田村さん、巻き込まれる。

「夕飯きちんと食べてね?冷蔵庫に昨日の炒め物残ってるから、早めに食べないと駄目よ?洗濯はちゃんとしてね、でも何でもかんでも一緒に入れて洗濯機回さないようにね、ええとそれからゴミの日間違えないように気をつけて。明日は燃えないゴミの日だからね、分別きちんとするのよ。あと…」
「……いいから早く行けよ先輩」

 朝からまるで「旅行に出かける母親と息子」のような会話を交わしていたのは、田村氏の隣人である星原灯月と、マンション階下のご近所さんである竜堂冬瑠の二人だった。長身の青年と小柄な女性という取り合わせで、一見すると父と娘ほどの身長差のある二人だが、会話の内容はまるきり逆で、冬瑠が母親のように振舞っている。
 ちなみに暑さの余り、共用の廊下に面する台所の小窓を開いていた為、田村氏に二人の会話は筒抜けだった。悪いなと思いつつ、テレビに退屈していたこともあり(ついでに言うと大概の店はお盆休業で、仕方なく家の中でごろごろしていたのだ)つい、耳をそばだて会話に聞き入る。

「だって心配なんだもの」
 口を尖らせる冬瑠に、ドアを開けている灯月は頭を押さえるような仕草をする。
「…どうせタマに頼まれてる仕事もある、家で一日中ゴロゴロしてる訳じゃあないんだから心配するなよ。それよりその手土産、さっさと持っていかないと傷むんじゃないか」
「保冷剤入れてもらったもの大丈夫。それよりおねーさんはあなたが心配だわ」
「…、あのな、たかだか二泊三日、それも電車で二時間の距離に出掛けるってだけで騒ぎすぎだ」
「だって!」
「いいからもう早く行けってホントに」
 家の人も待ってるんだろうと彼が言えば、冬瑠はもぞもぞとその場で居心地悪そうに身動ぎする。
「……そうは言うけど、篠崎のお家にお呼ばれするとどうしても気後れしちゃって…お掃除もお料理もしないのなんて、あたし、落ち着かないんだもの…」
「篠崎の家にしてみりゃ、静火と燈璃のお嬢に子供が出来なけりゃ、先輩が次期当主って狙いもあんだろ。保険として当てにされてんだから、たまには飯とか世話になって羽を伸ばすくらいのつもりで行けよ。何で毎回、俺ンとこでギリギリまでうじうじしてから行くんだ」
「星原君が心配なのよ」
「目を逸らして言うな、説得力無いぞ」
「……もう、解ったわよぅ。行くわよっ、行けばいいんでしょっ」
「おー。お盆くらい世話になって来い。俺からよろしく言ってたって静火とお嬢に伝えといてくれよ」
「それと、危ない仕事はしちゃ駄目よ。ちゃんと自重するのよ、あなた怪我しても気づかないこと多いんだから」
「…はいよ、気をつけておく」
「うん。ホントに気をつけて、ね?」
「先輩もな。前回みたいに電車間違えるなよ。」

 間違えないわよぅ、と冬瑠が言い残して去っていく足音がして、灯月が一度嘆息した。それから、軽く伸びをする。タンクトップにジャージ、サンダルを突っかけた格好だったので、出掛けるには一度着替える必要があるだろう。
 それにしても、じめじめと暑い。
 外の暑さを考えると帽子も必要か――そう考えた所で、冬瑠の声が聞こえたような気がして顔を顰める。「水分補給はしっかりね、帽子忘れちゃ駄目よ?星原君、人の多い場所はそれでなくったって気分悪くなるでしょう」
 あの人の口喧しさは、心配から出るものだとしても、どうにも鬱陶しい。灯月は顔を顰めたまま廊下から部屋へと戻った。クーラーを効かせた室内は天国のようだ。
 ――とはいえ、冬瑠の気持ちは少し解らないでもない。
 彼女には、家族など居ないのだ。
 だから彼女は、「帰郷」を嫌がる。その場所が、己が郷里で無いことを、何よりも彼女自身が思い知っているからなのだろう。彼女には、そう、郷里と呼べる場所すらもが、無い。
 そこまで考え、灯月はテレビのスイッチを切った。高校野球のブラスバンドがけたたましく去年の流行歌を奏でていたのが、うるさかったのだ。途端にアブラゼミがじりじりと、その名の通りにフライパンの上の油みたいな音を立て、空気を焼き尽くそうとでもするかのよう。結局、暑苦しいことに変わりは無かったかと、灯月は軽く舌打ちすると、団扇を投げ捨て、テーブルの上の財布をポケットに押し込んだ。
 そろそろ、約束の時間に間に合わなくなってしまう。戸締りを確認してクーラーの電源を落とし、それから少し考えて、帽子を掴む。
「別に冬瑠さんの言葉を気にしてるわけじゃあないからな」
 誰にとも無く言い訳して、彼は部屋を出た。




