いつだって、始まりは新月の夜だ。青年は塔を昇りながら一人ごちる。西の森、月が眠る森、西の果て。あらゆる名前で呼ばれているこの世界の果ての森の奥へ、こうしてやって来るのは何度目だろう。ただひとつの部屋と、ただひとつの牢獄の為に在るこの塔へ。
つらつらと考える内に、大した高さがある訳ではない塔の最上階に辿り着く。飾り気のひとつもない、しかし何度目にしても古びることも、錆付くことも無い大きな扉を開ける。
むやみやたらと広い部屋は、中央部分で一段、低くなっている。どこかの円形劇場みたいだ。
少し違うのは、中央の円が、浅く水で満たされ、その水面の一面に、鮮やかに花が敷かれていること。それくらいだろう。
ごく幽かな星の明かりさえ集めて、花は死んだように静止している。それそのものは、瑞々しく色鮮やかであるにも拘らず。
つめたい。
ここはどこだろう、どこだっただろうか。
浮かび上がっては消える泡のような意識の水面に、幽かな声だけ、聴こえてくる。
ききたい。
もういちど、ききたい。もっとはっきりと。
だから、彼女は手を伸ばした。そうしなければいけないと分かった。此処に居ても、この声は聴こえない。捜さなければ。会いに、行かなければ。
水の中から手を、持ち上げる。
静寂の中で水面が割れる。それまで鏡面のようだった水面は、ばしゃばしゃと幾重もの波紋を、波を描いて揺らぐ。浮かんでいた花が次々に、そこだけ急激に時を経てしまったかのように、しおれて沈んでいく。代わりに、まるで、その花の命を吸い取ったかのように、真っ白い腕がゆらり、と伸びてくる。
しばらくじたじたと暴れていたその腕に、泉の前に立っていた青年はひとつ、呆れたように息を漏らした後、手を伸べた。引っ張ってやる訳ではなく、ただ、指を絡めてみる。
細く小さな子供の腕が一瞬、ぴたりと、動きを止めた。
さて、彼女は「この間」は何て言ったっけな。そんなことを思い返していると、「声」が響いた。何度も聞いた。何度も同じ言葉を。
――― だ れ ?
指先に触れた温かな熱。それは水中にたゆたって、氷のようだった指先にじわりと染み込んで、溶かしてくれそうだ。引っ張ってくれる訳でもなければ、握ってくれる訳でもなく、ただ悪戯に絡められた指が、何だかもどかしく、くすぐったい。
誰? 私に触れる、あなたは、だぁれ?
声を出そうとして、口が開かないことに気付く。水が冷たいからかしら。それとも。
だれ?
閉じたままの瞼の裏の暗闇に、花の一片が落ちた。
ざばぁっ!!
ひときわ大きな水音と共に水面が大きく割れた。月の無い夜の、星だけが照らす黒い水面から、薄い翠の色の幽かな光が飛び出してくる。
それは。
小鳥だった。御伽噺にでも出てくるような、薄い翠と橙、それに輝く青の翼。さっきまで水面を彩っていた花を小さな身体に凝縮したかのよう。鮮やか過ぎて目に痛いくらいだ。
美しい小鳥は戸惑いがちに彼の周りを一回り飛ぶと、その肩に止まった。ちりり、と鳴く声音は小さな鈴を振ったときの音に良く似ていた。
「…63日ぶりだな」
青年が軽く挨拶をすると、小鳥はやはり、戸惑っているらしい。小首を傾げ、また、小さく鳴く。
泣く。
ぽたり、と、幽かな光を放つ雫が、小鳥の瞳から零れていた。
「泣くなよ。会えたんだ。それで全部だ、問題なんか何もない」
あぁ、そうか、と青年は、言葉を紡ぐことも出来ない筈の小鳥の頭を撫で、告げる。あの時、あの『末期の断末魔に』、彼女は何と言っていたか。彼女が何に怯えていたかを、彼は思い出していた。ありありと、鮮やかに。知らず彼の心臓が痛むほどに。
その痛みを一瞬たりとて億尾にも出さず、彼はゆっくりと、彼女の不安を否定するかのように首を横に振った。
「いいよ。言ったろ? 俺が、覚えてる。全部。…だからいいんだ。かわせみ」
――翆(かわせみ)。
名を与えられた小さな小鳥は、一度だけ首を傾げ、それから、咽喉の奥で鳴き声を上げた。美しい声はくぐもって、まるで、幼い子どもが泣いている声のようだった。
あぁ、ああ、何故だろう、彼が呼んでくれた、そのことが小さな胸を焦がす。
誰だったろうか。この懐かしい人は。
頭を軽く撫でてくれる手の感触は縋りたくなるほどに優しく、そして狂おしいまでに懐かしくて、そして痛い。
――魂を焼くように、胸が痛む。
認識すると、その痛みははっきりとカタチになったようだった。胸の中に、ぽつりと大きな穴が空くような、痛み。これを何と呼ぶのだったか、この空虚にも名前があったはずだ。
さみしい。そうだ。寂しい。
――― あなたは、誰?
改めて尋ねるという行為は彼女の胸を更に傷つけた。ひどく心が痛い。知っているはずなのに、彼は自分の名を知っていたのに。何故私は彼を、忘れてはいけない人のことを、忘れてしまったのだろう。
言葉は発せられないけれど、どうやら彼はこちらの言いたいことを察してくれているらしい。
「夜中(よなか)」
肩に彼女を乗せたままに、青年がぽつりと漏らす。それが彼の名前だと気付くのに少しの時間が掛かった。何故なんだろう。大事な名前なのに。どうして忘れたりしたんだろう。
ナイフのような色の瞳が、まっすぐに翆を捕らえている。
「…いいさ。忘れられるのも、もう慣れた。お前が気に病むことじゃない」
どうやらこちらに気を使ってくれたようだった。困ったような顔をして、青年は小鳥の目をのぞく。ナイフ色の目は鋭いが、とても綺麗だ、と小鳥は思う。まるでそう――今宵新月の夜空には無い、月の明かりのような色だった。
「さぁ、行くぞ」
それだけで説明は充分、とでも言いたげに、青年はふわりと歩き出した。暗い回廊と、鏡が一面に張り巡らされた壁。どうやら、この場所はどこかの建物の中だったらしい。
泉は――?
そう思って背後を見遣ると、真っ暗な部屋の床の、一段低い中央部分が浅い水で満たされていた。それだけである。窓から注ぐ星の光が、ゆるゆると浅い水を揺れている。
花も、泉も、彼女が沈んでいたはずの深い水底も、そこには無かった。