ディアマイハニー

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「母さん?」

お気に入りの一冊を読み終え読了の余韻にぼんやりと虚空を見上げていたところに、耳慣れた声がした。声変わりするかしないかという危ういラインの声色をここ十年くらいずっと保っている声の主は、彼女の義理の息子で、でもどちらかというと生涯の伴侶だと彼女は心底思っている相手なのだが。今そのことは関係ない。

「…何だ。ハニーか、どうした?私に食われにでも来たか」
「阿呆か。…客だよ」

八割くらいの本気を含んだ言葉はさらりとかわされる。むしろかわされることが楽しくて吐いている本音なので、彼女は気にしたりしない。

「客?誰だよ」
「それが――」

彼は困ったような顔をしてから、椅子にこしかける彼女にそっと耳打ちした。


「……あの本を、『エーゲスティア』を、譲って欲しいんだって」







**


およそ200年弱ほど生きていると、人生、いろんな事がある。
結婚もしたことがあるし、戦争もしたし、盗みとか詐欺とか悪いことはし尽くしたし、子供を拾って好みに育ててみたり、悪魔と契約して魔女になったり悪魔に先立たれて呪詛だけ残ったり、まぁ人生色々だ。レシゥシェートはそれぞれの思い出について特に後悔も反省もしていない。基本的に悪党なのであった。
そんな悪党の彼女には、大変悪党らしい(と、本人は思っている)趣味がある。読書と希少本の蒐集だ。希少本はだいたい表で口にできないようなルートで入手していて、ほとぼりが冷めるまでは世間に公開できないものばかり。
そんな中に、ざっと100年程前、作者の急死で未完のまま刊行されることのなかった小説「エーゲスティア」の、その初版があるのだった。客人はそれを求めて訪れたのだという。
自分がそれを手元に持っていることを知っている、ということは、客人もそれなりに悪党なんだろう。レシゥシェートはそう思って机の上に長い脚を放り出したままという非常に行儀の悪い恰好で客を迎え入れたのだが、ヨルに案内されて入ってきたのが、見る限りとても華奢で可憐な、その上、育ちの良さそうな 14,5歳ばかりの令嬢だったもので、驚いて軽く目を瞠った。

「突然の訪問で失礼を致します、こちらの院長先生でいらっしゃいますか?」

その上、少女が緊張した、しかし上品な物腰でそう問いかけてきたので、面白くなって彼女はにんまりと笑った。スカートが捲れるのを気にする風もなく、足を組みかえる。礼を返そうともせず、下品なにやにや笑いのまま、彼女は開口一番に令嬢に向けて告げた。

「どーも、ド田舎のボロ屋敷まで御苦労さまお嬢さん、先に名乗って頂戴?」
「……」

不躾で不作法で下品に見えるのは承知の上だし、その下品さに少女が細い眉を品良くちらりと顰めたのも、予想の範疇だ。

「…キェティアと申します。キェティア・ケイト・ルーン」

とはいえ相手もさるもの、上品に一礼し挨拶して、あげた顔には先ほどの一瞬の不快感など消え去っている。レシゥシェートはにやにや笑いをしたまま、ふぅんと少し感心する。本音の押し隠し方はいかにも都会の令嬢らしい。最近は接することの少ないタイプだったので、さてどうからかうか、レシゥシェートは思案しつつも足を床へ戻した。

「うん、おっけー。私はレシゥシェート。レシィと呼んでくれ。一応立場は院長だけど、寄付金の問い合わせ窓口は私じゃなくてそっちの小さいのだからそこんとこよろしく」
「まぁ」

そうなのですか、と振り返って彼女は自分を案内してきたヨルを見る。彼はエルフの血筋で、そのため人より遥かに寿命が長いいわゆる「長命種族」なのだが、混血の際にエルフの特徴を全てどこかに落としてきたらしく、傍目には10歳程度の少年にしか見えない。

