その頃、鉛色の小鳥を連れて街を歩いていた翆は、そろそろ暗さを増した空を見上げていた。下手に出てこない方が良かったかもしれないと僅かながら後悔が頭をもたげてくる。
 分厚い曇天の空。
 黄昏時がもう近いのが、それでも分かる。薄い皮膚に刺さるように冷たい光が感じられたから、もうすぐ月の目覚める時間だと分かってしまう。
(私は魔女だから)
 月神の恩寵を一身に受けている身の上だから、例え記憶を失おうと、身体が偽りのものになろうと、彼女には明確に分かるのだ。厚い雲の向こう側に、今しも月が顔を出そうとしていると。今日の月夜は十三夜、満月まで、あと少しの丸い月。冷たい光は毎夜毎夜強くなる一方だ。
 肩にとまった鉛の小鳥も、彼女の緊張を察しているのか、警告するように鋭く鳴いた。
 街には不思議と人影がない。あの宿の子の話では、殺人鬼は夜に出ると言うし、それも無理はあるまい。
「私も早く戻らないと…」
 翆はそうぼやいたものの、結局、宿へ戻る道ではなく、街の外れへ向かう道へと歩を進めた。その表情は険しく、幼い見目にそぐわぬ緊張感を漂わせている。急ぐ足下にまとわりつくワンピースの裾が、時折、まるでそこだけ陰ったように黒く、黒く揺れる。
(夜中に教えないと、早く、早く…!)
 小鳥が再度警告するように鳴いたので、翆は困ったように首を傾げて、それでも優しく笑いかけた。
「ごめんね。もし本当に夜になってしまうようなら、宿へ戻るわ。でも夜中に教えなきゃ…ここの夜には」
 彼女の呟きは形にならなかった。その先を言葉にすることすら恐れたように口を噤んで、彼女は小走りに足を進めつつもそっと視線を上げる。空を見ることすらも怯えが勝っていたが、それでも彼女は睨むように空を見て、残る時間を計算する。月が出るまでおよそ一刻といったところか、宿へ戻る往復の時間を考えればまだ少しくらいは余裕があるはずだ。急ごう、と、黒く色が滲むスカートの裾を揺らした彼女の足が、ふと、唐突に止まった。
 彼女自身の意志ではない。
 足が言うことを聞かずに、勝手に止まった、という様子であった。震えた手から、借り物の傘が落ちる。
 少女の顔から血の気が消えた。青というより紙のように白い顔色で、動かぬ足はそのまま、彼女は曇天を見上げる。分厚い鉛色の雲。目には見えずとも皮膚に触れる、骨のように乾いた白い月の気配が、圧倒的に濃厚になっているのを彼女は感じ取っていた。それと同時に、緩やかに細い雨に濡れた空気が急激に濃密な花の香りを漂わせたことも。腐る寸前の果実にも似た物憂いほどに強い香りに、目眩を感じながらも、彼女は腕を振る。
 記憶はない。身体も失った。それでも成すべきことを、彼女は知っていた。それが幸か不幸かは、さておくとしよう。
「夜中、亜鉛、ごめんね…」
 宿の主の言うとおり、外出を控えるべきだったのか。いや、と彼女は内心だけで頭を振った。
 否。
 ここまで近づかれたのならば、どこへ隠れようととうに「彼」に、居場所は知れていたのだろう。だってもう満月がこんなにも近いのだ。
 彼女の力の源でもある新月の「加護」は今――
(弱くなっているんだわ)
 記憶のないまま曖昧に、翆はそれを理解した。
 そして、腕を天へ、縋るように伸ばして。
「新月さま。どうか助力を」
 祈る。
 ――途端、彼女の姿は闇へと消えた。それまでスカートの裾を濡らすように揺れていた黒が、一挙に彼女の身へと襲いかかったかのようだった。それと同時、その魂すら吸い込みそうな黒い姿へと、対照的に蜂蜜の黄金に光輝く月の光が――否、月の光がそのまま物体と化したかのような無数の矢が降り注ぐ。驟雨のごときそれは不自然なほどの無音で、まるで当たり前に空から光が降り注ぐがごとくに、しかし明確な意志を持って、少女の消えた闇へと注ぐ。