「おや、お出かけ?」
 廊下で隣家の灯月を見た田村氏は、さり気なく問い掛けた。帽子に少し脱色した髪を押し込んでいる灯月に、買い物でもしようかと扉を出たところで遭遇したのだ。灯月は目をぱちりと瞬き、ああ、と頷いて、居心地悪そうに首から下げたペンダントを指先に絡めた。
「…おっさんは?」
「いや、部屋に居ても暑いばかりだしね。少し管理人室にでも行って根岸さんとお茶でもしようかなと。根岸さんは今、居るんだよね?」
「らしいな」
 帽子を気にしながら灯月は頷き、それから付け加えた。
「…おっさん、休みなのに、実家帰らなくていいのか?」
 心底から不思議そうな様子だ。彼は例によって他人を威圧するあの視線を少し反らし気味に、マンション廊下のコンクリートを眺めている。――目つきが悪い訳ではないのに不思議と他人を威圧するあの視線を、彼自身自覚しているらしいと、田村氏はこの時初めて気がついた。
「『普通』は、お盆は家に帰るものなんだろ?」
 それは、彼にとっては本当に馴染みのない習慣であるのに違いない。「義理の父親しかいない」という彼の家族構成を知ってしまった以上、そう想像するには容易く、まるっきり自分は関係ない、という口調に田村氏は少しだけ胸が痛むような気がしたが、同情するのも失礼だと考え直して、あくまで自然な口調で質問に応じた。
「お彼岸やお盆はどうも飛行機のチケットが取りづらくてね。九月になれば少し飛行機も安くなるし、私は九月に纏まった休みを貰えることになっているから、里帰りは来月にしようかと思って」
「ふぅん」
 そういうもんなのか、と、彼はあまり興味なさそうに頷いた。だが少し迷ってから眉根に皺をよせて、
「…気を付けといた方がいいぞ、おっさん、盆だの彼岸だの、そういう時期は幽霊も出やすいから。特にウチは」
「………」
 何ともありがたくもない上に聞きたくない内容の忠告だった。田村氏はううん、と唸って、せいぜい気をつけるよ、と力なく同意する。
「…まぁ、私の場合は気をつけようがないんだけど、見えないし」
「あー。それもそうか。…ところでおっさん、いつの間にモモを手懐けたんだ?」
 きょとん、として田村氏はその言葉に首をかしげた。
 モモ、というのはついひと月ほど前に田村氏が知り合った、このマンションの住人で、幼い少女の姿をしているらしい。「らしい」、というのは、田村氏がこの少女との直接の面識がないからで、それというのも、彼女は幽霊なのだ。霊感などというものを持ち合わせない田村氏には、姿を見ることが出来ないご近所さんの一人だった。(あまり考えたくはないのだが、灯月やその他の近隣住人の証言からは他にも田村氏には見えない幽霊の隣人がいるらしいことが推測される)
「手懐け…確かに最近、夕飯の後に勝手に食器が奇麗になってることがあるけど…」
「あ、それ、モモだな。あいつ、掃除とか片付けとか得意なんだよ」
 「冬瑠さんほどじゃあないけど」と、きちんと付け加えるのを忘れないあたりがさすが星原灯月というべきか。
「道理で最近人の家の冷蔵庫をかき回さないなぁと思ったんだ。おっさんトコに居たのか。皿洗いしてやるなんて、偉いな、モモ」
 灯月が、ちょうど自分の腰下辺り――幼い女の子の頭があるだろうと想像される位置で、少女の頭をぶっきらぼうに撫でまわすような仕草をする。傍目には奇妙な風景だが、このマンションでは当たり前の光景なので田村氏もいい加減、すっかり慣れている。むしろ、幽霊の見えない田村氏の方がこのマンションでは異端なのかもしれない。
 モモは、灯月に褒められたことが余程嬉しかったと見え、ぱちぱちと一瞬、周囲で火花が散るような不思議な音がした。それからどうやら何かを喋ったのだろうか。灯月がふん、と何やら頷いて、田村氏に「通訳」してくれた。
「おっさんの周りで変なことがあったら、モモが助けてくれるとさ」
「…そ、そりゃあ、ありがとう」
 ――毎夕、彼女に一皿のお菓子をあげていただけなのだが。それだけのことでそこまでしてくれるというのは、ありがたいような、ちょっと申し訳ないような。


