「ああんもう、ちょこまかしないでよ、狙いがつかないじゃないのよ!」
 無茶な要求を喚きながら、虚空を魚のように泳ぐ魔物の少女はその苛立ちをぶつけるように、ひときわ大きな水の塊を作り出した。見当もつけず出鱈目に、その塊を地面へと激突させる。激しい衝撃が地面を揺らし、腐りかけていた木々の葉がぼろぼろと落ちた。それを見下ろしていた少女の赤い瞳がきらりと光る。
「…この辺りの茂み、全部ぶちこわしちゃおうか。…そっか、そうね、そうすれば逃げ回れないわよね! あたしってば頭いい! きっと樒も誉めてくれるわね!」
 自身の思いつきに、満足げにその場でひらひらと動き回る。地面に立っていれば飛び回って喜びを表現していたかもしれない。仕草自体は子供のそれだが、発言内容だけがひたすらに不穏であった。
「よーしそうと決まれば…!」
 ぺろりと赤い舌で唇を舐めると、彼女は腕を振りかぶった。幸いにして天気は雨、彼女が集めるべき水はどこからでも集まってくる。ましてこの場所は怨みを残した死者たちのすぐ側なのだ。魔物たる彼女にこれ以上の好条件は、そうそうあるものではない。高揚に白磁の頬を染めて、少女は空を、雨の中を、レースの裾をなびかせて泳いだ。雨がぶつかり、集まり、くるくると優雅に回る少女の真下へと矢のように降り注いでいく。大粒になった雨が落下するだけで、木々が揺れ葉が落ち、大地が抉れていく。
 丘をまるごと揺らすような衝撃が、穴の中に捨て去られた腐った死体をも揺すった。ばらばらと穴の縁が崩れ、死体まみれの穴が埋まっていく。
 そんなこととは露知らず、少女は空中を泳いでいく。地上に破壊をまき散らしながら。
 一方、その破壊で無惨に地面を晒す丘の斜面を転がるようにして夜中は駆け降りていた。ほとんど道とは呼べぬ崖を滑り落ち、身体のあちこちを擦りむいて忌々しげに舌打ちをする。亜鉛を連れてくれば、ありとあらゆる道具に姿を変えてくれるあの相棒は頼りになっただろう、とは思ったものの、彼は結局それ以上は考えなかった。亜鉛を置いてきたのはひとえに、宿に残る翆を案じたが故である。幼い頃からの夜中の友人であり、旅の連れでもある彼は、夜中にとっては唯一信頼して翆を任せられる相手でもあった。
(ひとまずはここから逃げて、それからだ)
 思考を即座に切り換えて夜中はそのまま、頭から泥を被った。ずん、と地面が揺れる。曇天の空では、派手な甘ったるいオレンジ色が楽しそうに揺れながらも執拗に、夜中が先程逃げ込んだ茂みの辺りに弾丸のような水を降らせていた。衝撃の余波は丘全体を揺るがせて、直にこの辺りに隠れられるような、葉を茂らせた木々や茂みはなくなってしまうだろう。とはいえ、と夜中は泥まみれの身体で駆け出しながら考える。
 ーーすっかり隠れ場所を奪うことに熱中しているあの魔物は、崖を転がるように駆けていく夜中には気付いていないようだ。今のうちだ、と、深呼吸して夜中は走る。
 頬にこびりついた泥が温い雨に混じって落ちる頃には、彼は丘を駆け降り、街の出入り口まで到達していた。
「え、あれ、さっきの…! どうしたんですか、そんなに汚れて」
 街には夜には出入りを制限するため、さして高いものではないが簡素な塀が築かれ、門があり、門番もいる。今にも閉門しようとしていたその門番は汚れた夜中の姿にぎょっとしたように顔をしかめ、それから恐々と、彼が駆け降りてきた向こう側を見やる。木々のまばらな林の向こう側、死者を葬る場所でもある丘の方角からは、何の音なのか轟音が響いているのだ。まるで雷が連続して落ちているかのようで、今年に入ってから雷害のせいで発生した火事などの災禍に見舞われている街の人間としてはこれもまた不吉の予兆にしか思えない。いくら何でも、異常な音だ、と彼は震えた。が、
「…気にしなくていい。あれは、災いは災いだが、…この街に害を成そうとしてるわけじゃない」
 ひどく面倒くさそうではあったが、その丘の方から現れた青年は門番へそう告げた。
「はぁ…?」
「−−俺は<店主>だ。魔物の仕業なら専門だから、信用してくれていい」
「店主…ええ? おとぎ話に出てくる、東の果ての王様を怒らせた、っていうあの…?」
「…そんな話になって伝わっているのか、ここらでは」
 やれやれとこれまた面倒そうにその<店主>である夜中は肩を竦める。一方、半信半疑ながらも、門番はふとある可能性に思い至り、はっと顔を輝かせた。
 <店主>といえば、魔物−−月神の<律>に背く存在を倒すために、特別に、<律>から外れた力を操るとかいう話ではなかったか。
「も、もしかして、あなたはこの街の魔物退治に来てくださったんですか!?」
 上擦った声で尋ねながら、門番は青年に一歩詰め寄った。が、彼の方は無表情だ。そうしてその問いには答えず、街の中心の方へふと顔を向けた。銀色の刃のような色をした鋭い瞳がぐっとすがめられる。
(月の光…の、残滓か…?)
