曇天の下、街は静まり返っている。しかしそれは、眠りについた人々の作り出す静けさではなかった。むしろ、息をひそめ目を閉じ耳を塞ぐ人々の紡ぐ異様な空気に近い。翆は肌が粟立つようなその静けさの中、僅かに眉を寄せた。
 先に飛ばせた亜鉛がどこへ行ったのかは知れない。夜中のもとに無事辿り着いてくれたことを祈るばかりだ。今は、己の安全を確保しなければ――そう、理性は囁いてくる。
「…う、うう」
 だが翆は、やがて頽れるようにしてそこに座り込んだ。石造りの建物の壁に爪を立てて縋るようにしながらも、膝をついて、曇天を見上げる。赤く鈍い光を放つ空は。
(…魔物の目の色みたい…)
 背筋を凍らせるようなその連想が、だがしかし、何を意味するのか今の翆には分からない。記憶の欠損から来る知識不足だけが理由ではなかった。背中の乳白色の霧のような小さな翼は形を保てずに輪郭を掠れさせており、四肢にも力が入らなくなっているのか、がくがくと目に見えて大きく震えている。精巧な造り物である瞳が、意思の光を失いつつあった。
(駄目、まだ…倒れちゃ…)
 気持ちだけは石壁に爪を立てながら、身体の現実が追いつかずに倒れこむように動いたその時、その身体を支えるものがあった。触れた体温にぎょっとして、霞んでいた視界が一瞬だけ焦点を結ぶ。そこに居たのは、
「…え…」
「――宿へ戻ります。いいですよね」
 確認するように問われた言葉に何かを返すことも出来ず、意識の片隅に驚きを引っ掛けたまま――翆の意識は真っ逆さまに暗闇へと落ちて行った。

 次に翆が目を開いた時、そこには覚えのある天井があった。板張りの天井にはランプが吊るされているが、天井の端には薄暗く闇が淀む。むしろその淀みに安堵をしながら彼女は身を起こし、自分の身体が柔らかな寝台に横たえられていることに気付いた。思わず、僅か数刻前の目覚めを思い出して周りを確認するが、そこには薬草の匂いも、鎖の音も無い。それどころか、寝台の横には見慣れた荷物が積まれていた。旅をする自分と夜中の、一抱えも無い小さな小さな荷物。
 つまりここは、と翆は首を振って思い出し、確認するように呟いた。鈴を落としたような声が漏れる。
「…宿」
「ええ、そうですよ。大丈夫ですか?」
 予想通りの声が傍らから聞こえ、翆は物憂い瞳を持ち上げる。作り物の、硝子細工の青い瞳は、しかし如実に彼女の内心を表していた。陰った瞳が向けられた先、寝台の隣に膝をついていたのは、この宿の女主人だ。昼間は影のある笑みを浮かべる物静かな女性だと思っていたが、今はどこか違う――翆には、分かる。
 彼女を俯かせているものは、昼間は不安だった。得体の知れぬ殺人者と、病、長雨に浸された街への。
 今彼女の瞳を陰らせているものは。
「あの?」
「あ、…ごめん、なさい。大丈夫です。…私、一体…」
「街で倒れていらしたんですよ。覚えてますか?」
 それは覚えているが、現在の状態が分からない。翆は寝台から身体を動かし、もがくように寝台から転がり出た。立ち上がることはできる――まだ足元がふらつきはするが。羽根の動きを確かめれば、乳白色の翼は震えながらもしっかりと動いた。大丈夫、と判断して、翆は床をしっかと踏みしめる。
「無理をしては駄目ですよ、まだ――」
「わ、私、倒れてられないの。…夜中がどこかに居るわ。樒が……彼が来たのなら…逃げなきゃ、一緒に、一緒に…」
 一緒に?
 その言葉が何故か猛烈な痛みを伴って咽喉を焼いた。突き上げてくる突然の感情に動揺しつつも、それでも翆は顔を上げ続ける。耐えがたい痛みにのた打ち回るのは後でいい。痛みの正体を探るのも、全て後回しで構わない。
 急げ、と。
 欠けた記憶のどこかから、悲鳴のような命令だけが今の翆の頭を焦がしている。夜中、どこに居るの――!
