田村さん、酔っ払いに出会う。

土曜日の正午ごろ。遅い起床で寝ぼけ眼をこすりながら、さて今日の昼はどうしようなどと洗濯機の前で思案していると、玄関でチャイムが鳴って、田村氏は顔を上げた。
「おはようございます、田村さん」
「はよ、おっさん」
 玄関を開けるとそこに居たのは、185センチ近い長身の青年と、140センチに届かない小柄を通り越して小さな少女めいた風貌の女性の二人組だ。田村氏にとっても見慣れた顔だった。隣室、405号室の住人である星原灯月と、その階下の住人・竜堂冬瑠である。
 二人そろってどこかへお出かけだろうか、と、二人の格好を見ながらほのぼのとした気分で田村氏はそんなことを考えつつ、挨拶を返した。
「やぁ、おはよう二人とも。デートかい?」
 にっこりしながら問いかけると、清く正しい青春真っ盛りのはずの灯月が途端に少し遠い眼をした。田村氏のからかい半分の問いかけに答えてくれたのは、にこやかな笑みを浮かべた冬瑠である。小柄な彼女はにこにこと邪気のない笑顔で、ひどく罪深いことを告げた。
「いやだ田村さんってば、冗談ばっかり。そんなはずないじゃないですか」
 にっこり。その笑みに一点の悪意さえ見受けられない。田村氏もさすがに少々胸が痛んで、彼女の隣に立った青年の顔を見上げ真摯に謝った。
「……ああ、うん、すまなかった星原君、こういう答えが返ってくることを私も予想すべきだった」
「…………べつに俺は傷ついたりしてないぞ、慣れてるからな、慣れてるから」
 自分に言い聞かせるようにそう返す灯月の顔色が若干悪い。田村氏はしみじみと罪作りな幼い顔立ちの女性を見やった。21歳ながら中学生と言われても通用する程に幼い容姿の彼女は、相変わらず無垢な笑顔を浮かべていた。
「それよかおっさん、昼飯まだだろ?」
 ――慣れている、というのは伊達ではないらしい。冬瑠の言葉に何やら胸をえぐられていた灯月だったが、即座に立ち直ったようでそんなことを言い出した。ああ、と頷いて、田村氏は二人の顔を見比べる。
「もしかして、お昼のお誘いかな」
 田村氏の言葉に、青年が頷く。仏頂面ながら生真面目な彼は、こう答えた。
「前に、指輪譲ってもらったろ? あん時何か奢るっつったしな」
 そういえばそんなこともあった――お盆のころに起きたひと騒動を思い出して、田村氏は苦笑する。その時たまたま手に入れた「幽霊と会話ができる指輪」という不可思議な道具を、田村氏は彼に譲ったのだ。その譲渡の条件が「今度何か奢る」というものだった。
「律儀だなぁ、私もすっかり忘れていたくらいなのに」
 笑いながら言うと、灯月は目を逸らしてしまった。冬瑠が隣でくすくす、笑う。
「星原君はこー見えてもものすごく律儀で義理がたいんですよ、田村さん」
 まるで自分の家族を自慢するみたいな、誇らしげな口調だった。
 そんな彼らに田村氏が連れられて行った先は一軒のレストランだった。値段設定はやや高めだがその分料理の味は申し分ない。田村氏も、ちょっとした贅沢をしたいときには利用しているお店だ。
「奢るって言ったからな、遠慮しないでいいぜおっさん」
 年下の青年に奢られるというのも妙な気がしたが、田村氏はここは素直に奢られておこう、と決めた。想い人である冬瑠の手前、彼の面子を潰してしまうのも忍びなかったのだ。
「じゃあ、日替わりでも頼むとするかな」
「あ、あたしも日替わりで!」
 日替わりランチは、海鮮丼に味噌汁とちょっとした小鉢がついている。灯月は少し思案して俺も、と言おうとしたらしいが、先手をとって冬瑠が彼に告げた。
「星原君、ちゃんと自分で選びなさい」
 ぴしゃりと言われて灯月が舌打ちをする。まるで母親と息子のようだな、と田村氏はこっそりと笑ってしまった。
 ちなみに後々、冬瑠はこの時のことについて、こっそりと教えてくれた。あの子は味音痴だから、食べモノに頓着が無さすぎるんです、と、少しばかり悩ましげに。