 灯月はそれからすぐに出掛けて行った。何でも知人と約束があるのだという。
「どーせまた厄介な話持ってくるんだろうから行きたくないんだけどな」
 溜息なんかつきつつ、青年は帽子を手で弄りながら日差しの下へ出て行った。それを見送り、田村氏は管理人室を覗いてみる。
 普段は住人が誰彼構わずお茶を飲んだりお喋りに興じているロビーと、開けっ放しの管理人室は、さすがにお盆ということもあって静かだった。
 お茶こそ飲んでいなかったが、管理人である初老の女性を相手に何やら両手を振り回して熱弁をふるう女性が一人だけ。姿を確認して、田村氏は少しだけ苦笑した。
「こんにちは、桐子さん」
 振り返ったのは、二十代後半か、三十代に差し掛かった辺りだろうと知れる年頃の女性だ。ベリーショートの黒髪にパンツスーツという格好で、どうやら今日も仕事であるらしい。抱えたショルダーバックからピンク色のファイルがちらちらと覗いている。
「ああ、田村さん。こんにちは。実家に帰ったんだと思ってたわ、お部屋にいたのねぇ」
 先ほど灯月にしたのと同じ説明をしながら、田村氏は桐子を見返した。
「桐子さんは今日も…お仕事?」
 今度ばかりは同情せざるを得ない。
 桐子は、田村氏の同情に答えるように嘆いた。
「お仕事よ!どっかのクソガキがリジー・ボーデンを気取りやがって、おかげでマスコミ連中は大喜びだし、ウチは大変なんだから!」
「リジ…」
 誰ですかそれは、と問い返そうかとも思ったが、田村氏は結局口を噤むことにした。
 ――マンション四階に住んでいるこの女性、桐子カオルは、地元警察に勤務するいわゆる「刑事さん」だ。それも捜査一課、強盗だの傷害だの、或いは殺人などの凶悪犯罪を担当している。その他に、「手伝い」として特殊課、つまり心霊災害および心霊犯罪の担当の課の仕事を請け負うことも多いと聞くが、どちらにせよ、その「リジー・ボーデン気取りのクソガキ」の話は詳しくは聞きたい内容ではないのに違いないと田村氏はそう判断したのだ。
 田村氏は幽霊も苦手だったし、暴力の話も少々苦手だった。聞いているだけで何だか自分まで痛いみたいな変な気分になる。殺人事件を報じるニュースだって苦手なのだ。出来れば、刑事さんから直接事件の内容を聞くような羽目にはなりたくない。
「…ご苦労様です、本当に」
 しみじみと言うと、彼女はホントその通りよ、とうんざりしたように呻いた。
「それでなくったって、あたし、特殊課から東宝舞の四丁目の交差点調べろってうるさく言われててうんざりしてるとこなのに」
「東宝舞の、四丁目の交差点?この間、事故のあった」
 ここから駅ひとつ離れた場所だが、近隣の事故だ。田村氏の記憶にも残っていた。幸い負傷者は居なかったが、白い乗用車が電柱に激突して、可哀想な運転手は大事な愛車をおしゃかにしてしまったらしい。
「そういえば、よく事故があるとか聞いたね。実際、多いのかい?」
「うん、ここ半年で大小含めて七件。…心霊災害か道路の不備か、判断に困る件数ではあるけどねぇ」
 幽霊出るって話もちらほら聞くし、と、桐子は苛立たしげに頭をかきむしる。そうすると、ベリーショートの髪ははね放題になってしまうのだが、桐子に特に気にした様子はなかった。むしろ対面でお茶を飲んでいた管理人、根岸女史が苦笑しながら気にした風である。
「カオルちゃん、忙しいのは分るけどねぇ、たまにはお風呂入ってゆっくりしなさいね?」
「それはあのガキに、もしくは四丁目の交差点の幽霊に言ってやって。どっちかでいいから居なければあたしのお盆はこんなに忙しくなかったのよ。…実家の母親はうるさいし東雲サンの墓参りにだって行きたいのに、もう…」
 犯罪に休みなし。
 「日本警察二十四時」だったか何だったか、そんな感じのテレビの特番で使われていたフレーズが田村氏の頭にふとよぎった。目の前で頭をかきむしって管理人相手に愚痴をこぼす桐子を見ていると、実際、それがどれだけの苦労なのかをしみじみと思い知る。まだ、クライアントに振り回されることが多いとはいえ、仕事のスケジュールを立てられる自分の仕事の方が余程楽なものに思えてくる。
 その後、すでに根岸女史を相手に愚痴を吐きこぼした後だったのだろう。「じゃあね」と、田村氏とほぼ入れ違いに桐子は飛び出していった。片手に抱えた紙袋の中身は着替えが入っていたから、きっとあれをとるためだけに一時的にマンションに帰宅していたのだろう。
「お忙しそうですね」
 それを見送り、田村氏が呟くと、管理人である初老の女性・根岸女史はううん、と気難しそうに唸った。
「…そろそろ身を落ち着けなさいって田舎のお母様からも言われているらしくってねぇ、私も同意したいところなんだけど、あの忙しさじゃあとても無理ね」
 せめてお相手でも居れば違うんでしょうけど。
 根岸女史はまるで、住人たちの母のように、祖母のように、影から日向から気遣い、世話を焼いてくれているのである。