 少女の反応は素早かった。恐れる風もなく背中の翼を、羽ばたかせる。その翼もまた影に覆われたかのように漆黒に染まり、光輝く矢の中にそこだけ穴が穿たれたようだ。否、実際、黄金色の矢は影のような彼女の翼に触れるや否や幻のようにかき消えている。
 深い深い闇の底を、光が照らすことができないように。
 少女が広げた翼からはこんこんと影が延び、蠢き、彼女自身を矢からひたすらに守り続けているのだ。
「……」
 その闇の底で、翆は喘ぐように口を動かした。震えは収まったが血の気の失せた顔はそのまま、自らを抱くように腕を身体に回して、彼女はようやっと、その口から意味のある言葉を発した。
「樒(しきみ)!」
「…呼ぶな。汚らわしい」
 その彼女の言葉に、光の矢の向こう側から声が返る。硬質な印象を与える抑揚の少ない語調、声色は男女どちらとも知れない、強いて例えるのならば猫に似た、不思議な声色だ。
「使命を捨てた魔女の出来損ない。貴様に呼ばれる名など持ち合わせてはおらぬ」
 感情の読めぬ声の主の姿は、光の矢が一頻り降り終えた後にはっきりと翆の目にも映った。
 曇天の空、半端な黒灰色の夜空に、そこだけ容赦なく漆黒を塗り付けたように、黒い姿。黒に近い濃褐色の肌に、夜風にもそよとも揺れぬ濡れた鴉の羽のような黒い長い髪、纏う衣装が目に痛いほどに白い。乾いた骨片のような、飾り気のない白いローブ。
 冷たく翆を見下ろす鋭い瞳は、先の矢と同じ、蜂蜜の黄金色だ。
 翆の真っ青な面が、それを真っ向から見上げていた。恐怖を滲ませながら、それでもしっかりと。
「私…私は…」
 彼に言うべきことが山ほどある――そんな焦燥が胸を焦がした。それまで彼女が抱えていた恐怖をさえ燃やすような激しい焦燥だった。胸をかきむしるようにしながら翆はひたすらに喘ぐ。なのに、言葉が見つからない。探そうとした手をすり抜けるかのようにこぼれて落ちていく。彼に。言わなければいけないことが沢山、沢山あるはずなのに。
 喘ぐ翆の頭上から、黄金の光が再び降ってくる。今度は翆も対応が違った。胸を焼き焦がすような焦燥を、彼女の影は代弁するかのように大きく盛り上がり、頭上の虚空、何もない場所に無造作に立っている白衣の人物――樒を喰らおうとするかのように蠢いた。
 大きな獣のようなその影は降り注ぐ光の矢に削られ、壊されていく。更に止めを刺すように、ひときわ眩しい光の柱が、杭のように影を地面へと縫い止めた。
 暴れもがく影の姿はまさに自分そのものだ――翆はどこか遠くそんなことを思いながら、背の翼で空気を打ち据えた。飛び上がる。
「樒。満月の御子。お願い、もう少しだけ…私はまだ…!」
 同じ高さに目線を合わせて、言葉にならぬ胸中をそれでも必死に叫ぶ翆に、返る声は冷たかった。
「聞く耳を持たぬと言ったはずだ、新月の娘。…それに私を、名で呼ぶな、汚らわしい」
 蜂蜜のように甘い金の瞳に宿る感情だけが、月の光のように鋭く怜悧な色をしている。まるでそこに宿る感情は凍り付いてしまったかのようだ。
「…貴様の出奔がどれだけ世の理を歪めたのか、それを考えたことがあるのか」
 その冷たく凍り付いた声に詰問され、翆は言葉を呑んだ。その一瞬、彼女に生じた隙をついて、樒が腕を薙ぐ。やはり音はなかったが、凄まじい光とそれに伴う奇妙な圧力に、まるで突風に吹き飛ばされたように翆は地面に叩きつけられた。抵抗しようとした翼が折れる厭な音が頭蓋に響き、悲鳴もあげられずに彼女は石畳に落ちる。ぎりぎりのところで影をクッションのように使って身体を守れたのだけは幸いだった――あの勢いで叩きつけられていれば、いかに「人形」の身とはいえ、修繕不可能なほどに壊されていたかもしれない。
