――宿の二階で窓を開け放ち、歌を終えた翆はその場で項垂れ、唇を噛んだ。
 背後で宿の女主人が唖然としているのが目に入る。彼女が抱きかかえていた彼女の幼い息子は、この黒い黒い、ただ黒いばかりの茫漠とした<墓所>にすっかり安らかな寝息をたてていた。あと数刻もすれば、彼は完全な死者の国のモノになるのだろう。
「…今のうちに、あの子にお別れを」
 その「死者」の姿を差して女主人に促すと、彼女は愕然とした様子で翆を見遣った。
「あ、あなたは――。死者を、『墓所』へ送る術を持っているんですか…?」
 その問いに、翆はただ曖昧な笑みを浮かべる。
「うん。持ってるわ。でも…みんな、持ってる」
「みんな?」
「あなたも」
 す、と人差し指を向け、女主人の胸を突く。その拍子にとくり、と心臓の鼓動が聞こえたような錯覚を覚え、翆は、熱いものに触れてしまったように思わず手を引いた。
 場所は宿の二階、そのことに変わりはない。だが少し前、空が落ちた。落ちた、としか表現のしようがなかった。赤黒く濁った空が眼前に迫り、辺りに漂う「死んだ人」を手当たり次第に喰らい始めたのだ。抵抗も出来ずに赤黒い靄に喰われ、街がその度に歪んでいく。石畳は輪郭を失い、建物の壁がほつれ、解け、足元と頭上とが入れ替わる。酷い眩暈を伴うその状況下で、翆はそれでも歌わなかった。
 自分が歌えば、この街に淀む死者は一息に「墓所」へ送れる。それどころか、魔物と化してしまったこの異形――「魔物喰らい」を抑え込むことも可能なはずだ。
 だがそれをすれば、既に死者が淀んだこの街にどんな影響が現れるか。
 翆ですらそれは想像が出来なかったのだ。だから、歌わずにいた。
 その彼女が口を開いてしまったのは、歌を紡いでしまったのは、ひとえに、町の「どこか」に居る夜中の気配を感じてしまったが故である。
 街が歪み、全てが綯交ぜになっていく中、翆はただ直感だけで感じていた。街を覆うこの「魔物」は、町中の「死者」を喰らい尽くそうとしている。
 魔物に喰われた死者は――正常な形で「墓所」に送られることは、最早、無い。
 それを、彼も、夜中も知っていたのであろう。だから彼は、「死者」を「墓所」へ送ろうとしていた。だが、彼の銃弾も紡いだ鎮魂の言葉もあと一拍間に合わない。
 それを直感してしまった瞬間、翆はとうとう、歌ってしまった。
 多分、何よりも、と、翆は思う。
 夜中が自分の下に残してくれた亜鉛の冷たい身体を、胸元に抱き締めながら。
(私は…『死んだ人』が損なわれることよりも、ずっと。…目の前で『死んだ人』を奪われて、夜中が辛い想いをするのが)
 耐えられなかったのは、きっと、その一点だった。
そして、翆は歌った。彼女の聲は案の定、街中にあっては死者を宥め、空に淀む「魔物喰い」をも、堕とした。だが。
 代償は、彼女の予想だにしない形で現れた。
 今、翆が居るのは宿の二階だ。だが、最早元の形がいかなものであったか、判然としない。辺りの建物は、街は、塗りつぶされたような黒に覆い尽くされていた。光を拒み、夜の曇天よりもなお黒く、暗い、それをカワセミは、よく知っていた。泣きたい程の郷愁と、潰されそうな絶望と。両方を噛み締めながら、彼女は囁く。歌うように。けれど、けして歌ではなく。
「<漆黒墓所>…」
「え?」
 女主人の小さな問いに応じたのか、それともただの独白か。蒼褪めた顔で、翆は慄き、目の前の現実を拒絶するかのように何度か首を横に振りながら、それでも譫言のように、
「…漆黒墓所に、街が、繋がってしまったんだわ…」
「漆黒墓所? では、この街は…私達も、死んでしまったのですか」
