日曜日の早朝のマンション周辺は静まり返っている。当然ながら、多くの住民は安楽な惰眠を貪っているのだ。起きているのはせいぜい朝帰りの学生達と近所のご老人達、それに悲しき休日出勤の人々くらいだろう。
田村氏もまた、目を覚ましてデジタル時計の表示を確認し、日曜日であることを思い出して、至福の二度寝を決め込んだ所であった。休日の幸福の一つが二度寝だと、夢うつつに氏は思った。――こと、こう冷え込む冬の朝であれば尚のこと。
―――そんな幸せな瞬間は、しかし、けたたましい音で破られる。
ドアを叩く乱暴な音と何やら険しい声で言い交わす人の声に、安らかな惰眠を破られて氏はらしくもなく苛立った。
(誰だ、こんな朝っぱらから…)
眉を顰めて、ベッドの中、耳を澄ませてみる。声は廊下から聞こえて来るらしい。聞きなれぬ声だ、と、田村氏は首を傾げた。
ここは近所では有名な「幽霊マンション」の、最上階である四階だ。
墓地と小さな神社に挟まれているという素晴らしい立地、夜になれば何かと不審な現象の起きる室内、そして実際に日常的に現れる「幽霊」。ごく普通の一般人として人生を過ごしてきた田村氏にとって、このマンションは「非常識」の塊のような場所だ。
そんな場所で彼が曲がりなりにも普通の生活を送っていられるのは、このマンションの住人達―――生死問わず―――によるところが大きい。
近所の住人達は互いに協力し合って幽霊の起こす様々な現象から身を守り、時には幽霊と共存までするに到っている。彼等は越してきて間も無く、何かと不慣れな田村氏にも色々と気を遣ってくれて来た。
このマンションは確かに心霊現象の多発する「幽霊マンション」ではあるのだが、同時に、今時珍しく、ご近所同士の結びつきの強い場所でもあるのだ。
―――無論、そうなると当然、引っ越して二ヶ月にもならない田村氏ですら殆どの住人とは顔見知りである。
(聞き覚えの無い声だな…)
田村氏はそういう訳で、不審に思い、目を擦りながらも起き上がった。フローリングの床が冷たく、思わず身震いする。
遠く南方の地から娘が送ってくれたふかもこのスリッパ(ネコさん)を履いて、氏はそろそろと慎重に、ドアから耳を澄ましてみた。
声は、低い成人男性のものだ。
四階の住人は大学生が二人、高校生が一人、それに滅多に自室から出てこない女性が一人、―――あとついでに幽霊が一人、だったか。少なくとも、住人の声では無い様だ。
田村氏は怪訝に思いながらも、そろりとドアを開いてみた。
途端、室内にクリアに響いた男性の叫び声は、確かに田村氏の耳にはこのように聞こえた。
「とーげつの馬鹿!オレのことペットにしてくれるって言ってたのは嘘だったの!!」
田村氏は―――何とも例え難い脱力感に襲われて、思わず玄関に崩れそうになった。
星原灯月、というのは田村氏の隣人である。
最初こそとっつき難い印象を与えた青年で、妙に暴力慣れしていたり目付きが悪かったり、表情もあまり動かさず他人に感情を窺わせない人物だ。あまり人と慣れ親しむ方では無いらしく、ご近所さんとの歓談中にも加わってくることは、殆ど無い。
しかし、少しばかり話をしてみるとこれが意外に、今時珍しいほど義理堅い人物であることが分かり、密かに田村氏は彼に興味を抱いていた。一度は深夜に危うい所を助けられたりもしている。
(一体どういう人物なんだろうか――)
常々、田村氏はそう思っていたのだ。その、彼が。
廊下に顔も出さず、ドアの向こうから吐き捨てるように、叫んだ。
「帰れボケ!」
「何でお前そんなに冷たいんだよ!…はっ、オレのことをもてあそんだんだな!そうなんだな!!」
