笑顔と共に、チョコレートが差し出された。市販品。スーパーで買ってきたらしい、それなりに高そうなチョコレートだが、ラッピングに堂々と貼られた「3割引き」のシールが何もかもを台無しにしている。差し出されたそのチョコの包みをしばし見やり、腕組みをして、首を傾げ、十分な思案の間を置いてから鈴生は首を横に振った。一言。
「チェンジで」
「センセ、そのジョークを女子高生の弟子に向けて発言するのはどうなの、セクハラじゃないの訴えるわよ。冷静に考えたらあたしそもそもセンセには全体的にセクハラしかされてない気がするから今更だけど」
「酷いな僕はセクハラなんてしてないよ。思ったことを素直に口にしてるだけだよ響名君。だからまず結婚を前提に僕に生前贈与で財産を譲って下さい」
「チェンジで!」
藤代鈴生と東雲響名の日常は大体、こんな具合である。
「大体なんだよ3割引きって。手作りしろなんて言わないけどこれは無いよ響名君」
「センセこそ何言ってんのよあたしが手作りするって言ったのに『全力で遠慮するよ』ってにこやかに言い放ってくれやがったのはどこのどなた様?」
「あはははそういう台詞は手料理に薬ぶち込むのやめてからにしようか」
「栄養素を補ってんのよ、弟子のちょっとした気遣いくらい受け取りなさいよ!」
「受け取れるかァ! 致死量ギリギリの青光毒茸とか僕を殺す気だろ響名君!?」
その声に響名はそっと目を逸らし、ふ、と僅かに憂いを帯びた笑みを浮かべた。
「…だってセンセ…あたしの愛情じゃなくてあたしの<レシピ>が目当てなんでしょ…」
「うん。え、何、くれるの?」
「うわひっでぇそこはウソでも否定するとこじゃないのセンセ。あげないわよ。」
「ウソついてどうするんだよ。正直なだけマシだろう?」
さらりと返されると言葉に困る。響名は嘆息し、突きかえされたチョコレートの箱を睨んだ。――そもそもが始まりからして、この男との関係は狂っているのだ。そうとしか言いようがない。
響名は、<レシピ>と呼称される特殊な<魔導書>の継承者、いわゆる「魔導書の契約者」である。
どうして自分のような未熟な<魔具師>が、この世界全ての魔具師が憧れてやまぬ<レシピ>の継承者に選ばれたのかは、響名にはまだ分からない。ただ先代の所持者であった響名の曾祖母は、死に際して彼女を継承者に指名した。生前数多く居た優秀な弟子達の誰をも選ばず、当時はまだ幼い子供だった響名を名指ししたのだ。
当然、その後は大変面倒なことになった。納得がいかない、自分の方が継承者に相応しいと主張する曾祖母の弟子達と、彼女の遺志を尊重し、継承者である響名を守ろうとするもの、あるいは響名に取り入って<レシピ>から秘術を得ようとするもの――様々な立場の人間が響名の周りでは蠢くことになった。
――そしてここにいる藤代鈴生も、そういった<レシピ>絡みの思惑を抱えた人物である。と言っても、彼の立場は少々ややこしい。
彼は、響名の曾祖母、先代の<レシピ>所有者の最後の弟子であった。最後にして、最高の弟子であったとも評されることがある。実際、現在世界に散らばる――決して数は多くないが――<魔具師>達の中でも随一の腕の持ち主であろう。それだけの実力を持つ<魔具師>なれば、彼とてまた、<レシピ>に対しては特別な感情を抱いている、ハズで。
だが鈴生は、<レシピ>を持つ響名を見下すでもなく、妬むでもなく、ただ、彼女と出会ったその日ににっこり笑って開口一番こう言ったのだった。臨時の教師として、響名の通う学校へもぐりこみ、彼女をわざわざ呼び出して告げたのだ。
――君の曾御婆さんの遺言でね。僕は君を、守りに来たんだよ、東雲響名君。