 しかし猛烈な痛みと衝撃に、立ち上がることも出来ない。もがく彼女の身体に、間髪入れずに新たな衝撃が襲った。空から無数の矢が降り注いだのだ。それが次々に彼女の身体を貫いて地面にぶつかり、弾け、そして消える。まるで光そのものが、月の光そのものが意志を持って彼女を攻撃しているかのようだった。
「−――――――――!」
 凄絶な悲鳴が辺りに響きわたる。
 だがそれでも翆は、身を守ろうと致命傷だけは避け続けていた。彼女を守る影は力を失ってはいなかったのだ。すべての矢を防ぎきれないと判断するや、致命傷に至るものだけを判別し、瞬時に影が矢を喰らっていく。それでも辺りに血の代わりに銀色の粘着いた液体が飛散し、翆の白い華奢な手足に無惨な傷が刻まれる。このままでは数秒と保つまい、翆が薄れ行く思考の中でそんなことを考え、奥歯を噛みしめた。痛みのためだけではない理由で、涙が滲む。悔しい。胸が焦がれるほどに悔しい。こんなところで倒れるわけにはいかないのに。
(夜中、ごめんなさい――!)
 思うのは、離れてしまった彼のことばかり。
 しかし異変は唐突に起きた。翆に降り懸かる矢が瞬間、止まったのだ。
 何が起きたかを確認もせず、翆はその一瞬をついて走り出した。全身を襲う痛みを無視して転がるように路地の一角へ駆け込む。光を遮る建物の影はほんの少しでも彼女に味方してくれるはずだ。そう信じるより他になく、足を引きずりながら建物の壁を這いずるようにして進む。そうしている間にも彼女を守る影は力を取り戻したか、彼女の身体を覆うように包み込んだ。ほっと僅か安堵に息をついたとき、ようやく、彼女は先程、矢の猛攻が途切れた訳を悟った。
 ――それまで懐に守り抱いていたはずの、小さな金属の感触が消えていることに気付いたのだ。
「あ、亜鉛…!?」
 喘ぐように彼女はその名を口にして振り返った。そういえば、と、真っ白になりそうな頭の中で思い起こす。
 矢の途切れる寸前に聞こえたのは、あの独特の甲高い、金属質な鳴き声ではなかったか。
「そ、そんな、…だめよ亜鉛…!」
 真っ青になって来た道を戻ろうとするが、最早足が言うことを聞かない。がくん、と力が抜けたようにその場にへたりこむ身体を、彼女はこれほどまでに忌々しく思ったことはなかった。
(<人形>を捨てて魂だけになれば、あの場所まで戻れる…ああ、でもそんなことをすれば…)
 「魂」だけの姿はあまりにも無防備すぎる。あの満月の御子の側に近づくだけでも、あの強い真っ白な月光に中てられて、手ひどい傷を負ってしまいかねない。最悪、満月の御子の意図通り、そう――連れ戻されてしまうだろう。あの漆黒の墓所に。
 満月の神と、その意図を汲む御子たる樒は怒っている。
 ――墓所の守り手という使命を放棄したこの身を、彼らは決して許さない。
(…でも――)
 彼女はぐっと拳を握り、縋っていた土壁を殴りつけた。常の彼女からは想像も出来ぬ荒々しさで。
「……行くから、亜鉛。待ってて」
 自分が飛び出せば少なくとも、樒は自分へ攻撃を集中するはずだった。翆はそう考え、今しも身体を捨て去ろうと目を瞑り、
「そこに誰か居るの…な、何だ!? 酷い怪我じゃないか!!」
 だが瞼の裏の闇は、そんな声によって遮られた。顔をあげるのも億劫な気分で翆はそれでも路地の向こう側、こちらをのぞき込んでいる人影を認め、逡巡した。その人物は、彼女を重傷の人間だと思ってでもいるらしく、慌ただしく近付いてくる。満身創痍の翆が逃げる間もなかった。
「だ、駄目…近付かないで」
「何を言ってるんだ、そんな怪我で」
