見た目は普通の男子高校生である。
「幾恵ちゃん、最近よく出掛けるよな。」
 彼はそう言って田村氏を手招いた。おっさんも暇なら一緒に茶でもどう?何とも暢気な誘いに、買い物帰りだった田村氏は笑う。
 その日は平日だったのだが、先日まで休日返上で働きづめだった田村氏は、その日が久方ぶりの休日であった。故に、こうやってのんびりお茶を飲める時間があるというのは喜ばしいことだったのだが。
「お誘いは嬉しいんだけど…二人とも、学校は?」
 名鳴も竜花も、このマンションに住んでいる住人の中で最年少に入る高校生だ。本来なら平日の今日、学校で勉学に励んだり色々と忙しいはずの時間である。それを知っているから尋ねた田村氏の当然の問い掛けに、同じ学校で同級生でクラスメートでもあるのだという二人は顔を見合わせてから、同時に答えた。
「どっかの馬鹿が校舎を壊したのよ」
「ウチのクラスが壊されちゃってさぁ」
 淡白な発言だったのだが聞き捨てならぬ内容に、田村氏はまたか、と頬を引き攣らせる。
 田村氏が暮らすこのマンションは、ご近所でも有名な「幽霊マンション」だ。心霊災害なんて日常茶飯事で、幽霊が出ても平然と挨拶をするような人々が暮している。そんな場所に常識的一般人である田村氏が入居したのは不動産屋の手続き違いだか何だかが理由だったが、それはさて置き。
 いい加減、田村氏もこのマンションでの生活に慣れ、慣れはしたのだが、しかし――幽霊を含めたご近所さん達の常識をすっ飛ばした言動には、いまだに慣れない。先日も、隣人の親戚と思われる男性の言動に散々頭を痛めた矢先の、二人の高校生の台詞だった。
「…。校舎が、どうしたって?」
「だからー、壊されちゃったの」
 竜花は言って眠たそうに欠伸をした。対面の名鳴が、また煎餅を齧る。
「どっかの馬鹿が幽霊退治に失敗したとかでさ、いい迷惑だよホント」
「休みってのはラッキーだけどねー。ッていうかさ、メイだって、前に校舎壊したじゃん。」
「ありゃ正当防衛だ。」
 メイ、と呼ばれた名鳴は不愉快そうに顔を顰めた。過去の話を蒸し返されたことに苛立ったのか、それとも本人が嫌っている「メイ」というあだ名で呼ばれたのが苛立ったのか。何しろ校舎を破壊するような事態に陥ったことの無い田村氏には想像が付かない。
 なので田村氏は、そうなのか、と頷いて納得しておくことにした。世の中には、幽霊退治に失敗して校舎を破壊するような高校生も居るのだろう。二人が言うのなら、きっと。
「で、えっと、田村さん何か管理人さんに用事だったの?」
 と、田村氏にお茶を勧める竜花にそう問われて、やっと田村氏は此処へ顔を出した理由を思い出した。卓袱台の適当に空いた場所へ腰を落ち着けながら、買ってきたばかりの本の包みを自分の隣に置き、頷く。
「…最近、マンションの中で犬が出るって騒ぎに、なっただろう?」
 言えば、二人は「ああ」とそれぞれに思い当たることがあったのだろう。田村氏に同意して、それぞれに口を開いた。
「うん、俺も見たよ。危うく噛み付かれそうになったからさ、吃驚して蹴り飛ばしちゃったけど…そしたら、消えちゃって。」
 それは、最近、マンションの住人達を悩ませている、新手の心霊災害であった。
 例えば夜、帰宅しようとマンションの廊下を歩いている時だとか。そろそろ眠ろうと電気を消した直後だとか。
 夜の暗がりから、突然、真っ黒い犬のようなものが飛び出してくる、場合によっては噛み付かれる、という現象である。
 当初は野良犬ではないかと思われたのだが、不可思議なことにこの犬の姿を陽光の下ではっきりと見た住人が一人も居ない上に、名鳴が証言するように、咄嗟に反撃をした住人達は口を揃えて、「犬は消えてしまった」と言っている。
 竜花もまた、眉を顰めて名鳴に同意した。彼女もこの犬の被害を受けたらしい。
「あたしも見た見た。あれ拙いよ。誰かが呼び出してそのままにした悪魔か何かじゃない?」
「悪魔…?」