「駄目です! 今の街へは…出てはいけません!」
 歩き出そうとする翆を、しかし背後から細い腕が抱き留める。羽交い絞めにされた、というそのことよりも、細い女性の腕から布地を挟んで、胸元に沁みたその体温の方が、翆を我に返らせた。身体の内側へと浸透していく慣れない温度。夜中以外の、誰かの体温。
「…あ…」
「落ち着きました?」
「あ、はい、あの、…放して…下さい」
 急激に脱力する翆は、何故か頬を赤くしている。<人形>の身で器用なことだ、と女主人が思ったかどうかは分からないが、彼女はそっと少女の頭を撫でてから、身体を少し離した。屈みこんで、翆に目線を合わせた彼女に、今度こそ落ち着きを取り戻した翆はようやく問うべきを問いかけた。
「私、どうして宿に? それにあなたも…どうして、外に出ていたの? 街は危険よ。あなたもそう言っていたじゃない」
「<殺人鬼>が出るからですか?」
 そう告げる表情は硬い。が、矢張り、昼間とは反応が違う。昼間は身を震わせて、怯えるように呼んでいた<殺人鬼>の名を、今の彼女は矢張りどこか何かを諦めたような、奇妙に静かな翳りを持って呼んでいる。
 更に彼女は、首を傾げ、諦観の強い仄暗い笑みを浮かべた表情のままでこう、続けたのだ。
「…それとも今、街を覆っている…魔物の赤い目のような色の、あの空の方が危険かしら…?」
「…っ!? あなた、どうして、」
 翆はそこまで呻いて言葉を呑み込んだ。客室の扉が僅かに開いていて、薄暗い廊下に繋がる闇がそこから覗いている。いや、覗き込んで、居る。その薄暗がりへ視線を向けてから、彼女は再度、女主人へ視線を戻した。翆の視線の動きに気付いたのだろう、頷く彼女の薄い悲哀を帯びた笑みは、やはり間違いなく、強い諦めに覆われている。
 それでも翆は言葉に迷い、そっと、薄暗がりへ手を差し伸べた。
「――あなたは、気付いていたのね」
「ええ」
「……あなたの息子さんが、とっくに死んでるってことに」
「ええ、勿論」
 翆の伸ばした手に、薄暗がりからそっと抜け出してきた不定形のモノが触れる。不確かな輪郭しか持たない、靄のような、頼りない形で、それは大層、小さな形をしていた。
 ――どうしたの?
 幼い子供の声は、空気を震わせるほどの力を持たない。
 その小さな形に向けて、女主人は優しげな、しかし悲しさを感じさせる声色で囁くように告げる。
「大丈夫よ。向こうにいっていらっしゃい。光の届かない暗い場所に」
 ――うん…でも、大丈夫?
 問いは、翆に向けられたもののようだった。翆は無理にでも笑みを浮かべて頷く。
「私は、大丈夫。…向こうで待っていて」
 ――分かった。あとで、ね?