 ――と、田村氏がしみじみ管理人さんの存在を噛みしめていると、再び来客。半数以上の住人が実家や故郷へ里帰りしている中で、来客というのも珍しい。

「や、いっちゃん。調子はどう?」
 サンダル履きに、何故か白衣を羽織った格好で現れたのは二十代後半くらいだろうか。不精ひげもそのまま、髪の毛も寝癖でボサボサという姿の男性だった。ぺったん、ぺったん。冷たい床の上をゴムが叩く音がいやに響く。
「あらまぁ珍しい、どうしたの、センセ」
 ずり落ちがちな分厚いレンズの眼鏡をずり上げながら、「センセ」と呼ばれた人物はがりがりと頭をかいた。
「んー…桐子は?」
「あら、そこで会わなかった?」
 さっき出かけたわよ、と女史が首を傾げ、田村氏もそれに同意してみせると、「センセ」は困ったなぁと面倒臭そうに呟いた。
「頼まれてたモノ届けに来たんだけどなぁ。相変わらず忙しそうだな、全くもう」
 いい加減、落ち着けばいいのに、等と女史の台詞と同じことをいうもので、田村氏は思わず根岸女史と目を見合せて笑ってしまった。二人の様子に、何?と「センセ」が首を傾げる。
「――いえ、ね。さっき私も同じことを田村さんに話していたものだから」
「あれ、そうなの。…ところで田村さんって、もしかしてメイ君が言ってた、ここの新入りさん?」
 同じマンションの住人であるメイ――正確には「名鳴(ななり)」という名前なのだが――の名を出されて、田村氏は面喰って目を瞬かせた。彼が自分のことを余所で話題にしていたのか、ということも不思議な気がしたし、それ以前に、目の前の人物が誰なのかも田村氏は知らなかったのだ。
「あ、ごめん。名乗るの忘れてました。僕はマンションの向いに住んでる藤代って言います。初めまして」
「ああ、どうもご丁寧に。田村です、よろしく」
 二人、互いに頭を下げあってから、田村氏はおもむろに、
「ところで、藤代さんはメイ君のお知り合いで?」
「ええまぁ。僕、メイと――あとこのマンションに立花竜花って女子高生居ますよね、あいつらの通ってる学校で教師やってます、物理の担当で」
「ああ、先生でらしたんですか…それで」
 なるほど、それで根岸女史は彼のことを「センセ」と呼んでいたのか。
 田村氏が納得していると、根岸女史が更に一言加えた。
「志村君の師匠でもあるのよ」
「師匠?確か志村君は、デザインの勉強を…」
「あ、そっちじゃないです。教えてるのは、魔法の方」
 魔法。
 日常会話の中にあまりに唐突に、あまりにさりげなく差し出された単語に、田村氏は軽く眩暈を覚えて言葉に詰まった。適当に相槌を打って誤魔化したが、つくづくこのマンションは関係者に至るまでが普通ではない。
「ところでセンセ、カオルちゃんに何を頼まれてたの?」
「んん?幽霊と客観的立場で会話できるツールを作れ、って。ウチとしても警察はお得意さんだから一応試しに作ってはみたんだ。使い捨てなんだけどね。…あとこっちの袋は、ウチのお手製栄養剤。こんなもの注文するって相当忙しいんだねぇ桐子は。この間のリジー・ボーデンもどきの騒ぎかなぁ」
「誰なのよリジー・ボーデン」
 根岸女史も知らなかったらしい。田村氏はそのことに何故だか妙に安堵しつつ、藤代が手のひらの上でころころと回す物体に目をとめた。何の変哲もない、ついでに言うといまいち野暮ったい印象の拭えない、指輪がある。サイズは少し小さめだが、大人の小指にはまるくらいだろうか。
「やっぱりデザインは志村君に頼むべきだったかな」
「センセはその手のセンスは無いものね」
 くすくすと女史が笑う。それから不意に彼女は、田村氏を振り仰いだ。
「そうだわ。その指輪、使わないなら、田村さんに差し上げたら、センセ」
「え?」
「んん?」
 唐突に名を出された田村氏と、首を傾げた藤代の間抜けな声が同時に響いた。それがおかしかったのか、管理人はふふ、と声を漏らして小さく笑ってから、
「一度くらい、モモちゃんとでもお話したらいいんじゃないかしら、田村さん。どう?」
「どう、と言われましても――」
 とはいえ。確かにそう言われてみると、ここのところモモに家事を手伝ってもらっている田村氏としては、お礼のひとつくらい言うのが筋、という気もしている。時折、居るのか居ないのかわからない空間に、ありがとう、と頭を下げることはあったが、それが伝わっているのかいないのかさえ、田村氏には分らなかったのだ。
 それに何より、田村氏は、モモの姿を見たことさえ、ない。
 幽霊というからにはおどろおどろしい姿なのではないか――という疑念が無い訳ではなかったのだが、元々、モモは田村氏にも見える幽霊の隣人、ミツの妹だという。ミツは良識的な明るい女性の幽霊だし、恐ろしいところなんか微塵もなく、怖がりの田村さんでさえすんなりと友人になれたような人物だ。その妹なら、きっとそれほど恐ろしいことにはならないのではないか、田村氏はそんな風に考えた。
「僕は別にいいですよ。桐子が居ないなら、持ってたって役に立つこともないし。レシピはあるから、必要になったらまた作り直せますから」
 藤代は、頓着した様子もなくそう言って、快く田村氏に指輪を差し出してくれた。
 ほんの僅かに躊躇したものの、田村氏はそれを受け取ることにする。思いのほか、銀色の指輪は軽い。
「素材自体は安物ですから」
 田村氏の疑問に、藤代はそう答えて笑った。
「使うときにはコマンドワード…呪文みたいなもんですけど。設定してあるワードを口にすれば、それで使えるようになります。でも五分で壊れちゃう使い捨てですから気を付けてください。会話可能なのは自分の至近距離、大体、二、三メートル圏内に存在している幽霊だけで、それより遠くに居る場合も駄目です。」
「そのコマンドワードっていうのは?」
「『起動』って言えば、それだけでオッケーです。普通はもっと複雑な言葉にするんですけどね、これは試作品だったから」
 商品の場合は複雑な言葉にしておかないと、うっかり口にして意図しない時に起動したら困りますから、という説明だった。複雑な言葉というのが一体どんなものなのか、そもそも生活において「呪文」などというものと縁遠い田村氏には想像つきかねたが、シンプルな呪文で良かったかもしれない。この年で指輪に向かって大仰な呪文を唱えるなんて、想像するだけでも相当に恥ずかしい。
「それにしても、これ、何に使うつもりだったんですかねぇ、桐子さんは――彼女は霊感、あるんでしょう?」
 やがて藤代は再びぺったんぺったんと音を立てて帰って行った。残された田村氏は不意にそんなことを思って、傍らの管理人に尋ねてみる。初老の女史はうん、と頷いて、
「『幽霊と会話する』ってねぇ、霊感のない人が思うよりも難しいことなのよ。カオルちゃんも、そこまで霊感が強い訳ではないの」
「そう、なんですか?」
「基本的に、幽霊というのはひとつのことに拘っていることが多いし――存在自体が、破損した魂の一部分とでも言うのかしらね。…つまり、リードオンリーのディスクみたいなものよ。新しいことを書き込むことも出来ないし、同じことを再生し続けることしか出来ない。」
 言いながら、女史はとん、と管理人室に置かれた型の古いパソコンを軽く叩いて示して見せた。初老の女性ながら、彼女は機械にとても強い珍しい女性である。
「幽霊と会話をこなすことができるっていうのは優秀な、ある程度以上の力を持ったESP型の能力者。もしくはその手の術を専門的に学んだ魔術師、この何れかになるわね」
「はぁ…」
 よくは分らなかったが、とりあえず相槌を打っておく。
「幽霊を『見る』のはそれほど難しくないのだけど。…やっぱり、一度死んでしまった魂は、どうやったって生きていた頃とはベツモノなのよね」
 ふぅ、と溜息をついたところで会話は途切れた。ころころ、掌の上で転がす小さな指輪を見ながら田村氏は考え込む。この指輪ひとつで、見えぬものが見えるのだと言う。
 それは、一体どんな世界だろうか。



 結局、使用するか否かを迷ったままで田村氏は部屋へと戻ってしまった。帰りついてから、はたと気付く。指輪は一度きりしか使えないのだという。もし使ってみて、目的であるモモが居なかったら、或いは恐ろしいものを見てしまったら。霊感を持っているのだろう管理人の傍で使用するべきだった、と気付いたのは、遅すぎたかもしれない。お盆のマンションは静まり返って人の気配もないし、根岸女史も先ほど買い物に出掛けてしまった。
 不安からぐるぐると考え込み、田村氏は窓際で腕組みしながら指輪を睨んでいたのだが、