 竜花の言葉を反芻して、田村氏は首を傾げる。純粋な好奇心から、彼は思わず尋ねていた。
「悪魔と言うのは実在するのかい?いわゆる、メフィストフェレスのような。」
「んー、微妙かなぁ。あたし達の使う『式神』だって広義では悪魔だって聞いたことあるし。悪魔って定義自体曖昧だから。」
 そう言う竜花は、式神使いだ。陰陽師の流れを汲む名門一族の、その次期当主候補でありながら、その決定に反発して家を飛び出し、そして現在、このマンションで一人暮らしをしているのだという。実に気の強い、それ以上に意志の強い家出少女なのだった。
 その家出少女は、頬杖をついたままで面倒臭そうに、しかし確りと説明を付け加えた。
「あたし達は単純にぜーんぶひっくるめて『魔物』って呼ぶよ。その方が誤解が無くてすんなり意味が通るから。」
「魔物。」
「うん。えーっとね、確かちゃんとした定義だと、物質的な実体を持っていなくて、強い陰の気を帯びてて、周囲に悪い影響をばら撒くもの、だったかな。そうじゃない場合は分類して呼ぶね。『鬼』とか『座敷童子』とか。…鬼は魔物の場合が多いけどさ。」
 言いながら竜花はちらと名鳴を見たが、名鳴の赤味の強い茶色の瞳は興味無さげに煎餅にばかり向けられている。なので竜花は苦笑して肩を竦めるに留め、田村氏に向き直った。
「それにしても田村のおじちゃん、あの『犬』を見たの?よく無事だったね。噛まれたりしてない?」
 気遣わしげな彼女の言葉に、田村氏はくすぐったいような想いで笑みを返した。娘と同じ年頃の女の子にこうして心配されるというのは、情けないようでもあるが、決して悪い気はしない。
「幸い、竜堂さんと桐子さんが傍に居てね。助けて貰ったよ。」
「そっかー。なら良かったけど、おじちゃん、一人だったら危なかったかもね…。」
 竜花は頷いてしみじみとそう言い、名鳴と目を見合わせあった。
「早いトコ、解決すると良いんだけどね。」
「でもなぁ。出現位置も掴めないし、それに幾恵ちゃんも、対策、考え付かないみたいだしなぁ」
 幾恵ちゃん、と親しげに呼ばれている管理人は、マンションの管理人であると同時にマンション内の心霊災害に対して逐一対策を練ってくれる、田村氏のような素人には非常に心強い存在だった。このマンションは、四六時中何がしかの騒動が起きている為、近所の住人同士の結束が強い。管理人の根岸幾恵は、そのご近所さん達を取り纏める、いわば「災害対策本部長」といったところだろうか。
 それで、今回の「犬」騒動もどうにかならないものかと、田村氏は管理人室に顔を出した次第だったのだが。
 どうやら管理人の根岸女史も、今回の騒動への対策については困っているらしい、と田村氏も名鳴の台詞でそう察し、嘆息した。呻く。
「…成る程。それは困ったなぁ。」
 そして、お茶を啜った。竜花が淹れたのだろうか、なかなかいい塩梅の緑茶である。
「でもさ。いつも思うんだけど、幾恵ちゃんって、何者だろう?」
 ――少しばかり気鬱な沈黙を破ったのは、名鳴の言葉だった。意味を捉えかねて田村氏は目を上げ、竜花がえ?と首を傾げる。
「何者、って、管理人さんでしょ。」
「じゃなくってさ。…心霊災害のプロって言うか、知識が凄いだろ?もしかしてプロの退魔師じゃないかって、俺、思ってたんだけど。」
 退魔師――先程竜花の話に出て来た「魔物」を退治することを生業とする人々の総称である。世間では「拝み屋」と言った方が通りは良いかもしれない。
「えええ。管理人さんがぁ?」
 竜花は半信半疑と言った風ではあったが、考え込んでから、うーん、と唸った。あの品の良い老婦人が、魔物相手に切ったはったをしているのはとても想像が付かないのだが、しかし。
「…でも。確かに不思議かもね。蜜依も桃も、このマンションに住んでる幽霊って、大概、困ってる所を管理人さんに助けられたって言うじゃない。」
「あ、それは私も聞いた事があるよ。」
