外に出れば空気がひやりと肌を舐めるような、雨上がりの夜だった。月はない。もうここ数カ月の間、空に月はない。
 僅かな星明かりばかりがかろうじて夜を照らしている。
 その夜の帳の中、水溜りの水を跳ね上げて、誰かが路地を歩いていた。ずるりずるりとその手に何かを引きずっている。見る者が居ればそれが人の形をしていることが知れただろうが、生憎とこの街の夜を出歩く愚者はそう多くはない。だからそれは、人の形に見えてもきっと人ではなかった。
 ずるりずるりと引き摺られているそれは石畳の地面に擦られて徐々にそぎ落とされ、むき出しの青白い腕からは濁った血が地面に跡を残す。摩擦ですりきれ抉られた皮膚からは暗闇にも毒々しくも鮮やかな肉が、血を零しながらのぞいていた。まだ暖かく柔らかな肉は必要以上の柔らかさで人の形を否定する。垂れ下がった腕にはもう皮膚が半ばほどしか残っていなかった。
 同じく石畳に擦り切れた服装を、そう、見る者が居るのなら、その人のような肉塊が街の司祭の家柄のものだと知れただろうが、矢張りそこはずるずると肉を擦りきり引き摺る音と足音だけの夜の最中で、見る者など居るのだろうか。居るとしたらそれは人なのだろうか。
 静まり返る夜気を湿った息が荒々しく乱す。
 血肉の塊を引きずっている腕にはびっしりと生ぬるい汗が張り付いていて、ぬめぬめと、僅かな光を粘着いた風に弾いている。
 石畳を肉が擦れる微かな音と荒っぽい生ぬるい息の音だけが夜気を乱す。
 ふと、空を見上げた。月は無い。風さえもなく、街の空気はひたすらに底へと淀んでいる。空を見上げる視線の主は手を伸ばしたつもりだったが、生ぬるい空気を僅かに混ぜることさえもできなかった。石畳がずりずりと血と肉で汚れるだけだ。かつて自分の身体であったはずのものは醜く縒れて、今にもはち切れんばかりになっている腐る寸前の果実を連想させた。
 かつて、自分の身体であったもの。
 こんな恐ろしいものが蠢く街の中を、見ているものが居るとすればそれは人ではあり得ない。
 視線の主は自分が死んでいることを知っていたが、だから何が出来る訳でもなく、かつて自分のものであったはずの身体は動くはずもなく、空をじっと見上げるばかりだ。濁った眼球に映る空には矢張り月は無く、星明かりばかりが柔らかく夜空を覆っている。
 街を覆うように降り注ぐ静かなもの言わぬ星の明かりは、ただただ青白い。
 だが青白く照らし出される夜空の帳は、薄赤く染まっているように見えた。
 濁った眼球の見せる錯覚か、それとも死を経て錯乱した魂の故か、夜空の帳は今はただ赤く、そして、その視線の主は思う。当たり前だ。
 月神様を冒涜した、この街には、相応しい、薄汚れた赤の夜空。
「ああ、」
 人ならぬものが唸っている。
「ああ、ああ。神様。どうして邪魔をなさるのですか?」
「――」
 人の居ない深夜の街には、人ならざるものが立っていた。青白い光でようやっと姿を見てとれるような、夜に溶けるような黒い髪に、漆黒に近い褐色の肌。纏う法衣だけが白々として、月の無い夜でも冷たく冴え冴えと存在している。
 そうして「それ」は、問いかけに答える訳でもなかっただろうが、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
 蜂蜜色の傾いた太陽の光をそこに煮詰めて綴じ込んだような。
 それはそれは美しい金色の瞳が、瞼の下から現れる。
「…私は神ではない」
 人ならざるそれは、星明かりを青白く弾く法衣にも負けず劣らず冷たく硬い声を、あげた。
「私は代行者。月神の恩寵を賜り、その命に従い、裁く者である」
 彼なのか彼女なのか、それさえも定かではない黒い夜のような「それ」は、空を見上げた。まるで地上の穢れには端から興味がないようだった。薄赤く汚れた夜の帳は、どんな感慨を抱かせたのだろう。とはいえ人ならざるそれには感情と呼べるだけのものもないようだったが。
「最早猶予はならぬ。この街は歪みが過ぎた。…新月の魔女の不在が、この歪みを招いた」
 何を言っているのだろう、と、濁った眼球の主は考える。思考はくるくると空転して、どんな結論も導いてはくれなかったが。だが、黒と金と白の、代行者を名乗る「それ」は空から目を逸らすと、今度は真っ直ぐに眼球の主を見据えた。感情の無い、冷たい金の瞳は、一切の興味も同情もない。ただ淡々と事務的に告げるだけだ。
「墓所に眠らぬ魂に触れる術を、白夜を棲家とする私は知らない」
 眼球の主は知る。自分が容赦なく切り捨てられたということを。
 眼球の主は知る。最早自分は寄る辺を失ったことを。帰るべき場所があるはずだ、そう思うのに、何故だかどこへも行けないことをも同時に彼は知っていた。この街を覆う歪み、と、あの黒い人影はそう表現したが、その影響だろうことも理解できた。
 この街の外へは、最早誰も、何も、出られない。
「永久に眠れ」
 金色の瞳が冷たく告げた。かざされた手に、この街にはもう降り注がなくなって久しい、冷たい月の光が宿る。人ならざる何かが悲鳴じみた声で唸ったが、金色の瞳の主が意に介した様子は無かった。
 赤く薄汚れた空に月は無く、だから夜の闇は途轍もなく深く、僅かな星明かりばかりが、流れ出た血を眺めている。
 この街の夜に人はもういない。