田村氏が深夜のマンションへ帰宅した時、エントランスでは竜堂冬瑠が走り回っている所だった。彼女は元々、深夜の時間帯にアルバイトをこなしていることもあり、夜遅く見かけること自体は不自然ではなかったのだが、慌てた風に管理人室と郵便受けとを行ったり来たりする様は珍しいもので、田村氏は邪魔にならぬよう、挨拶をした。
「こんばんは、竜堂さん。何か困ったことでも?」
「あら、お帰りなさい田村さん。…いえ、モモちゃんが悪戯をしたみたいで…」
彼女は本当に困った風で恥らいながら、「家の鍵が無いんです」と俯いた。それは大変なことだ、と田村氏も頷く。
遅くまでの残業もあり、電車の中でずっと立っていたこともあって、田村氏はくたくたに疲れてはいたのだが、ここで彼女を見捨てることも気が咎める。
「私も探そうか?」
提案すると、冬瑠は「とんでもない!」と首を振った。両手をぱたぱた振り回し、彼女は付け加えて言う。
「あの、大丈夫ですから。田村さんお疲れでしょう?明日も早いのだし、早く休まれた方がいいですよ…」
言葉の最後の方は何やら言いよどんだ様に口の中で消えた。冬瑠の様子に、田村氏は首を傾げ、それから彼女が見ている先を辿ってみる。冬瑠が見上げているのは天井付近で、田村氏の目には蛍光灯で白っぽく照らされた天井しか見えなかったのだが、
「モモちゃん、降りてきなさい!こんな悪戯しちゃ駄目だって言ったでしょう!」
――どうやら、冬瑠には何かが見えていたようだ。叱り付ける冬瑠の声に、田村氏は彼女の視線の先と、彼女の表情とを見比べることしか出来ない。元々酷い童顔である上に温和な性格の彼女が、眦を吊り上げ虚空を睨んでいるのは意外なようでもあり、とはいえ、誰かをこうして叱り飛ばす彼女は妙に様になっている。
「いい加減にしなさい、怒るわよ!」
既に怒っている口調でそんなことを言う。虚空からどんな返答があったのか、霊感というものを全く持ち合わせない田村氏には解りかねたが、冬瑠は眉根の皺を険しくした。
その刹那、耳元をぶん、と空気が震える音が掠める。びくりと肩を竦めた田村氏の目の前、冬瑠に向けて植木鉢が飛んでいた。マンションの入り口に置かれた、よく管理人の女性が世話をしているものだ、と田村氏が気付くのと、冬瑠が軽々と飛んで来た植木鉢を避けるのが同時だ。彼女はさして動揺した様子もなかったが、背後で派手に植木鉢が砕ける音がすると少々、バツの悪そうな顔をした。
「…モモちゃん!!」
そのバツの悪さを誤魔化すように、咎める声でその名を呼ぶ。呼ばれた相手がどんな反応をしたのかは相変わらず見えなかったが、ヒステリーでも起こしたようにばたん、がしゃん、と派手な音がし始めて田村氏は思わず首をすくめた。郵便受けのアルミの扉や管理人室の小窓の前の小さな置物、玄関にあるありとあらゆるものが、ガタガタと動き出したのだ。冬瑠はその最中にあって腰に手をあて、怒った表情を崩しもしない。
普通の女の子に思える彼女も、矢張り幽霊マンションの住人なのだった。
「あんまり駄々をこねると、モモちゃん、星原君に言っちゃうからねっ!」
――がたん、と郵便受けが揺れて、止まった。
「…泣かないの。星原君に叱られるのが嫌なら、鍵を返して。遊びに行くのはまた今度にしましょう、ね?」
星原灯月。田村氏の隣人にあたる青年だ。しかし、子供のヒステリー相手にここまで効力を示すとは、一体彼はどうやってこの子を叱っているのだろう、と田村氏は少しばかり不思議になったが、隣人がどうやら能力者であるらしいことだけは薄っすら理解していたのでそれ以上は考えるのは止めにした。詮索するのは良いことではないし、必要があれば彼からでもいずれ、聞き知ることになるだろう。田村氏は大変に楽天家なのだ。