 蜜依、と竜花が挙げた名前は、田村氏と同じ階の、二つお隣に住んでいる「住人」である。幽霊ではあるが、しかし気さくで明るいとても可愛らしい女性である。田村氏は元来、怖がり、と言っても良い性質であったが、この女幽霊については良いご近所さんだと、心からそう思っている。
 その蜜依当人から、田村氏は聞いたことがあったのだ。
 ――昔ねぇ、妹(もちろん幽霊だ)を連れて路頭に迷って、危うく悪い幽霊になりそうだったところを、幾恵ちゃんに助けて貰ってねー。
 それで今は此処に棲んでるの、と彼女は語っていたか。
「確かに、不思議な人ではあるかもしれないね。」
 幽霊たちを助けて回り、マンションの部屋を貸し与える、あの品の良い笑みを絶やさぬ老婦人。
「…やっぱりここは管理人なだけに、実は対霊戦闘のプロで通称が案内…」
「それは別館ネタだよ名鳴。管理人さんをあんなマダオと一緒にしちゃ悪いって。」
 三人はそれぞれにうーん、と唸りあって首を傾げたが、結局その場で答えは出そうに無かった。


 二人の高校生がそれぞれに部屋へ帰るとか、そろそろ買い物に行こうかなとか言い出して、管理人室での小さなお茶会は解散となった。二人を見送ってから、田村氏は後片付けをしておこう、と卓袱台に向き直る。管理人室でお茶を飲んだ場合は、誰かが必ず後片付けをすること。これはマンションの住人達の暗黙のルールである。
「あっれ?誰も居ないの?」
 そこへ甲高い子供の声が聞こえたのは、田村氏が流しで湯飲みを洗い終えた頃のことだ。田村氏はおや、と目を瞠って、管理人室入り口のドアの方を見た。珍しい、と思ったのは、その声がとても幼い子供の声だったからだ。――「一人暮らし専用」のこのマンションでは、最年少は先程の二人の高校生。子供の声など耳にする機会は、ついぞ、無い。
 振り返った先、管理人室のドアを開いて立っていたのは、矢張り幼い少女だった。それもこれまた珍しい、着物姿である。黒髪を綺麗に肩口で切り揃えていて、まるで、日本人形か何かのようだった。
 一瞬は呆気に取られた田村氏だが、彼はすぐに気を取り直した。ドアに近寄り、少女に目線を合わせて屈みこむ。年の頃は小学校の低学年、と言ったところだろうか。
「こんにちは、どうしたの?」
 とりあえずそう尋ねてみると、彼女はうん、と頷いて、子供らしくも無い仕草で腕を組んだ。なにやら考え込んだようにも、見える。
「灯月は居ない?」
「星原君の知り合いかい?」
「まぁ、そんな所。」
 何とも大人びた物言いをする。生意気な子だなと田村氏も思いこそしたが、田村氏はなかなか出来た大人だったので、にっこりと笑って答えた。
「星原君なら、さっき大学に行ったみたいだよ。」
「あちゃあ。行き違ったか…。」
 む、と彼女は幼い眉間に皺を寄せた。口元に手を当て、愛らしい顔を険しい表情にして、
「…仕方が無い、私一人でやるか…」
 ぶつぶつとそんなことを言っている。田村氏は一度首を傾げてから、そして、その少女の目元が誰かに似ているなと、そんなことを思った。
(…あ。そうか、根岸さんに似ているんだ。)
 先程まで話題にしていた管理人の老婦人と目の前の少女は、どことなく目元など、似通ったところがあるようだった。
「もしかして、根岸さんのお孫さんかい?」
 ほんの思いつきでそう尋ねると、彼女は、にやりと――子供の顔立ちに全く不似合いな、笑顔を浮かべた。
「うん、まぁ、似たようなもの。」
 そして彼女はあっさりと踵を返し、管理人室を後にする。足取りは軽く、そして着物の袂から、彼女は実に着物姿には不似合いなものを取り出した。
 ――携帯ゲーム機。
 歩きながら電源を入れ、少女は鼻歌を歌いながら、携帯ゲーム機に視線を落とす。そうしながら、一階の廊下へと消えていった。
 しばし呆気に取られてその様子を見守っていた田村氏だったが、むくむくと好奇心が頭をもたげるのを感じてそろりと、管理人室を出た。一体彼女は何処へ行くのだろうか。根岸女史の親戚であるなら、何故、彼女の不在について尋ねないのだろう?
