ディアマイハニー

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「…ところでちょっと疑問だったんだけどさ、母さんの本名ってどうなってんの。レガス、はファミリーネーム的なものとしても、何で名前が二つあるんだっけ」
「基本はプリブレの世界観だからいずれそっちで説明があると思うぞ?まぁ私の場合は本名ではなく称号だが。それより私はヨルの名前の方が不思議なんだが、何でそんな変な名前なんだ?」
「………」
「どうした。『駄目だこいつ早くなんとかしないと』と言わんばかりの蔑みを込めた眼をして。そんな目で見られても私はあいにくMっ気は強くないのでな、嬉しくないぞ」
「そうだね僕もそこまでSっ気ないから母さんいじめても楽しくも何ともないけど、母さんもしかしてそろそろボケでも入った?」
「失礼な奴だな。これでも人間年齢でまだ三十路にも届かん若者だぞ、私は」



*********
 あまり幼い頃のことは、よく覚えていない。ただ母が泣いてばかりいたのだけはやたら今でも鮮明に頭に残っている。そのせいで多分自分は女の泣き顔が苦手なんだろう、今ヨルと呼ばれているハーフエルフの悪魔遣いは、そんな風に考えている。
泣いてばかり居る彼女が可哀想だったから。
泣いてばかり居る彼女に森に置き去りにされた時、ヨルは騒ぎたてなかった。幼心に、これで彼女の負担にならなくて済む、そんな気持ちがあったのだろう。




なんだこれ、というのが義母と彼との最初の出会いの一言であった。襟首掴まれて持ち上げられて身を縮める幼い子をまじまじと見て、義母の青い――あの頃は、青空のように美しい青い瞳をしていた――瞳が彼を覗き込み、胡散臭そうに自分の背後に問うたのだ、「何だこれ?」と。すると、誰も居ない虚空から低い男性の声が響いた。

「見てのとおりじゃない」
「ガキか。こんな場所に。魔物じゃないのか?」
「だったら何さ。別にどっちでもいいじゃん、人でも魔物でも、どうせすぐ死ぬよそれ」

面倒くさそうに答える声はすれど姿はなく、幼い少年は恐怖と混乱で身をよじったが、女の細腕にいったいどれだけの力があるというのか。びくともしない。吊り下げられた格好のまま、少年は成す術もなく女を見上げていた。長身の女の流れるような金髪は、昼でも薄暗い森の中でもきらきらと光っている。黒い獣毛に覆われた、猫のそれと同じような形をした耳と、すらりと長い尻尾。華奢に見えるが、腰には大きな拳銃を、背中には剣を背負い、その上から黒い外套を羽織っている。

「死ぬのか」
「人の子供は弱いでしょ、それに脱水起こしてる。どうせあと一日放っておけば獣か魔物か、何かに食われて死ぬだろうさ」

淡々と応じた低い声は退屈そうで、何で女がそんなものに興味を示したのかが理解できないと言わんばかりである。

「ねぇそれより、レマ。次の町に急ぐんじゃなかったの。こんな場所通って近道しようなんて不精をして、それで依頼の期日に間に合わなかったらどうするの」
「うーん」

レマと呼ばれた女は首を傾いで、姿のない声がせかすのを気にもかけずに未だに少年を覗き込んでいる。深緑の瞳は数日続いた空腹に既に焦点も定かでなく、それでもどこか聡明な色をしている、と女は思った。

「お前、名は」
「…?」

自分に問われているのだと気付くまで少しばかり時間が必要だった。

「名前は?」
「―――」




何と。
答えたんだったか。
実を言うと、先に義母を罵った彼だが、迂闊なことに、この時のことだけ記憶からすっぱりと抜け落ちている。必要のない記憶だから、もう二度と必要とされない言葉だから、きっと記憶の底でその名前は死んでしまっているんだろうと言う気がした。
だって今その名前を呼ばれても、自分は振り返らない自信がある。