彼のことを親しげに「とーげつ」と、少し癖のあるイントネーションで呼んだ廊下の人影は、芝居がかった仕草でその場に「よよよ」と泣き崩れる振りをした。その光景が見えた訳でも無いだろうが、室内からの声は冷ややかに。
「泣き真似しようが本当に泣こうが喚こうが俺は知らん。帰れ。」
――廊下に居たのは、銀髪に青い瞳、という日本では目を惹く色合いの男性だ。かなりの長身をしゅん、と俯かせて、またドアを叩く。その度に「煩い」とか何とか室内から冷ややかな声を浴びせられるのだが、気にした風も無かった。
肩まで伸びた銀髪をリボンで一つに纏めて、身に着けているのは高級そうな、そして派手なスーツ。都心の、新宿歌舞伎町辺りに行けば多そうな外見である。年齢は判然としなかったが――若いようにも、意外に年を食っているようにも見える――恐らく、30代といったところか。
そこまで観察して、おもむろに田村氏は細く開いていたドアを大きく開いた。
「なぁとーげつってばー。せめて部屋に入れてくれよー。」
「嫌だ。帰れ。出来ればどこかで平穏に野垂れ死ね。」
「平穏に、ってところに愛を感じる。」
「……。もう寝る…。」
ぐったりとした灯月の声を聞いたところで、その男性はドアから出て来た田村氏に気が付いたらしかった。ぱちりと一度瞬いて、首を傾げる。子供のような仕草なのだが、不思議とそれがよく似合った。
「…ええと」
田村氏は一瞬言葉に迷ってから、ぼさぼさの寝癖のついた頭を下げた。
「…お早う御座います。…あの、ここの方の、お知り合いです、か?」
何とも間抜けな質問だ、と氏は口にしてからそう思ったが、幸い目の前の人物は然程気にした様子も無かった。彼はにっこりと、整った顔に人好きのする笑顔を浮かべて、
「あ、もしかしてお隣に新しく入った人?」
人懐こい口調で彼は逆にそう問い掛けてきた。田村氏が戸惑いつつ頷くと、
「わー!そうなんだ、オレ、星原詩律って言います。」
「あ、これはどうもご丁寧に…………星原?」
「いつもとーげつがお世話になってまーす」
詩律、と名乗った男性はにこにこと満面の笑みで。
「ウチの馬鹿息子、迷惑かけてません?」
実に元気良く、無邪気な子供のようにそう、言ったのだ。最初田村氏は言葉の意味を飲み込めず、
「いえいえ、こちらこそお世話に…」
言いかけてから、言葉を思わず飲み込んでしまう。
今。
この男性は、何と言ったか。
「……え?」
今度こそ困惑して動きを止めた田村氏に、不幸が重なった。それまでぴくりとも動かなかった星原家のドアが、開いたのだ。それも相当に勢い良く。
「クソジジィ、さっさと帰れっつってんだ!」
そんな怒鳴り声と同時に強烈な衝撃を感じ、痛みと眩暈とを同時に感じながら、田村氏は何が起きたのか理解することも出来ずに冷たい廊下にキスをする。
自分が倒れたのだ、と理解したときには、田村氏は意識を手放していた。
薄らと意識が覚醒し始めた時、田村氏に最初に聞こえたのは普段は穏やかな女性の、少女のような高い声だった。可愛らしい声は、買い物帰りや朝の出勤時によく挨拶をしてくれる声だ。
だがこの時、その可愛らしい声はどうやら怒っているらしく、珍しく険しい調子で響いていた。
「―――…ない、…、どうしてそう……!」
「…よ。俺は詩律が…から…」
「そもそもおじ様と喧嘩をしないで、って、何度言えば分かるの、貴方は!」
まるで子供を叱り付ける母親のような声は、三階の住人である竜堂冬瑠のものだ。おや、と内心で首を傾げながら、田村氏は目を覚ました。
見慣れたような――それでいて見慣れない、天井。
「いや、詩律を殴るなってのは無理な相談だぞ先輩。」
「そうだよとーるちゃん、あれはとーげつの愛情表現なんだから」