 少女は躊躇も迷いも無く、携帯ゲーム機片手に一直線に、廊下を歩いていく。廊下自体が一直線なのだから当然だが、しかしそれにしても、マンションの内部についてどうも詳しい様子であった。
 やがて少女の足がぴたりと、一点で止まる。107号室。現在は、住人が居ない空き部屋のはずだ。
「――さってと、此処ねぇ。」
 彼女は小さく呟いて、携帯ゲーム機の電源を切った。カートリッジ式のソフトを取り出し口に咥え、そうしてから、ぎょっとした様子で振り返る。
 田村氏と、目が合った。
「た、田村のおじちゃん!?」
「え?」
 自分は彼女には名乗っていなかったはずだ。その名前を口にされて、田村氏もぎょっとした。目の前の着物少女は、そんなことに委細構う様子も無く、眦を吊り上げる。腰に手を当て、どうやら怒っている様子だ。
「ちょっと、駄目よおじちゃんはこっち来ちゃ。これ、あたしのお仕事なんだから。」
「仕事?」
「そ。此処に野良犬が住み着いてるでしょ。あれ退治するの。」
 さらりと、彼女は言ってのける。
 田村氏はまず目を丸くし、それから言葉を探したのだが、あまりにもぶっ飛んだ内容に結局何も思いつけなかった。かろうじて問い返したのはたった一言、
「…君は何者だい?」
 彼女はふふん、と鼻を鳴らして、小馬鹿にするように、小生意気な顔をして腰に手を当て胸をそらした。
「イクシマカナエ」
「それはどこぞの生徒会長の名前じゃ」
「そうそう、ライトニングフォックス着た烈王の…って違ぁう!」
「いやー。普通の人には通じないネタだね。」
 全くだ。
「それはともかく…野良犬退治?君みたいな小さな子が、危ないんじゃないかい?」
 まして、あの「犬」はただの野良犬ではない。先程の竜花の言葉を借りれば「魔物」――どこぞの誰かが呼び出して放置した悪魔、とも言っていたか。
 しかし彼女はにやりと、矢張り幼い顔立ちに似合わぬ笑みを浮かべるだけだ。
「――だから私が、ここへ来たのよ。」
 言って、彼女はドアに手をかける。
「おじちゃん、そこまで言うならそこで大人しくしてて。出て来ちゃ駄目だよ、危ないからね?」
 本来なら鍵が掛かっているはずの部屋は、がちゃりとあっさり、幼子の手の中で開いた。軋む音を立てて扉が動く。
 室内は、暗かった。真昼だと言うのに、陽光など差し込んでいないかのように。
 その暗がり。目を凝らして、田村氏は息を呑む。
 うずくまるようにして、そこには、確かに犬が居た。黒い、自然ではありえない程に黒い、まるで影の塊のような犬が、一匹。
 扉が開いたことで差し込んだ光に触れた途端、その犬はまるで熱湯でも浴びせられたかのように悲鳴を上げた。それも犬の鳴き声ではない。ガアアアアアア、ギィィィ、と言う、多分生き物の悲鳴、かなぁ?と首を捻りたくなるような凄まじい、それは、音だった。
 思わず耳を塞いだ田村氏には、イクシマカナエを名乗った少女が何を口にしたのかは聞こえなかったが――
 だが、少女に向けて「犬」が飛び掛るのだけははっきりと、見える。
 身を乗り出そうとするのを、少女の笑みが制した。あの、小生意気な不敵な笑顔。彼女は手にしたゲームソフトを、握り締める。
 ――変化が、起きた。
 少女の小さな体躯目掛けて飛び掛った犬が、爪を立て、牙を食い込ませたのは、少女の身体ではない。少女の前に広がった、光の幕のような物が、犬の爪と牙を受け止めていた。

「だから言ったでしょー、大丈夫だ、って!」

 得意気な、少女の声。彼女はそのまま、ゲームを握っているのとは逆の左手から、何かを取り出した。ぬいぐるみだ。不恰好だが多分、兎だろう。…いや、猫かもしれない。
 とにかくその、兎だか猫だか解らない白いぬいぐるみを、彼女は乱暴に犬に投げ付けた。途端、ぬいぐるみはまるで命を吹き込まれたかのように――犬に、噛み付いた。
 金属を擦り合わせるような、犬の悲鳴が響く。
 ――ところが此処で、思わぬ事態が起きた。田村氏はこの時、ドアの影に隠れるようにしていたのだが、そのドアの傍、備え付けの靴箱の辺りで、影が動いたのだ。田村氏がぞっとしながらも声を上げたのと、その影が、小さな少女の身体目掛けて跳ねたのは、同時だった。