「私てっきり、ここのお子さんなのかと。ごめんなさい、失礼しました」

キェティアの言葉も無理はない。ヨルはといえば、勘違いには慣れているので特に気にした風もなく、いいよ、と小さく彼女に告げただけだった。それから少し首を傾げる。

「ところでルーンって言ったね。ルーン家って…王都のルーン家だよね?」
「んー?何、ハニー、知ってるの」

レシゥシェートの問いかけに彼は淡々とした調子で一言、

「ウェゼル」
「…あ、そうか」

彼が口にしたのはたった一言、この孤児院で育った孤児の一人の名前だ。その名前で全て合点がいき、彼女は指を鳴らす。ご令嬢然としたこの少女が何故、裏ルートで手に入れた本のことを知っていたのか。

「ルーン家っつったら、ウェゼルが奉公に行った豪商の家か。あいつ元気?ちゃんと勉強してる?」
「ええ――あの、もしかして、ここを出たお子さんの名前や行先、全部覚えておられるんですか」
「当たり前じゃん、みんな私達の子どもなんだから。…戦場行って行方知れずになる奴もたまに居るけどね、九割九分把握してる」

さらりと返されて――彼女の寿命を鑑みればそれはとんでもないことなのだが――キェティアは言葉を呑んでしまったようだった。

「でも、そうか。あんたウェゼルに聞いたんだね、ウチに『エーゲスティア』の初版本があるって」
「はい。ウェゼルが、お母様とお父様――お二人のことですよね?お二人が、唯一贅沢するのが、希少本なのだと教えてくれました。『エーゲスティア』のことも、その時に」




「エーゲスティア」は、さほど有名なものではないが、とりあえず作者の死により未完に終わったことで未だ解釈と議論の尽きぬ物語ではある。恋愛物語であり、どこか悲恋を匂わせる伏線も多かったが、作者の死によってその結末はとうとう語られずに消えてしまった。主人公とヒロインがどんな結末を迎える予定だったのか――最早未来永劫、それが語られることはない。
そういった意味合いでは、とてもミステリアスな作品と言えるかもしれない。
最もビブリオマニアを自負するヨルに言わせれば「完結していない作品になんて意味がある訳がない」のだそうで、彼はこの作品に対してはとても辛い評価をつけているのだが、しかしこの少女、キェティアは少々思い入れが違うらしい。

「…この作者のほかの作品は全て集めたし、『エーゲスティア』の続編を描いた他の作家の作品も幾つも幾つも読みました。でも――『エーゲスティア』の初版だけは、手に入らなかったんです」
「豪商ルーン家の財力でも?」
「というよりも、…そもそも『エーゲスティア』の初版は、回収されて全て処分されたという話ですよね。たまに市場に出回る初版本もほとんどが偽物だというし、初版が現存しているかどうかさえ怪しいくらいです。…だからあなた方の持っておられる初版本が、本当に本物なんだとしたら、一目でいいから、見せて頂きたくって、居てもたってもいられなかったんです」

成程、ビブリオマニアの鑑みたいな少女である。見た目からして十代中盤だが、いくら大金持ちのご令嬢といえども王都からこんな田舎町までやってきたその行動力だけでも尊敬に値する。
レシゥシェートはかりかりと、猫のような耳をかいた。そろそろ夏毛になる季節なので、獣の特性のあるこの耳と尻尾はどうも痒くて仕方ない。
鋭い爪にひっかかった抜け毛を吹き飛ばすと、ヨルが嫌そうに眉をひそめた。掃除するのは誰だと思ってるの、とでも言いたいのに違いない。

「あんたも本好きなら分かるだろうけどさ、ウチの本は基本的に手放すつもりはないよ、いくら積まれてもね」

それからレシゥシェートは、存外落ち込んだ風もなく彼女の言葉に素直に頷くキェティアを頬杖をついた格好でじろりと下からのぞき込み、退屈そうなその瞳の下で口の端を釣り上げて歪んだ笑顔を浮かべて見せた。ほの暗い意地の悪さを感じさせる笑みは相手を不安にさせるものらしく、キェティアは居心地悪そうに二、三度みじろぐ。