そうこうするうち、田村氏の目の前で、冬瑠は虚空に腕を伸ばした。手の上に、ちゃりん、と硬質な金属の音。緑色の小鳥のキーホルダーのついたそれが、どうやら彼女の家の鍵であるらしいというのは、冬瑠の表情を見るまでもなく知れた。
「…お、収まった…?」
田村氏が呟くと、冬瑠がくるりと振り返った。両手のひらで大切そうに鍵を包んでいる。
「そっか、田村さんは、モモちゃんには会ったことがなかったんですね」
「桃…もしかして、坂下さんの妹さんの?」
マンションの話題の中で、噂程度には聞き知った名であった。坂下、というのは、田村氏の二つ隣の部屋を棲家にしている幽霊だ。確か、部屋にはもう一人「桃」と彼女が呼ぶ妹が居たはずだ。
見えない姿を見回して探すようにしながら、田村氏は挨拶をしようと、声をかけてみた。
「こんにちは、桃ちゃん」
「…」
返事は無い。
ただのしかばねのようだ、もとい、田村氏には見ることも声を聞くことさえ出来ない幽霊のようだ。冬瑠が少し、困惑したような顔をする。
「…モモちゃん?どうしたの。ご挨拶は?」
膝に手を突いて視点を下げ、子供に目線を合わせるようにしている。恐らく彼女の見守る先に少女の幽霊は居るのだろう。だが、相変わらず返答は無い。
「変ね…人見知りする子じゃないんだけど…」
冬瑠が首を傾げた時だった。がたん、と一度だけ、強烈に強い、金属の音。田村氏が驚いて反射的に振り返った先、金属で出来た郵便受けが、ひしゃげて潰れていた。
「モモちゃん…?」
眉根を寄せ、冬瑠が不安そうな顔になり、次の瞬間には目を見開いて田村氏に振り向いた。普段の温和な声からは想像も出来ないほどに鋭く、
「避けて!」
へ?と田村氏が尋ね返すよりも早く速く、顔の直ぐ横を、髪の毛を掠めて揺らし、猛烈な風が吹きぬけた――と思ったのは一秒にも満たぬ間のことで、田村氏は、背後から響いた音に硬直した。
がしゃあああん、と、ガラスの割れる音。反射的に身を竦めて振り返ろうとした田村氏の耳元で、甲高い、耳に慣れぬ音がした。
幼い、舌足らずの口調が囁いている。
「きらい、きらいよ。あなた、きらい」
田村氏の直ぐ横を、陶器の人形が物凄い勢いで飛んでいったのだと気付いたのは、冬瑠がそうと口にしてからのことだ。彼女は硬直した田村氏の後ろの壁に歩み寄り、砕けた陶磁の破片を眼前に溜息をついていた。
「…ごめんなさい、田村さん…モモちゃん、普段はこんなことしないのに」
彼女は本当に困惑しているようだった。
「悪戯好きな子ではあるけど、人を傷つけるようなことはしないんです。あんまり。」
「…あんまり?」
「いえ、ここに入った泥棒さんとか、そういう人を相手にちょっとおいたをすることはありますけど」
――『幽霊マンション』として名をはせるこのマンションは、住人の特異性も相まってか、時として乱闘騒ぎやら暴力沙汰やらが発生することもまま、あった。田村氏は幸い、そういう時は大抵仕事に出ていて不在なのだが、窓が割れたりコンクリートに穴が空いていたりと、そういった事件の痕跡だけは見ることが出来る。
冬瑠の言う『そういう人』とはつまり、そういう事件に関連するような相手なのだろう。
とはいえ、どうやら件の幼女の幽霊は、力を振るう相手を選ぶ程度の分別は、あるらしい。
「おじさまや、根岸さんが『あれは悪い人よ』って言われない限りは、こんなことしないんです」
人の言うことは聞き分ける子なんですよ、とフォローをするように彼女は言う。田村氏は、先ほど耳元を掠めた囁きからなかなか立ち直れずに居たが、ようやく、言葉を発する程度には回復していた。
「そう、なのか。じゃあ空耳だったのかもしれないな…」
「え。何が、ですか?」