「お前その気持ちの悪い表現二度とするな」
そんな言い合いが横合いから聞こえて来る。一つは最近良く聞くことになった隣人の青年の声だ。田村氏は、ゆっくりと半身を起こして首を傾げた。―――はて、ここは何処だろう。
壁紙や部屋の間取りは、見慣れたものなのだが。しかし並んでいる家具もカーテンの色も全て違う。
身体を起こした拍子に、ぼたりと、冷たいアイスノンが膝に落ちた。それを拾い上げ、氏はとにかく首を捻る。
「…あ!田村さん」
まず最初に、氏に気付いたのは、冬瑠だった。おっとりと高い声が近付いてくる。心配そうな表情で彼女は田村氏が横たわっていたソファの傍に膝を付いた。
「大丈夫ですか?どこか、痛くないです?」
一瞬、田村氏は何を尋ねられたのか分からなかった。きょとんと眉根を寄せた所で――そこで初めて、こめかみの辺りがずきん、と痛むのを自覚する。
「…痛い…ような気が」
触れてみると、こめかみにはどうやらガーゼが貼られているようだった。怪我を、自分はしたのだろうか。
「あああやっぱり。ごめんなさいごめんなさい!ウチの星原君とおじ様が馬鹿だから!」
「とーるちゃん!」「先輩!!」
咎める声は後ろから二つ、同時に。彼女を呼んで、それから田村氏に近付いてきた。
一人は見慣れた隣人・星原灯月。相変わらず感情を窺わせない無表情だが、僅かにばつが悪そうに唇を噛んでいる。もう一人は――
「とーるちゃん、酷いよ。オレのせいじゃないよぉー」
口を尖らせているのは、先程田村氏が廊下で見かけた長身の青年だった。肩まで伸ばした銀髪をくるくると指先で絡めながら、彼はいじけたような口調で言う。隣に寄って来た灯月を行儀悪くも指差して、
「オレじゃなくてこの馬鹿のせいだよ馬鹿」
「馬鹿って言うな馬鹿。」
「オレ馬鹿じゃないもーん。」
「お前が馬鹿じゃ無かったら馬鹿って概念が存在しねぇよ馬鹿」
「ばかばかって言うなばか!」
「…貴方達…」
まるで小学生のようなくだらない口喧嘩を――田村氏そっちのけで――始めた二人の男性に、冬瑠が嘆息した。自分より頭二つ、三つ分は背の高い相手を交互に指差して、ぴしゃりと。
「いい加減にしなさい、二人とも!先にやるべきことがあるでしょう!」
まるで母親か、小学校の教師のような口調だった。気圧されたように、それでも不服げではあったのだが、大人気ない喧嘩をしていた二人がぴたりと口を閉ざす。冬瑠はそんな二人を険しい目で――灯月とは逆に、顔立ちが幼い彼女はそうやって剣呑な表情をしてもなお、ちっとも迫力が無いのだが――見上げた。
「それに、馬鹿って言った人が馬鹿なの!」
「いや、竜堂さん、そういう問題じゃないような」
軽い眩暈を覚えた田村氏である。そうしながら、彼はソファの上に自分が寝かされていたらしいことに気付き、それから先程まで廊下に居たことを思い出した。詩律、と名乗った青年に挨拶をしている最中に、謎の衝撃に見舞われて、そして。
「…ところで、どうして私は此処に?いやそれ以前に、此処は…」
「あ、俺の部屋。」
手を挙げたのは灯月だった。彼は何故か氏と目を合わせようとせず、黒いカーテンの方を睨むように――元々目付きが悪いからそう見えるだけで、本人はただ眺めているだけなのかもしれない――して、説明する。
「…気を失ってたし、手当てしようにもあんたの部屋じゃ勝手が分からないから。咄嗟に俺の部屋に運んだんだ。」
「手当て?」
「ああ、ホントに気付いてないんだな…。」
灯月は妙な表情をした。目を逸らしたままではあったのだが、口元を押えて、言うか言うまいかを躊躇するように間を置く。
その彼の代わりに、氏の疑問に答えたのは、詩律だった。
