「それ」を見た瞬間、夜中の頭の中では音を立てて血が落ちるような、そんな衝撃があった。
 濡れそぼる石畳、居並ぶ家家がどこかよそよそしいのは、まだいささか夜には早いのにどの家もきっちりと鎧戸までも落として、まるで目と耳を塞いでうずくまるが如くに静かに振る舞っているからなのか。どちらであれ夜中にとってはどうでもいいことだった。
 彼の視界には、その濡れた石畳に落ちた「もの」しか映っていない。
 雨に流されて石畳の隙間を汚すそれは、黄昏の曇天の下では濁った銀色に見える。
 触れれば人の身を犯す毒をはらんだそれを、夜中はひざまずいてつと、指でなぜた。
 ――水銀の。
 確信した瞬間に目が眩んだ。

 ――ここに大量に散らばっているのは間違いなく翆の、「今の」彼女の身体を支えている、銀色の血そのものだ。

 思考が停止したのは本当に一秒に満たない程の間だけだった。彼は目を落としたまま、殆ど呼吸さえ忘れたまま、その場に立ち尽くしながら口に出す。それはまるで自身に言い聞かせるように。
「…樒の仕業なら…死んでるはずだ」
 そう。
 樒の。あの満月の魔女の仕業であれば、間違いなく翆は殺されている。
 樒の目的は、「月神」と「魔女」という、世界を健全に保つために構築されたその仕組みを壊さず守ることだ。あれはその為であれば、人間を殺すことも、それどころか同族である魔女を殺すことさえ厭わない。
 魔女が殺されれば、「月神の寵愛」という大きな力は新たな容れ物へと移動する。それだけだ。魔女はそうやって何度も代替わりを繰り返す。だからこそ、異常を示した「魔女」を、この仕組みの守護者である「満月の魔女」は何の情もなく切り捨てる。切り捨てても、新たな魔女が選ばれ、「月神の寵愛」という力の在処が変わるだけ。正常な仕組みはそうやって守られる。守られ続けてきた。
 確認するように夜中はその事実を胸中に繰り返し、苦い唾液を無理に飲み込む。乾いて張り付く喉の奥が呼吸さえ妨げるようで酷く鬱陶しかった。それでも深く息を吸って、夜中は胸を押さえた。激しい鼓動が酷く耳障りだ。
(そして翆はまだ、死んではいない)
 その場に落ちた銀の血を見下ろしながら彼は強く、胸中に呟いた。それもまた、根拠もなく、ただ自分に言い聞かせるような、祈るような縋るようなものに過ぎないのだが。
 一体どれくらいそうしていただろうか。左程長い時間ではなかった筈だ。
 夜中は不意に、顔を、上げた。
 空は曇天。もう黄昏の時間を終えて、世界は月神の支配する夜を迎えている。曇り空には月も星もなく、ただ。
 濁っている。
(……何だ、あれは)
 夜中の目に映ったのは、曇天の暗い空ではなかった。
 空は、どこから注ぐ光に照らされているのだろうか。薄らと明るく、そして赤く、濁って見える。
 夕暮れの光とも違う。だが、夜中はその濁った赤とよく似た色を、知っていた。愕然と空を見上げたまま、彼は、乾いた声を空へと投げた。
「……魔物の目の色……!?」
 これはどういうことだ。常が冷静な彼としてはらしくもないことに、夜中はたじろいで、その場で一歩、後ずさる。それを追いかけるようにして、冷たい声が濁った空から落ちてきた。
「――矢張り魔物に呼ばれて来たか、魔女殺し」
 凍りついたような声ではあるが、僅かにそこに嘲るような色が混ざっているようにも思われる。夜中はぎりりと歯軋りし、暗い瞳を虚空へと投げた。
 夜を迎えた筈なのに薄らと不気味に明るい、濁った赤い空を背に、黒い影が白い外套の裾を揺らめかせている。夜中を、明確な侮蔑を込めて見下ろしている瞳は、蜂蜜のような金色だった。
 夜中は答えない。答えないままに、無言で銃を抜き、そのまま流れるような動作のうちに銃弾を放った。