「!!」

 唐突に、その窓を叩く大きな音がして、飛びあがらんばかりに驚いた。心臓が酷い音を立てるのを聞きながら、振り返った先、ベランダに人影がある。二度目に飛びあがってよくよく見ると、それは田村氏にも見覚えのある長身の青年だった。
 つい小一時間程前に外出したはずの隣人、灯月である。
「…あ、おっさん」
 不法侵入、いやそれ以前にここは五階である。一体どうやって現れたのか。田村氏の混乱など知る由もなく、彼は淡々とそう言って、頭をかいた。
「おい、ナオ、ここ俺の部屋じゃないぞ」
「はぁ?何それ、俺のせいとか言いたいの?」 
 次いで田村氏の目には、長身の影に隠れるように立っている少年の姿が飛び込んできた。こちらは、見覚えのない姿だ。少なくともマンションの住人ではない。
「…急いでたんだから、いいだろ、トウルちゃんの部屋に飛び込まなかっただけマシだと思ってよ」
 年のころは小学校の高学年くらいか。声変わりも済ませていない高めのキーを無理に低めたような声だ。髪の色は少し明るい茶色で、染めているようには見えないから、ハーフなのかもしれない。
「悪い、おっさん。騒がせたな。」
 網戸越しに彼は頭を下げると傍らの少年をつついた。隣へ移動するぞ、と仕草だけで示してから、そしてそこで顔を上げる。彼の方は表情に特に変化はなかったものの、少年の方が顕著に反応した。一歩下がろうとしてベランダの手すりにぶつかり、苛立たしげに歯を剥く。
「モモ!」
 また彼女かと、田村氏は思わず振り返った。振り返ったところで彼女の姿を確認できるわけではなかったが、どうやら彼の背後にその少女の幽霊は居るものらしいと知ることは出来た。
 少年が険しい声のまま続ける。
「お前、何のつも…」
「あ、やべ」
 呻くように小さく灯月が舌打ちする。彼はその少年を庇うように前に立ったがあまり意味は無かったかも知れない――それより僅かに早く、前触れなしに網戸が吹き飛び、少年の顔面を直撃したのだ。
 運よく吹き飛びはしなかったものの、少年は顔を押えてきっと目の前を睨みつけた。網戸が吹き飛んだことに呆然とする田村氏をよそに、田村氏をぎろりと睨んで、いや、氏の後ろに居るであろうモモを睨んだのだろうことは予想がつくのだが、
「やったなッ、モモ!!」
「ナオ、落ち着け」
 今度は灯月は出遅れなかった。少年の襟首を引っ掴んでその場に宙づりにする。軽々と持ち上げられた少年が足をじたばたさせて暴れたが意に介した風もなく、彼は再び田村氏に向き直って、
「悪いなおっさん、騒がせて。網戸はコイツにでも修理させるから」
「何で!俺が!」
 喚く少年をじろりと見やって、
「元はと言えば部屋を間違えたナオの責任だろうが」
「そりゃ、そう、だけ、ど」
 それを指摘されると矢張り弱いのだろうか、ナオが、それでもイライラとした様子で歯噛みする。暴れることはさすがに諦めたようだが、背後の灯月を精いっぱい見上げるように首を捻っていた。田村氏には聞こえないのだが、モモが何か言ったのだろうか。ふいに少年が暴れながら叫んだ。
「俺はともかくレディをバカにしたら!ぶっ飛ばすぞっ!ばかモモ!!」
「ああもうお前らホントに何でそんなに相性悪いんだ…」
「くっそー、たかがグレムリンだかブラウニーだかの亜種の分際でー!!」
 事態についていけずに唖然とする田村氏を余所に暴れる少年を取り押さえた灯月が、ベランダの手摺を乗り越える。彼は五階という高さを全く気にする様子さえなく、そのまま隣の自室へ向かおうとしたのだが、ふいに足を止める。
「おっさん、その指輪」
 眉根に皺をよせて、彼は田村氏を見やった。睨まれているような心地で思わず身じろぐ田村氏を余所に、彼はまじまじとその手の中の小さな指輪を覗きこむ。
「――それ、もしかして、」
「え?」
「おっさん!それ譲ってくれ!」
 余程慌てていたのか。土足で室内に乗り込んだ灯月が田村氏の手をがっしりと握り締める。目をぱちくりさせる田村氏の背後から、ざわりと、霊感のない彼にも分るほど強い圧力がかかった。灯月が田村氏から身を放し、身構える。

 田村氏には聞こえていなかったが、この時、霊感を持ち合わせたこの場の二人にははっきりと、幼い少女のヒステリックな声が届いていた。
「近づくなぁ!ばかぁぁ!!」

 がしゃん、がしゃん、ばたん。台所から響いてきたのはそんな音だ。田村氏が状況を把握できず口を開くのと、灯月がきっと目の前を、正確には田村氏の背後の空間を睨みつけるのが同時。そして直後、その灯月の傍――灯月の左手の方向へと向けてまっすぐに、台所から失敬してきたらしい、鈍い輝きが、飛んだ。
 包丁だ。
 それが一直線に、灯月の、すぐ傍に突き刺さる。
 息をのんだのは田村氏も、ベランダに取り残されていた少年も同様だ。だが灯月は――驚いたことに微塵の動揺も見せず、包丁には見向きもせず、ただ、静かに、言い放った。