 女主人は、既に消えかかっている己の息子を抱き締めた格好で息を詰める。翆はその言葉に、虚ろな表情のままでゆっくりと首を横に振った。
「あなたは、生きているわ。…一時的に、生きている人の世界と、死んだ人達の『墓所』が混ざってしまっただけ。…大丈夫。私が帰れば、街は直ぐに元に戻るから」
 あなたは、と女主人は誰何の声をあげかけて、何を見たのか口を噤んだ。瞠目したままその場に射竦められた様に硬直し、それからそれが当然のように、傍らに佇む息子と共に頭を垂れる。
「……そう。私が、居なくなりさえ、すれば」
 独白する翆の傍ら。薄い闇の向こうに、何かが居る。彼女はちらとそちらに視線をやり、悲しげに、笑った。
 肝心なところで途切れ、失われ、断片になってしまった記憶が、それでも彼女に囁きかけて来る。蟠る薄闇に手を伸ばし、祈るように、翆は呼んだ。そこに現れた、薄闇に居るその存在の名を、
「新月様」
 そう、口にして告げた瞬間だった。辺りを覆う闇の全てが、まるで鼓動のように大きく一度だけ、波打つ。ひ、と小さく、女主人が息をのんだ。倒れなかっただけ僥倖だろう。「これ」は新月の神の断片、翆に向けて延ばされたほんの指先程度の存在に過ぎないが、それでも、生身の人間には刺激が強すぎる。
 そんなことを想いながら翆は息をつき、胸元で両手の指を絡めて俯く。
「私、もう<墓所>に帰らないといけないんでしょうか。新月様」
 応、と、薄闇は気配だけで彼女の独白めいた問いかけに肯定の意思を返した。翆は覚悟はしていたのだろうが、ひとつ瞬き、傍らの薄闇をぼんやりと見返す。
(…まだ何も、思い出せていないのに)
 それは大事なことだったような気がするのに。じわりと胸を騒がせる焦燥を、しかし翆は最早口には出来ない。
 闇はゆるりと、微かに蠢いた。その奥底から、空気を震わせることのない、音にもならない言葉が響き渡る。
<彼は>
 その言葉が指し示すのが誰なのかを、翆は理解している。脳裏に浮かぶ、夜空の群青色の髪と、刃の色の瞳と、それを思い出しながら、目を伏せた。
<きっとお前を、追って来る。翆>
「…」
 翆は答えることが出来なかった。
 相変わらず記憶は不完全で、どうして自分が<墓所>を出て夜中と共にいたのか、自分の「身体」がどこに消えたのか、全て思い出すことは出来なかったけれど、<魔女>としての翆の本能は、彼女に告げていた。<墓所>に帰らなければならない、それが自分に与えられた役割で、成すべきことであると。<墓所>で死者達をその歌で慰め続けなければ、と。
 そうしなければ、今のように。自力で<墓所>へ向かうことのできぬ幼子や、彷徨う「死んだ人」達が現世に溢れ、魔物を生み出す引き金になるだろう。翆が<墓所>に居る限り、死者の霊は彷徨いながらでも確実に<墓所>を目指す。余程強い心残りや執着を抱かぬ限りは、という条件はあるものの。
「あなたは、…新月様の魔女だったのですか」
 抑えた声で、しかし思わずと言った風に漏れた問いであった。女主人の言葉に、翆は無言で頷き、彼女がかき抱く小さな塊にそっと手を差し伸べた。
「…ごめんなさい。私の不在で、あなたの息子さんも、迷わせてしまった。このまま<墓所>へ連れて行くわ」
 大丈夫、彼は眠るだけ。次の生を得るまでの短い間、微睡むだけ。
 優しく言い聞かせるような翆の言葉にしかし、女主人は困惑を淡く揺らめかせてから、逆に彼女の手を取った。
「私はこの子に、どうしてやればよかったのかしら」
 途方に暮れたように零された言葉は、しかし確かに翆に答えを求めて問いかけるものだった。