 黒い人影は、何もない虚空を蹴るような動作をする。猫科の獣の如きしなやかさでその姿は赤い夜空を跳躍し、銃弾ははためいた白い外套の裾を切り裂いたのみに終わった。が、夜中は動きを止めない。そのまま駆けながら何度となく銃の引き金を引き、鉛の顎がそのたびに、赤い空に噛みついた。
 白い尾を、或いは羽根を引くように、黒い姿はその銃弾をかわして空を舞う。顎先を鉛がかすめ、白い外套の裾が千切れ飛ぶ。白い端切れが舞い飛ぶのを横目にしながら、その黒い人影は地に立つ夜中を冷たい視線で撫ぜた。
 それを合図にしたかのように、空から無数の光の矢が落ちる。
 夜中は雨のように降る光の刃を縫うように走り、握る銃把に口を近づけた。囁く声は、音無く落ちる光の刃の中、異様な静けさに満たされる町の空気の中、低い癖に厭に響いた。
「樒――」
 ぎらぎらと。夜空を睨みやる瞳が、空の濁った色をまるで映しこんだかのように。
 ――赤い。
「お前達が過去に奪っていった、翆の<棺>――今日こそ返して貰うぞ」
「元より貴様のものではあるまい」
「だが貴様のものでもあるまい! 貴様のものでも、『満月』のものでも!」
「……魔物風情が、」
 それまで凍っていた声が僅かに揺れる。底冷えするような、聞く者の背筋を冷やすような声と共に、特大の光の刃が落ちて、地面を抉り取った。咄嗟に夜中は上体を逸らして避けるが、その前髪を、温度も音も持たない光が奪い去る。
「…魔物風情が、…月神様の行為に口を挟む積りか…」
「月神様だろうが、魔女だろうが、知ったことか。あれは、あの<棺>は翆のものだ。俺のものですらない。…だから返せ、と言っているんだ」
 当たり前の道理だろう、と、夜中はわざとらしい笑みを添えて言い捨てた。それが眼前の相手の、月神の定めた<律>の<守護者>たる満月の魔女、樒の、癇に障ると言うことを知っていたからこそ。
 精一杯の侮蔑と嘲笑を込めて、夜空に向けて夜中は噛みついたのだ。
 はたして、樒はそれまでの冷たく凍りついたような無表情に、僅かにではあるが怒りの様相を見せていた。虚空に立つ相手の金の瞳に、明確な殺意が宿るのを夜中は見てとり、いよいよ笑う。殆どそれは「優しい」とさえ呼べるような、満足げな頬笑みであった。そして彼は笑みを湛えたまま、石畳を蹴る。同時に銃声。
 何を撃ち抜いたのか。
 夜中の姿は次の瞬間には、消えた。
「…、後ろ、か!」
 僅かな狼狽を金の瞳に浮かべた樒だが、鋭い視線が即座に反応した。空の上に立つ彼の、その更に上、赤い空を背にして、いつの間にか夜中がそこに居た。
 虚空に悠然と立つ<魔女>たる樒とは違い、異能者とはいえ夜中はただ人だ。無論その姿は一直線に地面へと引かれて落ちるだけだが、しかし。
 その手には鈍く赤い光を弾くナイフがある。
 落下の速度と自身の重みを全て刃に乗せ、夜中は一直線に樒の頭上へと落ちた。上体をそらせて樒はそれをかわそうとするが、
「俺がいずれ魔女を殺す、と…<魔女殺し>に墜ちる運命を負うていると、散々告げたのは貴様らじゃないか…!」
 夜中の叫びがそれを許さない。
 赤い濁った空を背にした夜中の叫びに呼応するかのようにして、樒の周りに赤い影がさした。既に時は夜、いかに空が薄明るい光に覆われようとも夜目のきかぬものにはほぼ闇だ。その中にあってさえ、それと分かるほどに、その影は赤く、深い闇を湛えている。それがぐるりと、樒を取り囲んだ。
「それならお前が俺に勝てないのは道理だろう! お前は俺に殺されるんだ、満月の魔女!!」
 夜中の瞳が。
 赤い空を背にして逆光に陰る姿の中で、瞳だけが、薄く赤く濁って、爛々と光る。
 ――それは自ら狂って<律>から外れた、魔物の眼の色。
「狂ったか…」