この冬瑠の問い返しに、田村氏は言葉に詰まった。先程耳にしたあの囁きは、幼い舌足らずの声で、けれども確かな怒りを孕んだあの言葉は、冬瑠の耳には入っていなかったのだろうか。そうと分ると、あの囁きが事実だったのかどうかは、もう判然としない。
(空耳だったんだろうか…)
「あの、何か…モモちゃん、何か言ったんですか?」
冬瑠はまるで自分の子が不始末をしでかした母親のような挙動だ。田村氏は一度、息を吐いた。
「…いや。すまない、何でもないよ」
告げて、それ以上の詮索を拒むように首を横に振る。
冬瑠の証言を聞けば、「モモちゃん」は決して「良い子」とも言えないが、かといって悪意で人を傷つけるような人物とも思えない。あの囁きが、空耳であれ事実であれ、彼女を貶めるようなことを冬瑠の耳に入れるのは、田村氏には憚られたのだった。
ジェスチャーから、田村氏の無言の拒絶を察したか、冬瑠は少し不安そうな表情は隠さぬまま、けれどもそれ以上を問い掛けることは諦めたようだった。砕けた陶磁の破片をひとつ拾い、息を吐く。
「…あたし、ここの掃除をしてから帰ることにしますね。今日は根岸さんはもうお休みですし」
「ああ、いや、私のせいなのかもしれないし…私が」
「いえ、いいんです。田村さんはお部屋に戻って下さい」
彼女は常の、しかし頑として譲らぬ温和さで首を振り、付け加える。
「それに田村さんは、掃除道具の場所、ご存知無いでしょう?」
それは確かにその通りであったし、田村氏も正直に言えば疲れきっていたところだったので、結局、彼はここを冬瑠の好意に甘えることにした。
翌朝、エントランスホールに出た田村氏は、予想外の顔に出会って目を二度、ぱちくりと瞬いた。管理人室の小さなのぞき窓から顔を出しているのは、いつぞや出会った根岸女史の親戚かと思われる一人の少女だったのだ。
時代遅れの和服に、きっちりと切り揃えた黒髪のおかっぱ頭。まるで日本人形のような容姿は相変わらずで、不似合いな携帯ゲーム機を手にしているのも相変わらずだ。生意気そうな笑みはそのままに、彼女は田村氏をのぞき窓から見るなり、開口一番、
「おはよ、おじちゃん。モモと何かあったの?」
「え?」
唐突に出された名に、田村氏はまた、ぱちくり。
「とーるちゃんに聞いたのよ。モモと何かあったんでしょ?あたし、あの子とは一番仲良しだから、困ったことがあれば言ってね?」
生意気そうな、子供の声に不似合いな賢しい口調は変わらなかったが、ちらりと見える気遣う色に田村氏は二度驚いた。
非常に申し訳ないことだったが、この小生意気な日本人形に、自分を気遣うような感情の動きがあることが彼には意外だったのだ。
「かなえちゃん…だったっけ?」
確か以前であった時、彼女はそう名乗っていた。田村氏が思い起こして問うような視線を向けると、彼女はそれをどう解釈したか、白い頬をさっと赤くした。
「あ、あたしだって、トモダチが知り合いに悪いことしたなんて思いたくないわ。それだけよ?」
トモダチ、と彼女は「モモちゃん」を指して、そう呼んだ。そのことがまた、件の「モモちゃん」の人物像を表しているようにも思われ、田村氏は、また首を傾いだ。
あの囁きは。やはり、彼の空耳であったのか。
空耳であれば尚のことだし、事実だったとしても、矢張り、冬瑠の時同様、田村氏は告げ口をするような気がして、あの囁きの内容を告げることは躊躇われた。
「いや、別に、大したことじゃないんだよ」
「…はよ、おっさん早いな」
低い声が割って入ってくる。挨拶をしようと振り返った先で鋭い視線とぶつかる格好になり、田村氏は瞬間だけ、声を止めた。
