曇天はなかなか晴れ間を見せない。
 石造りの街は長いこと乾いたことなどないように見えた。触れれば冷たく濡れた感触を返す煉瓦造りの街並みを、二人の人影は歩いていた。その表情は決して明るいとは言えない。
 気難しそうな顔をしている群青の髪の青年の方はともかく、彼の連れている幼い形の少女までもが気鬱にふさぎ込んだ顔をしていた。傍目には12歳かそこらの幼い顔に、その大人びた表情はあまりに不似合いで、酷く人目を惹く。
 それでなくとも人通りの少ない湿った石畳の通りだ。そこを歩く二人の姿は否も応もなく目立った。長身に旅装らしい薄汚れた、しかし暖かそうなコートを纏った、群青の髪と刃のような色合いの瞳の青年。その彼のコートの裾をしっかと掴んで共に歩く、翡翠のような色の髪に、背中に小さな羽根の生えた少女。
「――翆(かわせみ)」
 低い声で呼ばれた少女が青年を仰ぐ。
「見えるか」
「イヤでも。分かってるんでしょう。ここは<死んだ人>だらけだわ…それも、誰も彼もが、どこへも行けずにさまよって居る。可哀想」
 哀れむ声色は美しく、しかし陰鬱そうな調子で少女は歌うように答えた。ワンピースの裾が影を吸い込んだように黒いことに、気づいた人間は居ないだろう。彼ら二人以外には。
 黒い染みのようなそれから目をそらすようにスカートの裾を握り潰し、幼い少女は青年を見上げる。
「夜中」
 名を呼ばれた人物は、淡泊な表情を、やはり少女同様の憂鬱さで染めていた。刃の色の瞳には陰りが見える。
「ここに、呼ばれたのね」
 青年は答えなかった。答えずとも沈黙が雄弁に彼女の問いを肯定する。ただ彼はしばしの沈黙の後、少女の手を握る自身の掌に、ぐっと力を込めた。呟く。
「――お前は絶対に何もするなよ。こんなに沢山の死人に縋られたら、お前は」
「大丈夫」
 少女は宥めるように青年の手に、そっと、握りしめられているのとは逆の手を添えた。
「私はここに居る」
 それは青年に言い聞かせているようで、同時に、願望の籠もった言葉でもあった。






 殺人鬼の噂がたったのがいつ頃だったのかもう思い出せない。
 それでも無理に記憶を辿れば、事の起こりは町の慶事と弔事を一手に担う神官家に起きた悲劇に発している、と町の人々は口をそろえて言うだろう。あれからだ。あれから町はおかしくなったのだ。
 町のすべての祭祀を取り仕切る神官家は、それでなくとも先の雷害で起きた火事で、先代当主とその妻、そして現当主の妻と娘を奪われていた。月神様を奉じ、その儀式の手順を伝えてきた――いわば最も月神様のご加護のあるはずの家に起きたこの災いに、町の人々は恐れおののいた。月神様が何かお怒りなのではないのか、もしやこれは祟りではあるまいか。
 不安というものは一度くすぶり始めるとなかなか納まるところを知らない。
 まず、季節はずれの長雨だった。切れ切れに降り続ける弱い雨は、しかし次第に町を蝕んでいる。食料を腐らせ、石畳を濡らし、水を含んで重たい空気が人々の気持ちまでも重たくする中、とうとうそれは始まったのだ。
 最初に見つかったのは、件の神官の家で働いていた家政婦であった。先日の災害の後で暇をとって実家に戻っていた彼女が死んだ。それも無惨な死体となって、町の広場に晒されていたのだ。
 ついで、とうとう生き残りだった神官家の人間が死んだ。同様に、死体を広場に晒され、無惨な姿となって。
 これで人々の危惧と恐怖は、ほとんど恐慌のような形になって現れ始めた。
