窓の外は墨を流したような暗闇で、翼を広げた翆は地面に足を着いた衝撃でたたらを踏んでしまった。湿った土の感触が、靴底からも伝う。
 彼女が着地するのと同時に頭上では扉がとうとう壊される音。唸る獣染みた魔物の声――雲雀の姿をしていたが、彼女の優しげな声色とは似ても似つかない。
 居ない、と戸惑う風の鶯の声も聞こえて、翆は畳んだ翼の先が、雨に濡れたからという理由でなく、震えるのを、感じた。自分を掴んでいた彼の腕を思い出す。殺す、と叫んだ彼の形相を思い出す。
 気付かぬ内に、彼女は唇を噛み締めていた。
「…大丈夫かい」
 か細い、ともすれば消えてしまいそうな声は闇に滲む灰色の塊の発したものだった。人の姿さえ保てなくなっている。翆は一瞬だけ青い瞳に憂鬱の色を濃くしたが、それは本当に掠めるような一瞬で、だから当人でさえも自分の感情には気が付かなかった。
「夜中はこっちに?」
「ああ。この先だよ。」
 言葉を受けて俄然、力を得た翆は、自分の腕に纏わりつかせていた金属の生き物を窓へと近付ける。
「亜鉛、お願い」
 亜鉛は何も言わず――いや、何か言ったのかもしれないが、翆に彼の言葉は理解出来ない――窓の本当に僅かな隙間から身体を細くして侵入し、内側から鍵を開く。がちゃん、という音を耳にしたが早いか翆は夜着の裾をからげて窓を押し開き、室内へと侵入した。もどかしいような想いで部屋から飛び出す。
 廊下は、覚悟していた程の暗闇ではなかった。そこに灯火が一つ、転がっていたからだ。硝子の中に閉じ込めた光が、地面に投げ出された勢いで斜めに揺れている。
「夜中――」
 その灯りで滲んだ夜の闇に、求め続けた人が倒れているのを見て、翆はまず喜びと安堵に歓声をあげかけ、言葉を呑んだ。
 息が、止まる。
 灯火の橙色の光の中に、赤茶けた何かが床の木目に染みこみ、溢れ、彼自身の衣服を汚していた。
 血、だ。と。心のどこかが軋みながら、彼女自身にそう告げた。血が、溢れて流れて、――あれは、誰の、血?
「…夜中…?」
 視界が赤い――と、翆は思った。青い瞳が見開かれて、揺れる。彼女はそっと目の前に倒れた青年の身体に触れた。揺らす。脳裏に浮かんだのは、そういえば、彼は寝起きが悪かったなとかそんな恐ろしくどうでもいい、無関係なことばかりで。
「………いや」
 先ほどの怖気を遥かに上回る恐怖で、頭の中が白くなっていくのを感じる。
「いや…」


 嫌。
 脳裏で誰かが悲鳴をあげた。神経を引っかくような、甲高い悲鳴。
 もう、「二度と」、独りだなんて、―――


「見つケた…魔女!」
 低い獣のような唸り声が、廊下の闇の向こうから唐突に響いた時も、翆は倒れた夜中の傍らに膝をついて微塵も動かずに居た。ただ青い瞳を動かして、億劫そうに視線をやっただけだ。
 暗闇を熔かす灯火の明かりが滲む先に、水色の夜着の裾が動く。足音は、無かった。
 ギィ、と耳に障る音を立てて、女の身体の魔物が近づいて来る―――
 翆は表情ひとつ、変えない。
 そうして闇が明かりで滲む淵に、魔物の姿が現れたその瞬間、少女はにこりと、微笑んだ。青い瞳だけが平板な色を映す。
 明かりの中で、少女の服の裾が黒く変色している事に、魔物が果たして気づいたかどうか。