眼鏡の似合わない、少し髪を脱色した青年がそこに立っている。日本人離れした長身もさることながら、強い視線は何度見ても田村氏は慣れられそうにない。
「あ、とーげつお早う。早いのね」
「おはよう、星原君」
田村氏の隣人、現在は大学生の星原灯月である。眠たそうに、或いは不機嫌そうにも見える表情で彼はのぞき窓に肘をついた。日本人形みたいな少女――かなえを見下ろして、
「何やってンだ、朝から」
少し意外な感を受けたのは、恐らく彼が、幼い少女に対してまるで、同年代の友人にでも接するように口をきいたからだろう。
鋭い視線を受けた少女はしかし、怯むことなくあっさり一言だけ、
「ン、モモがおじちゃんに何かしたんじゃないかってとーるちゃんが心配してたの。で、おじちゃんに話を聞こうと思って」
「…ふぅん」
冬瑠、という名にだけはぴくりと反応した物の、彼はそれ以上は興味を示さなかったようだ。肘をついた格好から田村氏をのぞくように見遣り、なんでもないことのように、「ああ」と頷いた。
「…そか。おっさんくらいの年の男の人、モモは苦手だったな…」
え、そうなの?と意外そうに、かなえ。彼女が意外そうにしたことが意外で、田村氏も一緒に驚いた。
灯月は欠伸を噛む間を置いてから口を開く。
「モモが死んだ理由、知らないのか?」
「そりゃ、知ってるけど、なんであんたがそんなこと知って…まさかあんた、モモから死んだ時の話を聞きだしたの?」
「悪趣味よ」と、驚きから一転して、かなえの口調が軽い怒りを帯びる。田村氏は二人を見比べていたが、「死んだ時の」などという単語が出てきたのにはさすがにぎょっとしてしまった。
忘れがちになるが――モモも、そして田村氏とはよく遭遇している近所の幽霊、坂下蜜依も。彼女たちは「幽霊」、この世にはあらざる存在なのだ。その事実を改めて突きつけられたようで、咽喉の辺りが少し疼く気がする。
少女の怒りに、灯月は一度瞬いたが、すぐにまた不機嫌そうな表情に戻る。彼はぼそぼそと口を開いた。
「…ちげぇよ、視えたんだよ、仕方ねぇじゃん…」
弱い反駁は、青年と言うよりは何やら少年のような。一方でかなえは、まるで冬瑠がよく彼を叱り付ける時の様に、びしりと青年の鼻先に人差し指を突きつけた。
「だからいい加減、能力の制御を覚えなさいって言ってんでしょ。眼鏡に頼ってばっかじゃいずれ困ることになるンだからね?」
「気楽に言ってくれてさ…」
「前例無いからって甘えたことぬかしてんじゃないわよ、若造」
ぴしゃりと言いつけてから、かなえは田村氏に向き直る。溜息を吐いた。
「…で、そうそう。モモの話だったよね」
唐突に話題が戻され、展開に正直な所田村氏はついていけなかったのだが、かなえは気にした風もなく続けた。
「モモはね、子供だけど…つーか、子供『だから』かしらね。…力が有り余ってるくせに不安定で、暴走する危険性も結構あるの。だから本当に、困ったことがあるんなら、言ってね?」
声は幾ばくか、真摯なものを伝えたので、田村氏はこれには素直に頷いて返すことにした。
「…ありがとう。本当に困ったことになったら相談しに来るよ…ってあれ?根岸女史に託ければいいのかな…?」
かなえは、考えてみれば毎日このマンションに居るわけではない。恐らくは根岸幾恵のもとへ、そして先程自己申告したとおり「トモダチ」だという、モモとも遊びに来ているのだ。田村氏が相談したい時に必ずしも居るとは限らない。
「え、ああ…」
かなえは頬をかいてから、ふ、と息を吐いた。笑ったようだ。
「そうね。お婆ちゃんに伝えてくれりゃあ、あたしの耳にも入るわ。そうして頂戴」
隣の灯月がやや呆れた風の溜息を吐いたことを、田村氏は知る由も無い。灯月はそれから、ゆっくりと口を開いた。言葉を選んでいるようだ。