 ことに顕著だったのは、死者の扱いだ。死者を「送る」儀式を知るものが、神官家の居ない今町には誰一人居ない。死体をどう扱えばいいのか誰も分からず、人々は途方に暮れた。しまいに腐敗を始めた死体を、町の人々はひとまず町外れに穴を掘り捨てるようになった。落ち着けばもっと他の扱いを誰か思いついたかも知れない。だが人々はただただ、恐ろしいものを遠ざけて、見えないところへ隠したい一心であった。
 長雨は続く。時折雨はやんでも、晴れ間は見えない。
 死体を投げ捨てて数日後、再び惨殺された死体が現れたとき、とうとう、人々は確信する。
 これはきっと<殺人鬼>だ。
 月神様を冒涜する、魔物が町に現れたのに違いない。

「…そういう訳でして。お願いします。魔物を退治してほしいのです」
 一通りの説明を受けた夜中は感情の見えない鋭い刃みたいな瞳をじっと眼前の人物に傾けた。居心地悪そうに、その人物が身じろぐ。町を預かる町長だと名乗った人物は青い顔をしてソファの周りをうろうろと歩き回っていた。まるで一所に止まればそれだけで魔物に殺されるのではないかと言わんばかりに。
「<殺人鬼>か」
 そう呟いて、夜中は刃の色をした瞳を伏せた。傍らにはいつも通り、12、3歳程度の姿の幼い少女――ただしそれは外見だけで、実は彼女は<人形>なのだが――が無言で控えている。裾の長い、薄紅のワンピース。裾だけがそういう模様なのか、黒く染まっていた。
「…呼ばれた以上は引き受けるさ。魔物退治なら俺達の仕事だからな」
「おぉ、助かります…!」
「だが――」
 否定の言葉に、さっと町長の顔色が変わる。夜中は何事かしばし考え込んでいたが、いや、と首を横に振った。
「俺の気のせいならいいさ。気のせいでなければ、まぁいつも通りに魔物退治だ。<殺人鬼>はさほど珍しくはないからな」
 彼の反応に怯えた様子の町長だったが、結局追求することはしなかった。お願いします、と再三頭を下げ、最大限の協力を約束し、二人を送り出す。
 執務室の立派な扉を閉じるなり、送り出された二人は互いに顔を見合わせあった。
「夜中、どうして?」
 端的な少女の問いかけに、夜中は何でもないことのように肩を竦めて、それから廊下の薄暗がりを無言で示した。
 町長の屋敷は広く、窓も大きく作られている。とはいえ薄曇りの天気では、そこから差し込んでくる光もささやかなものでしかない。
 広い廊下はところどころ淀んだような暗がりになっており、そこかしこに置かれた装飾用であろう銅像が不気味な姿を見せている。
 夜中が示したのはその影のひとつだった。そこに、うずくまるようにして、誰かが、否、「何か」がいる。
「…お兄さんたち、<店主>の人だよね?」
 その「何か」がそんな風に口を開いた。少女は夜中に縋るようにしてその背後に身を隠し、顔だけをのぞかせて様子を伺う。幸いにして、「何か」は翆にはあまり興味がないようだった。
「そうだ。…なるほど。本来の俺の依頼人はお前だな」
「そうだよ。昔神官様から、<店主>の呼び方を教わったんだよ。呼ばれてくれてありがとう」

 本来、夜中たち<店主>は、客の要請に応じて召喚される。
 外法の遣い手たる彼らは、月神が定めた<律>から外れた力を行使することが出来る代わり、依頼人、すなわち「苦しんでいる人」のためにのみ力を使うことを定められている。私利私欲のためには決して力をふるうことは出来ない。
 「東の果て」「西の果て」から遠い多くの地域では、既に<店主>を呼び出す術は失われてしまっていることも多いが、どうやらこの街にはその術を知るものが居たのだろう。久方ぶりに正式な召喚の気配を察知した夜中はこの街に「呼び出された」のだが、その後、どう言うわけか依頼人と遭遇できずにいた。常ならば、呼び出されたその場所に依頼人が居るのだが。