 呟く声は、ナイフが振りかざされるのと同時だった。
 その場に、もう一つの赤い光が疾風の如く飛び込んできたのもまた同時。
「樒に触んなッ!! <魔女殺し>ぃッ!!」
 ――空と同じ、濁った赤い瞳を炎のように燃やして飛び込んできたのは一匹の真珠色の蛇のような魚だ。癇癪を起こしたような甲高い少女の叫び声が、夜中の振りおろしたナイフの行く手を阻んでいた。正確には、その叫び声が呼んだ、幾重もの水の壁が。
 ガギン、と重たい音と衝撃を残して夜中の手の中でナイフの刃が砕け飛ぶ。例えただの水であったとしても、<律>を外れた、魔物の力を帯びたものは一切の常識からは外れるのだ、刃物を砕く程度は容易い。
 そのまま水は渦をまいて、墜落するだけの夜中を虚空で襲うが、夜中の拳銃が先に火を噴いていた。夜空を裂く弾丸は水を穿ち、
「返すぞ」
 夜中の言葉が鍵ででもあったかのように、渦は形と勢いはそのままに、樒と、そして場に飛び込んできた白い魚影の上に移動していた。
 夜中の力――「送る」力による転移だ。
「えーいもう、鬱陶しいったら!!」
 喚く魚影が、再度水を集めて迎撃するよりも、無音の光が渦巻く水を砕き、飛沫に変える方が速い。
 その刃と同じだけ無口な樒がじろり、と、現れた魚影、否、この時にはいつの間にやら少女の姿へと転じた閼伽を睨む。金の瞳には、常の凍り付いたような怜悧さが戻っていた。
「…閼伽。遅いぞ。何をしていた」
「ごめんなさい、樒。見失っちゃってた」
 だが謝罪を受け入れるでもなく、樒はそれきり、駆けつけた少女の形の魔物にも興味を失ったようだった。代わりにひらり、と白い外套を翻す。
「待っ…!」
「お前の相手はソレがやる。魔物同士、せいぜい喰い合え」
 吐き捨てるように告げて、その姿は虚空を蹴って遠ざかっていく。じりりと胸を襲う焦燥と、それから眼球の痛みに吐き気を催しながらも、夜中はその後を追おうとするが、
「そう言う訳だし、せいぜい喰い合おうぜー!」
 ケタケタと癇に障る笑い声をあげて、橙の魔物がその道を阻んだ。笑う少女の瞳は薄暗く赤く、夜中を睨む。
「さっきはよくもアタシを撒いてくれたわね。樒に怒られちゃうじゃないのよ」
「…知るか」
「そういうの、困るんだから」
 笑いながら少女は、少女の形をしたそれは首を傾げて見せる。赤い瞳が闇の中にやたらと映える。
「だってアタシは、あんたを殺すために、樒がわざわざ作ってくれたんだから。そのためだけのモノなんだから」
「……光栄なことだ。一介の<店主>のために、<満月の御子>はそこまでするか」
 夜中はぽつりと呟いて一瞬だけ強く瞼を閉じた。
 瞼の裏は深い闇。夜でなければそこには血を透かした、鈍い赤があるはずだ。
 などと思いつつも眼を開いた夜中は、即座にくるりと踵を返して駆けだした。
「え、あれ?」
「お前の相手などしてられるか」
 冷淡に、呆れたように嘆息混じりに告げた夜中の声は、虚空の魔物には届いてはいまい。
 闇夜にとけ込むように路地裏へ入り込み走る夜中の、刃の色の瞳は魔物を一顧だにしなかったから、彼の瞳の色もまた、虚空の魔物が気づくことはなかっただろう。
 そうして路地裏に身を隠し、夜中は細く息をつく。僅かに遠くから甲高い声が喚くのと、何かを壊すような音も聞こえたが、あの魔物も無理してこちらを追うことはせず早々に諦めるだろう、と夜中は踏んでいた。
 眼球の奥が奇妙な熱を孕んで痛む。
 暗く濁った赤い夜空を、夜中は今度は幾らか冷静に分析していた。きっとさっきまでの自分の目の色も、あの空とそっくり同じ濁った色をしていたのに違いない、そう確信しながら再度目を堅く閉じる。
(あの空は…あの依頼人の妙な依頼に関係が…いや、だが今は翆を…!)