 心臓を捕まれたような気分だ。とはいえそれを表には出さず、夜中は鋭いままの視線を門番へと向けた。
「ひっ! な、何ですか!」
「街の方で何か騒ぎがなかったか」
「ありやしませんよ。みんな<殺人鬼>が怖いから、黄昏が来れば外へ出ませんし…ああ、そういえば」
「何だ?」
 睨むような刃の色の視線は突き刺さるようだ。居心地の悪さを感じながら、門番の男はつい先程、街の中心に見えたもののことを思い出した。
「不思議なものなら見ましたよ。街の広場の方、一度だけ−−本当に一瞬だけ…月が見えました。丸い、本当にそりゃあもう綺麗な月で…瞬きする間に消えてしまったんですが。いや、実に久しぶりに月神様のお光を目にしましたよ…あれ、<店主>さん?」
 言葉の終わらぬうちに、夜中は走り出している。







 辺りを見渡せば、どこまでも暗闇が続いている。
 否、僅かながら光はあった。白く乾いた。足下の白骨に似た、冷たい光が、どこまでもどこまでも続く暗闇を静かに満たしている。
 かろうじてぼんやりと周りが見える程度のその光の下、彼女は目を開いた。
 横たわっていた身体を億劫そうに上げて、彼女はまず、自分の腕を見下ろした。すらりと長い白い腕には、まだ、水の匂いが残っている。泉の清冽な水の匂い。森の腐る土の匂い。この世界には、どこまでも不釣り合いで不似合いな匂いだ。彼女は瞬間、名残惜しげに自分で自分を抱きしめると、すぐに翼を震わせて、その「匂い」を全て消し去った。
 ぼうとした光の下には、無数の、輪郭すら定かではない存在がさまよっている。
 彼女はすぅ、と息を吸った。
 あの泉のように、空気に生きた存在の匂いはない。どこまでも白く、白く、乾ききった世界の空気はそれそのもの、死の匂いをはらむ。その空気を吸って、死の世界に溶け込んでいくような気持ちで、彼女は深く深く呼吸をして、

「お休みなさい、迷い子よ。ここは黒き墓の棺のその中、何もかもが許される。お休みなさい、迷い子達よ」

 その美しい小鳥のような声で、歌い始めた。
 それは全ての死者を慰めるための歌であり、この深い「墓所」の中にあって唯一光を放つような、死者を惹き付けずにはおられぬ歌であった。
 そしてそれを歌う彼女は、死者の世界でたった一人、長い長い時の間、たった一人で全ての死者を慰める、その為だけに存在している「魔女」。
 ――死の世界を司る新月の月神の寵愛を、生きながらにして受けた、たった一人の墓所の魔女。
 その魔女は月明かりだけが照らす薄闇の中、歌いながら、ふと考えた。思い浮かんだのは清冽な泉の香りで、森の香りで、それから、

 ――誰だ、あんた。

 刃のような色をした眼の少年の、幼くも鋭い誰何の声。
 知らず彼女は微笑んでいた。美しい女の顔に笑みが浮かんだのが一体どれだけ久方ぶりのことか、知っているのは恐らく今も墓所を静かに満たす月だけであろう。百年か、二百年か、あるいはもっと。それだけの時の中で、初めての女の笑顔だった。周りの死者達が声もなくふわりと、その笑みに誘われたように揺れる。
「…私は翆。もう随分と永いこと、名乗ってさえいなかったわ」
 歌の合間に彼女は囁く。
 胸にはまだ、あの清冽な泉の香りが残っている。墓所には温度が無いので、寒いとも暖かいとも感じることは無いのだが、確かに今胸に残っているものは暖かい、と魔女はそんなことを想っていた。
 まだ10歳かそこらだろう、幼い少年。
 −−彼にまた会えるだろうか。
 そんなことを思うと胸が僅かに痛んだが、その痛みさえも、今の彼女にはひどく暖かなものに感じられてならず、



 そして、その痛みに、彼女は暗闇の中で目を開いた。
