扉の向こう側で、「死んだ人」達がさざめいている気配がする。
診療所に駆け込んできたのは、街の住人らしい女性だった。ランプの灯りが煌々と照らしているとはいえ、その顔色は紙のように蒼白だ。
「先生、助けてください…ああ、何でこんなこと!」
「落ち着いて、海碧さん。大丈夫ですから」
青年医師の穏やかな声色は、間違いなく患者を落ち着かせるための医者としての声なのに、どことなく場違いに響く。
扉の隙間という僅かな視界を縫って得られる情報などたかが知れてはいるが、それでも灯りの漏れてくる向こう側に並んだ、薄い擦り硝子のはめられた戸棚や、天井から吊され乾燥させた薬草の数々は見える。どうやら隣室は診療所であるらしい。
そんな室内で、嘆かわしげに顔を覆う女性――海碧が力なく椅子の上に座り込んでいる。そのすぐ傍に、診療台らしきものがあり、そこにぐったりと幼子が横たえられていた。
その姿をのぞき込もうと目を凝らした翆の目の前で、医師は穏やかな笑みを浮かべたまま、こう告げた。
「もう安心ですよ、胡粉」
紙のような顔色で、胡粉と呼ばれた幼子が呻き、耳障りな咳をするのが聞こえた。小さな身体から発せられているとは思えないような、ぞっとするような咳だ。母親が慌てて駆け寄り、幼子の背中を優しくさする。それでも咳はしばらくの間続き、あまりの痛ましさに耳を塞ぎたい衝動に翆は必死に逆らった。
ようやく咳がぜいぜい、という呼吸の音に代わる。
呼吸に喘ぐ小さな口の横に転々と赤黒い血の色が見え、翆ははっと目をみはる。母親がそれをそっと拭いながら、涙声で医師に訴えた。
「助けてください、先生。…隣の鍛冶屋の店主さんも、向かい側のおばあさんも、熱を出して、咳をしながら死んでしまったんです。でも何だってこの子に…! まだこんなに小さいんです、お願いです、助けてください…」
「大丈夫ですよ、すぐに助けます」
「先生はそう言ってたけれど、皆、死んでしまったじゃありませんか!」
唐突に、母親の涙混じりの声が甲高くなる。
「お母さん、落ち着いて…」
「先生は大丈夫、楽になるって…でも皆、死んだわ! 死んで捨てられたじゃないですか! 私はいやです…! 夫が死んで、私にはこの子しか居ないのに…どうして、どうしてですか…!」
最後の嘆きはもしかすると、死を司る新月の月神へ向けられたものであったかもしれぬ。翆は胸を突かれた想いで思わず顔を伏せてしまった。その新月神の寵愛を受けたこの身は、今、何も出来ずにこんなところに立ち尽くしている。が、
「大丈夫ですよ、お母さん」
感情的な激しい非難を浴びていたとは到底思えぬ、不自然なまでに穏やかさの変わらぬ医師の言葉に、俯いていた翆は不審さから顔を上げた。
その目に、刃がランプの光を弾くのが、見える。
(…汚い色)
翆がその瞬間思ったのはそんな酷く場違いで、どうでもいいようなことだった。それは錆び付いた刃で、血と死の気配にまみれていて、ランプの下で薄汚く光を返していた。
「せんせい?」
母親の呆然とした声が空しく聞こえてきたのと。
人の皮膚と肉を薄い刃が切断する音とが、同時である。次いで、ぶしゅり、と血の吹き出る音。びちゃびちゃと粘ついた液体が落ちる音も聞こえてくる。翆は耳を塞ぐこともできずに、目の前の、扉の隙間から僅かに見える血の色に見入られたように今度こそ立ち尽くした。
「ほら、これで楽になった」
医師の声は自慢げで、誰かに誉められるのを待っている子供のようにさえ聞こえる。
「あ、ああああ」
呆然としたまま、口から意味のない音を漏らす母親に、医師は穏やかに微笑んだまま、血の滴る診療台の側を指さす。
ランプの灯りに不自然に揺れる、小さな闇がそこに蟠っていた。
「ほら、あなたの息子さんはそこに居るじゃないですか。病を患う身体からは、これで解放されたんですよ」
医師の青年はしごく当たり前のことを告げる口調で朗らかに笑って告げ、小さな闇を指さす。焦点の定まらぬ瞳を揺らす母親は、医師の示した場所へとじっと見入っていたが、その様子を首を傾げてみていた医師がああ、と一人、得心したように笑った。
「あ、そういえば、普通の人は見えないんでしたっけ。じゃあお母さんも、同じにしてあげた方がいいかな」