 先の樒と閼伽の襲撃に、一度は冷や水をかけられたように冷静になっていた頭が、翆のことを想い浮かべた瞬間に再び焦燥をぶり返し、酷く痛む。胸元を乱暴に掴み歯を食い縛り、夜中は強く瞼を閉じた。眼球の奥はまだ、痛む。
(落ち着け。落ち着け…ここで俺が完全に正気を手放しても何も変わらないんだ、翆の境遇を変えられる訳じゃない…)
 翆がもし死んでいたら、という可能性は意識して除外した。もしそうであれば、正気を保つ必要性なんて欠片も感じられない、という自らの本音も、夜中は精一杯に押し殺す。今考えるべきはそんなことではないはずだ。
(俺がすべきことは――ひとまず身の安全を図ることと、それから)
 そこまで考えたところで、夜中は背筋が粟立つような感覚を覚えてはっと目を開いた。視線だ、と察して身を固くするが、閼伽が、あの魔物がこちらに気付いた様子は無い。
 では、何者の視線か。樒でもないはずだ、と夜中はぐるりと辺りを見渡して、そしてぞっとして物影へと後ずさった。
 見上げた先にあるのは赤く濁った夜空だけだ。先程から再び細く鬱陶しい、霧のような雨を降らせている、重たい曇天、それだけだ。だが。
(そうだ。あれは、『魔物の眼の色』なんだ)
 雨に濡れただけが理由ではなく全身が粟立つ。
(この街を助けろ、と言うのが俺への依頼だった。…この街に司祭は居ない。死者を弔う術すら失われている。死人が街に溢れかえっている。人が死んで、病が街を侵している。…条件は確かに揃っているし、『あれ』であれば、俺が最初に街中で感じた妙な違和感の説明もつく…とはいえ、話でしか聞かないような代物だぞ)
 さすがに現物は初めてだな、と、夜中は腹の底で思わず笑う。
 今の自分が相手取るには、少々どころではなくとんでもなく分の悪い相手だ、と、あまりの皮肉に眼球の痛みも忘れて、夜中は空を睨んで、呻いた。
「何て皮肉だ。…あれは<魔物喰らい>か…」
 魔物を喰う、魔物。
 語られるところによれば、その魔物は、喰らうために魔物を引きよせ、あるいは自らの内に魔物を育てることさえあると言う。
 もしかすると自分自身もまた、引き寄せられたのかもしれない。そのことに愕然としながら、夜中は降り始めた雨の中、ふと、あまりにそぐわないことを想い浮かべていた。
(翆の奴、雨でも構わず出歩くからな…傘をさせって、あれほど言ってるのに。身体が冷えるって、あれほど)
 ふらりと夜中は物影を出る。
 街は不気味に静まり返っていた。細い細い雨が石畳に染みる音さえ聞こえそうな程に。
(あれだけ俺達が騒いだのに、誰ひとり顔を見せない。――この街は、矢張り)
 どこか狂っているのだろう。夜中は確信し、駆けだした。
 翆がどこにいるのか、無事なのかさえ分からないが、恐らく翆の傍にいるであろう亜鉛の報告を待てるような気分ではない。とにかく探さなければ。闇雲にでも動きまわりたい気分も手伝って、夜中はまとわりつくような雨の中を走りだす。
 途中、背後を振り返ったが、諦めたのかそれとも見当違いの方を探してでもいるのか。橙色の少女の形をしたあの魔物の姿は、どこにも見えなかった。