「消えて」

 いっそ、それは優しい命令だった。酷く優しい調子で歌うように、小鳥の魂を持つ人形の少女が微笑んだままで告げる。
「消えて?」
 ふふ、と僅かに漏れるのは笑い声だ。咽喉の奥で小さく笑みを零しながら、翆は、床に這うようにして現れた魔物を睥睨している。
 風の無いはずの室内で、彼女の服の裾がゆらゆらと揺れていた。その裾から腰へ、胸へと、服の色が目に見える勢いで、窓の外の暗闇を思わせる黒へと変色していく。
「ナ、」
 魔物が声をあげかけたのを、少女の優しい声が塞ぐようにして続けられた。いっそ、優しく、美しくすらある。
「夜中を、傷付けたわね」
 うふふふふ、と、とうとう声を抑えられず、少女は笑い出した。
「うふふ…っ…あはははは!」
 何か、悪戯でも成功させておかしくてたまらない、と言った風の、少女の笑い声が廊下にひたすらに木霊し―――魔物は冷や汗をかきながら飛び退いた。明かりの届かぬ場所へと逃げ込み、安堵の息をつく。が、
「駄目よ、駄目。消えてと、私が言ったのよ。だからあなたは消える。もう、それだけのことなの。」
 そうして彼女は恍惚に似た笑みを浮かべ、自分の身体を抱きしめるようにした。青い瞳が異様な光を帯びる。笑みを深くした少女が、青い、何の感情も映さぬ瞳を暗闇と灯火の明かりの境界へと向け―――
「消え、」
「止めろ馬鹿」
 とどめと言わんばかりに、駄目押しの言葉を吐き出そうとした翆は、しかし低く掠れる、殆ど聞き取れぬほどにささやかな声に遮られる。同時、黒く変色している自分の夜着の裾を誰かが弱い力で引くのを感じ、彼女はやっと、青い瞳に強烈な感情の色を取り戻した。
 倒れていた青年が、血溜りの中から、腕を伸ばして彼女の服を掴んでいる。
 咄嗟には言葉を出せず、口をぱくぱくと開いたり閉じたりしていた翆は、それまで平板な色をしていた瞳に涙を浮かべてその場に崩れ落ちた。
「夜中、…?」
 ようやくその人の名を呼ぶと、それで堰が切れたようだった。翆はぼろぼろと涙を零し、嗚咽交じりに青年にすがり付く。
「よなか、よなか…っ、よなかぁ!ふぇ、良かっ…うえ…」
 対して、彼女に涙を浮かべるほどに心配された青年の返答は、
「五月蝿い。喚くな。傷に障る」
 という酷い言葉だったのだが、
「…うっ、よな、かっ……」
 その不機嫌極まりない返答にさえ安堵を覚えてか、少女は顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣き出してしまった。鬱陶しそうに一度強く瞼を閉じた青年は、矢張り億劫そうに身体を起こし――痛みに顔を顰めながらも、膝をついて泣く少女の頭を抱き寄せる。少女の、人形の皮膚は冷やりと冷たく、血を失った身体が更に体温までも失うのを感じて眩暈がした。歯を、食い縛る。
「お前、少しは落ち着け。俺はこの程度の怪我じゃ死なない。」
 そんなこと、お前が一番知ってるだろう、と言いかけて青年は言葉を呑んだ。目の前で泣きじゃくる少女は、そんなことすら覚えては居ないのだ。
「だ、って、わたし、…ひ、ひとりはっ…いやなのっ…う、えっ、…」
「知ってるよ、知ってる。…『人喰い』は?」
「ま、だ消えて…な、…きえてない…っ」
 嗚咽交じりの返答に青年は舌打ちし、同時に少女の頭を抱きかかえたままで軽く頭を伏せた。その頭上すれすれを白いものが横切る。死霊の媒介となっている髑髏だ、と瞬時に判断した青年は、上半身だけでそれをかわし、怪我をしているとは思えぬ素早さで立ち上がった。座り込んだ少女を一瞥し、淡々と告げる。
「翆、あまり派手に泣くな。体力を無駄に使うだろうが。あと喚くな、俺の傷に障る」
「…夜中、」
 翆は少しだけきょとんとしてから気遣わしげに、
「だいじょうぶ、なの?」
「言っただろう、あの程度の傷じゃ死なない。傷を治すのに少し眠ってただけだ。」
 お前の声で目が覚めた、と何でも無いことのように言ってから、彼は髑髏をかわし、懐にあったナイフを振りかざした。膝を突き、灯火の反射だけでなく、暗闇に青白く光るナイフを手に、彼は素早く囁く。
「死者は墓所に、寝台の裡に。俺はお前を、永劫の黒、漆黒墓所の闇へと送る!」
 再び突進してくる髑髏を、今度は夜中は避ける気配も見せずに睨み据え――
「…恐れるな。黒は許し。忘却は安らぎ。眠れ、死人(シビト)」
 ――この言葉に、夜中の頭蓋を噛み砕こうとしていた髑髏の軌道が変わった。
 白い塊は、自ら振り下ろされるナイフの下へと飛び込んだのだ。翆がぎょっとして口元を押さえるのと、ナイフに触れた髑髏が砕けるのが同時だった。
 床に散らばった破片は、それきり動く気配も無い。夜中が小さく、息をついた。ナイフから何かを振り払うように一振りし、灯火の外で身じろいだ水色の服の裾へと語りかけた。
「…幕を下ろせ、人喰い。…これで終わりだ。」
 低い唸り声に、夜中は矢張り冷淡な瞳を向けてナイフを構えた。得意な武器ではないが、一度封印されていた魔物を再び封印し直すのにこれで不足ということはない。
 しかし、そう考えた彼の背後で不意に、拳銃の撃鉄を起こす重たい音が響き、夜中は振り向いた。
 灯火に滲む闇の中に、薄っすらと、拳銃を構えた腕が見える。その先に、闇の為だけでなく蒼白な顔をした男が一人。
 ――鶯だった。
 震える声で、宿の主が告げる。
「……もう、やめてくれ…!」
 鶯の構えた拳銃の先には、床に座り込んでいた翆が居る。夜中は小さく、舌打ちをした。
「もう放って置いてくれ!雲雀を…雲雀を苦しめないでくれ…」
「…」
 夜中の目は、矢張り冷淡なままだ。僅かに億劫そうな色を浮かべただけで、彼は翆を一瞥する。刃の色の瞳と目が合った翆は、小さく頷いてみせた。微笑む。
「…気にしないで、夜中。仕事を続けて?」
「ああ。分ってる」
「な」
 あまりにも、冷淡過ぎる一言。鶯が拳銃の存在を誇示するように、一度、引き金を引いた。
 がぁん、と耳に痛いような破裂音と同時、廊下の壁の一部が砕ける音がする。
「…わ、私は本気だぞ…今度動いたら、彼女を撃つぞ!それでも!」
「……馬鹿馬鹿しい」
 対する夜中はどこまでも冷淡なまま、それきり彼にも翆にも興味を失ったように、闇の奥を睨み据えた。口元を歪めて、
「おい、『人喰い』。…お前が何と言ってあの人を脅しているのか知らないが、意味なんか無いぞ。」
「貴様…」
 歯軋りするような『人喰い』の唸りと同時、夜中は動いていた。鶯が引き金を引くよりも早く。床を蹴って、雲雀の身体を使っている魔物に肉薄する。ナイフを持った左手が動き、
「死者の居場所は寝台の裡。――生者の生きるは寝台の外。」
 鶯が、引き金にかけた指に力を篭めて、
「俺はお前を『送り出す』。――寝台の外の、その外へ。」
 銃弾の音と同時。
 夜中の腕は、深々と雲雀の心臓にナイフを突き立てていた。