だから、と、彼は続けた。笑顔のまま、穏やかな口調のまま、警戒心も露わに後ずさる響名の様子にも構う風無く。あとついでに思い出しておくと、今にも土下座しそうなくらい卑屈に。
――だからお礼として僕と結婚して<レシピ>の使用権ちょっと下さい。
結果、響名は出会ったばかりの教師である藤代鈴生を全力でぶん殴り、学校側から自宅謹慎処分を喰らう羽目になったのだった。今思い出しても、全くもってロクな出会いではない。
(……それがどうして今、あたしがセンセの家に下宿で同居、なんて展開になってんのかしらね。…世界ってこういう時よく分かんないから困るわ)
「響名君、それと付け加えて言うと今日は2月16日でね」
分厚い眼鏡を押し上げながら、向かい側に座った鈴生がなおも言い募る。
「知ってるわよ。だからバレンタイン用のチョコレートが3割引きでお安くなってたんじゃない」
「…世間的には男性へチョコを贈るのは14日じゃないかな」
「そうね、世間ではそうかもしれないわね。ついでに言っておくとメイへの義理チョコはきちんと14日に渡しておいたわ。デパ地下のチョコレート祭りで買ってきたそこそこお高いヤツ」
「何だろうねこの釈然としない気持ち。一応世間的には、僕は君の婚約者なんじゃないのかい響名君」
「『君の財産が欲しいから結婚してください』なんて堂々と言う男の人を世間では婚約者と呼ぶのかしらセンセ」
「いやぁ、誠意に溢れたプロポーズだよね我ながら」
「私欲と下心に溢れてるわよ。…まぁ、あたしも変な連中の相手で疲れてたし、センセがムシ避けになってくれるから助かってるけどさ…」
何しろ<レシピ>狙いで響名に取り入ろうとする男性は後を絶たないのだ。あわよくば惚れ薬でも仕込んで彼女に言うことを効かせて――なんてのは響名に言わせれば「よくある」手口である。そういう意味では、「いきなり結婚は重いからとりあえずお試しでカレシ」という立ち位置の鈴生の存在は、割と有難い。彼は一方的に響名から奪おうとはせず、自分の利益と彼女の利益をきちんと天秤にかけて、いわば平等に扱ってくれるのだ――臨時とはいえ教師の癖に生徒に「じゃあカレシで」とか提案するのは色々問題があるような気がしないでもないが。
「それじゃあ感謝をこめて僕に財産を生前分与」
「しないわよ」
いつものやり取りではあるが、急に虚しい気分になって響名は席を立ちあがった。チョコレートの箱を持ったまま、部屋を去ろうとする。
「響名君? どっか行くの?」
「ツキんとこ。遊びに行ってくるわ」
今日は約束があったから、と、響名はため息交じりに告げて、ひらりと手を振った。やる気のない挨拶に部屋に居た鈴生が応じたかどうかは、振り返らなかったし、即座にドアを閉めたので、響名には確認のしようもないことだった。
こんな具合の愚痴を聞いて、響名の友人、財部ツキはいつも通りのクールな表情のまま眉一つ動かさずに、
「ヒビは本当に先生が好きなのね」
不意を突かれた響名は飲んでいたココアに思いきり咽て、カップにたっぷりと盛られていた生クリームを吹き飛ばした。対面に座っていたもう一人の友人、立花竜花が「何すんのよヒビー!?」と悲鳴を上げるが、ツキは矢張り無表情に淡々と、隣に座る竜花に自分のハンカチを差し出して黙らせる。
「…げほっ、……あのねツキ、いきなりその冷たい表情でそういうこと言うの、やめてよ、ね」
涙目になりながら訴えたが、ツキは澄ました様子でカフェラテ――こちらはトッピングは無しのシンプルなもの――を飲んでいた。
場所は駅前、繁華街の中心からは少し離れた位置にあるカフェ店内だ。ソファの配置されたカフェはコーヒー一杯で長居するには丁度良く、周囲も賑やかな女性の集団が多く陣取っている。