「…弔う方法を、この町の人間は最早知りません。あなたが死者の国の魔女だと言うのなら…私は、どうすればよかったか、分かるんじゃないんですか」
 答えを期待しているような問い方でこそなかったが、翆は言葉に詰まった。ただ、俯いて、告げる。
「――私が墓所に戻りさえすれば、全ての死者は<墓所>を目指すわ。生きている人間は、もう何もしなくていい」
「そうでしょうか、本当に」
 母の言葉は、感情を喪って虚ろだ。
「…私は何もしなくて、良かったんでしょうか。この子の為に…」
 ふ、と、翆の背後の気配が小さくなった。振り返るが、新月の神の断片は何も答える様子が無かった。肯定すら、する様子が無い。
 <魔女>たる翆が<墓所>へ戻れば、最早、生きた人間が死者を弔う必要はない。全ての死者を翆が呼び寄せるからだ。それを新月の月神が知らぬ道理はないのに、肯定さえしないのは、
(…新月様らしいご配慮だわ)
 その意図を薄々察した翆は口元に微かに苦い笑みが浮かべた。
「……彼の為に歌ってあげて。願ってあげて。それから、…祈って」
 きっとその言葉は、この世界の、現世の人間には耳慣れぬものだったはずだ。当然、女主人は怪訝そうにその言葉を繰り返した。
「祈る? どういう意味ですか」
「生きている人間なら、誰にだって出来る簡単なことよ。…目を閉じて、遠くへ行った魂を想いながら、新月様のご加護を願う。安らかな眠りを、と。…それだけ」
 たった、それだけ。女主人は拍子抜けしたように、眼を瞬かせている。


 ――でも、たったそれだけのことが、この町の人達には出来なかったのだ。





 街を塗り潰した一面の黒は、狂ったような赤い空をも覆い尽くした後、潮が引く様に静かに静かに、去って行った。
取り残されたのは生きる者ばかり。悪い夢を見たかのように人々が呆然と立ち尽くす中、夜中もまた、呆然とした表情で立ち尽くしていた。
 恐らく夜中にしか見えないであろう視界では、一面の黒、それが去った後、街からはあれほど溢れ返っていた死人の姿も消えていた。煙るような霧雨さえもが止み、空には恐らくこの街にとっては数か月ぶりであろう夜空が見えている。空には最早、魔物の眼の赤は残っていなかった。
(連れて行ってくださったのか…)
 呆然とした内心の、妙に冷静に冷めた部分が夜中の中でそう判断をくだす。翆にもあの<魔物喰い>を消し去るだけの力はあっただろうが、新月を迎えておらず、記憶の欠損が激しい彼女は現在、本来の力を発揮できない筈だ。あの<魔物喰い>が発生するよう仕組んだのであろう満月の魔法使い、樒は論外である。となれば、あの巨大な魔物を、一瞬で消し去ったのは誰か。消去法ではあるが、夜中は確信する。
(新月様)
 <店主>達に寵を与えた月神の一柱にして、翆を魔女として擁する<漆黒墓所>の主の仕業だろう。月神達の眠りと、人々の忘却と、死後の世界を司るあの神は、世界に存在するモノであれば、例え言葉のような曖昧なものでも消し去ることが出来る。――翆の持っている力は、そこから与えられた欠片に過ぎない。
 それから夜中は、それまで考えないようにしていた彼女の事を、思う。
(<墓所>へ、還ったんだな)
 それを言葉にして、認識して初めて、夜中はぎゅうと拳を握りしめた。不思議と痛みは感じない。が、そこで奇妙に冷静に彼はもう一人、傍に居ない存在に気が付いた。
(……。待て、亜鉛はどうした)
 長い旅の連れでもあるあの小さな生き物に自らが何を頼んでいたかを思い起こす。確かそう、「翆を頼む」と。そう言い置いてはいなかっただろうか。
(まさか…)