 廊下に響き渡ったのはまず、悲鳴だった。先程までのそれと同じ、獣染みたものだ。それも、末期にあげる死に物狂いの悲鳴。思わず耳を塞ぎたくなるようなその声に、鶯は思わず目を瞠る。
 彼の妻は、確かに心臓を貫かれているように見える。だが、のた打ち回るその女性の、胸にナイフを突き立てられた辺りから、じわりと液体の滲むようにして灰色の何かが毀れ出していた。
 血、ではないだろう。少し重たい煙のような灰色の「何か」は、廊下の床に毀れ落ちて次第に生き物のような、人間のような形を作り始める。
 ――やがて、のた打ち回っていた雲雀の動きは徐々に鎮まっていった。代わりに灰色の「何か」は霧散したり、集まったりを繰り返しながら、例え難い不快な音をあげている。悲鳴のようにも、思えなくも無い。
 青年が突き立てたナイフを抜き取る。鶯は息を呑んだが、直ぐにそこから一滴の血もこぼれないことに気付いて呆然とした。
「…いったい…」
「銃」
 端的な単語のみ口にして手を伸ばした青年に、殆ど茫然自失の状態だった鶯は思わず、自らが手にしていた拳銃を返していた。受け取った彼は一度シリンダーを確認し、それからごく僅かに目を伏せた。
「…赤い鋼鉄の靴。白い鳩は罪を暴いた。俺はあんたを罰する資格を持たないが、新月の月神の名において、俺達『店主』の権利を行使する。眠りの世界に送られろ。そうして二度と、戻らぬことを。」
 引き金を引くと、火花のそれとは明らかに違う、青白い光を帯びた銃弾が、一直線に灰色の霧を貫いた。とうとう、悲鳴さえ上げられずに灰色の塊は歪み、揺らぎ、――ゆっくりと、消えていく。
 ただ呆然とその状況を見守り、何が起きたのか理解できずにいた鶯を他所に、青年は小さく、ため息のような呼吸を吐き出した。銃を下ろしてちらりと鶯を一瞥したが、それきり興味も無くしたようで、その傍に倒れている幼い少女の名を呼ぶ。
「翆」
「…うん、終わったの?」
 青年の呼び声に返った言葉に、ぎょっとして鶯は初めて、自分が撃ったはずの少女の姿をまじまじと見ていた。至近距離で銃弾を受けた少女は、被弾したらしい肩を抑えている。