そんな中で三人の女子高生は、頭を突き合わせて、ローテーブル越しに賑々しい会話を続けている。
「要はヒビは寂しいんでしょ。藤代先生はあんまりヒビに興味が無いみたいに見えるものね」
まずは淡々とした調子でツキが言う。ただ、涼しげな目元にだけ笑みを浮かべているから、口調程には淡々とした気分で言っている訳ではないことが知れた。
「実際、<レシピ>にしか興味が無いんじゃないかしらね…。一応は、あたしのことも大事にしてくれてるみたいだし。それはいいんだけど」
少なくとも、響名に嫌われたら困る、くらいは思っているんだと思う。加えて言えば――自惚れでなければ、彼は、<レシピ>抜きでもそれなりの好意を自分に対して抱いてくれているはずだ、とも、思う。仲は悪くない。――それが男女のものか、と問われると、響名は言葉に困るのだが。
眉根を寄せて考え込む響名の様子を見ながら、ツキは細く息をついた。
「自分の向けた好意と同じだけのものが返ってこないと、イヤなのよね。…私も分かるわ、そういうの」
「あー、そういう考え方なら、あたしも分かるなぁ」
服に付いた生クリームを拭いながら、竜花もしみじみ、という様子で頷いた。二人の友人は、二人それぞれの状況で恋をしているから、色々重なる部分もあったのかもしれない。誰からともなくため息が零れて、三人はそれぞれに目を見かわしあった。
「でもヒビ、だからって、3割引きのチョコレートであてつけるのはセンセが可哀想じゃないかなぁ」
短い沈黙を打ち破り、真っ先に口を開いたのは竜花である。洒落っ気の多い彼女は、今日は黒縁の眼鏡。普段は可愛い色使いの多い服装も、今日はワンピースも靴もジャケットまでモノトーンで揃えていて、大学生と言われても分からない程度には大人びて見えた。が、やっぱり中身は女子高生である。むしろ、三人の中で一番の箱入り、お嬢様育ちの彼女は、見た目に反して三人の中で一番子供じみた部分を持っているくらいだ。
実際、彼女の手にしたカップには、これでもかと言うくらいにトッピングを乗せたおもちゃ箱みたいなカフェラテ。それをくるくるとマドラーでかき混ぜながら、彼女は続ける。
「メイには先に渡してたんでしょ、チョコレート。…そういう拗ねたみたいなやり方、ヒビらしくない。普段ならあたしがやろうとして、ヒビとツキに止められそうなことだもん」
「……悪かったわね、子供みたいな拗ね方で」
歯ぎしりするように応じると、ちらりと目を上げて竜花が苦笑した。
「いや、なんかさ、……そんな拗ね方しちゃうくらい、ヒビはセンセが好きなんだよねぇ」
「あんたまで言うか。やめてよ、面と向かってそういうこと連呼するの。恥ずかしいわ」
耐え切れずに手で顔を覆う響名を、ツキは楽しそうに、竜花の方はもっとはっきりと面白がるように笑いながらの視線を向けている。
「それで――バレンタインの反省は、それで終わりな訳、ヒビ?」
「あんた達はどうなのよ。…今日はバレンタインの反省会、なんでしょ」
響名の言葉に、二人はそれぞれに視線を明後日に向けるやら、無視してマグカップの中身を呑み込むやら。どちらも決して良い塩梅ではなかったらしい、とその態度で察して、僅かに溜飲を下げ、響名は改めて頬杖をついた。
「…ま、お互い様ってとこよね。それならいいわ」
「それならいい、ってそれひどいなー! ヒビにはあたしの恋路の成功を祈る気持ちは無いのねー!」
「そうよヒビ、私があなたの未来の義妹になれるかどうかの瀬戸際だって言うのに」