「ごめんねお隣さん。ウチの馬鹿が、うっかりあんたを殴り飛ばしちゃったんだよ。」
言いながら彼は高い身長を折り曲げるように頭を下げた。
「ほんと、ごめんなさい。」
横から冬瑠が口を挟む。口調は非難と呆れを同じくらいに帯びていた。横目に灯月を睨んで、
「しかも相手がおじ様だと思って加減をしなかったのよね、星原君。」
「………悪かったよ。ごめん。」
そこでようやく、灯月が口を開いた。彼は深く、田村氏に頭を下げる。
田村氏が何か口にするより先に、冬瑠の手が彼の頭を掴んだ。普段大人しい彼女にしては珍しい、乱暴な仕草で、
「誠意が足りないわ、馬鹿!」
「…せ、先輩まで言うか…ッ」
「事実なんだから仕方が無いじゃない。馬鹿よ貴方。ダイバカ!」
――馬鹿、馬鹿、と想い人に連呼されている灯月が、さすがに田村氏は少しばかり哀れになってきた。自分が殴られたらしいことは理解できたし、こめかみの辺りがまだ痛むのだが、思わず氏は苦笑混じりに冬瑠を諌めることにする。
「竜堂さん、私は大丈夫だから」
「でもっ」
「いや本当に。…気にしていないから。」
それは事実だった。まぁ、流石に吃驚したし、殴られた瞬間は相当痛かったのだが。
「気絶する程殴られた経験なんて私も無いからね。貴重な体験だったと思っておくよ。」
すると、冬瑠は一度口篭った後、目を瞬かせた。灯月から手を放し、ほんの少し笑う。
「――田村さんって、変わっているって言われません?」
「言われるね。特に娘に。」
氏はそう答えて肩を竦めた。
「…とはいえ、このマンションの人達程じゃないけれど。」
それは本当に本音だったのだが、冬瑠はこの言葉に不満そうに口を尖らせ、灯月はため息をついた。
「…俺、そこまで変じゃない」
「あたしもそこまで変ではないと思うわ」
変人と言うのは得てして、自覚が無いものだ。田村氏はそう考えていたので、彼等の主張には苦笑だけを返して、何も言わないことにした。
思いもかけない形で隣人の部屋を訪問することになった田村氏は、その後、そのまま珈琲をご馳走になることとなった。パジャマのままだったのが気になったが、「お詫びだから」と三人に声を揃えられて否を言うのも、相手に悪い気がしてしまったのだ。
ちなみに珈琲を淹れたのは冬瑠である。彼女は勝手知ったる様子で、台所から問い掛けた。
「田村さん、紅茶と中国茶と珈琲どれがお好きです?」
「いや、本当にお構いなく。すぐに帰るし…」
「何か予定でも?」
と、これは灯月だ。何故か部屋の主である彼は、冬瑠に台所から追い出され、所在なさげにソファに座って居たのだった。
「いや、予定は、特に…」
「仕事は休み?家には帰らないのか。」
「遠いからねぇ。そうそう簡単には。」
田村氏は苦笑し、娘達のことを一瞬、思い出した。灯月が相槌を打つ。
「鹿児島だったか…そりゃ、遠いな。」
「え。そんな遠くなの?」
驚いたように言ったのは詩律である。彼は灯月の隣で頬杖をついていたのだが、その言葉に顔を上げた。興味津々と言った様子だ。
「かごしまって、あれだよね。桜島とかあるとこ。あと何だっけ。イッシーが居るんだよイッシー」
「…いっしー?」
「ああ、池田湖の」
田村氏は思わず笑った。鹿児島には池田湖、という湖があるのだが、ここには恐竜のような怪物が出る、という噂があるのである。かの有名な「ネス湖のネッシー」のネーミングにあやかって、この怪物の名前を「イッシー」と言う。
怪物の正体は実は、最大2メートル近くにもなるという本当に怪物染みたウナギだ、というのが一般的な説なのだが――
ところが此処で、詩律はにこにこしながらこんなことを言った。
「なっつかしーなー。元気にしてるかなぁ、イッシー」
「………はい?」