(胸が、…)
 辺りをぼうとしたまま見渡しつつ、彼女は痛むような気がする胸をさすった。それは夢の名残だったのかもしれず、しかしどんな夢を見ていたのか皆目思い出せない。
(…たぶん、いい夢、だったような気がする…)
 胸に残る余韻はそのまま、彼女は二度、三度と瞬いた。小鳥の魂を持っている割には夜目の利く翆だが、辺りはそれにしても暗い。いったい自分はどこに居るのだろうか。
(……まるで誰も彼も死んで居るみたいな暗さ)
 墓所は−−死者の世界だという「漆黒墓所」は、きっとこんな風景に違いないと彼女は静かに確信した。
 薄い月明かりがカーテンの隙間から斜めに差し込み、冷たい板べりの床を照らし映す。
 翆は顔をしかめ、カーテンを閉じようと自らが寝かされていたらしい寝台から降りようとし、ようやく自分の状況に気がついてぎょっとした。
 じゃらりと静かな空間に響く、重たい金属の音。
 彼女の細い足首は、金属の足輪とそこから延びるいかにも重たそうな鎖に雁字搦めにされていたのだ。鎖の端は寝台の足に繋げられており、翆が自由に部屋を動き回ることさえ出来ぬようにされていた。
 −−とっさに翆が考えたのは、これは樒の仕業ではない、ということだった。
(樒ならこんなことしない。あれは私を殺したいのだもの。私を拘束する前に、きっと、とどめを刺してしまうわ)
 そう、思って嘆息する。ならばこれは、「人」の仕業か、「魔物」の仕業か。
(…亜鉛)
 声を出すことがはばかられ、翆は胸中で呼びかけながら、懐にそっと手を当てた。
 重たく冷たい塊が、確かに彼女の胸元に潜んでいた。
 無我夢中で、どうやったのだか自分でも覚えては居ないが、そう。確かに−−翆は亜鉛を助け出していたのである。
「…亜鉛。飛べる…?」
 鉛色の塊は、ぐにゃりと不定形な姿で翆の胸元にへばりついていた。表面にはところどころ、熱を帯びた箇所がある。強すぎる月の光を浴びたせいで、火傷をしたようになっているのだ。だがそれでもなお、翆の問いかけに応じようとするかのようにぐぐ、と何かの形を取ろうとし、またぐったりと力を失ってしまう。
 それを服の上からそっと撫で、翆は安心させるように微笑んだ。
「…ありがとう。あなたのお陰で、助かったわ、亜鉛」
 亜鉛は何を訴えたいのか、しきりにもぞもぞと服の下で動いている。翆は慌ててそれを押さえ、呟いた。
「亜鉛ったら、やめて、くすぐったいわ。それに、まだ身体が癒えていないのね、無理をしないで」
 言いながら翆は首を傾げる。
「……亜鉛の傷って、どうすれば治るの?」
 考えてみれば今までの旅の中、この生き物は傷を負うことがなかったような気がする。例えナイフで切られても、平然と元の形に戻っていたような。それをいいことに、盗賊に襲われたときに夜中が平然と亜鉛を盾にしていたような覚えもあった。
 そのことを思い出して翆はまた、嘆息した。今度は少し呆れたような調子で。
(夜中って、亜鉛の扱い、雑よねぇ)
 平素は友人だと言っている癖に。あるいはそれは信頼のなせる技なのかもしれないが。などと思いつつ、翆は再度、自分の服の下、平坦な胸元にのっぺりと広がってへばりついている亜鉛を服の上からさすってやった。皮膚に直接冷たい金属が触れて、何とも居心地が悪かったが、相手が亜鉛では邪険にできない。まして亜鉛は怪我をしているのだから。
「亜鉛…無理はしないでね。でも、ええと」
 彼女は足をつなぎ止める鎖を見やってから口ごもった。先にも命を助けられた。もう本当に駄目かもしれない、ああ、「また」夜中に辛い想いをさせてしまう、そう心底から思ったのだ。そこから救ってもらっておいて、更に頼みごとをするのはいくらか図々しい気がする。