「少しくらい好き嫌いを持ってくれた方が、あたしとしても作り甲斐ってものを感じられるのですけど。田村さん、そう思いません?」
 ――実は食欲旺盛な若かりし頃、田村氏は似たような愚痴(もっと味わって食べてくれないと、作り甲斐がないじゃない、とか何とか)を妻から聞かされたことがあったので、身につまされる気分で、うん、とかああ、とか適当な相槌を打つことしかできなかった。



 午後。すっかり昼食を満喫し、久方ぶりに美味しいいくらと帆立を食べた田村氏はご満悦で、午後のティータイムを過ごしていた。といってもそんなに優雅なものではない。マンションの管理人室、マンションの住人達がたむろしているその部屋で、管理人である初老の女性が淹れた緑茶を飲んでいたのである。
 部屋には何やらぐったりと畳の上に転がったベリーショートの女性が一人と、管理人の根岸女史と、どうやら本日は特に予定の無いらしい冬瑠という女性ばかり三人が話に花を咲かせている。
「桐子さん、桐子さん。今日は非番なんですか?」
 冬瑠のそんな呼びかけに、ベリーショートの女性はうーん、と転がったままの行儀の悪い恰好で唸った。このマンションの住人で、警察署に勤務しているという桐子カオルは、行儀悪く転がったまま声を出す。
「そうよぉ、特に事件が無ければ呼ばれないしー。かといってこう暑いと部屋に帰る気にもなれないしぃ」
「…エアコンの調子、また悪いの? カオルちゃん」
 マンションの管理人である根岸女史は思案げに問いかける。桐子はうんうん、と頷いた。冷たい水だし緑茶を入れたコップを頬にあてて、少しでも涼もうと試みている。
「そーなの。こないだ現場で何か余計なモノでも連れ帰っちゃったかなぁ、いっちゃん、今度ミツでも寄越してよ。あたし霊感はあるけど、隠れられちゃうとさっぱり分かんないし」
「仕方ないわね。ミツ、ミツ?」
 声をかけてみたが、反応はない。根岸女史はあらあら、と溜息をついた。
「ここのところの暑さでダウンしちゃったのかしら」
「根岸さん、幽霊は夏バテなんてしませんよ」
 あはは、と笑い合う三人。田村氏はそんな会話にもすっかり慣れて、そうか、幽霊は暑さにやられたりはしないんだなぁ、とひとり感心していた。
 ――そんな管理人室に来客があったのは、田村氏が二杯目のお茶を飲んでいた頃である。そろそろおやつ時、ちょっと小腹が空いたかな、そんな時間帯だった。
「こんにちは!」
 元気な男の子の声だった。一人暮らし専用マンションで耳にするにはいささか不似合いな声でもある。桐子はちらと眼を上げただけで無反応だったが、根岸女史がにこやかに対応に出た。
「あら、大沢君じゃない。こんにちは。今日は一人?」
「尚夜君、こんにちは」
「いっちゃん、冬瑠さん、こんにちは。――あの馬鹿犬は?」
「星原君ならお仕事ですって。何だか、レアな魔道具の材料が見つかったとかで、遠方まで駆り出されてるわ」
 ――成程、レストランを出るなり何やら慌ただしく携帯電話で会話しながら去って行ったのはそんな理由だったのか。田村氏はこっそりと納得しながら、来客の顔を見遣る。ついぞ最近見た顔だった。
 小学校の高学年くらいだろうか、顔立ちは日本人っぽいが、染めた訳でもなさそうな天然の茶色の髪は日本人らしくない。子供特有の高い声を無理に低めたみたいな声で、彼は田村氏に丁寧な挨拶をした。
「いつぞやはご迷惑をおかけしてすみませんでした、田村さんでしたよね?」
 そこに居たのはお盆の一件で出会った少年、大沢尚夜であった。田村氏は慌てて手を意味なく振って見せる。
「ああ、いやいや。迷惑だなんて」
 ちょっと不法侵入されて、網戸を壊された程度のことである。このマンションに暮らしてそれなりにトラブルにも耐性のついてきた田村氏にとっては、あまり大した迷惑でもなかった。何よりその直後、壊れた網戸は田村氏の部屋にすっかり居着いている「家憑き妖精」のモモが修繕してくれている。