「…おっさんのことをモモが苦手なのは…その、死んだ時のことを、思い出すからだと思う。嫌い、とか、言われなかった?」
きらい。あなた、きらい。
どこか怨嗟さえ孕む強い怒りの声をありありと思い出し、田村氏は知らず、身震いしていた。
「…言われたね…」
かなえには聴こえぬように低い声で応じたが、どうやら彼女は聞き耳をたてていたらしい。はっとした顔をして、田村氏を見遣った。
「……ごめん、おじちゃん」
申し訳無さそうな顔をする相手に、むしろこちらが居た堪れないような気分になり、居心地悪く田村氏はその場でうん、とか意味の無い事を呟いた。灯月が、告げる。
「そんなことじゃないかと、思った。…モモはまだ、自分が死んだ時のことを、恨んでる節が…あるからな」
「そうね、確かに」
ぽつん、とかなえが落すように呟く。
「…もう百年も前の話なのに。」
「……。ひゃくねん?」
思わぬ年月に田村氏が問い返す。
「そうだよ、百年前。蜜もモモも、百年前からここに住んでる幽霊。」
知らなかったのか。と灯月が意外なように少しだけ目を見開いた。
「――百年もこの世に留まって?」
「いや、多分…ちょっと違うな。百年も留まり続けたんで、むしろ、生きてた頃とは全く『違う物』になっちまってるんじゃないのかな、あいつら」
灯月はあっさりと言う。
「幽霊は『人の名残』なんだよな。恨みにしろ何にしろ、強い感情がこの世に焼きついてる状態。」
そういった話は田村氏も耳にしたことがある。
幽霊は、死の瞬間の恐怖や、或いは心残りなどの強い感情が、何らかのエネルギー、一般的には「魂」と呼ばれるもの――を受けて形になっている状態だという説がある。この説の場合、幽霊には「自我が無い」というのが通説だ。
「でも蜜やモモには『自我』って呼べるものがあるだろ?会話も成立するし、あいつらはそれなりにモノを考えもする」
「…確かに」
「これは仮説だけど、あいつらは確かに『元々は幽霊だったもの』なんだろうけど、百年間の間に色々なモンに影響受け続けて――多分、この土地の『気』が一番大きい要因だろうな――もう、人間とは別種のモノになっちまってるんじゃないかな」
そこまで一息に続けて、彼は僅かに口を閉じた。説明に不足を感じたわけではないが、田村氏が興味を引かれて彼を見遣っていると、視線に応えるように彼はやがて、ゆっくり再び、口を開く。
「ケルトじゃ、洗礼を受けていないウチに死んだ子供の魂は『妖精』になる、って言うだろ。モモはそれに近いんだとさ。イギリス出身の知り合いが言うには、ありゃ、日本じゃ珍しい『妖精』なんだと」
ワガママで、まるっきり子供そのもので、感情を爆発させては自分の力で周囲に悪戯を仕掛ける。妖精というのは、本場であるイギリス・ケルト方面には何種類も存在しているらしいが、その本場でおおよそそういう存在と定義されているそうだ。
「日本だと『座敷わらし』なんかがそのカテゴリーに入るな。家憑き妖精って奴。モモも蜜も、カテゴライズするなら『幽霊』より『妖精』の方が近いらしい。」
へぇ、と田村氏は素直に感心した。そして同時に納得もする。坂下蜜依という名の近所の幽霊は、確かに「妖精」と呼ぶに相応しいような雰囲気のある女性だった。気紛れで奔放、どこかワガママで子供っぽい。
モモもまた、恐らくは同じなのだろう。冬瑠の鍵を隠すような悪戯をしたり、癇癪を起こしてあたりかまわず当り散らしたりしている辺りはまさしく「子供」であり、「妖精」そのもの。問題なのは、「当り散らす」方法が、人間の子供とは違い、その辺りのモノを吹き飛ばすような危険なものだ、ということか。
「モモは、人間だった時の…死んだ時の恨みって言うか…怒りみたいなものをまだ、抱えてるらしくて」