「え」
思案するように告げられた言葉と同時に、血と人の脂に塗れた刃が振りかざされた。
「…まっ…!」
さすがに扉の陰から飛び出しかけた翆を、重たい鎖が阻む。その眼前、飛び出そうと大きく開いた扉の向こうで、先よりも鈍い音がした。血が噴き出す音。飲み込まれた、呼吸とも声ともつかず、形にならぬ断末魔の悲鳴。人の肉体がごとりと倒れる音が次いで響き、翆は思わず瞼を強く閉じた。
「お見苦しいところを見せてすみませんね?」
目を開けば、――扉の隙間から彼女が覗いていることにとうに気づいていたのか。医師が笑って、すぐそこに立っていた。翆は震える唇を開こうと試みたが、肩を落とすだけに留める。誰の血なのか分からない血を頬につけたまま、まるで何も無かったかのように穏やかに振る舞う目の前の男性に、一体何を言えばいいのか彼女には全く見当もつかなかったのだ。
「………私を、どうする積りなの」
それでもやっとそれだけを尋ねると、男性はそうですね、といっそ呑気に首を傾げた。
「どう、って、そりゃあ、それだけ立派な『人形』なら、この辺りに居る『人』達の器の代わりにもなるでしょう?」
「でも、私は――」
「ああ、そうですよね。あなたは困ってしまう訳ですけど。だから、ほら、どういう仕組みなのかを見せて貰いたいなと思って」
と、言いながら医師の手の中では血と脂が滴るほどにこびりついた銀色の薄い刃が見え隠れしている。
(どうしよう、どうしたらいいのかしら…)
さすがに解剖なんてされたら自分がどうなるのか、あまり想像したくはない。が、ふと、引っ掛かりを感じて彼女は医師の向こう側、転がされたまだ温かな肉体を恐る恐る見やった。無造作に転がされたそれの傍に、呆然としたように二つの黒い影があるのが見える。翆には、間違いなく、その『死んだ人』の姿が見える。
「…あなたは『死んだ人』が見えるのに、どうしてそんなことができるの…?」
「死んだ?」
医師は、それこそ不思議なことを聞いた、と言うように目を丸くする。
「何言ってるんですか。さっきの二人なら、そこに居るじゃないですか。良かったですよね、もう苦しくもないし、悲しいこともありません。あの姿になれば、年を取ることさえないんですから!」
にこやかにそう宣言された翆は、絶望的な気分で項垂れる。
(この人は、理解してないんだ…死んだってことが分からないんだわ…)
そして多分、なまじ「死んだ人」が見えるが故に、どれだけ言葉を尽くしても彼には伝わらないだろう。
――そこに「居るように見える」ものは、生前の存在とは全く異なるものなのだと。
「どうしてだか、街の人達には分かってもらえないんですけどね。それが残念で」
実際、彼は自分の行動に何ひとつ疑問は持っていないようだった。本当に心底から残念そうに告げる口調に吐き気を覚えつつ、翆はじゃらりと鎖を鳴らして後ずさる。
「だから私の『人形』が欲しいのね…。これは死んだ人の魂さえ宿すことができるから」
嘆息し、翆はただ、肩を落とした。
「この身体は確かに私のものではないわ。でも…あなたには、渡せない」
ゆっくり首を振る。目を上げると、左程驚いた風もなく、青年医師はただ交渉の機を待つように翆の言葉に問いかけた。
「何故?」
「――その前に私にも聞かせて、辰砂」
医師は名を呼ばれたことで、初めて驚いたように目を丸くする。
「あれ、自己紹介はまだじゃなかったかな?」
その言葉には答えず、翆は言葉を続ける。自らを落ち着けるために胸のあたりに手を置いて――そこには、服一枚隔てて亜鉛が潜んでいるのだ――目線は落としたまま。目を上げて、周りの「死んだ人」を目にするのに、彼女は耐えられなかった。
「教えてくれたわ」
「誰が?」
「……」
翆はその問いには答えずに、ぎゅうと握りしめた自らの拳をひたすらに見つめる。答える代わりに彼女は問うた。
「あなたは最初、この街の祭祀者を殺したわよね。それは何故?」
「…何故?」
意外な、全くもって意外なことを尋ねられた、とでもいう風な男の、辰砂の反応であった。