「おいこら詩律。田村のおっさんは一般人だ。非常識な発言はするな。」
灯月は特に驚いた風もなく淡々と言い、硬直した田村氏に、「ああ、気にしないで」と告げた。
「この馬鹿はたまに変な所に知り合いが居るんだ。何しろ無駄に長生きだから。」
「…はぁ、長生き…」
田村氏は思わず、まじまじと詩律を見た。矢張り、三十代くらいにしか見えないのだが。
「あの、お歳を伺っても…?」
恐る恐る田村氏はそう尋ねる。
はたして、詩律の回答は、あっさりしたものだった。
「えー。ごめん、忘れた。」
虚空を見上げて何かを思い出そうとするようにしながら、そうして銀髪の青年は続ける。
「百までは数えてたんだけどなぁ。百過ぎると馬鹿馬鹿しくなっちゃって。」
「…………。ひゃく?」
殴られた所がという訳ではなく、頭痛がしてきた。
「はいどうぞ。あの、珈琲にしちゃったんですけれど良かったですか?」
冬瑠が珈琲を運んできたのはその時で、田村氏は救いを求めて冬瑠を見遣った。彼女は笑顔で、詩律にも珈琲を差し出している。
そして彼女は、田村氏に微笑んで、言った。
「おじ様は、水神様なんです。」
まるで、自分の親戚が高校に入学するのを知人に説明する時のような、ごくごく自然な口調であった。
田村氏はここで、理解を放棄した。カップを受け取り、ただ頷く。
「…………。そう、なんだね。」
「はい、そうなんです」
矢張りこのマンションは、田村氏の常識など突き破って変な場所だ。
熱い珈琲を飲んで、田村氏はしみじみとそう考えた。
珈琲を飲みながら、話題は自然とマンションのことに集中した。主に喋るのは冬瑠で、灯月はその横で相槌を打っているだけだ。
詩律は、彼もまた陽気なお喋りで、しかもマンションの住人ではないのに田村氏など及ばないほどこの近所のことについては詳しかった。どこの惣菜屋のコロッケが美味しいだの、どこのスーパーが便利だの。田村氏は――褒められたことでないのは分かるのだが――それほど几帳面に自炊をする方ではなかったので、特に惣菜屋やスーパーで売っている弁当の話などは熱心に聞き入った。
「ところで、」
ふとした話題の切れ目で、口を開いたのは灯月だった。飲み干した珈琲のカップを置いて、
「おっさん、休みの日は何してるんだ?」
「いや、特にやることは無いからなぁ…。ごろごろしていることが多いかな。いや、恥ずかしいけれど。」
何しろ近所のこともよく分からない。部屋の掃除をして慣れない洗濯をしてしまうと、殆ど田村氏にはやることが、無い。
彼はその答えに、少し考え込んだ風だった。
「…おっさん、結構、本を読む方だろう」
この言葉に、田村氏は少々驚いた。
確かに氏は小説が好きだ。特に推理物が好きで、単身赴任に際しても幾つかのお気に入りを持ってきている。
「ああ、そうだが…よく分かったね?」
まぁね、とこれには詳しい回答を避けて、灯月は僅かに笑った。
「良かったらこれから、付き合わないか?」
「えー?灯月、どっか行っちゃうの?オレが暇になるんだけど」
「せいぜい退屈してろ」
詩律に対してはあくまで冷たくそう言い放ち、彼は立ち上がる。
「星原君?」
どこ行くの、という冬瑠の言外の問いには、彼は言葉を濁し、
「悪い、少し席外す。」
「…お仕事?」
「まーな。直ぐに済ませる。」
手をひらりと振って、彼は隣の部屋へと消えていった。冬瑠がため息を吐く。
「お客さんが来ているのに、失礼な子。…田村さん、ごめんなさいね?」
いや、と田村氏は答えて、それから本当に心からの本音でこう言った。
「…つくづく、君たちは面白いね。まるで家族みたいだ。」
「よく言われます」
冬瑠は何故か一瞬だけ、寂しそうに目を伏せてから、取り繕うように微笑んだ。優しく。