責めるような調子の言葉もどこかわざとらしく、ふざけているのは気心の知れた仲ですぐに知れる。だから響名は然して二人の言い様を気に掛けることもなく、視線を外に向けつつ問いかけた。視線を外したのは、少しばかり照れがあったからだ――響名は小さな頃から、家族以外を頼るのはあまり得意ではない。が、今はこの友人二人以外に、頼れる相手が居ないのだ。
「…それで二人とも。あたしに今、どんな選択肢があると思う? センセにチョコを買い直すか、お詫びでも入れた方がいいのかな?」
茶化しながらも生真面目な、それは相談であった。二人は顔を見合わせ、それぞれに、うーん、と考え込むような表情になる。竜花は分かりやすく眉根を寄せて、ツキは分かりにくいが僅かに小首を傾げて、
「…先生はどうも読みづらいからなぁ…」
「何を考えてるのか、分かりにくいのよね。たまの授業は面白いんだけど」
「臨時講師だもんね。……臨時って割にはしょっちゅう学校内で見かけない?」
「ああ、あれね、学校の実験施設借りに来てるからよ。大学の実験棟に寄ってからセンセが家に帰ろうとすると、高等部の近くを突っ切った方が近い訳。んで、ついでに高等部に顔を出してるの」
「ああ、謎が解けたわ」
「そうね。ひとつ解決したわ、ありがとうヒビ」
「お前ら少しはあたしの悩みも解決しろよ…」
半目になって二人を睨む響名に、友人達はまた、顔を見合わせる。それからどちらからともなく肩を竦めた。
「なんていうか」「頑張れ」
「おい投げるな!」
「…先生、なんだかんだで結構大人だもの」
「言動はアレだけどねー」
「だから、ヒビが少し拗ねたくらいで、どうこう言うような人じゃないと思うのよねぇ」
「なんかむしろ、『うわー拗ねてるなぁ』なんて面白がられてそうだよー」
「…………うぐぐ」
妙な唸り声を出して頭を抱えるしかない響名である。指摘されてみれば確かにその通りで、あちらは自分よりもずっと人生経験豊富な大人なのである。拗ねるのは不味かった、もう少し我慢すべきだった、と彼女は心底思っていた。
(拗ねるなんて子供みたいだ、って思われたかなぁ…)
いや、実際、彼から見れば自分は子供だろう、とも思えて余計に落ち込んでしまう。机にべったりと頬をくっ付けてひとり反省会に突入する響名には、
「……とりあえず、反省終わったら買い物行こうかヒビ」
「そうね、少し気持ちを切り替えましょう。お互いに…」
自分と同じく「要・反省」状態らしい友人二人のフォローが有難かった。
さて一方その頃の男性陣である。幽霊マンションで通称「先生」こと、藤代鈴生にとっ捕まっていたのは星原灯月であった。マンションに帰って来るなりエレベーターホールで待ち構えていた鈴生に深刻な顔で話があるんだ、などと切り出され、灯月は怪訝に思いながらも彼を管理人室――実質、住人達が共用で利用している休憩室のようなものだが――に案内した訳だが。
「うーん。割と普通に困るんだよな、響名君に嫌われると。僕、一応師匠の遺言は守りたいし、っていうか<レシピ>の使用権利貰えるんなら何でもやりたいし」
とか何とか愚痴られ始めてかれこれ30分にはなるか。途中で灯月は一度お茶を淹れ直しに席を立ち、戻り、携帯を取り出し、鈴生の言葉を右から左へ流しながら画面を眺めていた。
<先輩、今日帰りいつになるんだ?>
<今日は早いわよ。でも帰りにスーパー寄って行こうと思うの。卵がお一人様一パックまでなんだけど、星原君、もし手が空いてたら一緒に来てくれないかしら>
一も二もない、どんな約束を蹴り倒してでも行くに決まっている、と灯月は力強く心の中で考えつつ返信を打とうとしていたのだが、
「――ってこら星原君! 君、人の話はちゃんと聞くもんだって教わらなかったのかい?」
「聞く価値のある話なら俺は真面目に聞くぞ、あと冬瑠さんの話なら例え内容が電波だろうが時刻表読み上げてるだけだろうが喜んで聞く。ああセンセ、湯呑はそのままでいいからな。帰るならどうぞあちらからさっさとお帰り下さいっていうか帰れ」