「それとね。これはウェゼルは知らなかったんだろうけど――ウチの本ってのはさァ、ちょっと世間に胸張って言えるようなルートで仕入れたモンじゃないんだよねェ」

耳につく語尾の伸ばし方に、ヨルがちらりと眉をあげた。また面倒なことをしようって言うんじゃないだろうね、窘めるような目線には、笑みを深くすることで答えてやる。結局諦めたように目をそらしたのはヨルの方だった。どうせどれだけ文句や愚痴を並べようとも、あの少年は必ず自分のしたいようにさせてくれるのだと、レシゥシェートはこれまた意地悪い気分で信じている。――あれが私に逆らえるはずはないのだ。まぁ逆らってくれたら、それはそれで面白いから別にいい。


「譲ってやっても構わないよ」


はっと顔を上げたキェティアの眼前にあったのは、歯を剥きだして笑む女の顔である。快楽を貪るような下卑た笑みを隠しもせずに浮かべているのは、見るに堪えぬ程の表情で、キェティアが思わず目を逸らす。その視線をわざわざ追いかけるようにして、レシゥシェートは少女に近づき顎を掴んだ。――少年は呆れたように、溜息をついて目を逸らす。ああ、また、母さんの厄介な病気だ。
可愛くて、自分の好みの子を見かけると、あの人はいじめずには居れないのだ。自分が好例――拾われてこっち五十年はいじめられ通しである。

「…ただし条件がある」
「はい、そうだろうと思いました」
「さすが商家の娘だ」

キェティアの返答に目を輝かせて笑う姿はいかにも悪党だ。余裕たっぷりに、彼女はこう告げた。

「――条件はひとつ。この町の外、森の奥に、ちぃっと厄介な魔物が棲みついててねェ」

何か言いかけたヨルを視線で黙らせて、女はにやにやと続けた。

「そいつを退治てくれ。殺す必要はない。どんな手段を使っても構わん。森から、追い出せ。いいな?」
「…そんな、無茶な。私は戦う手段なんか持っていません、この条件はあんまりにも不公平です」
「世の中に公平なものなんかひとつだってありゃアしないさ、お嬢様!あんただって商家の娘なら知ってるだろう、世界ってのは、端から不平等なのさ」

不服そうに唇を尖らせた少女の額にキスして、レシゥシェートは心底愉しそうに高笑いした。ついでに(嫌がらせとして)唇も奪うくらいのつもりだったのかもしれないとちらりとヨルはそんなことを思い、そんなことをしようものなら向こう一週間は口を利くものかと心に決めていたのだが、生憎、彼の考えなど彼女にはお見通しだったようである。
(ちっ)
舌打ちは胸中だけに留めておいた。――悪党への悪態なんて、つくだけ無駄だ。




***


そう言う訳で、商家の娘であるキェティアは魔物退治に挑む羽目になってしまったのである。
「おや、挑戦するのかい。条件付きつけた時点で逃げだすと思ったんだがね」
ニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべたレシゥシェートが、そんなこと思っていなかったのは確かだ。
「…無茶は承知の上ですが、所詮箱入りの商家の娘だなんてうしろ指を差されるのは我慢がなりません。……さすがに命の危険を感じたら戻るつもりですが」
「おう、そうしな。誰もお前さんが負けたなんて思わないさ」
おや、とキェティアは少し意外な気持ちでレシゥシェートを振り返る。下卑た笑みを浮かべてばかりいる女が彼女はすっかり苦手になっていたのだが、実にあっさりとした物言いが引っかかる。
まるで、キェティアが途中棄権なんて絶対にしないと、そう思い込んでいるかのような。

(は、腹立たしいっ…!)