「――あたしは少なくとも、そうありたいんです。あの子にとって、そういう存在であれればいいな、って思ってます。」
「あ、それはオレもだよ、とーるちゃん?」
横合いから、冬瑠の肩に手を回して詩律が殊更、陽気な声をあげた。
「あいつには幸せになってもらわなきゃ、オレも安心して老後を迎えられねーからなぁー。」
冗談めかしてはいるものの真摯なその言葉に、田村氏は、珈琲と一緒に言葉も呑んでしまった。彼らは、自分には計り知れぬ事情を抱えているのかもしれないと思い至ったからだ。
ここは何と言っても、彼の常識など及びも付かない「幽霊マンション」なのだから。
灯月がダイニングに戻ったのは本当に、二分と経たない頃だった。一分程の時間だったかもしれない。彼はパソコンからプリントアウトしたらしい紙を畳んでポケットに仕舞いながらソファに腰掛けて、田村氏に向き直った。
「おっさん、着替えてくれば?」
今更と言うか、そもそも着替えに戻ろうとした氏を引き止めたのは彼等なので、勝手な台詞であった。田村氏が流石に呆れて口を開くと、冬瑠が慌てた様子でフォローに入る。
「ち、違うんです。星原君は基本的に悪気が無いんですよ。思慮が足りないだけで。」
「それ遠まわしに俺のこと馬鹿だって言ってないか先輩」
「そう言ってるのよ。そう聞こえなかったなら致命的なお馬鹿さんね貴方。」
「……。」
言葉を返せず口をぱくぱくさせる灯月。詩律が横から苦笑気味に、言った。
「ごめんねー、田村さん。要するにね、とーげつは、良い所に案内してあげるから着替えてちょっと外を出歩けるように準備しておいて、って言いたい訳。」
「…詩律。」
代わりに自分の考えを説明され、居た堪れなくなったらしい灯月が諌めるような声を上げたが、恐らく図星だったからだろう、彼はぽつりと
「……俺も今からそう言おうと思ってたんだ」
非常に苦しい言い訳だけをして、それきり何も言わなかった。田村氏はその様子に、思わず小さく笑う。
それから氏は暇を告げて、隣人の部屋を後にすることにした。急いで着替えてこよう、と思ったのだ。どこへ案内するつもりかは知らないが、灯月が普段の休日、どのような場所で過ごしているのかには興味が尽きなかった。
「有難う、珈琲美味しかったよ。」
「その礼なら、俺じゃなくて先輩に。あの人、喫茶店でバイトしてるから、上手いんだ。」
「ああ、そうだったのか。道理で。」
田村氏が冬瑠を見ると、彼女は照れた様子で恥ずかしそうに俯いた。
「お粗末様、です。」
その後、田村氏は隣人と、結局退屈を持て余したらしい詩律、それと何故か一緒についてきた冬瑠の三人と一緒に、入り組んだ住宅街の細い路地裏にある一件の本屋に行くことになった。路地裏の小さなお店と思っていたのだが、店に入るなり氏は感嘆することになる。氏は結構な本好きだったから、「良い本屋」と言うのが何となく分かるつもりだ。店員が本当に本を好きかどうか、平積みにされた本に添えられた紹介文や、品揃え、分類の仕方を見れば直ぐに分かる。
灯月はそんな氏の様子にほんの少し誇らしげに笑うと、目配せして、言った。
「この辺は古い店舗が結構残ってるからな。探せば、昔気質の良い店が幾らでもあるんだ。」
彼の隣に居た冬瑠が、その言葉に応えてそっと、付け加える。
「…星原君らしいわよねぇ。」
「何が」
「ここ、お気に入りの店でしょ。あたしだって直ぐには教えて貰えなかったのに。知り合ったばっかりの田村さんに教えちゃうなんて、少しズルイわよ。」
言って彼女は悪戯っぽく笑い、田村氏に視線を向けた。彼女の言葉の意味を捉えかね、田村氏は一瞬きょとん、とする。
「……。俺、探す物があるから。」