「誰が君の眼鏡のメンテしてると思ってんのかな君は」
「……」
派手に舌打ちをして、灯月はその言葉にそっぽを向いた。そこへ追い打ちをかけるように、管理人室の扉が開く。
「げっ、とーげつ…!」
「師匠じゃないですか。こんなトコで灯月相手に、何してんスか?」
灯月の顔を見るなり半歩下がって嫌悪感むき出しの表情になった少年が一人と、鈴生をちらりと見て首を傾げる青年――灯月と同年代くらいだ――が一人、というなかなかに珍しい取り合わせだった。二人を見比べて、灯月はテーブルに頬杖をついたまま口元だけで笑う。
「何だお前ら、揃いも揃って暇だなー」
『お前(君)に言われたくないよ』
他三人の男性の声が見事にハモった。
灯月と同年代で、鈴生を「師匠」と呼ぶのは志村戒利、灯月を敵意満々の視線で睨んでいる少年は東雲名鳴、と言う。鈴生の弟子である戒利は勿論、鈴生の家に現在下宿して、彼の、名目だけは「婚約者」だか「彼女」だかよく分からない位置につけている響名は、この名鳴の双子の片割れに当たる。二人とも、鈴生とは浅からぬ因縁を持っている間柄だった。
とはいえ、東雲名鳴は、東雲響名とは驚くくらいに似ていない。共通項と言えば、二人揃って黒曜石を連想させるような、見事な黒髪の持ち主だ、という点くらいだろう。響名の方は猫のようなツリ目で、名鳴の方は切れ長のアーモンド型の瞳。響名の方はやや鼻が低くて(当人は気にしているが)、あと少しばかり唇はぽっちゃりして、「可愛い」と称したくなるが、名鳴の方は鼻筋の通った「綺麗な」と評してもいいような顔立ちをしている。
そして何より最大の違いは、名鳴の方だけが「鬼種」の血筋としての能力を発現している点だろう。
遠い昔、ある事件で<起源>が滅んだせいで、<鬼>という妖種は既に絶滅して久しい。ただ、<鬼>という概念が強く世界に残っているせいなのか、かつて鬼の血筋だった人間の間では、極々稀に生まれるのだ。かつて「鬼種」と呼ばれ、猛威を振るった、絶大な力を以ていた妖種――の、片鱗を宿した人間が。
名鳴はそうした「鬼種の片鱗」の発現者、ということになる。
だが、双子であるはずの響名には一切その特徴は継がれていない。尤も、「鬼種」として生まれていれば、今頃彼女は「魔具師」にはなれていない。――妖種は「魔術」を扱えないのだ。
と、そんなことを再認識しながら、ふと思い立って鈴生は名鳴へと向き直った。噛みつかんばかりの視線で灯月を睨んでいた――灯月の能力を鑑みれば、それは立派な「嫌がらせ」に他ならない――名鳴が、その視線に気付いたのか、ん、と首を傾ぐ。
「どうかしたのか、先生?」
こちらを見やる瞳は僅かに赤味を帯びていた。彼が「人ならざる」モノである証明と言える。
(確か、鬼種の眼球って、呪詛の媒介としては最上級品だっけ。末裔のメイ君の場合どうなるんだろーなー…)
不穏なことを頭に浮かべつつも、そんなことはおくびにも出さず、鈴生はただ苦笑した。
「メイ君、響名君からチョコもらった?」
「は? そりゃまぁ、家族だし、一応…………まさか先生、貰ってないのか…?」
いささかならぬ憐みをその赤っぽい瞳に浮かべる名鳴に慌てて手を振って否定する。
「あははまさかそんな。僕らの関係諸々差っ引いても、一応僕、あの子の師匠でもあるんだよ? 平素のお礼くらいしてもらって当然…当然だよね…?」
「俺に振るな!」
振り返った先では灯月がそっぽを向いていた。大方あいつはあいつでバレンタインに面白くない出来事があったのに違いない、と鈴生は勝手に得心して、正面に改めて向き直る。そうして、一先ず何か言って場を和ませよう、と思案していたら、うっかり本音の部分が口から突いて出た。