 だがそんな田村氏には構わず、大きな紙袋を提げていた少年が、それをずいと差し出したもので、田村氏はすっかり驚いてしまった。
「これ、お詫びの代わりにと思って」
「お詫びだなんて、そんな。別に気にしてないのに困ったなぁ…」
「あと、俺…と俺の保護者に当たる人が、結構このマンション出入りしてるんで、これからもよろしくっていうご挨拶も兼ねてるんで。良かったら受け取ってください」
 そつなくそう挨拶する少年は実に大人びて見える。しっかりしているなぁ、と田村氏は感心しきりで、つい紙袋を受け取ってしまった。
「何だか申し訳ないね。今度お礼にうかがってもいいかな?」
「いえ、お気遣いなく」
 ほんとにしっかりしているなぁ、と田村氏は再度感心し、紙袋の中を覗き込む。和菓子の名店の名前が入った紙袋の中身は、見た目も涼しげな水まんじゅうだ。冬瑠と桐子がこくりと可愛らしく咽喉を鳴らしたのが見えた気がして、田村氏は期待たっぷりの目をしてこちらを見ている二人を笑いながら振り返り、それから立ち去ろうとしている尚夜少年を呼びとめた。
「折角だから、一緒にお茶にしないかい、尚夜君」
「いえ、でも――」
「尚夜君、折角のご厚意ですもの、甘えておきましょう?」
「…でも、レディが…」
「あの人のことだから、『ついでに親睦を深めて来るように』くらいは言ったんじゃない?」
 何やら言い募った尚夜が、冬瑠のそんな言葉にぐっと詰まった。どうやら図星を指されたらしい――「レディ」とやらが何者なのか田村氏にははかりかねたが、どうやら冬瑠とも顔見知りの人物のようだ。とすれば、もしかするとそのうちマンションで遭遇することもあるのかもしれない。
 そんなことを思いつつ、田村氏は湯呑をひとつ余計に手に取って、お茶を注いだ。水だしの緑茶はよく冷えて、うだるような残暑に心地よい。
「…それなら少しだけ、お邪魔します」
「んふふ、手土産持参なら大歓迎よん、子蜘蛛ぉ」
「うるさい、警察の犬」
 ――桐子とのやり取りだけは何やら不穏な雰囲気だったが、田村氏はあまり気に留めない事にした。先だっての一件で、桐子はどうやら始末書を書く羽目になってしまったようだから、その辺りの恨みでもあったのかもしれないと勝手に想像したのである。
 実際の所はこの二人の関係はもう少しややこしいのだが、田村氏にはあずかり知らぬことであった。
 保冷剤の入れられていた水まんじゅうは程良く冷えて口の中でぷるぷると心地よい食感を残す。田村氏はさほど甘いモノ好きでもなかったが、それなりには食べるし、女性二人は言うまでもない。いつも穏やかな根岸女史がにこにこしながらお茶をすすった。
「私はいいわ、あとで孫が来る予定だから、あの子にあげることにしましょう」
「それはいい。きっと喜ばれますよ」
「田村さんも、モモちゃんに一個持って帰ってあげなさいな」
 根岸女史がそう提案したところで、天井の蛍光灯が前触れも無しにかたかたと小さく揺れた。まず冬瑠がそれを見上げてあら、と大きな瞳を瞬く。田村氏に視線をやって、彼女は苦笑い。
「モモちゃんが、『ずるい』って言いながらこっち見てますよ、田村さん」
 釣られて笑いながら田村氏は、一見して何も見えない虚空に、水まんじゅうの入った皿を掲げてみた。途端にぱちん、と静電気のはじけるみたいな独特の音がして、水まんじゅうがあっというまに消えてしまった。田村氏はここのところ家にすっかり居着いている――否、「憑いている」という表現の方が正確だろうか――幽霊少女の「モモ」が、そうやってお菓子を平らげる姿をよく目にしていたので、さすがに動じはしなかった。毎度唐突なので驚きはするが。
「ありがとう、って言ってますよ」