森は鬱蒼と茂り、昼日中でも薄暗い。軽装の少女に、孤児院の子供達がそっと厚手の手袋とブーツを貸し出してくれた。サイズが合うものがあったのは幸いである。
「気をつけてね。えーと、その、森は、危ないから」
「…そうだね、うん…危ないから」
子供達が何故だか酷く言葉を濁しているのが気にはなったものの、深く追求はせず、キェティアは礼を述べて彼らの心遣いを受け取った。――それにしてもいかにも悪党然としたあの女性の子供達がどうしてこうも素直に育つのか。
(ルーンに奉公に来ているウェゼルも、すごくいい人だもの…ちょっと強かなとこはあるけれど、あんな悪党みたいな笑い方しないし…)
森の歩き方を教わり、簡単な地図を受け取って、出発する。


行けども行けども景色が変わらない、というのは、想像以上にひどく心労がかかる。歩き始めて早二時間ほど、キェティアは最早ギブアップ寸前の状態だった。体力の問題ではない、気力の問題だ。
茂みを揺らす音に神経を張りつめ、自分の歩いている方向に神経を尖らせ、そうしているうちに段々と気力が萎えて来るのを感じる。
(駄目よ、こんなんじゃ、せめて例の、森の奥の洞窟にまでは辿りつかなくちゃ…)
自分を小馬鹿にした、あの院長の目を思い出し、キェティアは己を奮い立たせた。それに、「エーゲスティア」の初版本――幻の一冊と呼ばれた、どんなにお金を積んでも手に入らない希少本が手の届く場所にあるのだ。ここで諦めるのは、あまりにも惜しい。
だが同時に、キェティアは疲労の為だけでなく自分の足が震えるのを感じていた。
――森の奥に、魔物が…
確か彼女はそう言っていた。なら、自分が行く先に居るのは魔物なのだ。
都会育ちのキェティアは、魔物というのを殆ど目にしたことがない。二、三度旅の道中にゾンビやスケルトンを、それも馬車の中から見た程度だ。野生の獣さえ、ろくに見た経験がない。
(ど、どれくらいなら近づいても大丈夫なものなのかしら…!それとももう、気付かれてる?そうよね、かなり森の奥に近づいているし…っ)
一度ネガティブな想像をしてしまうと、途端に弱気が連鎖的に噴き出してくる。次第に歩みを弱め、とうとうキェティアは立ち止まってしまった。辺りをきょろきょろと見渡し、葉ずれの音や小鳥の声にまでびくりと身を震わせる。
だから間近の茂みががさり、とひときわ大きく揺れた時には、心臓が止まるかと思うほどに驚いて、キェティアは声も出せずにその場に崩れ折れてしまった。ぺたりと座りこんだ、その彼女の目の前に、茂みをかきわけて何かが近付いてくる。

「…大丈夫?」

ぎゅっと目を閉じたキェティアの耳に響いたのは、獣の咆哮でも魔物の足音でもなかった。
――声変わりをするかしないか、そんな危ういラインの少年の声。

「僕だよ。院長室で会っただろ、キェティア・ルーン」
「あ、あ、あ、あ、…あなた」

掠れて震えた声をあげながら、キェティアは呆然として、茂みから現れた少年――の姿をしたハーフエルフの姿を見上げた。座った状態だったので、自然と見上げる格好になった。
見覚えがある、どころの話ではない。
先ほど院長室で、彼女の補佐役のような立場だと説明されていた、あの少年だ。確か名前はヨル、とか言ったか。奇異な響きだったのでよく覚えている。

「あなた、どうして、ここに?」
「どうしてだろうね。道に迷ったとか、そういうことにしといてくれない」
「そういうことにって…。私を追いかけていらしたんですか」
「……ま、端的に言うとそうなる」

彼はあっさり認めて肩をすくめた。キェティアは眉根を寄せ、立ちあがりながら言いつのる。

「わ、私は、まだリタイアするつもりはありません。何を考えてレシィさんが迎えを寄越したのか存じませんが…」
「僕は別に、シゥ…母さんに言われて来た訳じゃないよ、勘違いしないで。…ある意味、あの人の思惑通りって気がしないでもないけど」