 戸惑いながらもしばらく街を歩き、自身が<店主>であることをあかしたところ、こうして街を治める長に呼び出され、先のように魔物退治を仰せつかった、という訳だ。

「どうして俺が呼び出されてすぐに来なかったんだ。依頼主が居なければ<店主>は無力だぞ。ことに俺みたいな下級はな」
 本人は詰っていた積もりはないが、淡々とした口調な上に、夜中はいささか目つきが鋭い印象がある。びくりと身をすくませた小さな影の様子に、翆が咎めるように夜中を見上げた。
「夜中。脅かしちゃ駄目」
「脅かしてない。…それで、本当の依頼は何だ?」
 小さな影は廊下に影を落とす彫像に半ば隠れるようにしながら、ぽつりと言った。
「この街を、助けて」
 思いも寄らぬ内容に夜中が眉をしかめたところで、不意に足音が響いた。どうやらこの屋敷の使用人だろう、シーツを抱えて歩いていた女性は、廊下の影にうずくまるようにしていた二人にぎょっとしたように足を止めた。そのまま気味悪そうに遠巻きに、足早に立ち去っていく。異能を操る<店主>は、畏怖されると同時に、気味悪がられ、遠巻きにされることが珍しくないから、夜中はそんな侍女たちの様子には特に不審は抱かなかった。ただ無造作にがりがりと群青色の髪をかいて、呟く。
「…随分と曖昧な依頼内容だ」
「難しそう…?」
「さてな」
 肩を竦めた夜中はそれきり、影には興味の一片も見せずに廊下を去っていく。翆は慌ててそれに従いながら、ふと、背後の廊下を振り返った。
 薄闇のわだかまる廊下は雨の湿気を含んでどんよりと淀んでいる。
 そこには、もう誰の姿も見えない。



 早々に屋敷を後にした夜中は、まず真っ先に自身が滞在している小さな宿へと向かった。街についてすぐに決めた滞在先であり、町長へ繋ぎをとってくれたのもこの宿の主のはからいだ。街のことを知りたいのなら、真っ先に訪ねるべきだと勧められたのである。
「ああ、戻られたんですか」
 しかし、出迎える主の声はひどくか細く弱々しい。
 この街に一般的な石造りの二階建ての建物は、細い雨の中に沈んでいるようにさえ見える。その一階の入り口部分、客を迎えるために大きく造られた頑丈そうな木の扉の前にいた女性は、青い顔を上げて二人を見やった。
 ――この長雨と殺人鬼騒ぎで宿には客がないのだ。それでなくとも街の空気も重々しく、客人を明るく迎えるだけの余裕がないのも無理もない。
 かろうじてその女性の顔が綻ぶのは、だから、宿からそっと顔を出す幼い少年の姿を見るときくらいだった。
「おかえりなさい」
 街の雰囲気が日に日に重たくなっていることを、肌で理解してはいるのだろう。決して大きな声ではなかったが、4つか5つか、それくらいの幼い少年は、好奇心ではちきれそうな瞳を扉の影から夜中達に向けている。自然、それまで陰鬱だった翆の表情にも、明るみが差した。
「ただいま」
「お屋敷に行ってたの? 町長さんに会った?」
「こら、中に入っていなさい。あまり表に出ては駄目だと言っているでしょう」
 叱ると言うよりも宥めるように、宿の女主人は息子を扉の向こうへと押しやるような仕草をした。遊びたい盛りなのだろう少年は不服そうに、それでも、街の様子の尋常でないことだけは分かっているのだろう。渋々ながらも素直に母の言葉に従った。
「お客様に迷惑をかけては駄目よ」
「別に平気です、私も、ああいう子が居ると嬉しいから」