灯月は――何も答えずに、ぶっきらぼうな所作で踵を返し、店の奥へと消えてしまった。
押し殺した声を立てて笑ったのは、詩律だ。可笑しくてたまらないと言う風で、彼は口元を押えながら田村氏の背中を軽く叩いた。
「あいつ、田村さん殴っちゃったの、滅茶苦茶気に病んでる。…っく、駄目だ、笑えるー。」
「何とも思ってないかと思ったのに、ものすごーく、気にしてたのね。」
冬瑠までもが一緒になって笑い出す。田村氏は――やっぱり意味が分からずに、きょとんとするばかりだった。
「気にしないでと言ったのになぁ。」
氏がぽつりと零すと、詩律が目元を拭いながら――笑いを堪えている内に涙まで出て来てしまったらしい――こう、言った。
「だってあいつ、多分、田村さんのことすっごい気に入ってるよ。それを殴っちゃったんだから、そりゃ、何て言われようと、申し訳無くて気まずくて仕方が無いんじゃないかな。…表に出さないだけで。」
「――私を?」
それこそ意味が分からない。田村氏は隣人のことを気に入っていたが、隣人が田村氏を気に入ってくれる要因というものが何も思い当たらなかったからだ。田村氏が半信半疑で問い返すと、今度は冬瑠が頷いた。
「だって田村さん、すごーく普通にあたし達と接してくれるんだもの。」
彼女はそれがとても嬉しいことであるかのように、言う。
田村氏は矢張り訳が分からないまま、しかし、彼らに好いて貰えているというのは間違いなく事実であるらしいと察することは出来たので、とりあえず有難う、と礼を述べるに留めた。
「此方こそ。これからもよろしくお付き合いください。」
少し冗談めかして頭を下げる冬瑠に、詩律がしみじみ頷く。
「オレも。とーげつが楽しそうで良かったよ。田村さん、これからもあいつとご近所さん付き合い、してやってくれな。」
いえこちらこそ、と田村氏も頭を下げ、それからふと、そういえばこの人物と灯月の繋がりを尋ね損ねた、と思い出す。今朝、廊下で何かとんでもないことを聞いたような記憶はあったのだが、殴られた衝撃なのか、思い出すことが出来なかった。
(うーん?)
首を捻った田村氏ではあったが、ふと目をやった本棚の作品に目を惹かれたので、それ以上は考えないことにした。
田村氏は順応性も高かったが、それ以上に、非常に楽天家であった。
(まぁ、いいか。)
数日後。
灯月に教えてもらった本屋で、田村氏は学生の頃好きだったシリーズ物を見つけ、足取りも軽く帰宅したところだった。
マンションのエントランスでふと、氏は足を止める。見慣れない人物がそこに居たのだ。
黒い、シルクのような光沢のある、高級そうなワンピースを着た上品な女性だった。黒いコートに黒い革のブーツ、そして何よりも、艶やかで美しい黒髪が目を惹く。シャンプーのCMにでも出て来るような、それは綺麗な黒髪であった。
女性とは言ったが、それは全身を固める黒が彼女を大人びて見せたからかもしれない。顔立ちはあどけなく、まだ少女とも呼べそうだ。
濡れた様な黒いつぶらな瞳を氏に向けた彼女は、優雅にふわりと軽く一礼をして、エントランスを出て行くところだった。――マンションの誰かの知人であろうか、と興味を引かれて見送っていると。
「じゃあね、イッシー!また遊びに来てねー!」
四階のベランダから、陽気な声。あれは確か、星原家に最近入り浸っている詩律の声ではなかったか。
そこまで思い出した所で、田村氏は思わずまじまじと、去っていく女性の後姿を眺めてしまった。
(…。イッシー?)
―――池田湖の怪獣と、同じ名前。
揺れる艶やかな黒髪を眺め、田村氏は暫し思案にくれた。が。
(…いや、きっと気のせいだな。)
そう、思うことに、した。