宥めるようにゆっくりと、ヨルが告げる。

「…まずは謝っておく。母さんが失礼をしたね。あの人は…まぁなんて言うか、見ての通りの悪党だから、他人をいじめたり、からかうのが大好きなんだ」
「――孤児院の院長と言うには、少々ならず人格に問題がありませんか、それ」

失礼を承知でつい、キェティアが口走った言葉に、ヨルは苦く笑った。得体の知れぬ、曖昧な笑みだった。

「いいんだよ。あの人は悪党だけど、子供への愛情は本物だから。どういう訳だか、僕も不思議だ」
「はぁ」
「さてと、それじゃ行こうか」

慣れた足取りで迷うことも無く一方向へ進み始めたヨルを、しばし迷ってキェティアは追いかけた。認めるのは癪だが、一人では心細いのもまた事実であった。



そうやって辿りついたのは、森の奥の洞窟の前である。
想像していたより遥かにそこは、美しい場所だった。鬱蒼とした森の中にあって、嵐で木が倒れて開けた場所だ。そこだけ僅かに闇が途切れ、光の差し込む先には水の湧き出る泉がある。その奥に洞窟と、それから、

「……あのぉ、ヨルさん」
「ああ、うん、まぁ、見ての通りだよ」

――洗濯物が、干してあった。
それだけではない。洞窟には小さな煙突がついていて、そこからはいい匂いのする煙が出ている。誰かが中で料理をしているのだと、それで知れる。

「何だか生活臭がするんですが、魔物というのはああやって人のような生活をするものなんですか」
「いや。しないね。」

あっさりとヨルは応じて肩を竦める。そこへ、甲高い声が響いて、辺りの鳥たちが驚いたように羽ばたいた。

「ヨル!何しにきやがったですか!」

洞窟から転がり出るようにして現れたのは、幼い少女の姿をしている何かだった。見目にはヨルよりも幼いくらいだろうか。背中に生えた小さな翼がぱたぱたと興奮気味に動いている。
有翼人種、という可能性もあるが――キェティアは胡乱な表情で少年を振り返る。

「魔物、ですか?」
「分類上は」

彼は頷くと、幼女へ視線を移し、きんきんと響く声で何やら文句を言いつのる彼女をさらりと受け流した。

「それよりかわせみ、よなかは?」
「うにゃ。いませんです。お散歩に行ったですよ」
「……まるで犬だな。…じゃあ料理しているのは、お前か」

そうですよ、えへん、と幼女――かわせみ、と呼ばれていた――が胸を張る。目を丸くしていたキェティアはようやっと反応した。

「カワセミ、ヨナカ、って、確かエーゲスティアの」
「……そうだよ。エーゲスティアの主人公とヒロインの名前。借りたんだ」
「あの、この子は…一体何者なんですか?」

ヨルはあっけらかんと一言。

「人を喰らうもの。悪魔だよ」




悪魔は、人を喰らう。それゆえに悪魔と呼称される。
それくらいの知識はキェティアだって持ち合わせている。小さな悲鳴をあげて後ずさった彼女に、幼女がにこりと微笑んだ。無邪気な、と称して差し支えないような可愛らしい笑みと一緒に彼女が言い放ったのは、こんな一言であった。

「ヨル、これ、新しいご飯ですか?」

――逃げよう。
キェティアは心に決めて踵を返した。背後を気にしつつ全力で駆け出そうとして、何か、柔らかいものにぶつかってたたらを踏む。驚いて前方を見た彼女は今度こそ悲鳴を――出そうとしたが、恐怖で咽喉が張り付いてそれさえ出せなかった。