「ところでメイ君、眼球くれない?」
「…なぁトーゲツ、俺、双子の妹の将来の為にも一度この人ぶっ殺しておいた方がいい気がするんだよ」
「奇遇だな、俺も冬瑠さんの未来の安全を考えたらここでぶち殺した方がいいのかなって気がしてならないんだ。お前と気が合うなんてなぁ…」
「全くだ。奇遇だな」
「お前ら物騒な話するなよ。師匠はちょっと頭が可哀想な事態になってるだけの可哀想な人なんだから。あとこの人、HP3くらいしかないからお前らみたいな腕力馬鹿と戦闘馬鹿に殴られたらミンチになるぞ」
「な、ならないよ! 多分!! っていうか戒利君、師匠に対して地味に酷い評価だね!?」
「ははは、俺は師匠のこと尊敬してますよ? …具体的に言うと、一度何かに興味を持ったが最後、倫理的な判断が二の次になって行動しちゃう辺りとか凄いですよね、社会不適合者まっしぐらじゃないですか」
そこまで真顔で告げてから戒利はふと、遠い眼をした。一秒沈黙してから何かを諦めるように笑みを浮かべて、
「――何だか俺も、師匠が死んだ方が妹弟子(ヒビ)の未来の為には良いんじゃないかって気がしてきました」
「それでも僕の一番弟子か!?」
ともあれ、場は和んだ――のかもしれない。
「師匠の殺害についてはとりあえず『今の所致命的な問題は起こしてないから大丈夫、多分』というところで落ち着けるとしてだなー」
もう少しフォローしてよ! と鈴生が抗弁するのを他三人は無視して、テーブルをぐるりと取り囲んだ格好で互いに互いを見やった。誰からともなく頷き合い、鈴生の方をちらりと見やる。その視線にはどうにも幾らかの憐みさえ含まれているようで、鈴生は思わず胡乱な目つきで三人を睨み返していた。
「……君ら今、『うわぁ、チョコもらえなかったんだ…』とか思ってるだろ…」
「いや、その。俺も義理しか貰えてないから他人様のことどーこー言う立場じゃないんだけどさ…」
代表として真っ先に口を開いたのはよりにもよって灯月だ。彼はぽん、と鈴生の肩を叩いて、
「……センセ、ヒビも立場が複雑だから…思うところが色々あったんだよ、多分…落ち込むなよ?」
「君に言われるのが一番落ち込むよ! え、何、僕の立場って今そんなにピンチ!? たかがチョコ貰えなかっただけでそこまで言われるほどの状態なの!?」
「師匠。女子高生はバレンタインだのホワイトデーだのクリスマスだの、イベントと見れば血眼になって飛びつく習性がある生き物ですよ。その女子高生にチョコレート貰えてないって、ヤバいですよ現状」
「君の女子高生観は物凄く偏ってる気がするよ戒利君!」
「…まぁ、血眼とまでは言わないけどさ。女子はそういうの好きだよな」
最後に、男子高校生、彼女達と同年代である名鳴がそう〆る。彼は卓袱台にお茶請けとして置いてあったせんべいをばりん、と齧ってもぐもぐしながら、
「先生は一応、ヒビの『カレシ』ってことに…あくまで表向きは、だけどさ。なってる訳だし。チョコ貰えなかったってのはなぁ…しかも先生はアレだろ、ヒビと結婚したいんだろ?」
「当たり前だろう! 結婚したいに決まってる!」
「真顔で言いやがったぞこのダメ教師」
「しかも妹弟子が好きだとかそんな大した理由でも何でもなくて、ただひたすら『結婚して家族になれば<レシピ>の権利を少しだけ貰える』のが理由だからな。ウチの師匠は凄いだろう、灯月」
「ああ。凄いな。凄い外道だ。俺にはとても出来ない」
「外野うるさいよー!」
顔を見合わせひそひそと囁き合う友人達に投げやりにそう声をあげつつ、鈴生はやる気なく卓袱台に伏せてしまった。