 ――抑える指の隙間から流れる血の色は、確かに赤ではなく、銀色をしていた。

「ああ。終わった。全く、余計な手間をかけさせられたな…」
「あ」
 そこでようやく、幼い少女は鶯に気がついたようだった。にこりと笑って、まるで撃たれたことなど欠片も気にしていないように。
 少女はひどくすまなさそうに、僅かに首を傾げて鶯を覗き込んだ。
「…あの、…ごめんなさい。雲雀さんは大丈夫ですよ。お腹の赤ちゃんも無事です。一度憑いた魔物を引き剥がすの、夜中はちょっとやり方乱暴だから、…ごめんなさい」
「え…いや…怪我、は」
「いいんです、気にしないで。どうせ私の身体はツクリモノだから、直すの、簡単だもの。」
 床にぱたぱたと落ちる血の色は、銀色。
 青年が口を差し挟む格好で、ようやく鶯に声をかけた。
「…その血に触るなよ。俺は平気だが、普通の人間には少し毒が強い。太陽の光を一日浴びせて、それから拭き取るんだな」
「は…あ」
「……それとこの人は、しばらく休ませることと、出来れば宿からは出ていた方がいい。…ここは少し、死人が多過ぎるな。子供を抱えた不安定な状態では、また何かに取りつかれないとも限らない」
 死人が、と言われてぞっとした鶯は辺りを見渡したが、当然彼には何も見えなかった。少女が僅か、物憂げな表情を浮かべる。幼い顔立ちには不釣合いな表情が酷く目を引いた。
「ここの死んだ人達は、悪いことはしないわ。ただ彷徨っているだけ。時が来れば自然と消えていくから、恐れなくても大丈夫です。」
 それだけ言って、少女はよろめいた。その場に膝を折る。青年がごく自然な所作で手を伸べて、少女を抱き上げた。
「身体、動き辛いんじゃないか?捨てたらどうだ」
 身体を捨てるのは、彼女の場合は簡単なことだ。これまでも何度か、少女は魂だけで「人形」から抜け出したことがある。が、心なしか青ざめた少女は肩を抑えたまま、微笑んだ。
「平気。痛いのも動けないのも我慢する。」
 そうか、と青年は頷き、それきり何も言わずに少女を抱き上げたまま、取り残された雲雀と鶯には一瞥もくれずに廊下を去っていった。
 後には点々と、銀の血の跡が残り――。




 ――そして、久方ぶりに雨の止んだ翌朝、二人の姿はどこにも無かった。
 「人喰い」が発生することは二度と無く、そして、「店主」と「魔女」の二人がこの町に現れることも、ついに二度と無かった。


 銀の血は、やがて乾涸びて消えてしまった。