そこには、馬一頭ほどの大きさの、大人が騎乗できそうな巨大な、青い毛並みの狼が一頭。
ナイフのような色をした瞳で、キェティアを見下ろしている。

「っ…!!…う、っ、や…」

声にならぬ悲鳴を漏らすキェティアに、だが狼はすぐ興味を失ったようだった。
幾らかあきれた調子で口を開く。獣の口から、流暢な人語が漏れた。


「――何だ。またレディの悪戯か、主」
「うー、パパってばノリが悪いのです!折角怖がらせて頂こうと思ってたですのに」
「人の恐怖なぞ食い慣れると、ろくな大人にならない」

それだけ言って、狼はのっそりとキェティアの横を通り過ぎ、ヨルの隣で、濡れた犬がよくそうするようにぶるりと全身を震わせた。獣の輪郭がその拍子に崩れ、そうして瞬く間に、そこに居るのは青い毛並みの狼から、長身の青年に転じている。
狼の耳とふさふさした尻尾が残っているのはご愛敬といったところか。
「人の娘、主の母が失礼をしたようだ」
すまないな、と無表情に告げられ、キェティアはどう返していいのか分からなくなった。青年に駆け寄った少女が、彼の腕にまとわりつきながら口をとがらせている。

「うー。せっかく食べようと思ったのにーっ」
「やめなさい」
「恐がってる人の魂は美味しいよ?パパも食べればいいのに」
「太るぞ」
「太らないもーんっ」

幼い少女が青年の袖を引いてワガママを言う姿は、それだけ見れば微笑ましく見えないこともないのだが、会話の内容にキェティアはどんな表情をしていいやら分からずに引き攣った顔をするしかない。

「お前達、客人に茶も出さないつもりか?」
「ヨルに出すお茶なんかないのです…でもお客さんの分はありますのです」

ヨルの言葉にぱたぱたと足音軽く洞窟へ戻っていく少女を見送って振り返ると、そこにはいつの間に用意したのだろうか。小さな野外用のテーブルと椅子が人数分準備されている。驚いて目を瞠るキェティアに、無表情な青年――よなか、と呼ばれていた――が促すように椅子を引いた。




「…ヨルさん、これは一体どういうことなんですか…」

躊躇の後結局椅子に座り、ハーブの香りのするお茶を少女に差し出され、とうとうキェティアは腹を据えてそれを飲んでみた。ミントの香りが心地よい、それは本当に普通の、美味しいハーブティだった。
添えられたのはお茶菓子の代わりに、森でとれた木の実を干して作ったドライフルーツと煮詰めたジャムと質素なパンだ。

黙々とお茶を飲み、茶菓子を口にしていた少女と青年――の姿をした悪魔――が互いに顔を見合わせ、青年は無表情だったものの、少女の方は僅かに苦笑めいた表情を浮かべる。

「こいつらは、孤児院のメンバーだよ」

さらりと応じたのはヨルだった。

「孤児院の…?」
「正確には僕の契約した悪魔だ。言ってなかったっけ、僕は<魔女>だよ」

――悪魔を使役するもの。悪魔と契約し、その魂を売り渡したもの。忌まわしき<魔女>という名にキェティアの腰が僅かに浮いたが、少年があまりに平然としているので、結局座り直すことにする。ここにきてからこっち、今までの既成概念が崩れっぱなしだ。

「<魔女>が孤児院を経営しているなんて前代未聞じゃありませんか…」
「そうでもないよ。教会でシスターやってる<魔女>だって居るよ」

あっけらかんとそう言われて、頭痛さえ感じてキェティアは額を抑えた。

「大体が、概念の違いなんだよね、悪魔なんてさ。天使だって人の信仰と祈りを喰って生きているんだから、アレばかりが優遇されて、人の痛みや恐怖を食う悪魔が冷遇されているのはどうかと…」
「…事実として、恐怖や痛みを食うために人を襲う連中も多いからな。人の立場ならやむを得んだろう、主」
「でもあんな連中、悪魔の恥さらしなのです。もっとスマートにお食事しなくちゃ、エレガントじゃないです」