「落ち着けモモ。俺の依頼人だ。お前のテリトリーにちょっかい出すほど、強い奴に見えるか?」

 それまで田村氏は気付いていなかったのだが、灯月の左手には、何故か小さな小さな熊のぬいぐるみが握られていた。テディベアだろう。すり切れほつれたリボンが首に結ばれている。
 包丁は、そのテディベアを狙ったものだったらしい。すぐ隣に突き刺さった包丁を見て、改めて田村氏はぞっとしながら背後をうかがった。矢張り何も見えはしなかったが。
「――落ち着け」
 二度目の言葉に、包丁がすい、と浮かんだ。そして囁くように小さな声。電波状況の悪いラジオみたいにとぎれとぎれに、けれどこの声は田村氏にも届いた。
「…ごめんなさい」
 そして包丁は、田村氏の見守る前で唐突に、ひゅ、と微かな音と共に消えてしまった。まるで幻であったかのようだ。
「わかればよろしい。…ああ、おっさん悪いな、騒がせて」
 二度目の謝罪には田村氏はがっくり項垂れて頷くだけに留めておいた。慣れと妥協と諦めとが入り混じり、何だか疲れてしまったのだった。
「…ええと、ところで、一体何の用事だったんだい?」
 そもそも室内に乗り込んできた灯月が事態の発端である。そう切り返してみると、灯月は気まり悪げに靴を脱ぎながら――そういうことにはもっと早く気付いてほしいものだ――逸らしがちな目をちらと田村氏の指へ遣る。
「その指輪を譲って欲しいんだ。もし使わないなら、貰えないか」
 直球である。迂回も遠慮もなく不躾なほどの態度で彼は言い、田村氏の言葉を待つようにその場にあぐらをかいた。
「…いや、えと…何でまた?」
「ん。依頼で。どうしても死んだ娘の声を聞きたいって親が居てな。娘の霊を無理やり呼び出した。――まぁここまではいいんだが」
「いや良くないだろ。一応違法なんだよそういうの。」
 後ろから、靴を両手に持った少年が室内に上がりこんでそう訂正した。目を白黒させる田村氏に、彼はぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい、お騒がせしちゃって。お邪魔します」
「はぁ。いや、ええと君は…?」
「ナオヤ。大沢尚夜って言います。初めまして」
 少年は幼い外見に似合わぬ丁寧な挨拶をしながら、ベランダに靴を揃えている。こんな状況でなければ躾の行き届いた挨拶だと感心したのだろうが、田村氏は残念ながらそんな余裕は無い状態だった。このマンションでは「妙なこと」など日常茶飯事だが、突然部屋に上がりこまれたりモモが暴れたり、いつもの当社比1.5倍くらい、妙な出来事が頻発しているような気がする。
 恐らくはモモを相手に妙な警戒を見せたこの少年も、ただものではないのだろう。薄々そう察して、田村氏は結局、「田村です、どうも」と頭を下げるに留めておいた。
 深く詮索しない方がいいことは、世の中には山のようにある。
「で、それとこの指輪と、どう繋がるんだい?」
「ああ、うん。…その両親ってのがな、どうも抜けてる人で。いや抜けてるからあんな三流魔術師なんぞに騙されるんだろうがな。――折角娘の霊を呼び出したのに、その姿を見ることが出来なかった訳だよ」
 霊感が無かったんだなぁ、としみじみとつぶやく灯月、隣で少し憮然とした尚夜が吐き捨てる。
「バカだよ」
「そういう言い方は…」
 思わず窘めるように、田村氏は口をさしはさんでしまった。話を聞いている限りでは、どうやらその両親は違法行為に手を染めてしまったようではあるが、娘に会いたい一心であったのであれば――それは、子を持つ親として、どこかで共感できる行動ではあった。田村氏は目を伏せる。だが尚夜の言葉は辛辣だった。灯月が左手に抱えていたぬいぐるみを取り上げ、抱え上げて、
「バカだよ。…死んじまって浄化も終わった幽霊が、呼び出されるのがどんだけの苦痛なのか、あいつら知らないんだ。すごい苦しいんだよ、アレ」
 その口調の激しさは、むしろ死んだその娘を、思いやるものだったのだろうか。拳を握って告げる彼の、睨むようにして床を見る仕草に、田村氏は胸が痛んだ。だが、矢張り、田村氏は親の立場だ。それでも同情する気持ちを、切り捨てることは出来そうになかったが。
「で…まぁ、その両親を納得させるために、両親に娘の幽霊を見えるようにしてやりたいんだけどな。俺の方法だとちと荒っぽくなるんで、藤代か戒利にでも頼みこんでみようかなと思ってたところなんだが、その指輪があれば、簡単にコトが済むだろ?」
 だろ、と尋ねられても。
 田村氏は困惑した。何となく背後の小さな少女の気配を探り、それ自体はいつものように徒労に終わるのだが、室内にぴりぴりと張り詰める空気は彼女が醸し出しているものであろうことは想像がつく。彼女が何を考えているのやら、言葉を直に交わすことのできない田村氏にはなかなか分かりにくかったが、ひとつはっきりしたのは、
「…ところで星原君、ひとつ訊きたいんだけど」
「ん」
「モモちゃんは今、近くに居る…んだよね」
