テラスには冷やりとした夜気が流れている。この国の、短い秋の夜の空気は、けれども心地よいものだ。僕は羽毛をぶるりと震わせ、その隣で、末姫様が髪留めを外してしまわれるのが見えた。
 彼女は重たそうに髪をふわりと振る。夜の冷たい空気に、末姫様の青味のある金髪が舞った。
「…ああ、イヤだ…」
 彼女はぽつりと、そう呟いたようだった。何が?僕は問い掛けたが、彼女は応えず、テラスから月を見上げる。夜に舞う梟が、どこか遠くでほう、と鳴いた。
「梟になってしまいたいわ、いっそのこと」
 彼女はそんなことを、月を見ながら言う。僕が吃驚して振り返ると、彼女は少しだけ笑った。
「やだ、何驚いてるのよ。…知ってるわ、別に、鳥になったからって自由になれる訳ではないものね」
 そして、彼女は気を取り直すように息を整えた。
「もう時間も時間ね。皆様にお暇を言わなければ…」
 月はもう、中天に近い。普段ならば末姫様はそろそろ就寝していないと爺やさんや侍女たちから叱られるような時間だった。流石に疲れたんだろうな、と僕が足元に擦り寄ると、末姫様がくすぐったそうに声をたてて笑った。僕の意図を察してくれたらしい。
「そうね、一緒に寝ましょ…」


「…フィータ?」


 ――それは本当に、突然のこと。
 テラスに背を向けて会場へ戻ろうとした末姫様の背中に、本当に突然、低い男の人の声がかけられたのだ。
 ここは仮にも王宮の中。不審人物がそうそう侵入できるわけも無いし、第一、テラスにはさっきまで誰も居なかった。それなのに。
 ばね仕掛けの玩具みたいな動きで振り返った末姫様と、その足元の僕の前には、月を背中にして立つ人の姿が、見えた。
 本当に、突然だ。そこに忽然と現れたのは、末姫様より少し年上くらいの、けれど大人とは呼べないくらいの年齢の、一人の少年だった。
 貴族ではないのだろう。ぼさぼさの上に、腰まで伸びた黒い髪は手入れされていない感じがしたし、着ているものも質素で地味なシャツとズボン。足元にはやけにがっちりしたブーツを履いていたが、これは下町でよく見る、土木作業をしている人達のブーツと同じ。実用的なものだ。
 そして驚いたのは――彼の瞳。
 逆光で陰になる中で、その瞳がきらきら、微かに緑を帯びた金の色をしていた。

 金色を帯びた色の瞳には、ある特別な意味合いがある。それもあれだけ強い金色ならば。
 僕も末姫様もぽかんとして、その人を見て、そして末姫様は呟いた。

「…誰?魔族の方…?」
「…フィータ、じゃないのか?」

 二人の発言は同時だった。

 魔族、と言うのは、魔法を扱える人間の、特にその一族のことを指す。
 魔法って言うのは、自然現象を精神に取り込んで増幅する、特殊な力のこと――と説明するとよく分らないけど、僕にも実はよく分らない。けど、王国ではこの「魔法使い」は珍しいものじゃない。
 共通しての特徴は、瞳の色が金色を帯びていること。人の目とは色が本当に違うから、直ぐに分る。
 金の色が強ければ強いほど、その人は強い魔法を扱えることになるから、彼の瞳を見る限り、彼は相当に強い魔法使いなのだろう。とすれば、もしかすると、一人で王城に侵入することも可能かもしれないが――いや、王城には王城の抱えた魔法使い達の張っている警戒網があるはずだし、無理なのかな――
 僕がぐるぐると考えている間に、末姫様は何とも無用心なことに、テラスに立つその人物に近付いていた。僕が警戒の声をあげる暇も無い。慌てて僕は末姫様の服裾をくわえて引っ張ったけど、彼女が気付いた気配もなかった。

「フィータ、というのは、あなたの探し人?」
「いや。違う。…悪いな、似ているから、勘違いしたようだ」
「そんなに似ているの、わたくしと」
「似てるな、生き写しだ。でも…多分、フィータはもう、居ない。」