先ほどキェティアを脅かしていたことなどどこ吹く風、茶を飲みながらそう感想を述べたかわせみを恨めしい気分で眺めて、キェティアは再び顔をあげる。

「つまり、この二匹…二人?は、無害な存在なのですね?」
「それどころか、孤児院を守ってくれているし、手の足りない時には手伝いもやってくれてる」

無害どころか有益な存在という訳だ。どうあれ、この人物と孤児院と、そして目の前の悪魔達は、うまい共存を図っているらしい。キェティアはしばし胡乱な目付きをして三人を見やっていたが、のんびりとお茶を飲む三人の姿に警戒するのも段々とバカらしくなってやめてしまった。
これでもキェティアは商家で商いを叩き込まれている身の上だ。若いとはいえ、相手が腹に一物抱えているかどうかくらいの目利きは――並の人よりはできると自負している。
その彼女から見ても、この三人は悪意や敵意のようなものを一切持ち合わせていない。そう見えた。

「んん、お茶のつまみには人の猜疑心。美味しいのです」
「…かわせみ、つまみ食いはやめなさい。はしたない」

――とはいえだしぬけにこんなことを口にされた時には、さすがにキェティアも考えを改めようかとは思ったが。

「キェティア、気にしないで。…こいつらが食べてるのは、あくまで人間の感情だよ。感情が放つエネルギー。孤児院で手伝いをしてくれるのも、子供達は感情をものすごい勢いで放出するから、ご飯に困らないって言うのが理由なくらいだから」

ヨルがそうフォローを入れて、やっと彼女は本当に警戒を解いた。かわせみがその変化に気付いたか僅かに口を尖らせたが、気付かぬふりをすることにする。

「…悪魔は人を喰らうって言うけど、あれは嘘なの?」
「嘘ではない。…感情を根こそぎ喰われたら人間の心は壊れてしまうし、人の魂を、殺してでも奪って喰らうのを好む悪魔だって居るからね。でも、ほとんどの悪魔はそんなことしないよ。むしろ悪魔は人間を好いている奴の方が多いくらいだ」

確かに。目の前の二人の悪魔は唐突な客人であるキェティアを歓迎しているように見えた。茶を振舞ってくれたのも、近付いて様々な感情を自分に抱かせるためだったのだろうか、というキェティアの想像は当たらずも遠からずといったところだ。

「私は人間なんか、キライですけどねっ」
ぷいとそっぽを向くかわせみに、ヨルが苦笑いした。
「…たまにこういう奴もいるけどね」
孤児院を手伝っているくらいだ。そこに、子供達の放つ感情を食料にしよう、という彼らなりの事情があるとはいえ、心底から人間を毛嫌いしている訳ではないのだろう。


「さて、ところで」

茶を飲み終え、すっかり和んだ気分で泉や森の草花を眺めていたキェティアを、不意に現実へ呼び戻したのはヨルの言葉だった。彼は泉の傍に座っていたキェティアの近くに立つと、洗濯物を干す少女とその隣で寝そべる狼姿の悪魔を眺めつつ、腰に手をあてた。

「――あれを退治して、森から追い出せ、だったっけ、母さんの条件は」

彼は僅かに口の端を歪め、楽しそうに笑って見せた。

「ちょっとした提案があるんだけどね、キェティア。どうだろう。――王都に帰るのに、悪魔の護衛をつけてみる気はない?」
「…護衛?ああ、成程。でもあの二人は…」
「たまには気分転換も必要。主の僕がそう決めたんだから文句なし。大丈夫。それより僕は、たまには母さんをいじめる側に立ってみたくてねぇ」

すらすらと言う少年に、いささか驚いてキェティアは眼を丸く瞠り、少年の笑顔を見上げた。
――多分今本人にそれを指摘すると気分を害してしまうだろうが、とキェティアは胸中だけで苦笑する。

(――あの笑い方、悪党みたいな笑い方は、母親だと言う人にそっくりだわ)