 灯月はこくりと頷いて、眼鏡越しの視線を田村氏の背後に向ける。
「おっさんの背中に張りついて、コイツを威嚇してる」
 コイツ、と言って指差したのは尚夜少年が抱える格好になっていたぬいぐるみだ。
「もしかしてそのぬいぐるみは…何か、憑いてる…とか…」
「ああ、さっき話した娘を憑依させてあるぜ」
 そうか、と田村氏は頷いた。憑依していると分かった途端に、それまで無機質だったテディベアの黒いプラスチックがじろりと自分を見ているように感じるのはさすがに錯覚だろう。
 それでも良い気分はしないので視界からはそっと外し、田村氏は背中の方を肩越しに見やった。相変わらず、少女の幽霊を感じ取ることは出来ない。
「――モモちゃん、もしかして、私と話をするの、楽しみにしてくれていたのかな」
 ぱちりと灯月は瞬いたらしい。瞼にぐっと力を入れたように、眉間の辺りに少し皺をよせて、彼は呻くように言った。
「おっさんて割と鈍感だな、冬瑠さんとそっくりだ」
「はぁ…」
「モモはどーも楽しみにしてたみたいだぞ。おっさんの横で頬杖ついて、声掛けられるの待ってたみたいだしな」
 どうでもいいことだが、そういえばこの恋する青年は、想い人である冬瑠のことを当人の前では「先輩」と呼ぶのに、当人の居ない場所では「冬瑠さん」と名前で呼ぶようだ。全く無関係なそんなことに気付いてああ、青春だなぁ、と田村氏は一瞬、そんな思考に逃げ込み、すぐに現実へ戻って、肩越しの背中の方を再度、見た。
 見えず、聞こえず、気配すらも感じることは難しい。けれども彼女はそこに居るのだと灯月は言う。
「ごめんね、モモちゃん」
 それで、田村氏はそう告げて、灯月に向き直った。
「指輪は譲るよ。代わりに今度、ご飯でも奢ってくれるかい」
 灯月が眉根を寄せた。言葉に困ったらしい彼に、見かねてか、尚夜が口を挟む。
「いいんですか。そこのバカガキ、泣きそうな顔してますよ。このままだと多分暴れますよ」
「…それは困るなぁー」
 泣かれるのも困るが暴れられるのはもっと困る。
 だが田村氏は決めてしまったのだ。困り顔のままで田村氏は背後を見て、見た方向は実は見当違いの方向だったのだが、モモはすい、と動くと田村氏の顔をじいっと覗き込んだ。怒りと涙がいっしょくたになって、今にも癇癪を起こしそうな顔をしている――とこれは灯月と尚夜の見解。
「でもねぇ、モモちゃん。私はいつでも、モモちゃんには、会えるだろう?居るのが分からなくても、星原君や、他の人達に教えてもらえば、お話だって出来るんだよ」
 モモは――
 聞いているだろう。田村氏は根拠はないのだが、そんな気がした。
「指輪はまたいつでも造れると、藤代さんは仰ってたしね。…その幽霊の娘さんは、本当はもう成仏していないといけないんだろう?」
 およそ、田村氏にもそのくらいの想像はついた。灯月が頷き、田村氏の手から指輪を受け取る。
「…さんきゅ、おっさん。今度、絶対に奢るから」
「楽しみにしてるよ」
 そこへ――
 訪問者を告げるチャイムが鳴った。ぴんぽーん、と響いた音に、田村氏はともかく、灯月と尚夜が顔を見合せ、示し合わせたように慌てて踵を返した。
「お、お客さんみたいだねっ、バカ犬、早く行こう!」
「あんまりイヌ犬言うな。…おっさん、じゃあな。ホントに助かった。部屋間違えて悪いな」
「そうだった。ごめんなさい、今度改めてお詫びに来ますー!」
 何やら慌てた様子でベランダから飛び出していく――田村氏はそれを、来客に遠慮しての態度だと考えて、追及はしなかった。
「あ、うん、それじゃあまた…」
 呆気にとられて嵐のように飛び出していく二人を見送っていたが、すぐに急かすようなチャイムに驚いて振り返る。――ちょうど振り返った時、田村氏の背後では、五階の高さから灯月と尚夜が飛び降りたのだが、まぁそれは彼の知るところではなかった。
「すみませーんっ、田村さん居るー!?」
 しびれを切らしたように玄関で叫ぶ声がする。田村氏は驚いて、急いでドアノブを捻った。
「おや、桐子さん。どうしたんだ、大きな声出して…というかさっき出かけたばかりなのに」
 ドアの前に居たのは、先ほどマンションを出て行ったばかりの桐子である。彼女はどうやら随分と急いでここまでやって来たらしく、肩を上下させて大きく息をしていた。それでも何とか荒っぽい呼吸の合間に、喘ぎ喘ぎ、
「あ、あの、ここ、に…灯月が居なかった!?」
「え」
 確かに居たは居た。なのだが――
 続いて彼女が荒々しい呼吸もそのまま叫んだ言葉に、田村氏は唖然とする。
「あのバカ!交差点の幽霊連れてどこ行きやがったのよー!」
 交差点の幽霊、というのはまさか。
「…あの桐子さん、つかぬことを訊くけども、その『交差点の幽霊』っていうのはもしかして、東宝舞の交差点で、事故を起こしてる原因になってる、幽霊さんかい…?」
「そうっ!その幽霊!!ホントに居たのよ!しかもやっぱり事故の原因になってたの!だからウチの特殊課で除霊しようって思ったんだけどっ!!!」