 根岸女史の「通訳」に田村氏は感謝の目礼をしてから、自分には姿も見えない幼い幽霊に「どういたしまして」と告げた。ぱちぱちと静電気のような不思議な音が響き、その音の方向へ、冬瑠が手を振る。ばいばーい、とか言っていたので、水まんじゅうを抱えたモモはどこぞへ消えてしまったのだろう。何でも元々、彼女はあまり昼日中は出歩かないというか、出歩けない性質であるらしい。やっぱり幽霊というのは、明るい場所より薄暗い夜の方が元気が出るようだ。死んでいるものに元気というのも妙な表現ではあるが。
 ――そんな平和なやり取りを余所に、何故か尚夜は一人、ちゃぶ台の下に潜り込んでいた。畳に寝っ転がった桐子がそんな彼を見咎めて、揶揄を込めて笑う。
「何よ、相変わらず幽霊が苦手なの、子蜘蛛」
「…別に苦手じゃないよ、相性の問題だ。それにここで俺が顔出せばモモは怒って暴れるだろ。――あの人、田村さんって人は普通の人みたいだし、モモが暴れたら、モモのこと怖がるかもしれないじゃないか」
「田村さんはそんな人じゃないよ、だーいじょうぶ。あんたもレディも、多分全然気にしないで普通に付き合ってくれるんじゃない? ――いい人だよ」
 最後は本当に本当に真摯な、真面目な調子で告げられたもので、尚夜は変に反駁するのも気が引けて、でも彼はあまり「人間」が好きではなかったので、
「……ふん、どーだか」
 拗ねた子供みたいに、そう答えただけだった。



 さてそれから数時間が過ぎて夕刻、マンションに泥だらけになった星原灯月が帰ってきた。うんざりした顔をして、抱えたリュックを入口に下ろす。
 この暑いのに長袖のパーカーに長ズボン、がっちりとした登山靴という格好で、どうも午後の僅かな時間にどこぞの山に行っていたものと見える。
 彼は管理人室を覗き込んでおやと眉根を寄せた。常ならば休みの日ならば誰かしらたむろしている管理人室が、えらく静まりかえっていて人の気配一つない。管理人の姿さえ見えないという事態は珍しく、彼は首を傾げながらエレベータホールを突っ切って行く。
 途中、賑々しい声が彼の耳元を掠めた。頭上から聞こえて来るその声に顔を上げれば、彼にとっては見慣れた少女達が、天井付近をふわふわと浮いている。機嫌が余程いいものと見えて、彼女達の周りではぱちぱちと不思議な音が鳴り響いていた――機嫌のよい時、あるいは悪い時に彼女達が鳴らす音、いわゆる「ラップ音」と呼ばれるものである。
「珍しいな。スイも居るのか」
 彼の視線の先には、長い真っ直ぐな髪の毛をゆぅらりと涼しげに揺らす女の姿があった。年の頃は20代に届かないくらいだろうか、深い青の色をした髪のお陰で尚更目に涼しい。
 その彼女はスイ、と呼ばれると、嬉しそうに片手を挙げて、彼に挨拶した。
「やっほー、灯月! お姉様のご帰還だぜぇ!」
「今度はどこほっつき歩いてたんだ。皆心配するだろうが」
「なーに気にしなさんな! あたしゃァ、これでも百年浮遊霊やってんだぜぇー」
 笑いながら彼の背中をばんばんと叩く幽霊。幽霊の癖に、身体は半透明に透けている癖に、彼女が叩く動作をすると灯月が前につんのめった。実際に叩かれているのと大差なく、どうやらちゃんとダメージがあるものと見える。
「あいっかわらず陽気だなぁ、全く…」
 幽霊らしくない、と彼は首を横に振りつつエレベータに乗りこむ。ボタンを押そうとする手を、小さな青白い手が遮った。
 驚くでもなく、彼はその手をじっと見やる。エレベータの壁から生えた、子供のものらしき幼い手に、一言。
「何だ。俺は疲れてんだから、悪戯なら後にしろよ、モモ」
「……とーげつも行く」
 モモの言葉は幼く舌足らずで、おまけに酷く断片的だ。何の話だ、と眉根を寄せた灯月の首筋を、ひやりと冷たい手が撫ぜる。さすがにぎょっとして彼は振り向き、悪戯の主を睨み据えた。ただし眼鏡越しに、しかもやや焦点をずらすのは忘れない――彼の視線はあまりにも、幽霊の類には強すぎる。
「何しやがる、ミツ!」