「ええ、後で」
 多分この小さな形をしたモノは、自身が今どうなっているのかを理解していないのに違いなかった。いつだって、幼くして死んだ子供の姿はどうしても痛ましい――過去の自分もきっと<墓所>でそう思っていたのだろう、と翆は漠然と感じつつも、女主人へと向き直った。青白い顔をした彼女は、しかし決然とした、笑みとも言えぬ淡い表情を浮かべて翆を見返している。
「…昼間はね、あの子が死んだことをいつも忘れているんです。不思議でしょう? でも夜になると思い出す。あの、空の赤い――あの色を見ると、その度に思い出すんです。ああ、あの子はもう、死んでいたのだと」
 翆の脳裏には、先に見た診療所の惨状が否応なしに浮かんでいた。あそこで死んでいたのも幼い男の子だった。
「殺されたの?」
 その光景を思い出して、自然、吐き出すような囁くような声色になりつつも問いかける。女主人は静かに笑うだけだが、身体の脇で握りしめた拳に力が入ったのを翆はしっかと見ていた。
「……ええ。ええ、殺されました」
「あの――医者の人、に」
「ご存知だったんですか。この街の殺人者が、誰なのか」
 細く息をついて応える女主人の声は、どこまでも平板で、表情もどこまでも静かで平らかで、それが却って恐ろしいような気がして、翆は目を落とした。――死んだ人と言葉を交わすことには慣れがあるが、大事な誰かを失った生者と言葉を交わすのは、なんて難しいことなのだろう。
 私もかつて誰かを失ったことがあるのだろうか、と自らに問うても、答えが無いことも恐ろしかった。知らないうちに何かを失っているのかもしれない、という不安は、じわりと胸を浸す程度には恐ろしい。体温が下がるような錯覚を得ながらも、翆は拳を握りしめて前を向いた。
 夜中と合流し、早急にこの街を離れなければならない。それは確かなのだが。
(…放っておくの? この街の惨状を)
「――あなた達は、<殺人鬼>を止める、そのように依頼を受けていたのですよね?」
 不意に投げかけられた言葉に、翆ははっと思案から引き戻された。殺人鬼、という言葉は、魔物の名を指し示すものだ。月神様の定めたこの世界の「律」から外れ、月神の加護を得ない代わりに踏み外した力を振るう異形のもの。
(…街に来て直ぐ聞いた名なのに)
 どこか遠いもののようにそれを感じながら、翆は首を横に振って、彼女の問いに否定で返す。
「いいえ」
「でも…!」
「ええ。確かに。街に来た時、町長さんからは依頼されました。『殺人鬼を退治してくれ』と。でも――」
 彼女はカーテンの隙間から毀れてくる、壊れたような夜空の光をじっと睨んだ。
 魔物の、眼の色をした、空を。
(…あれがこの街の<魔物>だったのね)
 幾種類もの不安に揺れる心が、それを確認していよいよしんと冷え始める。この街にやって来た、きっと自分を追ってきたのであろう樒。街の中を彷徨う無数の「死んだ人」。そしてあの空。――巨大な、恐らくはこの街を呑み込む規模の「魔物」。
(<魔物喰らい>…多分、そう呼ばれるものだわ)
 魔物を呼び寄せ、魔物を喰らう。時に、自らの裡に招き入れた人間の狂気を煽り、魔物化を促すことさえある、そういう魔物だ。恐らくは街中の異様な静けさは、人間の狂気に対して干渉するこの「魔物喰らい」の力が影響しているのかもしれない。
 この街はゆっくりと病んでいるのだ――と考え至り、翆は嘆息した。この街に<店主>を呼び寄せたあの依頼人は、<店主>の夜中に何と依頼をしたのだったか。今になって思い出したのだ。
(――この街を、助けて。そう言ったのだわ…)
 つまりそれは、あの魔物を倒せと。そういうことなのだろうか。分からない。<店主>ではない彼女にはそれ以上の判断がつかない。
「…でも?」
 沈黙する翆に焦れたように、女店主が問いを重ねる。翆は目を伏せたまま、幼い形に似合わぬ唸るような、絞り出すような声で応じた。
「あれは<殺人鬼>ではなかったわ。ただの殺人犯……だとしたら、私と夜中には、あれを倒す権限がないの」
「っ、それ、は!」
「魔物ではないんです、彼は。ただの人間。人を殺した、それでもただの、人間です」
「人の道を踏み外しています…!」
「いいえ。あれはヒトです。ならば、私達の出番ではないわ。――彼を裁くのはあなた達、この街の生者の管轄」