彼はふ、と息を吐き、虚空を見遣った。その視線がふと、鋭さを帯びる。
「…自分を殺した父親が、ひいては父親に近い年齢の人が、どうしても許せんものに映るみたいなんだよ」
その瞬間の彼の視線の意味は、田村氏には分らなかったが、しかし彼の言葉に理解できることはいくらかはあった。
あの、昨夜の囁きが空耳ではなかったらしいこと。
そしてどうやら自分が、モモと言う名の、このマンションの住人の一人には、受け入れ難い対象であったらしい、という事実だ。
きらい。
彼女の怒りが、しかし、どこか哀しみを伴って脳裏で再生されたような気がしたのは、さすがに錯覚であったかもしれなかった。
その日、田村氏は先日よりは早い時間に帰宅した。氏の仕事は、時間帯が少々ずれこむことが多く、この日は特に期日の迫った仕事もなく、珍しく同僚のお誘いもなかったので、定時での帰宅となったのだった。
夜と言うよりはまだ夕刻と呼べる時間帯ではあったが、田村氏がマンションのエントランスをくぐる頃にはさすがに、外は暗い。冬の太陽はあっという間に落ちるものだ。寒空にふわりとカレーの匂いがしたので、田村氏はああ、カレーもいいな、と夕食のメニューのことを考えていた。
エントランスの扉をくぐれば、寒風も吹き込まない。僅かながら緩んだ空気にほう、と息を吐いていると、ちょうど管理人室の辺りに居た人物がこちらへとやって来た。
宙を滑るようにふわふわと田村氏に近付いてきたのは、その近付き方からして、生きた人間ではない。
長い髪が重力を無視して虚空に舞う。ワンピースを着た、幽霊だった。名を坂下蜜依、と言い、今朝と昨日、田村氏の周りで話題の対象になっている「モモ」の姉である。
彼女は田村氏の目の前、宙に浮かんだ格好でぴたりと止まり、こくん、と首を傾げる仕草をした。
「…田村のおじちゃん?」
「そうだよ、ただいま、坂下さん」
挨拶をすれば、彼女も「お帰りなさい」と挨拶を返してくれる。だが、常の弾けたような明るさがないことに気がつき、そうして、氏は申し訳ないような気持ちになりながらも、口を開いた。
「もしかして、モモちゃんの…こと?」
蜜依は目線を伏せた。常が非常に明るい人物なので、少し影のある表情をするとそれだけで印象が強い。
「うん、ごめんねおじちゃん。モモは…おじちゃんくらいの人を見ると、ヤなこと思い出しちゃって、怒るんだよね。最近はすっかりなりをひそめてたから、私も忘れてたわ」
事情は聞いたよ、と田村氏はそれだけを告げた。わざわざ過去を詮索するような真似は避けたい。蜜依も、その気遣いを感じたか、そう、とだけ答えて項垂れたようだった。
ふわりと、管理人室の小さな窓の辺りに、椅子もないのに座るような格好をする。
「モモには言い聞かせておいたわ。おじちゃんは悪い人じゃない、って。…昨日みたいな『おいた』はもう絶対しないと、思う。」
物理的なダメージを考えればそれはあり難い話ではあったが、あの幼い声を思い出すにつけて、矢張り田村氏には申し訳ないような気持ちが襲ってくる。相手は――かなえの言葉によれば百年もここに存在し続けているとはいえ――幼い子供のようだったし、それに「死んだ時の感情」なんて田村氏にはそれこそ、死ぬまできっと解らない。あの少女が、その瞬間の感情を未だに持て余しているのだとしたら、彼女が一方的に責められるのは道理ではないようにも、氏には思われる。
「なんだか、申し訳ないね」
それでつい、そんな風に呟くと、目の前の幽霊ははっとしたように顔を上げた。笑っているような、困っているような、曖昧な表情で彼女はその呟きに応じて口を開いた。
「…おじちゃんはお人好しね」
「そうかな?…うーん、確かに妻に言われたことはあるな」