「むしろ、私はどうしてあなたがそんなことを訊くのかが不思議なんですが…。彼らはいけません。彼らは、そこらに居る『彼ら』を消してしまうじゃありませんか。墓所に送るとか何とか言っていますが、横暴ですよ。私の母も、そうやって消されてしまったんです。ずっと私の傍に居てくれたのに」
「っ」
悲鳴を呑むように。抗議の言葉を呑むように呼吸を詰めて、翆はただただ目を逸らす。虚空を泳ぐ視線がふと、男、辰砂の背後を捉え、それからまた彷徨う。
胸元に置いた拳が震えた。唇を強く噛んでから、彼女はようやっと息を吸った。
「…あなたは、ただの殺人者だわ…!」
吐き出す言葉に、非難が混じる。
「あなたのお母様がどうして死してなお、こちらに留まったのか。その理由を分かりもしないで、祭祀者に八つ当たりしただけじゃないの! …最低だわ、吐き気がする」
「母のことを、知ったように口にするな!」
途端。
辰砂の表情が一変した。穏やかな笑みに細めていた瞳が見開かれ、翆を睨む。血走った瞳と、興奮からか浮かび上がった血管が、まるで顔の造作自体を変えてしまったかのようだった。憤怒の形相で、地を這うような低い、だが激高した声が翆に迫る。
「何で、同じものを見ているあなたがそんなことを言うんだ! どうしてあの司祭と同じことを言う!? 彼らはそこに『居る』じゃあないか、それを消して――『殺して』いるのは、あの司祭の方なのにッ…!!」
「…それがあなたの『理由』ね。人を殺し、死体を辱める」
今度は翆は目をそらさなかった。しん、と静かな声で、問うというよりもそれはただ、確認するように呟く。ひとつ息を吐いて、辰砂は再び、穏やかな口調で微笑んで答えた。
「あんなものはただの入れ物に過ぎないでしょう。…辱める、とは心外な。ただ私は、二度とあんな脆弱な入れ物に戻らなくても済むように、徹底的に壊しているというだけですよ」
笑みを浮かべた顔の中、瞳だけが、虚ろである。
翆は胸元にあてた手に、握っていた拳に、意思を伝えるようにすぅと力を緩めた。目を落とし、一呼吸の間沈黙し、そして顔を上げればその青い瞳には憂いの色が濃く煙っている。
「……ならば矢張り、あなたにこの身体を渡す訳にはいかない」
物憂げな。重たい感情に穿たれたような声を押し出して答えた翆に、辰砂は目を細めた。手にした、先まで血を吸っていた濁った銀の刃がゆらりと持ち上がる。表情ばかりは貼り付けたような笑みを浮かべ、彼は一歩を翆に近付く。
「ならば仕方がない、持ち主には悪いが、勝手にその身体を見せて頂くとしよう」
見せて――というのが言葉だけの意味ではないことくらい翆にも分かった。きっと彼はこの<人形>を、切り刻んで、切り開いて、細かにつぶさに、内臓のひとつ血の一滴までもを『見る』つもりだろう。そんなことをしても、何一つ理解も再現も出来ないのに、そう思いながら翆は胸元にあてていた手を、両脇にだらりと落とす。まるでそれは諦めて、目の前の刃を受け入れようとしているかのように見えたかもしれないが、
「――だから行って、亜鉛」
言葉と同時、彼女の胸元がふわりと膨らんだ。不自然な膨らみは服の下からぞろりと皮膚を這い上がり、彼女の鎖骨のあたりでぐっと動く。彼女の胸元に迫った刃を喰らうかのように膨れ、撓み、弾ける。
強く撓められた発条が弾ける様に似ていた。勢いを持って飛んだ、硬質な塊が、刃を打ち据える。強い力に打たれた刃が虚空に飛び、刃を持つ手首に強烈な力をぶつけられた辰砂はたまらず手を抱え込むようにしてたたらを踏んだ。その間に、その塊は浮き上がり室内の空気を、ぐっと伸ばした翼のようなものでもがくように羽ばたき、浮き上がる。
「行って!」
懇願にも似た鋭い声に、撃たれたように。
――鳥のようにも蛇のようにも見える形に擬態した金属質の塊は、辰砂の頬を掠めるようにして部屋を飛び出した。
「う…な、何だ!?」
思わず辰砂がその姿に目線を移すその一瞬、翆もまた駆ける。亜鉛の後を追うのではなく、亜鉛とは逆に部屋へと飛び込むような格好だ。しかしその足元では重たい鎖が絡み合い、当然ながら彼女自身の動作も遅い。即座に辰砂に追いつかれる。
「何をしたのか、知らないけれど…諦めてくれるかな。その<人形>は、僕が有意義に使わせてもらうから」
「断るわ」
刃が振り翳されるのを冷たく睨み、翆はただそれだけ答えた。