 さぁいざ除霊、というその現場に、突如、灯月らが現れ、あれよあれよと言う間にその幽霊をぬいぐるみに封じ込めて連れ去ってしまったのだそうな。

「逃亡幇助で逮捕してやるんだからあのヤロウぅ!!」

 くらりと眩暈を覚えて田村氏は心臓を押えた。もうこのマンションの住人達は本当に、常識人の田村氏には色々と負担が大きいことこの上ない。まさか彼が現在進行形で警察に追われていたとは。
「…犯人が幽霊の場合にも逃亡幇助は適用されるんだね…」
 とりあえず、田村氏が口に出来たのはそんな一言だけだった。
「うぅぅ、もうどうすんのよこれぇ。始末書モノだわっ!!」
「あああ落ち着いて桐子さん」
 目の前で嘆く刑事を見ていると、田村氏はそこはかとなく後ろめたくなってきた。あの時は会ったこともない、娘に会いたい一心で罪を犯したというその人達に少しばかりの同情もあって指輪を渡してしまったのだが、そしてそれ自体は、まぁあんまり後悔もしていないのだけれども、やっぱり目の前で困り果てる桐子を見ていると、悪いことしたなぁ、とそんな気分になってくる。
「あの、星原君はさっきまでこの部屋に居たんだけども。…どうも事情があって、あの幽霊の…娘さんだったよね?彼女を連れているみたいだったよ?別に悪意がある訳ではなさそうだったし、その、寛大に…」
 それで恐る恐るそう進言してみたところ、彼女はぱっと項垂れていた顔をあげた。ただし表情は暗くて険しいまま。
「……だとしても心霊災害を引き起こした幽霊ってのは即刻除霊処分って決まりなのよね。やっぱ始末書だわ、あたし」
 言って深く深く、情けなさそうに溜息をついて顔を覆った。
「でも、灯月は犯罪に手ぇ貸したとしても、絶対、悪事を働くことはないのよねぇ、そういえば。…なんか裏があるのかしら、あの幽霊」
 やっと表情から険が取れ、彼女はがしがしと頭をかいた。相変わらずの癖毛が跳ねて、それを苛立たしげに手で押さえつつ、彼女は小さく嘆息する。それまでの怒りを押し出して捨てるような吐息だった。
「あー、目が覚めた。…ったくめんどくさい、事情説明くらいしていけってのよ、バカ灯月」
 自分に言い聞かせるように彼女は小さく呟いてから、田村氏の方へ向き直った。
「ごめんね、田村さん。大声出して騒いじゃって。それにちょっと眼が覚めたわ、灯月が意味のないことをするはずがないもの、それなりに付き合い長いのに、田村さんの方が分かってるみたいでヤんなっちゃう」
 やっとそれまでの怒りが解けたものらしく、彼女は疲れた顔にそれでも照れ臭そうに笑みを浮かべた。
「お騒がせしてホントごめんなさい。今度何か奢るわ」
「いや、いいよいいよ」
 灯月と同じことを言う――田村氏はそんなことを内心で思って可笑しくなりつつも、手を振ってその申し出を断った。そんなにたくさん奢ってもらわなくたって、田村氏の食生活はそれなりに充実している。
「んー、そう言ってくれるんなら…あ、でも今度きちんとお詫びするわね。ごめんなさい」
 いえいえ、と再び田村氏が応じるのを見てから最後にダメ押しのようにもう一度頭を下げて、桐子は慌ただしく踵を返した。あの幽霊の素性調べて、とかなんとか、携帯から誰かに伝えている。
 田村氏はその背中をしばし見送ってから、ため息をついて部屋へ戻った。そして思い出す。
「あ、網戸壊れたままだった…」
 田村氏には、何となく、その言葉を聞いて小首をかしげているモモが見える気がした。もちろんそんなのは気のせいなのだが。だが、確かに彼女が田村氏の言葉を聞いていたのは間違いないらしい。その言葉の後すぐに、網戸がふわりと浮いたのだ。
 ぎょっとして一歩飛びずさった田村氏の目の前で、網戸はがたがたうるさい音をたて、不器用ながらもやがて、きっちりと元の位置に納まった。たっぷりと数分かかったところを見ると、今の作業の主はこうした作業は苦手としているらしい。
 なるほどと田村氏は思わず苦笑した。彼女なりの謝意の表明なのかもしれない。
「モモちゃん、ありがとう。これでもう少し、クーラー無しで粘れるよ」
 呟くように言うとどこからか小さく、本当に小さく、隣の部屋で鳴る風鈴のようにかすかな、恥ずかしそうな笑い声が聞こえたような気がした。
 

 田村氏にとってはその日の事件は、それで終わりだった。それきり、あの幽霊の話も、そして罪をおかしてまで娘に会おうとした親の話もとんと聞かない。あの指輪が役立ったのかどうか、それも分らないままだ。
 ただ一度だけ、マンションの入口で偶然出会った桐子が、その親が禁止魔術を使用したという罪状で逮捕されたらしい、とだけ、聞いただけだ。情状酌量がつくだろうと、桐子は肩を竦めていた。両親を騙したという魔術師も追っている最中だという。
「灯月の奴に一応は感謝しておこうかしらね。タチの悪い犯罪者が野放しになるとこだったかもしれないわ」
 





 これはだから、後日の話だ。




「ただいま!」
 笑顔で両手に荷物を抱えて――出かける時の二倍の量になっているのは土産をいつものように沢山持たされたのだろう――マンションへ帰って来た冬瑠に、灯月は無造作に手を差し出した。
「持つよ」
「ありがと。あのねぇ星原君、篠崎さんから梅酒いただいたの。自家製ですって。美味しかったわよ、後でマンションの皆も呼んでおすそ分けしようと思ってるんだけど、一緒に飲みましょ」
「……あんまり飲み過ぎるなよ…というかもしかして、篠崎の本家で酔っぱらったりしてないよな?」
 冬瑠はその問いかけには素知らぬふりを通した。
「それより星原君、メールで変なこと訊いてたわね。あれ何だったの?美味しいラーメン屋教えて欲しいって」
「今、財布事情がキツイからな。奢るならラーメンかなぁと思ったんだ。九州はとんこつが旨いらしい」
 九州?と冬瑠は首を傾げながら荷物を抱え直す。重量の殆どは主に、あまりに美味しかったのでついついめいっぱい頂いてしまった梅酒の瓶だ。揺れるたびに、たぷん、と水音がする。
「豚骨ラーメンがいいの?でも星原君どうせどのラーメンでもあんまり味分からないじゃない。味噌と豚骨の区別もつかない癖に」
「食うのは俺じゃない」
「そうなの?」
 事情を聞きたい気持ちはやまやまだったが、結局、冬瑠は突っ込んで事情を尋ねることはやめにした。
 灯月は少々、人より味覚が鈍い。本人にもその自覚があるらしく、時折、こうして冬瑠に妙な相談を持ちかけることがあった。
(そういえば一か月前には『美味しいプリンを売ってる店を教えて欲しい』とか言ってたわね星原君)
 あの時も何事かと思ったけどね、と冬瑠は内心だけで肩を竦めて、何件かの店の名前を挙げておいた。――星原家の家事までもを一手に担う冬瑠は料理好きであり、食には少々うるさい面があった。彼女の味覚は灯月のそれとは真逆で、それなりに確かである。
「――とまぁ、豚骨ラーメンならこの辺りかしらね」
「ふぅん。さんきゅ」
 と、そこでエレベータが四階に止まる。
 当然のように灯月は荷物を抱えたまま一緒に降りて、冬瑠の部屋までついてくるのだろう。
(後で事情を聴こうかしら、どうしようかしら)
 冬瑠はそんなことを考えながら、強い日差しに滴ってきた汗を拭った。