少年の掠れた声の名乗りに顔を顰めた女は、鼻を鳴らして少年を地面にひょいと落とした。丁寧におろしたのではなく、本当に、どさりと落としたのである。幸い下は厚く積もった落ち葉で、弱った少年もその場に座り込んだだけで済んだが。

「エルフの名づけ方だな。ええとエルフは表意の文字を使うんだったか、おいホギ、こいつの名前どういう意味だか分かるか?どうせロクでもない意味だろうが」

ホギ、と名を呼ばれたことに反応したのだろうか。それまで誰もいなかった空間に、いつの間にかふわりと一人の人物が姿を現した。長い黒髪と異様な色をした黄金の瞳。ふわふわと重力に逆らってその場に浮いているのは、男とも女ともつかぬ奇妙な人影だった。
その背には半ば腐って白い骨や腐肉の見える黒い翼が生えており、それで、単なる翼人ではなく魔物の類であろう、と知れる。
そこまで判断出来たが、謎の声の指摘通り身体の弱り切っていた少年は逃げることも悲鳴をあげることもせず、最早恐怖さえ忘れてその姿を見上げていた。

「鬼子じゃないの?狭霧は部族名じゃなくて、事情があって部族に属さないエルフ達が名乗る名前だし、でも名前は普通だよ――」

彼が何かを説明していた。それをうんうんと頷いていた女は、掌に教わった通り文字を書き、やがてにやりと笑うと刻んだ文字から一文字を消した。
残った一文字は、夜の静寂を意味する文字ひとつ。

「夜――ヨルか。いいんじゃないか。いかにも悪魔憑きの私の連れ歩くのに相応しい」

ホギが大仰に溜息をついて見せる。魔物の癖に人間臭い仕草であったが、彼の感情を反映するかのように、ふよふよと浮かんでいた黒髪の先がしなしなと萎れる。

「レマ、悪い癖だよ。そんなの拾ってどうするのさ、子供なんだよ。力仕事出来る訳でもなきゃ見世物になるほど珍しくも綺麗でもない、売れもしないし金がかかるだけだ」
「売れるかもしれないぞ、見たとこエルフの混血だろう。魔法くらいは扱えるかもしれない」
「そりゃ、ちゃんと勉強させればそうかも…だけど…勉強させるのにどれくらい金がかかるかちゃんと考えてる?どう見積もっても収支が合わないよ」
「うん、じゃあ、私が使う事にしよう」

レマリ・レィラ・レガス。のちに知った彼女のフルネームである。それから僅か五年後に父の死を経て「レシゥシェート」と名乗ることになるこの女は、さらりとそう告げて少年の頭に手を乗せた。びくりと身を竦めた少年を見て笑う。
美しいとは呼べぬ笑みだった。どちらかといえば肉食の獣に似ている。牙のような八重歯がのぞいて怖かった、というのも理由だった。

「――さてどうする、ヨル。お前、私と一緒に来るかい?それともここで野垂れ死ぬか?」

選択の余地などどこにあったというのか。少年は必至の想いで頷き、そうして「ヨル」になったのだ。あきれ果てた様子でホギ――悪魔が肩をすくめて、「どうぞお気の召すまま、レディ」と呻いていたのが印象的だった。








**

「とまぁそういう出会いをした訳だ、僕と母さんは――ああ、あの人が『母さん』になるまでにまたひと悶着あったんだけどそっちはどうでもいいや」
「…それで拾われてから半世紀たっても母さんに顎で使われっぱなしなの、父さん…?」
「最近はそうでもない」


子供達を前に昔語りをしている見目の幼いハーフエルフの遥か背後。昼前にやっと目覚めたお寝坊さんの院長先生、子供達の「母さん」が、何やら悲鳴をあげているのが聞こえた。多分、寝室に仕掛けた嫌がらせ染みた朝食を口にしたのだろう。あれは彼女の大嫌いな、すっぱいものをふんだんに使ってある。もちろん、制作者は子供達の前でウィンクをしている少年姿のハーフエルフである。

「…父さんって、母さんいじめるの好きだよね」
「普段のお返しだよ、僕のやってることなんて可愛いものだと思うけど?」


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