「私は諦めない」
声と同時。
部屋の窓が大きく揺れた。音もなく、風もなく、ただ、外で唐突かつ不自然極まりなく膨らんだ月の光に撓み、押されたように揺れたのだ。それに対して翆はすぅと息を吸い、背中の羽根を膨らませた。先まで乳白色の霧のような姿をしていた翼は、怪我を負う前にそうしていたように一息に部屋の闇を吸い込んだように黒々と染まる。薄い紅色だったワンピースも、裾の方から影を吸い込んだように黒々と色を変えていく。そのさまはまるで、彼女が全身で影を呼吸しているかのようにも見えた。
一方で窓側から入り込んだ光は膨らんで弾け、一息に窓枠の辺りがぐしゃりと潰れた。光それ自体には音がないので、木材のぎしぎしと軋んで割れていく音ばかりがやけに響き、医師は思わず目を丸くしながら後ずさっていた。その姿を尻目に、少女が駆ける。いつの間にか、診療室の燈火が光を落とし、室内は夜闇が覆い隠していた――その闇の中を己の庭のように軽やかに、走る。走る。
「逃げる気か」
「…ここは地上で、場所は影。いくら私に記憶も身体もなくったって、あなたの方が不利よ、樒」
あなたの方こそ諦めてね、と、切羽詰っていても尚、鈴のように美しく声は響いた。闇の中にあって声ばかりがかそけく光を放つがごとくに、耳にしたものに思わず目を閉じ耳を澄まさせるほどに。
しかし辰砂はそれどころではない。逃げ行く少女を追おうと一歩を踏み出そうとして、しかし家屋を壊して侵入してきた「光」の主のことは気になったかそちらをちらと見やる。見やって、呆れたように彼は足を止めてしまった。見知った顔だったのだ。
「何もそんなところから侵入しなくったっていいでしょう、満月の御子様! あなたは私の恩人なんですから、正面から訪って下されば良いものを」
「そんなことをすればあれは逃げるだろう」
冷たく固く、聞いた人間にピンと張った糸のような緊張感を覚えさせる声がそれに答える。光の中から現れたのは、夕日に透かした蜂蜜のような金色の瞳をした、男とも女ともつかぬ華奢な身体の持ち主であった。彼はその金の瞳で、翆が駆け去った闇を睨みつけている。――その視線の迫力に気圧されでもしたかのように、しん、と暗く静まり返っていた室内に燈火が灯った。ジジ、と芯が焦げる音が、それまでの無音が嘘だったかのように夜に響く。
「あの『人形』ですか?」
首を傾げる辰砂。彼女は確かに見たこともないほどに惚れ惚れするほど精緻な<人形>ではあったが、満月の御子ともあろう御方が執着するほどのものには思えないのだが。しかし彼の疑念に、満月の御子たる樒は一言も応じようとはしなかった。冷たく物を見るように辰砂へと目をやり、興味を失ったようにすぐに目を逸らしてしまった。もしかすると、彼は辰砂の名前さえ覚えていないのかもしれない、と辰砂は一人納得する。満月の御子様は、「誕生」と「成長」を司る命溢れる「満月の月神」様のご寵愛をその身に受ける唯一の方だ。辰砂如き地を這う人々のことなど、彼にとっては些事であろう。
しかし辰砂は感謝を忘れたことはない。
彼のお蔭なのだ。
辰砂が、辰砂だけに見えているらしい「人」が殺されることを防げたのも、「ならば祭祀を殺せばいい」と天啓を与えてくれた――彼は月神の世界の人なのだから、天啓と呼ぶのが相応しいだろう――彼のお蔭に他ならないのだ。
「満月の御子様。何かお手伝いできることは?」
「…お前の役目は疾うに終わりだ。私に触れるな」
吐き捨てるように冷たく樒に告げられたとて、辰砂が気にすることはなかった。相手は文字通り月の世の人、確かに自分如きに手伝うなどとは烏滸がましかったかもしれない。
そのまま樒が光の中を立ち去っていく後姿も、辰砂にとっては有難い得難いものに他ならない。彼は無言で樒を見送り、そうして彼の邪魔にならぬよう静かに静かに扉を閉じた。
振り返って、ふと目を奪われたのは、<人形>を繋いでいた太い足枷と鎖である。そういえばあの<人形>は一体どうやって、この鎖から逃れたのであろうか。
そう思って鎖に近付いた彼は、その異様に息を呑む。
――鎖は、まるでそこだけが百年も歳を経たかのようにぼろぼろに錆びつき、触れれば脆く壊れるほどに腐り切っていたのだ。