 彼は少しだけ、笑ったようだった。緑と金の混じるきらきらした瞳を細めて、末姫様を興味深げに眺める。末姫様も彼を見上げて、そして、こう、言った。

「フィータ、というのは、…フィータ・フィガルのことではなくて?」
「な」

 今度は謎の人物の方が驚く番だった。僕も驚いた。

「何で、分った?」
「わたくし、おじいさまに何度か言われたことがあります。フィータ、…わたくしのひいおばあさまと、わたくしが良く似ていると」
「……。ひいおばあさま?」
「ええ、フィータはわたくしの、ひいおばあさま」
 彼女は挑むように、彼を睨み据える。
「わたしはこの国の七の姫。…あなたは…ひいおばあさまを、王国の先代王妃を、ご存知なの、魔族の方?」
 彼は、答えなかった。
 末姫様は彼の金と緑の瞳を睨んだままで、沈黙している。
 二人の沈黙の合間を縫うように、室内からは細く、楽の音が響き出した。先程、末姫様が踊ったものとは違って、一体誰がリクエストしたのか――賑やかでちょっぴり騒々しい、下町の祭りを思い出させるような民族音楽が流れ出す。それを聞いて、ふいに彼は目を逸らした。懐かしいものでも見るみたいに室内から聞こえる音楽に耳を傾け、

「…踊るか」
「はぁ?」

 末姫様の返答は全く間の抜けたものだったが、気にした風もなく彼は末姫様の手をとった。

「あたし、踊るなんて言ってないわ。それより答えて、ひいおばあさまとどういう…」
「ほれ、行くぞ」
 容赦なく問いかけを無視して、彼がくるりとその場で末姫様を回す。引っ張られるように踊る格好になり、格好悪くたたらを踏んで、末姫様は彼を睨み上げた。
「こ、答えて!」
「そうだな。一回こうやって踊った仲だよ。同じような曲だった」
 くく、と彼が可笑しそうに咽喉を鳴らす。再び末姫様が、今度は自分でくるりとターン。早いテンポのステップを踏んで――これは、農家の人達が麦踏をする動きを真似たダンスだ――また、魔族の少年と手を取り合う。
「踊った?ひいおばあさまと?」
 彼は頷き、軽くステップを踏んでから、
「ああ。お前と同じくらいの頃だったな。町の酒場で、酔っ払いの連中と一緒に踊ったんだ。よく覚えてる」
 この言葉に、末姫様は絶句した。
 ――フィータ。フィータ・フィガル。
 王家に近しい人間しか知らないことだけど、この人物は若かりし頃、下町へ遊びに行くのが大好きで、そしてひとつの、嘘とも真実とも知れない不思議な逸話を残している人物だ。これを知っているのはごく一部、王族と、王族に近しい貴族だけ。貴族の中には魔族も珍しくないけれど、目の前の彼はどう見ても、貴族と言う雰囲気ではない。
「貴方、どうしてそれを」
「言っただろう。フィータの手をとって、こんな風に一緒に踊った仲だ。知ってるさ。」
「嘘よ、無理よ!だって、百年も前のことよ!」
 エルフや、エンジェル――数百年の時を平然と生きる特殊な長命種族を除いて、例え魔法を操る魔族でも、寿命を必要以上に延ばすことは出来ない。それが一般的な認識だ。当然、目の前の彼もまた、見た目どおりの年のはずで。
 末姫様の混乱も全くその通りだったのだけれど、彼はその言葉には、笑みだけを返して何も言わなかった。
「…そうか、百年も…前、なのか」
 それだけ、繰り返すように呟いただけだった。
 それきり、末姫様は怒ったように手を放した。が、ちょうど曲も終わりに近付いている。結局、一曲近く踊ったことになるらしかった。末姫様は憤然として、目の前の人物を睨みつける。
「嘘を付く人は嫌いだわ」
 ところが彼は、この言葉に一度目を丸くしてから、吹きだした。
「そういうとこは、フィータには似てない」
「…っ!ばかにして…!失礼な人も嫌い!…戻るわっ!」
「そうか、じゃあな。俺は良い夢を見させて貰ったよ、フィータの曾孫。」
「知らないわよ!どこへなりと行ってちょうだ――」
 末姫様の怒りの言葉は、けれども最後まできちんと形にはならなかった。
「安心しろ、二度と会うことも無いさ」
 そんな言葉を残して――
 ――彼の姿は、僕らの目の前で、煙か霧のように、忽然と、消えてしまった。
 幻でも見ていたか、それこそ魔法で化かされたか。そんな顔をして、末姫様は、その場でしばし突っ立っていた。先程触れた手のひらを見て、それから、ぽつりと呟く。
「…何なの、一体…」
 それこそ、夢でも見ていたのかもしれない。
 先程までの不快感も、パーティ会場で起きた出来事への鬱屈も、何もかも末姫様は忘れて、ただただ呆然としていた。

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