「危ない!」
「…!!!?」
 少女が慌ててそちらを振り向くが、時既に、遅い。
 彼女の身体を守る光の幕は、背後の部分が薄くなっていた。その間隙を突いて、犬が少女の身体に爪を振り下ろす――
「ったくもう、もう一匹居たなんて、聞いて、無いわよぉ!!」
 悲鳴を上げながらも少女は身体の小ささを活かして、犬の爪を掻い潜った。ぬいぐるみと格闘を続ける一匹を見、そして背後に迫るもう一匹を見る。着物の裾が動き辛そうに揺れている。
 田村氏の居るドアの近くまで駆け寄って、彼女はもう一度、右手をかざした。光の幕が、彼女の身を守る。
 だがその光が、先程より弱いことに田村氏は気付いていた。ドアに縋りつきながら田村氏は、恐る恐る口を開く。
「…ああ、その、口出しするのは悪い気がするんだが」
「何よ!」
「何かそれ、弱まってないか?」
「弱まってるわよ!ああもうだから最近のガキってのはぁ!」
 頭を掻き毟ろうとして少女は手を止め、そうして右手を開いた。カートリッジ式のゲームソフト。
「おじちゃん、ゲームとか持ってたり…しないよねぇ。」
 残念ながら、答えはノーだ。田村氏には通勤中にゲームをする趣味は無かった。がくりと項垂れる少女に、犬の金属質な鳴き声が追い討ちをかける。彼女は地団太を踏んだ。ああもう、と怒鳴るが怒鳴って事態が変わる訳でも無い。
 ぬいぐるみをけしかけられた一匹は、全身が傷だらけになって動きも随分と弱々しいが、もう一匹は未だ元気に光の幕への突進を繰り返している。どうもこの幕が弱まっていることを、あの犬も知っている様子だった。
 切羽詰った顔で、少女が田村氏を見上げる。
「…あのさ、駄目もとで聞くんだけど、おじちゃんの子供が作った物とか愛用してたものとか手元にあったり…」
 しないよねぇ。
 彼女は慨嘆したようだったが、田村氏は何だ、そんな物が必要だったのか、と手を叩いた。
「あるよ」
「あるの!?」
 ポケットを探る。田村氏愛用の携帯電話には、ビーズのお手製ストラップが付いていた。ビーズは随分と色あせて、それが古いものであることを雄弁に物語っている。それを持ち主がいかに長い事大切にしているかも。
「娘が小さい時に作ってくれた物なんだ」
「おじちゃん…」
 少女は田村氏を見上げる瞳にはっきりと、感謝と尊敬の色を浮かべた。光を維持する役目が無ければ抱きついている所だ。
「あんた、最高!それちょっと借りるね!」
 言うなり彼女は携帯ごとストラップを奪い取る。握り締めると、途端、先程と同じように――いや。それ以上に、光が零れ始めた。
「っしゃ!これならいける!」
 ガッツポーズを取って、彼女が手を開く。
 ――ビーズのストラップのビーズが一つ一つ、手も触れていないのに解けて、宙を舞っていた。色あせていたはずのそれは一つ一つ小さな光を纏っている。
 黒い犬が、光の幕を突き破ろうと突進してくる――
 その鼻先へ、小さなビーズが真っ直ぐに飛んだ。

 耳を塞ぎたくなるような悲鳴は、今度は随分と長く響き渡り、そして、見守る田村氏の目の前――黒い犬は二体共に、輪郭をぼやけさせ、消えていく。
 完全にその影までもが消え去ると、唐突に、室内には光が戻った。まるでそれまで、犬達が日光を遮ってでもいたかのようだった。

 田村氏の手に返された携帯のストラップは、あの時確かに全てのビーズが宙に浮いたように見えたはずだったのだが、元のまま、ビーズの一つだって欠けては居なかった。首を捻る田村氏に向かって、先程までと打って変わってにこにこと少女が笑いかける。
「凄いね。」
「え、何が?凄いって言ったら君の方が…」
 理屈は解らないが、あの「犬」を消し去ってしまったのだ。こんな小さな身体で。それこそ褒められるべきことだと田村氏は思ったのだが、少女はゆるゆると首を振った。
「私はほら、こーゆーの、何ていうんだろうね…生まれ付きのモノだしさ。どうってことないの。でも、田村のおじちゃんは、凄い。そのビーズね。愛されてる。」