 翆が微笑んで告げる。その後ろに続いた夜中は、ひとつ大きな伸びをしていた。
「翆の相手をしてくれるなら、俺も助かる」
 まるで幼い子供を連れた父親のようなことを言うが、女主人は何となしに違和感を覚えていた。あの幼い姿をした少女は、その見目に不似合いに大人びて見えるのだ。今も、彼女の息子を相手に穏やかに屋敷の様子を語って聞かせる様など、まるで年の離れた姉のよう。だがその違和感をうまく言葉には出来ず、もどかしいまま、彼女はぼんやりと宿へと戻る客人の背中を見送った。
 幼い少女の背中には小さな翼が生えている。濃密な霧のような乳白色の羽は、視線を感じでもしたのか、それとも町を濡らす雨に降られたのか。一度小さく震えた。


「街のこと、訊いてもいいか?」
 息子をあやす翆が廊下で語る声が聞こえている。食堂を兼ねた1階で、お茶を差し出された夜中はそう問いかけた。
「ええ、何でもどうぞ。でもさぞ驚かれたでしょう。…いつもならこんな長雨が降ることはないんですよ」
 街の陰鬱さは何も雨のためだけでもあるまい。夜中はそれと感じていたし、女主人も察していたが、あえて彼女はそう告げた。夜中が無表情に頷く。
「祭祀者が死んだと聞いた」
 女主人は、その一言に重たく沈黙した。張り詰めた緊張が空気をピンと震わせて、触れられそうなほど。
「…街の祭祀を行う者が居なくなった、と」
「それが、どうかなさいましたか?」
「殺された人間はどうしているんだ?」
「何故――」
 何故そんな悪趣味なことを聞きたがるのだろう、と、女主人は怪訝に思った。
 死者の骸は街の外れに集められ打ち捨てられている。街に置いても、ただでさえこの長雨なのだ、腐るばかりで病を呼び込むだけだ。遺族も同意してくれた。祭祀を誰にも行えないのに、死体を他にどうしろというのだろう。
「何でだろうな。俺も翆も、”見えて”しまうから。最初はそれで呼ばれたんだとばかり思ったんだ」
「何の話ですか?」
「いや。分からないのならば、別に」
 夜中は首を横に振りながら言い、ゆっくりと暖かいお茶を口に含んだ。
「あとは、そうだな。…街で妙なことは起きていないか。この事件に絡んでも、それ以外でも」
 ただの旅人のそれとは違う、明確な意志を持ったその詮索に、女主人は初めて客に対して明らかな不審を見せた。彼が<店主>であることは知っているし、町長の元を訪れることを勧めたのも自分ではあるが、しかし、異能者である彼らが何を考えているのか、さっぱり分からなくなったのだ。
「あなたは、一体この街に何をしにいらしたんですか」
「分からん」
 だが問いには無情なほどにきっぱりと端的な答えがあるだけだった。
「依頼主にでも訊いてくれ」
「依頼…? 町長様は、あなた方に何か依頼をなさったんですか? もしかして、」
 この街を震わせているあの忌まわしいモノを思い起こして、女主人は我が身をかき抱いた。息子のことを思うと、まるで心臓に冷たい氷を差し込まれたような嫌な気分になる。目の前の、この世ならざる力を持つという人物に、縋ってしまいたい気持ちは否応なく強い。
 だがやはり<店主>の青年は無情に、答えるばかりだ。
「いや、それも分からない」
「そんな…この街を、惨状を見て、捨て置こうと仰るのですか」
「……俺達は依頼に応じるだけだよ。それだけだ」
 彼は最後まで、明確な答えを慎重に避け続けた。そして自分の手元を見ながらぽつりと、確認するように呟く。
「街の外れと言ったな、死体の捨て場は」