「…あー。そうかー。そんな気はしてたけど、実は僕、彼女に嫌われてたのかなー…」
「別に嫌われてても、問題ないだろセンセの場合は」
好かれたくてやってるんじゃあるまいに、と灯月が立ち上がりながら言い、自分用の湯呑をセッティングしたその他二人もそれに追随する。
「そもそも師匠は、別に妹弟子に好かれたい訳じゃないですよね」
「双子の兄としては、複雑な気分だけどさ。ヒビ本人の気持ちとかぶっちゃけどーでもいいんだろ先生」
「何言ってるんだよ君ら」
思わず半目になって、鈴生は卓袱台にべったり頬をつけた姿勢で、弟子と友人を睨みあげた。
「好かれたいに決まってるだろう。お互いに嫌ってたら、いくら利害が一致してたってうまくいかない」
「……。センセとしては、ヒビのこと、どう思ってんだ?」
何故かいささかうんざりしたような調子で、灯月の問いかけだけが聞こえてくる。蛇口をひねる音がするから、台所で新しいお湯を淹れようとしているのだろう。
「えー。好きだけど?」
何故か場の三人はそれぞれに驚いたようだった。灯月の方は、鈴生からは姿が見えないので想像になってしまうが。
電気ポットを抱えた灯月が戻ってくるまで、数十秒ほど不自然な沈黙があった。鈴生は眉根を寄せて、のろのろと顔を起こす。
「あのねぇ。仮にも結婚しようって思ってる相手だぞ。それなりにいい関係を築いておきたいって思うのは普通のことじゃないかい?」
「そもそも結婚の動機からして既に普通じゃないから、今更普通とか言われてもな…」
真顔で灯月にそう諭されると、鈴生としても、あれ、そうだったかな、と言う気がしてこないこともない。首を捻る鈴生の隣で、手持無沙汰そうに湯呑を握った戒利がこれまた首を捻っていた。
「いや、っつーか…師匠にとって妹弟子って、<レシピ>を差っ引いたらどうでもいい価値しかない相手、って認識だろうと思ってました。違うんですか?」
鈴生は困惑気味なその問いかけににっこり笑う。爽やかに断言した。
「ははは勿論違わないよ」
「…一瞬でもあなたを見直そうと思った俺が馬鹿でした」
戒利はがっくりと肩を落とし、名鳴が嘆息する。
「せんせー。いくら先生でも、ヒビが泣くようなコトになったら、俺はヒビを連れ戻しに行くからなー」
「それはちゃんと肝に銘じてるよ。本人が嫌がるようなら、仕方がないから僕も他の方法を考えるし」
笑いながら軽い調子で答える鈴生に、誰からともなく嘆息したのは、この場に居た彼以外の三人が、それぞれのルートで響名の本心を知ってしまっているが故だっただろう。茶菓子を補充すべく鈴生が立ち上がった隙に、胸の内を全て吐き出すように低い声で、三人は三様にコメントを述べる。
「……ヒビが『嫌がってない』からこそ問題なんだけど、先生はその辺、分かってねーんだろーなぁ…」
「だな…。センセがなまじ、ヒビに対して下心満載で優しく接する上に、中途半端に好意を持ってるから、余計にややこしいって言うか」
「…師匠は一度、あの年頃の女の子の片思いがどんだけ怖いか思い知ればいいんだ」
最後の一人の言葉はやけに実感の籠った愚痴めいたもので、灯月も名鳴も苦笑するしかなかった。
「たーだいまー!」
がたん、と玄関扉が開く音がして、濃いめのコーヒーを淹れていた鈴生はおやと顔を上げて時計を見やった。時刻は8時過ぎで、その時間を確認して眉間に皺を寄せる。
やがてリビングにふらりと現れた彼の弟子は、片手に小さな紙袋、もう片方の手にはバッグとこれまた紙袋という格好だ。疲れているのか表情は冴えないし、顔色もあまりよくない。
「遅かったねぇ」
単純な感想だったのだが、嫌味と取られたのかもしれない。荷物をソファに投げ出していた響名が彼の方を向いて口を尖らせる。