 現れたのは、大柄な男性だった。年の頃は夜中よりは少し上だろうか、痩せた身体に仕立てのよいスーツをまとって、更にその上から外套を羽織っている。手には小さな鞄があった。
 幸い、影のせいだろう。彼女の血の色が人ではあり得ない銀色をしていることには気付かれていないようだったが、それも時間の問題だ。それに何よりも、翆の身体を血液代わりに流れているのは水銀を基に作られた液体で、少々ではあるが毒性がある。人が触れて良いものではないのだ。
「お、お願い、近付かないで、お願いだから」
 弱った身体を引きずるように翆は後ずさろうとしたが、血液を失いすぎたのだろう、身体が思うようには言うことを聞かない。足をもつれさせて尻餅をつくように転倒してしまった。男がその姿に慌てたように一歩足を踏み出し、びちゃり、と、銀の血を踏む足音が響く。絶望的な気分で翆は頭を振る――亜鉛を助けに行かなければ、でもこの<人形>の身体を放置するわけにも――
「お願い」
 混乱する思考から絞り出すように、翆は鋭く叫んだ。
 元が酷く美しい声色が、警告を帯び、手を差し伸べようとしていた男もぎょっとしたように動きを止める。
「お願い、約束して…この身体に…直には触れないで。急いでいるから詳しく話せないけれど、…この身体は…あなたにとっては多分、毒だから…」
「まさか、病気か何かかい? …分かった、約束するよ。だから落ち着いて…」
 彼のその応えに安心したわけでもないのだが、今はこれ以上はどうしようもない。翆は強く瞼を閉じる。神に祈る資格などもうとうに失ったと、分かってはいても、願わずにはいられなかった。どうかこの善意の人が、私達の事情に巻き込まれずに済みますように――。
 その祈りを最後に、彼女の魂はその場から一息に飛翔した。小さな翼が弱い雨を打つか細く頼りなげな羽音を残して。
 取り残されたのは唐突に意識を投げ出した<人形>の身体と、スーツに鞄を提げた痩せた男性、それだけだった。



 ばさり、と冷たく湿った空気を羽が打ち据えた。魂だけになれば距離などどれだけあろうと無意味だ。翆は意識をあの、白くからからに乾いた月光へと向けた。それだけで、小鳥の姿をした彼女の魂は、先程のあの場所へと到達している。
 黒い姿が、蜂蜜色の瞳で、射るように彼女を見下ろしていた。それだけで全身に焼け付くような痛みが走るが、翆はそれを無視して、更に強く翼を動かした。
<…樒>
 殊更に彼の注意を引くように、その名前を口にする。無表情な<満月の魔女>の眉が、不愉快そうにしかめられた。その名を呼ぶな、と――口にすることすら厭わしい、とでも言わんばかりに、彼は無言で腕を振る。猛烈な月光は音もなく、しかし、先程よりも遙かに凄まじい圧力と熱をもって翆を打ち据える。
 だが、翆とて、同じ手をそう何度も食らうわけにはいかないのだ。何しろ今の彼女は「魂だけ」の状態、加えて相手は彼女と同格の「魔女」である。そう易々とは「死ぬことが出来ない」彼女といえども、一歩間違えば確実に死に至る。
 全身を襲う痛みに歯を食いしばるような心持ちで、翆はぐん、と急降下し、瞼を強く閉じて頭上を意識した。魂は容易に距離を飛び越え、樒の頭上へと飛び上がっている。そうして、高い視界で彼女は急いで辺りを見渡した。
 見慣れた金属の塊の姿はどこにもない。蛇の姿も小鳥の姿も、その他、亜鉛の化けそうな生き物の姿ひとつさえなかった。
(逃げ延びてくれた…? それとも)
 不吉な想像が胸を浸す。冷たい予感にぶるりと震える小鳥に、樒の、これもまた冷たい声が降ってきた。
「…成る程。わざわざそんな無様な醜態を晒して何をしに戻ってきたのかと思ったが…あの穢れた生き物を、わざわざ助けにでも来たのか」
 その声は平板で、感情というものを映さない。だがその時は確かに、彼の声にはわずかな嘲りがあった。