 女主人が頷くのを見もせずに、彼は席を立った。どこかへ行くのだろうか、椅子の背に置いた外套を纏い扉の方へ向かう。去り際、彼はふと思い出したように女主人を振り返った。
「そうだ。翆に伝言を頼めるか」
「ええ、何と?」
「雨に濡れるな、身体を冷やすな…ってのは、ああ、言ったって肝心なとこじゃ聞かないな、あいつは」
 小言めいた言葉をこぼしかけて思い直したように、
「やっぱりいい。あいつも一応自覚くらいはしてるだろうさ」
 肩を竦めた店主の姿にだけは、女主人は何となしに共感を覚えて苦笑した。誰かを守ろうとするが故の小言なのだろう、自身にも覚えがあるからこそ分かる。
「一応伝えておきますよ」
 それでそう返すと、彼は主人の共感を察したか、ほんのわずか、ごく微かに苦笑を浮かべて見せた。
「…助かるよ」


 翆がその伝言を受け取ったのは、宿の息子から夜中同様に話を聞いていたときのことである。ただし、息子の方はまだ頑是無い子供であるため、話の内容は母親である女主人が聞いても要領を得ないようなものだったが。
「――…だからね、夜は外に出てはいけないんだって」
「そうなの」
 だが、その要領を得ない話に、翆は酷く真剣な顔で聞き入っていた。子供に目線をあわせるために大人がよくそうするような大袈裟なものでもなく、本当に真剣に。
「…そう、それは…大変だわ。だからあの子は、あんなことを言ったのね、街を救ってほしいだなんて」
「そうなの?」
「うん。…外へ出ないと言うのは正解よ。あなたは絶対に出ては駄目」
 造りモノめいた美貌が――いや、実際彼女の身体は「造りモノ」に違いないのだが――いくらか青ざめ、薄暗い室内で悪目立ちしている。見るものが見れば、少女の翼が小さく震えているのも分かっただろう。彼女はしばし沈黙した後、思い切ったように立ち上がる。
「どうしたの?」
 子供の問いに、彼女は青ざめた顔で、
「夜中に教えなきゃ」
 決然とした声で言う。と、その彼女の耳に、彼女にとっては耳慣れた金属音が聞こえてきた。翆はああ、と溜息をついて床を、その音の聞こえる方向を見る。
 どこから入り込んだものか、そこには一匹の蛇の姿があった。金属の、鉛の色をした、自然のものではあり得ぬその蛇の姿に、彼女は呻く。
「亜鉛、どうしてここに」
「お姉ちゃんの蛇?」
 好奇心を覗かせつつも、蛇は苦手なのだろうか。子供は少女の背後に回るようにした。その様子を確認して気遣ったのかどうか、蛇は鎌首をもたげてから、ぐるりとその場で円を描くように動いた。次の瞬間には、そこには蛇は居なくなっている。――代わりに同じ色をした、やはり金属質の小鳥が一匹。わぁ、と驚いた声をあげて手を伸ばそうとする子供の手をくぐり抜けて、小鳥は羽ばたき、少女の肩にぴたりととまった。
「亜鉛。夜中は?」
 無邪気な子供の一方で翆の声は緊張で尖っている。亜鉛は何やらキィキィと鳴き声を上げたが、生憎と彼女はその言葉を理解できないのだ。この不思議な生き物の言葉を理解できる夜中が居なければ、意思の疎通もままならない。そのことに苛立ちながら、彼女は上目に窓から空をそっと見やった。その所作は怖々と暗闇を覗きこもうとする子供のようでもある。
 カーテン越しの空は分厚く雲に覆われているが、それでも徐々に夜へと近付いていることは明白だった。それを確認して彼女はカーテンの端を、まるで縋るようにぎゅうと掴んだ。ただでさえ白い指先が血の気を失って、日に焼けたカーテンの白地よりなお白く見える。
 彼女は青い瞳に焦燥を浮かべ、外と自分の肩の小鳥を見比べて逡巡しているようだった。