 だが周りを見渡してから、彼女は三日月型の眉を寄せた。
「…私は鎖で留められてしまっているし、魂だけで飛んでいくのもしばらくは避けたいの」
 言い訳じみたことを独りごちる。身体を起こしてみて気付いたのだが、先の樒との遭遇で、剥き出しの魂に直に月光を浴びたのが強烈に効いているらしいのだ。少し動くたびにくらくらと目眩がする。加えて<人形>の方も、あちらこちらに大きな傷が穴を開け、傷の痛みを訴えていた。失った体液代わりの水銀はいったいどれくらいだろう、と翆は考えて暗澹とした気分になった。夜中があの故郷の<町>から持ち出した分で事足りれば良いのだが。
 ともかくそういう訳で、しばらくの間は激しい動きは無理だし、魂を身体から引きはがすのも難しそうだ。あれはそれなりに集中力を要するのである。それに多分、と翆は自分の背中の小さな羽を動かし、調子を確かめながら考えた。羽もあちこちに傷があり、動かすとぎしぎしと痛んだ。
(…魂が傷を受けすぎると、墓所の墓守が飛んできそう)
 ただ幸いにして、現時点では、どうやらかの墓守は彼女がここに居ることに感づいていないのか、姿を見せる様子はない。あるいは樒とはち合わせたくないのかも知れない。墓守もまた、「死」の属性が強い。満月の寵愛を受けている樒の放つ月光は、真逆の「生」の属性が強すぎて、あの墓守にとっても毒が強いはずである。
(かといってずっとここに居るわけにもいかないわよね…。こんな扱いされてる以上、『善意』があるとは思えないし)
 改めて鎖を引っ張り、動ける範囲を確認しながら、そうも考える。翆はそうして結論をくだし、改めて胸元に問いかけた。
「…亜鉛。ごめんなさい。でも、お願いがあるの−−その傷が癒えるまでは私の側に…そこに、居て欲しいの。でも、もし私よりも先にあなたの傷が治ったら、伝言をお願いしてもいい? 夜中に」
 まずは謝罪をしなければ、と彼女はちらとあの鋭い刃の色の瞳を脳裏に浮かべて苦く微笑んだ。夜中は怒るに決まっていた。薄曇りとはいえ満月も近いのに、黄昏時に出歩いたりした翆の不注意を、彼はきっと怒るだろう。
「えとね、まず、『ごめんなさい』って伝えて?」
 きゅい、となにやら小さな音を立てて、金属の塊が服の下で首をもたげるような仕草をして見せた。多分首を傾げているんだろう、と思われる。翆はもごもごとバツの悪さを覚えながら呻いた。
「…だってその、夜中に心配させてしまっているし…。それに、亜鉛も。ごめんなさい。あなたも、外に出てはいけないってあれほど警告してくれたのに」
 今度は亜鉛はゆるゆると揺れた。首を振っているのかな、と思えたが、これは否定なのか同意なのかどうにも判断しかねる。
「……亜鉛、ごめんなさい、私あなたの言葉がよく分からなくて…。伝言はお願いできる、のよね」
 亜鉛は再び動いたが、これまた同意なのかどうなのか。
 分からなかったので、翆はそのまま続けることにした。亜鉛とて、翆がここから動けないことや、夜中の助けが必要なこと、夜中がどれだけ心配するか理解しているはずである。
「それとね、もうひとつ」
 翆は唇を湿らせ、考え考え、告げた。


「私は殺人鬼の家に居る、と伝えて」


 ちょうどその時、扉の辺りが騒々しい音に包まれる。−−少なくとも翆の耳には、そう聞こえた。多分普通の人の耳には、それはただ、扉を叩く音にしか聞こえないはずだ。
 翆は見目の幼さとはあまりにも不釣り合いな陰鬱な瞳を、扉へと投げた。
 扉の周りには、輪郭も定かではなく、生前の記憶も感情もおぼろに歪んでしまった、「死んだ人」が幾つも、幾つも、集まっている。