「――助けられるとでも、思ったのか」
 そんな姿で。そんなにも無力な癖に。言外にそう詰る響きを感じ取り、翆はその青い瞳を眼下の樒へ向けた。
 凛と。声が降るように響く。
<亜鉛はどこ?>
「私が答えるとでも? ――何にせよ、今度は邪魔は入らない。それだけは確かだ」
 樒が何もない虚空を蹴るような動作をした。それだけで黒く華奢な体躯は軽々と、猫科の獣のようなしなやかさで曇天の空を跳躍する。白い法衣と揃いの外套は薄暗い曇り空を斬り裂くようになびき、小鳥の姿の翆の更に頭上へと舞った。降り注ぐ矢を覚悟して翆はその場を旋回し、地上すれすれまで再び一瞬で移動した。その後を追うように光の矢が降り注いでくる。
 彼らが居るのは町中の、特に開けた一角だった。日中であれば人々が憩うのであろう小さな広場だ。翆の味方をしてくれる影の少ない場所を、樒はあえて選んで彼女に攻撃を仕掛けてきたに違いない。
(――亜鉛のことを確認したら逃げ切る。こんな開けた場所を彼が選んだのは、影のある場所では私の方が有利なのを知っているから。影を見つければ、少なくとも逃げるだけなら、私には出来るはず)
 何も正面きって彼と戦おうという訳ではないのだ。翆は自分でも驚くほどに冷静にそう考え、それから自分で自分の思考に身を竦めた。多分、無くした記憶から導き出した判断なのだろう、そうは思うのだが違和感が拭えない。まるで、誰かが自分の思考に干渉して、あたかもお告げのように答えを与えてくれたかのような――
(……新月様…?)
 違う、そんなはずはない。翆は浮かんだ言葉を即座に否定した。――私は樒に言わせれば「出来損ない」で「罪を犯した」魔女なのだ。そんな自分に、新月の神の加護などあろうはずが。
 だが、魂のどこか奥底で、誰かがそっと彼女に微笑んだような。翆はそんな感覚を覚えて思わず瞼を閉じた。
(………助力に感謝いたします)
 声は届いているのだろうか。祈る資格のない自分の声は、果たして届いているのだろうか。判断はできなかったが、それでも彼女は胸の奥底にそう呟いた。そうしながら更に強く羽ばたく。



 薄暗い夜の気配に鳥肌が立った。
 夜中は掌中の拳銃をに意識を集中させながらも、肌が粟立つのを感じていた。曇り空は厚い雲で夜空を覆い隠している。なればこそ、彼は翆を置いて一人で宿を出てくることが出来たのだ。月の光が届かないのならば、そう心配する事態にもなるまい、と。
(俺の判断が甘かった)
 ――今となってはそれは後悔の種にしかならなかったが。
 薄暗い夜の気配は濃密な腐敗臭の中にも素早く染み込んでいく。夜中には分かった。長く「魔女」と接してきた彼だからこそ、理解できた。
 辺りに満ちる夜の気配、これは。
 紛うことなき、――月明かりの気配だ。
「…来ているんだな。満月の魔女が」
 最も強く白き月の明かりの寵愛を受けた魔女が街に居るのだ。夜中は喚いて頭をかきむしりたいようなひどい気分を奥歯のもっと奥の方で暴力的に噛み殺しながら、その言葉を口にする。問いの先は空の上、彼の頭上。ひらりひらりと、彼を嘲笑うように舞う、魚とも蛇ともつかぬ異形の姿に向かっていた。
「そうよ! あんた達ももうオシマイ! いつもは後手に回ってばっかりだったけど、『十六夜』が盟約を破ったお陰でね!」
 高らかにその異形が応じる。声はきんきんと甲高い少女のものだ。
(十六夜か)
 内蔵が煮え立つような焦燥とその他ありとあらゆる感情を殺しながら、夜中はあまりの感情の激しさにかえって冷静になってしまった頭の中でその言葉を繰り返しておいた。
「残念だったね、ご同類。あんた達の旅はここで終幕、『いつもみたいに』次の新月まで逃げ回るなんてそんなこと、今回はさせないんだから」