「…夜中のことだから」
 誰にともなく彼女は呟く。
「どうせあなたに、私を見張るように言ったのでしょう、亜鉛」
 小鳥は否定か肯定かも定かではない鳴き声をあげるばかり。その言葉が理解できない少女は珍しくも苛立たしげに奥歯を噛みしめていたが、そこへ、女主人が顔を出した。
「あら、こんなとこにいらしたんですか」
 母親の顔を見て嬉しそうに駆け寄っていく子供の背中を見送っていた翆の表情は、その女主人の伝言でいよいよ強ばることになった。
「そういえばお嬢さんにお連れさんから伝言ですよ」
 小言めいた、伝えずともいいと断られた言葉を、彼女はそれでも伝えておこうと気遣っただけだったのだが。
「雨に濡れないよう、身体を冷やさないようにと」
「夜中はどこへ?」
 だが女主人の予測より遙かに鋭い声色で、翆はそう問いかけてきた。置いて行かれたと拗ねるのとも違う、小言に対して鬱陶しげにする訳でもない。警戒を込めた、緊張した物言いに、彼女は首を傾げた。
「街の外れへ行くと言っていましたが」
「いつ戻る、って、言ってた?」
「いつ、とは聞いていませんね」
 更に言えば女主人は夜中の目的も予測してはいたのだが、それについてはあえて触れなかった。見目の幼い少女を前にして、まさか死体の捨て場に行ったのでは、とは言い難かったのだ。
 そうとは知らぬ翆は再び恐々と窓の外へ目を向けた。刻一刻と空は黄昏の色を増す。迷っている猶予もない、と、胸を押さえながら彼女は決然と足を踏み出した。小さな歩幅で跳ねるように部屋を飛び出していく。
「ごめんなさい、私、夜中に伝えないといけないことがあるの…!」
 去り際にそう言い残し、彼女は慌ただしく駆け去っていった。唐突なことにぽかんとしていた親子だが、やがて女主人が我に返ってその後を追う。
「待って、待ってくださいな!」
 少女の小さな歩幅は、大人のそれにあっさりと追いつかれた。呼び止められた少女は足を止めるのももどかしい様子で、それでも歩みを緩めて振り返る。
「なぁに?」
「…表に出るっていうのなら、せめて傘を持っていってください。それに、第一、お連れさんがどこへ行ったかご存じなんですか?」
 少女は首を横に振ったが、それでも迷う様子はなかった。肩にとまる小鳥を指して告げる。
「大丈夫、この子が教えてくれるわ。心配してくれてありがとう」
「いえ…」
 引き留めるべきだろうかと女主人はちらりと考えたものの、結局、その小さな背が遠ざかるのを見守ることにした。




 厚い雲の向こう側で月が目覚めを待っている気配がすることを察して、夜中は薄い煙のような雨の中で一人小さく舌打ちをした。黄昏時までには宿へ戻らなければ、昼と夜の境目の時間帯は魔物が蔓延っているような不安定な場所にあっては特に、この世ならざるものを引き寄せやすい。自分が、ではない。やはり「この世ならざるもの」に近い立場の翆のことだ。
 街中をさまよう死人達の姿は、街に入ってから幾度となく彼は目にしていた。翆も恐らく同じものを見ていたはずだ。彼と彼女は、死人の領域をのぞき見ることの出来る異能者であった。
(翆があれに少しでも同情しなければいいんだが)
 ただの<店主>にすぎない自分はまだいい、と夜中は、土を踏み堅めただけの、獣道のような道を歩きながら思う。長雨に花を腐らせ葉も病みがかった緑の覆いを押し退けながら、
(…あれは死人に優しすぎる)
 想うのは残してきた翆のことばかり。
 ――何しろ彼女は、彼女という存在は死人達にとっては誘蛾燈のようなものだ。