「だからちゃんと連絡したじゃない、ツキのおうちでお夕飯頂くことになったって」
確かに連絡は受けたのだが、それは間違いないのだが。――財部さんのおうちに迷惑かけちゃ駄目だよ、とか、保護者らしいことを言ってみたりもした記憶があるのだが。
「……いや、うん。まぁいいか。お帰り」
ソファに座り込む彼女の頭をぽん、と撫でると、彼女は何故だかますます機嫌を損ねたようだ。怒ったような顔をしたまま、彼女は無言でずい、と紙袋を突きだす。
「? 何?」
「お土産!」
何故かやっぱり怒ったように言って、彼女はソファから立ち上がって去って行ってしまった。余程怒っていたのか、立ち去り際に耳元まで赤味が差しているのが見えた。今のやり取りのどこに彼女を怒らせる要素があったのだろう、と思案して、鈴生は紙袋片手に大きく大きくため息をついた。やっぱり嫌われてるんだろうか、だとしたらどうしたらいいんだろうか、と真剣に悩みながら紙袋を覗き込んで眉根を寄せる。
「……ひびなくん、ひびなくん」
仕方がないので、自室に引きこもろうとしていた彼女の背中に声を投げる。振り返りもせずに、寝起きみたいな低い声が返ってきた。矢張りご機嫌最悪らしい。
「なんですかししょー。あたしもうねるんでおいかけてこないでくださいうざい」
「う、うざ…!!」
「140文字以内でご用件をどうぞ」
背中を向けたままそう言ってくれたのはある程度の妥協だろうか。ここで発言の選択を間違えたら彼女の好感度が死ぬほど下がるぞ頑張れ僕、と自分に発破をかけてから、まずは手にした紙袋について尋ねることにする。
「これ何?」
「見りゃ分かるでしょこの朴念仁の馬鹿師匠! 説明させんな! ばか!」
――いきなり選択肢間違えてバッドエンドフラグ立てたらしい。涙目で怒り出した響名にあたふたしながら、再度鈴生は紙袋を確認した。某有名店の紙袋の中身は、
「え、いやだってこれ、羊羹だよね? 響名君、羊羹嫌いじゃないか。今日財部君達と一緒に買い物だったんでしょ、誰かのと間違えて持って帰って来たんじゃないの?」
「……センセは羊羹好きじゃない。いつもあたしの分の羊羹もうれしそーに食べてるじゃない」
「僕は和菓子全般好きだけどねぇ、確かに。…あれ? 食べていいの?」
ツキか竜花か、今日買い物に同行したどちらかの買った商品だろうと踏んでいたので、鈴生の問いかけは本当に心底から不思議そうというか、怪訝そうですらあった。そんな彼を見ることもなく、自室の扉の前で背を向けていた響名は何やら俯いて拳を握ってふるふると肩を震わせていて、
「………」
鈴生が覗き込みさえすれば、何かを言いたいのに言えない、というように口を何度もぱくぱくさせる彼女の、「怒っている」というよりも「恥ずかしくて仕方がない」というような表情を窺い知ることもできただろう。尤も、背後でおずおずしていた彼はそんな彼女の様子には毛ほども気付きはしなかったのだが。
「も、もう知らない!! 満足するまで食べればいいじゃないのよ!! そんで糖尿にでもなって死ねッ!!」
「し…!?」
投げつけられた暴言に唖然とする鈴生の眼前で、扉は乱暴に閉められてしまい、とうとう鈴生は彼女の真意を確認することは出来ないままになってしまった。それどころかすっかり気落ちしたように肩を落としてしまっている。
「…しねって言われた…」
翌日。顔を覆ってしくしく泣く振り――振りである、あくまでも――をしている鬱陶しい大人を前に、某有名店の羊羹をぱくつきながら、灯月は心底思った。
――俺の周りには、どうしてだか、まともな人間関係築いている奴が居ないらしい。全くもって、嘆かわしい限りだ、と。