 彼らは一様に、扉の向こうにいる人物について翆に何かを訴えようとしているようだった。
 その当の人物が、扉の向こうから気遣わしげに問いかけてきたので、翆はいよいよ青い瞳を気鬱に染め上げる。声は穏やかで、優しげに聞こえた。
「ええと、目が覚めたのかい? 傷はだいぶ塞がっているようだから、とりあえず暖かいスープを用意したよ。食べて体温を上げれば、少しは楽になると思う」
「……私が起きているの、知っているんでしょ」
 彼女は、三度目の溜息をつく。
 それから彼女は周りの死者たちの騒ぎを見やり、扉を開けて室内へ入ってきた男性に、仄暗い視線を投げた。
「私の<人形>をどうする積もりなの?」
「どうって…。素晴らしい細工だなと感心したんだよ。体液が水銀というのは驚いたけどね。それで君は、あんなに必死になって『触るな』と言ってたわけだ」
 優しい子なんだねぇ、とにこやかに言われて、翆はいよいよ気分が悪くなった。
 現れたのは案の定、あの時、負傷して動けなくなっていた翆の<人形>を見つけ、驚いたように駆け寄ってきた、人の良さそうな痩身の青年だった。あの時は外套を着て、手には重たそうな鞄を提げていたが、今は重たそうな外套を脱ぎ、手には暖かそうな湯気をたてるスープの乗った盆を抱えている。仕立ての良さそうなシャツとズボンを見るまでもなく、恐らくこの街では裕福な、良い家の人間なのだろう。
 更に、翆は開いた扉の向こうから、特徴的な匂いを嗅ぎ分けている。鼻にちょっとばかり刺激的な、あれは乾燥させた薬草の匂いのはずだ。ということはここは薬を扱う店舗か、さもなくば、
「僕は医者だよ。そんなに怯えなくてもいい」
 翆の疑念は、目の前の青年によって払拭された。
「その身体、<人形>だよね? 人と同じような治療でいいものかよく分からなかったんだけど…ああ、そうそう。忠告通り、直には触れていない。水銀は毒性があるからね。でも傷は気になったし、勝手ながら治療はさせてもらったけど」
 彼は言いながら、翆の側にあった小さなテーブルにお盆を置いた。穏和な雰囲気だがどうにもお喋り好きな性質であるらしく、彼は沈黙する翆を気にする様子もなく、続けた。
「しかし驚いたなぁ。<人形>なんて、外法遣いの…<店主>の技だろう。おとぎ話だとばかり思っていたよ。実在するなんてねぇ、いや、目にするまではちっとも信じていなかったのだけれど、君のその<人形>はすごいね。まるで本当に人の肉体のようだ。そんなに素晴らしい出来の人形なら、どんな死者にも肉体を与えることが出来るだろうね」
 にこやかな、医者だと名乗った青年のその言葉に、翆はざわりと−−そう、それこそ<人形>にすぎない、よく出来た造り物の身体が鳥肌を立てるのを感じていた。全く、確かによく出来ている。出来すぎているほどに。
「あなたは…この<人形>で、死者を呼び戻したいの?」
「呼び戻す? 何言ってるのさ」
 問いかけに対して、彼はにこやかに、翆に告げた。
「君達が言うところの<死者>って言うのは、今も僕の周りにいる彼らのことだろう? 彼らは肉体を失っただけだよ。だから肉体をあげればいい、それだけのことじゃないか。<人形>なら、肉体のように老いたり、怪我をしたりはしないし、壊れたら交換すればいいだろう?」
 青年はあくまでも、にこやかだった。
 思いやりに満ちた優しい穏和な口調は、鎖に繋がれた翆の、偽りの肉体に、刺さるように降り注いだ。
「その<人形>はとても素晴らしいね! 僕は是非ともそれを造る技術が欲しいんだ。だから、ね。申し訳ないんだけど、少しだけ、君を調べさせてくれないかな」