(縋られたとき、手を振り払えるとは思えないな。…やはり俺が早く戻って側にいてやらないと)
 そんな物思いを遮るように、耳鳴りのような虫の羽音と、そして鼻をつく、呼吸することすらはばかられるような腐臭に気付いて彼は足を止めた。思い切り顔をしかめて、鋭い印象の強いナイフの色の瞳に明らかな険の色を浮かべる。
 空気が濁り淀んでいるようだ。身体にまとわりつくような粘ついてすら感じられる臭気に、彼はいくらかの呆れさえ込めて呻いた。
「…これじゃあ、翆でなくても同情したくなる」
 死人の見える彼の目には、道の先がまるで死者の国、「漆黒墓所」に続いているかのように見えた。
 だってこの道には、あまりにも死者が溢れすぎている。
 瞳に浮かんだ嫌悪と侮蔑を隠そうともせず、彼は誰もいない街の外れでぽつりと吐き捨てた。
「救い難いな。生きていようと、死んでいようと、人というものは」
 彼の目に見える死者達は皆、何かに縋りたい、縋ろうと必死で腕を伸ばしている。夜中に伸ばされた腕もあった。彼はそれを鬱陶しげに振り払い、更に奥へと足を進める。
 耐え難い臭気に口元を覆った彼が見たのは、黒々とした大きな穴であった。その奥に、雲のように群れる羽虫と、赤く見えるのは死んで間もない新しい死体か。腐ったことで殆ど半液体状になった肉に埋もれるように、かろうじて形を留めた死体は腕だけを天に突き上げるようにしてそこに落とされていた。幼い子供のものだろう細い手。
 ああ、本当に救い難い。誰も彼も。
 息を吸い込むことも困難なほどの臭気だったので、口にこそ出さなかったが、彼は心底からそう思っていた。あんな細い腕が腐りながらそれでも救いを求めるように天に伸ばされている。あんな浅ましい姿になってまで。そう考えた途端、夜中は耐えきれなくなって懐に手を入れ、拳銃を構えていた。温い雨に濡れた銃口が、暗い暗い死体だらけの穴に向けられる。小さな幼い、何かに縋ろうとする腕へと。そう考えてしまった瞬間、堰が切れたように、ある感情が彼の胸にこみ上げた。
(やめろ)
 ぎりり、と漏れた音に自分で驚く。我知らず、奥歯を噛みしめていた。
「…やめろ」
 首を横に振れば、濡れて重たい髪の毛が首筋にまとわりついた。それさえもが、彼には、周囲をさまよう死者の腕を連想させた。
「あいつに、翆に、これ以上…ッ!」
 彼の叫びは重たい銃声に取って代わられ、誰一人、聞く者はなかった。生ける者も死せる者も、誰一人。
 だが重たい銃声は、穴に向けては放たれなかった。
 銃口が向けられたのは重たい曇天の空。救いを求めて伸ばされる、天の方向。
 夜中は無言で空を睨んだ。刃の色の瞳が剣呑さを増して、その視線だけで空を射抜かんばかりになる。
 彼が銃口を向けた先、重たい灰色の空の下。薄い雨をまとうように、そこに何かが泳いでいる。
 そう、空を泳ぐ、一匹の魚がいた。
 魚と言ってもその姿は蛇のようにも見える。真珠のような光沢のある白い細長い身体を、夕焼けを思わせる橙の鰭がレースのように彩っていた。長い尾鰭もドレスの縁取りのような背鰭も、泳ぐように優雅に動く胸鰭も、黄昏時を連想させる甘い橙色だ。
 光のない黒い瞳が、夜中に向けられている。
 とっさに銃の向きを変えたために少々見当の外れた方向へ放たれた鉛の弾は、空を泳ぐその奇妙な姿態の魚の傍らでぴたりと止まっていた。よく見れば銃弾を覆うように、水の塊が浮いている。
「てめぇ、」
 夜中が二発目を撃つより先にぐるりと魚は泳いでその場に回転し、
「こんにちは、ご同類」
 ――あざ笑うように口を利いた。