「モモのお誘いなんだから乗っかってよ、とーげつ! とりあえず三階! 三階行こう!」
「…俺の部屋は四階なんだけどな」
 ぼやきながらも彼は素直に三階のボタンを押す。
 ――何故かと言われれば、そう。
 幽霊少女達から微かに、彼の好物の匂いが香ったからだ。
 好物、すなわち、日本酒の芳醇な香りだった。



 灯月が到着したのは、桐子の部屋だった。中からはわいわいと騒々しい声が既に漏れ聞こえている。ドアを開いた灯月の視界に最初に飛び込んで来たのは何を隠そう彼の大事な幼い顔立ちの女性だった。――ただし目付きが、大層、まずい。
 視線を感知し、そこから相手の精神状態をある程度悟れる能力者でもある灯月は、彼女の視線を感じた瞬間に逃げようとしたのだが、
「ほーしーはーらーくぅーんっ」
 甘ったるい声と共に、腹の辺りに暖かい感触を覚えて硬直する。
 細い彼女の腕が、彼の腰に回されていた。要するに、竜堂冬瑠が彼に抱きついていたのである。
「先輩、飲んだのか」
「当たり前じゃないのぅ、お酒は飲むものよ?」
「誰だあああ!? 先輩に飲ませたのは誰だ名乗り出ろおおおおお!!」
 しがみついた冬瑠を引きはがしながら灯月は室内へ突進した。足元でスルメイカの空袋が音をたて、空のビール瓶がころころと転がって行くのを無視して、リビングへ。
 そこにはすっかり出来上がった風情の部屋の主、桐子と、
「やぁ星原君、お帰り」
「おっさん何してんだよ」
「見ての通りだよ。桐子さんから誘われてね、お酒をご馳走になってるんだけど…いやあ…まさか竜堂さんがそんなに悪酔いする人だとは…」
「おっさんかよぉぉぉ!!」
 きまり悪そうに目を背けたのは、田村氏であった。灯月はらしくもなく絶叫し肩で息をしていたが、まだがっしりと自分にしがみついている小さな女性を見下ろして、それから室内へと目線を戻す。
「おいこら桐子」
「やぁん、私にまでお鉢を回さないでちょうだいよ」
「なにが『やぁん』だクサレ警官…っ、冬瑠さんが飲んだらこーなるのは知ってんだろ!! 何で止めなかった!!」
「あ、『冬瑠さん』になってる」
「田村のおっさんも呑気に言ってないで何とかしてくれこれ…!!!」
 とか何とか叫んでいる間にも冬瑠の白くて細くて華奢な指が、するすると灯月の腹の辺りをまさぐるので居心地が悪いなんてものではない。
「たまには呑ませて吐き出させないと、冬瑠さんは色々とため込みがちだろ」
 のうのうとそう言ってのけたのは、酒の匂いの漂う室内には恐ろしいまでに不似合いな一人の少年。尚夜だ。つまみに誰かが持ち込んだらしいクラッカーをかじり、手にはオレンジジュースの入ったコップが握られている。
「ナマぬかしてんじゃねぇぞ子蜘蛛…」
「…ふん。馬鹿犬風情が、冬瑠さんの番犬を気取るんなら、それくらいのメンタルケアもできなくってどうするんだ。その人がストレスためこんで暴走なんてコトになったら本格的に笑えないんだぞ自覚しろよな」
「うるせぇクソガキ、コーヒーぶちまけるぞ」
「黙れ馬鹿犬。役立たず」
「ま…まぁまぁ、二人とも、落ち着いて」
 思わず仲裁に入る田村氏であった。前に出会った時もそうだったが、どうも灯月はこの少年のことをあまり好いては居ないようだ。――そして少年の方もその評価は同様らしい。先までのびっくりするような礼儀正しさを脱ぎ捨てて、年上の青年を億した様子もなく睨みつけている。火花でも散りそうな二人の睨みあいに、しかし水を差したのは、田村氏の言葉だけではなかった。先ほどからべたべたと灯月に触れていた白い指先が、灯月の肩を掴んで、こう告げたのである。
「星原くぅん? おねーさんの相手を忘れて、何をしてるのー?」
 甘えるみたいな口調は恐ろしいまでに珍しい。田村氏は呆気にとられる想いで少女めいた風貌の女性を見遣った。
「…何だよ先輩。吐くならトイレはあっちだぞ」
「そーじゃなくってぇ、ちょっと屈んでよぅ、届かないじゃないのぉ」