「……俺を貴様と同列に置くな、魔物風情が」
「どの口がほざくのよ」
 くっ、と笑って、空を泳ぐその異形はその場でくるりと円を描いた。かと思うと、その姿は唐突に、人の形へと入れ替わっている。
 それは、少女のように見えた。
 先の異形の姿を連想させる、服の裾や袖の随所についた鮮やかな橙の布飾りが夜空を鰭のように揺れた。同じように揺れる髪の色も、飾りに合わせたような橙だ。真珠色の光沢のある衣服に包まれた小柄な体躯は、『今の』翆の姿、あの<人形>の姿とさして変わらぬか、それより少し年上にも見えるが――あれは異形だ。見た目の年齢など何の判断材料にもならない。
 薄い唇が笑みを刻み、彼女は頭上から、侮蔑とも嘲笑とも、あるいはもっと別のものともつかぬ感情のこもった視線を夜中に向けて投げている。
「あの魔女の出来損ないみたいな、落ちこぼれを助けに行きたいんでしょう? 行きたいわよね?」
 夜中は答えない。拳銃の撃鉄を彼は無言であげる。その動作自体が、彼女の問いへの答えのようなものだ。口元の笑みを深く、深くして、彼女は身体を抱きしめるように両腕を身体に回した。
「−−そうよね。助けたいわよね。だからこそ、あんたはそこまで、堕ちたのだもの!」
 戯れ言を遮るかのように。
 銃声が夜の静寂を、引き裂く。
 少女は身動き一つしない。ただ、彼女の周囲に、いくつもの水の塊が現れた。銃弾がその一つに吸い込まれ、衝撃をすべて殺されて力を失い、地面へと落ちる。そうする間にも夜中は姿を消していた。街へ戻ろうとしているのだろう、彼女はそう判断し、空を泳ぐようにしてその後を追う。
 夜中の長身の姿はさほど労せずに見つかった。雨に葉を腐らせた茂みをかきわけるようにして駆けているが、慌てているのか動きが大きすぎる。頭上からでもその姿が容易に視認できた。
「気持ちは分かるけど、でも行かせないよ! あたしだって樒に頼まれたんだからっ!」
 鋭い甲高い声は薄い雨をびりびりと響かせて、夜中の耳にも届く。
「……貴様ごときに俺の何が分かる」
「だいたい、大ざっぱに、適当に、それなりに分かるわよ。あたしとあんたは同類だもの」
「……」
 逐一反論するのも馬鹿げてはいた。夜中はそれを内心に認めて舌打ちをする。それでも思わず反駁したくなるようなことばかりをあの異形の魔物は喚き散らす。彼の胸中の柔らかい、暖かい、大切なところをばかり、的確にあの魔物は突いてくる。決して刺すようにではなく、不快な手が撫ぜていく感覚。
「――俺はお前が嫌いだよ、閼伽」
「奇遇だね、あたしもだよ、ご同類」
 にっこりと魔物は笑うと、夜中に向けて、自身の周囲の水の塊を差し向けた。大粒の雨のような、しかし雨とは違い明確に夜中に敵意と害意を持った水滴は、矢の如き姿に転じて地上の夜中を狙う。
 彼は即座にその場を飛び退き、背後にあった背の低い灌木の中へ転がり込んだ。その後を追うようにして水の弓矢は地面に刺さり、あるいは灌木の葉を突き刺して切り裂いて威力を失っていく。腕をかすめる水の刃にも躊躇ひとつせず、夜中はそのまま灌木の茂みを転がり抜け、少し開けた場所でそのまま膝立ちになって
拳銃を抜いた。木立の中から空の一角へ、やはり迷い無く引き金を引く。そして銃弾の行方を確認さえせず、木立の中を縫うように駆けだした。
 どれだけ銃弾をまき散らしたところで、魔物である彼女にいかほどの効果があるものやら疑わしい、そのことは夜中自身も理解している。ただ今はひたすらに距離を稼ぎ、翆の無事を確認することこそが彼の最優先事項だった。あの魔物は放って置くべきだ、どれだけあれが神経を逆撫でする存在であっても。