**




孤児院で久々に取り出した「エーゲスティア」の初版本を眺め、あの令嬢があの洞窟の悪魔達にどんな反応をするのやらと愉快な気分で待っていたレシゥシェートに突きつけられたのは、不愉快極まりない彼女の息子の反乱である。
否、反乱といっても、レシゥシェートは息子がキェティアを追って森に入ったのを知っていたから、これくらいは予想しておいてしかるべきだったのだが。

「…はいィ?」
不機嫌を露わに鼻を鳴らして顔を歪めたレシゥシェートに、淡々と、彼女のハニーが辛抱強く繰り返す。

「だから、王都に行くことになったんだよ」
「『どんな手段を使っても、森から追い出せ』…が条件でしたわよね?」

にこりと満足そうに微笑むキェティアが今となっては小憎らしい。

「わたくしは商家の娘ですので、商売人らしく、お金で片をつけることにしましたの。おふた方には、わたくしの護衛として王都まで来て頂きます。もちろん相応のお礼はお支払しますわ」
「……」

確かに。あの二人の悪魔を森から追い出すことに成功した、と、文句なく言えるだろう。これならば。
問題は――

「待ちなよ、ハニー。何でお前まで旅支度をしてるんだ」
「だって僕の悪魔が行くんだから、主の僕が付き添うのは当然だろ」
「…お前から離れようと何しようと、お前の悪魔は問題ないだろうがっ」
「いや心配だし?」
「め、めをそらしながらいうんじゃありません!おまえをそんな子に育てた覚えはないぞハニー!」
「あいにくあんたにマトモに育ててもらった覚えもないよ」
「こーとーほーぎー!天国だか地獄だかのホギ聞いてるかっ!お前のせいで私の可愛いハニーがこんなひねくた子に!!責任とれバカ悪魔ー!」
「……キェティア、バカは放っておいて行こうか」


とうとう天に向かって吠え始めた院長を放置し、彼は部屋を覗き込んでいた子供の一人に視線を向ける。
「という訳でしばらく留守にするけど、母さんの言うことを…適当に聞き流して、きちんとやるようにね」
「何だ、またヨルパパ、家出するの?早く帰ってきてね」
「そうそう、ママが荒れるから」
「たまにはいい薬だけどね、ママってば、パパにワガママ言い過ぎだよ」
子供達が口々に勝手なことを言い合う横で、まだレシゥシェートが叫んでいる。
「うぅぅうう、その手があったかチクショウ。お前が森に行くのを力尽くでも止めるべきだったっ」

お前って子は金と可愛い女の子に目がないんだから、と地団太を踏む彼女に、更なる追撃をかけたのはキェティアの一言である。

「ところでお約束の『エーゲスティア』はいつ頂けるのでしょう」
「…ああああもううううう!持ってけドロボウ、あんなもの、ウチに腐るほどあるわよ!」
「……可愛い女の子もクソも女性を敬えって僕に叩き込んだのはあんただろうに」

ヨルのぼやきは幸い誰の耳にも入っていなかったようである。

****


「…ところで本当に良かったんですか、この本、頂いてしまって」

レシゥシェートの悔しがり方があまりに激しかったもので、キェティアはつい、帰り際に、馬車の御者台に座ったヨルにそう問いかけていた。彼は肩をすくめ、本を示してこう告げた。

「いいんじゃない、母さんも言っただろ。その本はウチに腐るほどある」
「…まさか、偽物ですか」
「ううん。正真正銘本物」

彼は馬に鞭をくれ、街道のずっと先の方を見据えたまま、

「だってそれの作者母さんだもん。作者が死んだなんて大ウソ。単に母さんが飽きちゃって続きを書かなかっただけ」




あまりにさらりと言われたので危うく受け流しそうになり、しばらくの間ぴたりとキェティアは動かなくなって、やっと口を開いたのは森をひとつ抜ける頃である。





「ええええええええええええっ!?」


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