都会で悪い人に騙されたりしないかしら、と妻がそんな心配をしていたことを思い出す。
――貴方ってば、本当に人が好いんだから、ころっと騙されてしまいそうで。
「それに、何だか話を聞けば聞くほど、モモちゃんが可哀想な気もしてね」
「いいのよ、アレは本人の自業自得。…私達はもう、生きてた頃にはどう逆立ちしたって戻れないんだもん、モモだってそれは解ってるのよ」
既に死して百年がたつというその幽霊はあっけらかんとした調子で、言う。怨嗟とも、恨みとも、酷く遠い明るさだった。
「でも、私…おじちゃんには迷惑かもしれないけど、いいチャンスだって思ってるの。」
その明るさのまま、彼女は続けてこう言った。チャンス、と目線で問うた田村氏に答えるように、
「モモだっていつまでも、死んだ時のことぐだぐだ引き摺ってる訳にはいかないもの。私、おじちゃんにはモモと仲良くなって欲しいって思ってるのよ。それでモモが少しでも吹っ切れればいい、って」
仲良く――と言う表現に、田村氏は頷いた。モモもまた、この「幽霊マンション」の住人の一人なのだ。仲良くは出来なくとも、険悪な関係になってしまうことだけは避けたかった。そんなことになって、マンションを引っ越すようなことになれば――都会の家賃は高いのだ。このマンションのような好条件の物件を見つけることは、もう殆ど不可能に近いだろう。
「私もそう出来ればいい、と思うんだがね…どうしたらいいんだろう?」
田村氏の質問に、蜜依は力強く親指を立てた。
「実はね、それなんだけど。あたし、昼の間に色々考えてたんだ」
成る程。彼女ならば昼間はやることもなく(話を聞けば、大概の場合は昼間は眠っているらしい。なんとも幸せな生活である。)時間はたっぷりとあったはずだ。何より、件の少女の姉なのだから、彼女のことを熟知しているはずで、田村氏はどんな妙案が出て来るか、と期待して続く言葉を待った。
そして田村氏は今、半信半疑の顔をして、リビングの小さなテーブルの前に座っている。
テーブルの上には「モモちゃんへ」と書いたメモ用紙を沿えた小さな皿が一つ。皿の上には、近所のパン屋で購入したラスクが何枚か乗っている。
何故かふと、幼い娘達が真剣に「サンタさんへ」と手紙を書きながら、ココアを作っている姿を、思い出し、田村氏は自らの行動がそれと重なる気がして、名状し難い気恥ずかしさに一人で溜息を吐き出してしまった。
蜜依の案とは単純至極、「子供はモノでつるのが一番」というものだったのだ。モモの好物が甘いもの、だそうで、
「テーブルにおいて、モモの名前をつけておけば、あの子は勝手に食べに行くわ。これでバッチリよ」
得意げに蜜依はふんぞり返っていたが、申し訳ないのだが田村氏には到底、「グッドアイディア!」と褒め称える気分にはなれないような策であった。
しかし他に縋る手段もない。この程度で、近所の住人との良好な関係が保てるのなら――と思い切って実行してみたのだが。
(何だかすごく、乙女ちっくなことをしている気がする…)
とても実家の娘達には見せられぬ姿である。
「本当にこれでいいのかな…」
溜息と一緒に小さくそう零し、半信半疑のままに、田村氏は寝室へ入る。
電気を落した部屋の中には、間を置かずして、小さな気配がひとつ、生まれた。
翌日、田村氏は、ラスクを載せておいた小皿と、昨夜洗わずに流しに置いた自分のグラスとが丁寧に洗われ、棚に並べてあるのを見ることになる。
蜜依の案が上手くいったのかどうかは判然としなかったが、田村氏はひとつ、昨夜とは違う種類の溜息を吐いた。笑う。
「野生動物を慣らしている気分だなぁ」
――根気良く続ければ、いずれ彼女は、自分にも姿を見せてくれるかもしれない、などと思いつつ。