 視線は純粋な好奇心に煌めいてさえ居る。だが翆はその光に恐怖を覚えて、知らず、寝台の上を後ずさった。
 震える幼い少女を気にした風情もなく、青年はぬっと手を伸ばし、追いつめられた彼女の、ぼろぼろになったワンピースの襟に無造作に手をかける。その表情はあくまで微笑んでいて、翆にはそれがなおのこと恐ろしかった。
「や、やめて」
 ――大体、元より無理なのだ。翆の<人形>は、外法の遣い手である<人形師>が、その技術を余すところなく注ぎ込んだ代物である。外法遣い、すなわち<店主>でない人間に、理解の出来るようなものではない。
「あなたは無理。あなたは<店主>じゃないもの」
 後ずさりながら訴えるが、彼は首を傾げるばかりである。
(駄目よ。この人は、新月様の加護は受けていない、かといって………ああ、そうだったわ)
 翆はその時、重大なことを思いだして、ぞっとした。
(…人を殺しているんだ。この人は)
 何しろ彼女は死者の声が聞こえるのである。その点は間違いようもない。部屋の隅で、翆の悲鳴に呼応したかのように震えている「死んだ人達」の魂は、先刻からしきりにそのことを訴えているのだ。
 もう自我も曖昧になってしまっていて、自分が何者かも分からなくなりかけているような「死んだ人」だったが、翆は何となく、街で最初、雷害による火災で亡くなったという「司祭」の一家ではなかろうかと察した。
 となれば、その一件は、雷ではなく放火であったのか。妙に冷静にそんなことを考える。その間にも、壁際に彼女を追いつめた青年は、寝台に乗り込んで翆の両腕を固定しようとしていた。
 傷の痛みで思うように抵抗も出来ない。男の両足が、小さな身体を挟み込むようにしているので、まともに動くことも出来ず、かといって暴れれば目眩が襲ってくる。絶望的な、いくらか捨て鉢な気分で、翆は目をぎゅっと閉じた。
 と、襟にかけられた手が背中の方へ回され、背中にあるワンピースのボタンを外し始めた。慣れた手つきは確かに医者のそれだろう。
 だが伝わってくる体温は、彼女の慣れた少し低いものとは明らかに違う。生温いそれを感じて、翆はたじろいだ。
(気持ち悪い…)
 せり上がってきたのは猛烈な嫌悪感だった。翆は自身の反応に驚きながらも、殆ど激情にかられて両手両足を振り回した。目眩も、傷の痛みも、何もかも飲み込んで。
「やめて…! 私に触らないでっ! やだ、やだってば、…っ、夜中…!!」
 重たい鎖の音がする。動いたことで急激に目が回り、それでも翆は死に物狂いに相手に噛みつこうとした。が。
 その動きが止まったのは、部屋の外――恐らく家の表の方から聞こえてきた、必死の声のためであった。か細い女性の、混乱して上ずった声だ。
「先生、先生! 助けて下さい…!」
 声と共に扉を叩いているらしい音も響く。男は鬱陶しそうに振り返り、それから翆へと視線を戻した。瞳には何の感情も浮かんでは居ない。
「おや、患者さんだ」
 呟いた言葉にはいくらかの名残惜しげな響きがあったが、彼は即座に寝台から立ち上がった。未だ扉を叩き続ける急患に、温和な調子で「はいはい、今行くよ、落ち着いて」と告げている。だが部屋を出る際に、彼はふと寝台の上で息をつく翆へと視線を遣った。
「出来れば逃げないでくれると嬉しいな」
 その言葉に、翆は今度こそ、酷い眩暈に見舞われた。負傷から来るものと言うよりも、疲労と恐怖から来るような眩暈だった。
 そしてそれきり扉が、閉じる。
 翆は胃が喉までせりあがってきているような気分で涙目になりながら、寝台横の卓に置かれた、湯気を立てているスープを睨み、乱暴にそれをひっくり返した。