 墓所まで着いて行ったのだろうか。可能性を考えて、夜中は眉根を寄せた。有り得ないことではなかったのだ。だが、だとすれば――幸いでもある。翆は生憎と彼と言葉を交わすことが叶わないのだが、それでも、たった独りで《墓所》に還るよりは、きっと彼女の心は慰められるだろう。それに希望はまだ残っている。
 まだ、新月は来ていないのだ。
(翆の記憶が消えるのは、次の新月だ。まだ遠い)
 息を吐き出し、一度強く瞼を閉じた。今自分の瞳の色は何れであろうか――思案は瞬間で、彼は強い意思をもって目を開ける。行くべき場所はまだ定まらないが、すべきことだけは明確だった。翆を、もう一度迎えに行かなければ。彼女の手を取り、あの静謐すぎる<墓所>から連れ出すのだ。

 ――別れを得る為に。もう一度。
 ――彼女を殺す為に、もう一度。

 脳裏を過ぎるその皮肉を自ら嘲笑い、彼は歩き出す。まずは宿へ戻るべきだと、酷く現実的で冷めた思考がそう判断していた。旅立つにしても、最低限の荷物くらいは必要である。
(<隠れ里>は近いが、この間騒ぎを起こしたばかりだから避けるべきだな。ここから一番近い<禁域>で、かつ、<漆黒墓所>と縁のある場所)
 候補を思い描く夜中の足が、しかし不意に止まった。思考も中断する。苛立たしさに眉を顰めながら彼は唸った。
「何しに来た」
「ご挨拶だな?」
 応じる声は酷くざらついていて、男女の別を感じさせない。
 いつの間にか正常に戻った街の道端に、これまた男とも女とも判然としない人影があった。燃えるような赤毛を長く伸ばし、ポケットのやけに多い外套を引き摺るように着込んだ姿は夜中にとっては見慣れたものであると言えた。
「金糸雀、どうして」
 夜中のように「自ら客に呼ばれて出向く」ような下級の<店主>とは違い、従兄弟である金糸雀は「客を自らの下へ呼び寄せる」という権限を持つ、上級の<店主>である。故に自らが出歩くことは殆どない。当の本人があまり出歩くことを好まないこともあった。
「<人形師>に言伝を頼まれてな。俺もお前に会っておきたかった。…ああ、心配するな。鶺鴒は、まぁ、命に別状はないし、今回は大人しくしている積りらしい」
「…それは有難いが。用件は何だ」
「その様子だと、新月のあの子は連れ戻されたか」
 金糸雀は一度、安堵なのか、それとも別のものか、苦々しそうにも思える息を吐き出してから、
「十六夜の魔女がお前を呼んでるとさ」
「…今はそれどころじゃない」
 一刻も早く、翆を迎えに行かねばならないのだ。が、金糸雀は素気無い彼の回答を予測していたかのように肩を竦めた。
「知ってるさ。だが十六夜の魔女は今、『星魚の街』に居るって言ったら、少しはその気になるか?」
 その街の名は、<店主>の間ではそれなりには有名だ。何故ならば――
「…あの街なら、<墓所>に近い…」
 思わずと言った体で夜中は唸る。加えてもうすぐ満月になるこの時期、その街は<墓所>との境界が揺らぎ、接点を作りやすくなるのだ。
「おう。お前<漆黒墓所>に戻されたあの魔女を連れ戻したいんだろう。なら、渡りに船だと思うぞ」
 夜中はいよいよもって不審を込めて、数日振りに遭遇する従兄弟を睨んだ。
「……あまりに旨すぎる話だな?」
 金糸雀は、腕組みをして、恐らく夜中にそう反駁されることも織り込み済みだったのだろう。ただただうんざりしたようにこう続けるだけだった。
「お前がどうするかは、お前の自由だけどよ。十六夜の魔女には会っておくべきじゃねぇのか。…お前が5年前、一番最初に<墓所>から新月様の魔女を連れだした時、――お前に唯一味方してくれた魔女だろう」
 言われずとも、選択肢がそう多くは無いことを、夜中自身も明確に自覚していたのだ。