 彼女は言って、愛おしそうに、携帯のストラップに触れた。神聖な物でも触るように恭しく。
「生まれつきとかじゃなくて、自分の力でちゃんと生きてなきゃ、こんなにしっかり愛情詰まってたりしないよ。おじちゃんは娘さんに愛されてる。娘さんに愛されるだけの自分を、生きて、ちゃんと獲得したの。それは凄いことだよ。胸張っていいことだよ。」
 熱っぽい口調はまるで大人のようだったし、田村氏はこの時だけは何故か、少女の言葉が生意気からではなく、確かな経験から出たものであるかのように思えて、素直に聞いてしまった。それでもなにやら気恥ずかしくはあったし、彼女の言うことは殆どの人が通過する、ごく普通の人生の一部ではないかと思えたのだが、
「…うん。普通の人生でも何でも、私はそれを凄いことだって言うよ。」
 彼女は胸を張ってそう言い、そして、その場でくるんと回って見せた。着物がひらりと舞って目にも美しい。
「じゃあ、ね。おじちゃん。また逢おう?」
 それきり、彼女はあっさりと踵を返してしまった。田村氏は慌てて追いかけたのだが、不思議なことに、少女の姿は、廊下を曲がってマンションのエントランスへ出た所で、ふっと消えてしまった。
 まるで最初から、そんな少女、居なかったかのように。


「よう、いっちゃん」
 名前を呼ばれて、上機嫌で歩いていた少女は足を止めた。振り向かずに眉を寄せる。
 場所はマンションの屋上だ。少女は一瞬の間に、どうやってかこの場所に現れていたものらしい。
 先程は余裕で倒せると思って油断した相手がまさか二匹も居るとは思わず、不覚を取ってしまった。それというのもそもそも、彼女の仕事の手伝いをしている彼――星原灯月が、不在だったからだ。
 彼女は自分の油断を棚上げし、相手を睨み付けた。なかなかの理不尽である。
「あんたが居ないから、よけーな面倒が起きたじゃないの。」
「…知るか。俺が調べるから大人しくしてろっつったのに、勝手に独走して、挙句に田村のおっさん巻き込みやがって。」
「あれは勝手についてきたんだもーん、私のせいじゃないわよ。」
 つん、と顔を逸らして少女が言う様子に、灯月は、深々と溜息を吐いた。
「……ホントに、いっちゃん、『その姿』の時は、性格悪いな。」
 言われた「いっちゃん」は、にやりと口角を上げて、幼い顔立ちに不似合いな笑みを浮かべると、
「だーって、子供だもん。子供らしく、ちょっと生意気なくらいで丁度いいと思うわよ?」
 堂々と、そう言い切る。灯月はそういう問題だろうかともちらと思ったのだが、理不尽そのもののような相手に逐一正論で反論するのも疲れて、うんそうかもなと適当な相槌を打った。そして、言う。

「いい加減『管理人』に戻らないと、帰りが遅いって、皆が心配しちまうぞ、『いっちゃん』」





 翌朝。
 早朝、いつもの時間にマンションを出た田村氏は、入り口で箒を持った管理人、根岸女史に出会った。お早う御座います、と挨拶をして、駅へ向かおうとした田村氏の背中を追って、老婦人の声が響く。
「田村さん。昨日は孫がお世話になって。」
「ああ、いえいえ。コチラこそ大変お世話になってしまって…」
「『また逢いたい』と言ってましたよ。でもあの子、生意気だから、大変だったでしょう?」
 田村氏はこの言葉には苦笑して、それから、控え目に応じた。
「ええ、でも、確りしている良いお孫さんじゃないですか。」
「あらあら。そう言って貰えると嬉しいわぁ。…あら、星原君。お早う、早いのね。」
 珍しく、その朝は灯月も早起きであったらしい。学校へ行くのだろう、黒のザックを背負っている。何故か彼は、二人の会話に呆れたような表情を見せていた。
 ぽつりと、低い呟き。何が「孫」だよ。それから彼は、去り際に根岸女史をひと睨みすると、
「いっちゃん。あんまり田村のおっさんで遊ぶなよ。」
 ――初老の婦人はその言葉には何も返さず、無言で人差し指を唇に当て、皺の増えた顔には不似合いなくらい器用で可愛いウインクを寄越して見せた。