 冬瑠の上目遣いの視線に、能力者の青年は何を感じたのだろうか。
 ――青くなって、後ずさろうとしたところで、冬瑠に服の裾を掴まれて動きを止めた。
「ほらほら、冬瑠ちゃん溜まってるみたいよー灯月、相手してやりなさい」
「そうだぞ馬鹿犬。腹を決めて相手してやれ、こっちはそれをつまみに飲むから遠慮するな」
「ふざけんなよてめぇらこっち見たら半日は目ぇ見えないようにしてやるからな…!!!」
 かなり本気で叫びながら灯月は廊下に姿を消してしまう。当然、彼にべったりとくっついた冬瑠も一緒だ。
「…つまりあれは…どういうことなのかな?」
 苦笑気味に廊下に消えた姿を目で追った田村氏に、リビングに集った面々、桐子と尚夜と、それから管理人の根岸女史は慎ましやかな、しかし大変楽しそうな笑みだけを返したのであった。落ち着いた様子で、女史は一言。
「――邪魔をしたら馬に蹴られて地獄に落ちる、そういう類の話ですよ」

 廊下の方から僅かに漏れ聞こえる声は、「だから先輩酔ってそういうことするのやめ…」「うるさいなぁ、星原君ってばぁ、おねーさんの何がそんなに気に入らないのぉ?」という何とも耳を塞ぎたくなるような居心地の悪いやり取りが続いていた。

「ちなみに冬瑠さんは、」
 尚夜が頼まれても居ない解説を付け加える。
「明日になったらけろっと酔っている間のことは忘れちゃうんですよ」
「……。成程」
 灯月の必死の抵抗の理由が、何となしに理解できて、田村氏も嘆息した。想像以上にあの青年は難儀な境遇のようである。




 酒も心地よく回った頃になって酒宴はお開きになった。翌日も仕事だという桐子への配慮もあるし、まだ未成年の尚夜が「そろそろ帰らないと、さすがのレディも心配するでしょう」と言いだしたためでもある。
「じゃあな、おっさん。…今後は頼むから、冬瑠さんには呑ませないでくれ」
 四階に来たところで、灯月はそう言って自室へと引っこんで行く。その背中には酔い潰れたらしい冬瑠が担がれていた。どうせ夜中に頭が痛いとかって騒ぎだすんだから、俺が面倒みるよ、と、うんざりしたように灯月が説明したのを田村氏も覚えている。
 うんざりしているような顔の癖に、どこか幸せそうだったのは、田村氏も指摘すまいと決めていた。それは野暮というものだし――まして、いずれもう一度くらい、冬瑠にお酒を飲ませてもいいかもしれない、と思った事も、彼には内緒だ。
 そうやって室内に戻って、田村氏は初めて、留守電のランプが点いていることに気がついた。
(おや。…母さんかな)
 郷里の妻の顔を思い出して、ボタンを押す。案の定、機械音の後に続いたのは、田村氏にとってよく聞きなれた妻の声だった。
『あなた、暑い日が続くけど元気にしてらっしゃるかしら。――あなたのことだから自炊なんてしていないんじゃないかって私それが心配だわ。それでね今日、お母様から夏野菜をたくさんいただいたから、おかずをいくつか作って、宅急便で送っておきました』
 優しい声の告げた内容に、田村氏は知らず苦笑を零す。
『――ちゃんと食べて、夏バテなんてしないようにね』
「はいはい、きちんと食べているとも」
 届くはずもないと知りながら電話に録音された声にそう応じてから、田村氏は更にひとつ、笑いを漏らしていた。
(そういえば今日一日は、私は誰かに食べさせてもらってばっかりだったなぁ)
 夕飯も、酒の席で誰かしら持って来たものをつまんでいたから、丸一日、誰かの奢りで食べ続けていたことになる。田村氏は思い返して、それから、明日届くと告げられた、宅急便の中身のことを思った。少し懐かしい気さえする、妻の手製のおかずの数々。実家の野菜で作ったのならばそれはさぞや美味しいだろう。
(明日は、)
 マンションの面々のことを思い起こし、田村氏は欠伸と共に小さな決意をした。
(明日は私が皆にご馳走することにしよう、うん、それがいい)