 人を殺したからと言って、それで犯人が「魔物」と化す訳ではない。どれだけ殺そうと、正気を失っていようとも、「魔物」になるものはほんの一部だ。そして翆の見たあの殺人者は。
「……彼は確かに異様で残酷で、どうしようもないモノに成り果ててはいますが、…あれはただのヒトでした。魔物ではないなら、私達が干渉できる相手ではありません。この街の問題です」
「………なら、なら一体どうすればいいんですか。息子を奪われた私は」
 急激に力を失ったように、女主人が床の上に座り込んだ。表情は矢張り平らかで、しかし強張っていて、先まで僅かに張り付いていた笑みすらも無くなっている。
「あなた方なら、仇を討ってくれると思ったのに」
 力ない囁きのような言葉を聞き、返す言葉を持たない翆は代わりにまた廊下の向こう側を見やる。死してなお、不定形の姿に成り果てて居るあの幼い魂は、はたしてまだそこに居た。泣き崩れる母親の声に惹かれたか、扉の隙間の薄暗がりからそっとこちらを覗く眼球が見える。翆はそれを見とめて、ふ、と呟いた。
「あの子の魂は、どうしてここに居るのかしら…」
 本来ならば疾うに、<漆黒墓所>へ――全ての死者の至るあの荒涼とした、しかし、何もかもを許して抱き留めるような優しい静けさに満ちたあの世界へ送られているはずの魂だ。翆の問いに、女主人は一体何を言っているのかと言わんばかりの訝しむような視線を翆へと向けた。
「…どうして、って…だってあの子が死んだ時には、もうこの街に祭祀様は居なかったんですよ…?」
「え?」
 その言葉に、翆の方が怪訝な顔になってしまう。
「一体、遺された私達はどうすればよかったんですか。あの子の身体は…腐って行くんですよ、私の目の前で、可愛いあの子の身体が壊れていくんですよ! そんなもの見ていられません…」
「――ま、埋葬は?」
「祭祀様が居ないのに、どうしろって言うんですか!」
 僅かに苛立ったように、女主人の声が上擦る。翆は愕然として、改めて廊下の影へ視線を遣った。彼女の頭の中は、あっという間に疑問に埋め尽くされてしまう。どういうこと?
(だ、だって、そんな。死を悼む人が居るのに…祭祀者が居ないだけで、埋葬さえ出来ないなんて、そんなこと)
 そうして彼女は、思い出す。それはつい最近、この街の祭祀者を真っ先に殺した、あの殺人者とのやり取りだった。何故、真っ先に祭祀者を殺したのか。問い質した翆に、あの壊れた殺人者はこう答えたのではなかったか。
 ――彼らは、そこに居る『彼ら』を消してしまうじゃありませんか。
(…『死んだ人』を、<墓所>へと送り出すことを、彼は『消す』って言ってた。祭祀者がそれを行っていたから、だから殺したって)
 そして女主人の言葉は、それを裏付けている。
 この街の人達は、祭祀者が居なくなった、たったそれだけの理由で、死者を<墓所>へと送る至極簡単な、誰にでも出来る儀式の作法さえも忘れてしまったのだ。
(でもそれだけでは、…『死んだ人』がこの街にこんなにも留まる理由には、きっとならない)
 薄い肺から息を押し出すようにして翆は認める。例え埋葬をされずとも、「死んだ人」は大抵の場合、迷いながらもそれでも、ごく自然に<墓所>へとやって来るものだ。
(――私だわ。私が<墓所>から出たから…!)
 今までのものとは種類の違う寒気を覚えて翆は身をかき抱くようにする。目の前に蟠る、形さえもう失いかけた、死んでしまった幼子の眼球の視線に身が縮む様な想いがした。謝罪の言葉を口にしようかと唇を震わせ、しかし言葉が浮かばずにまた口を閉じ、翆はただ目を落としたままで、
(せめて私が<墓所>に居れば、埋葬されずとも、彼らが彷徨うことは無かったはずなんだわ…)
 強い執着を持った「死んだ人」であれば事情は違うだろうが、無意味に彷徨うばかりの哀れな魂が出て来ることだけは間違いなく防げた、と翆は確信した。と同時に思い至る。理解してしまう。
(……この街だけでも、この子だけでもない。他にも同じように彷徨う人が無数に居るはず)
 ああ、あの樒や、あるいは<モリビト>が自分を<墓所>へ連れ戻そうと――あるいは殺そうとするはずだ、と。俯いたまま翆は苦い笑みを口の端に刻んだ。この身はどんなに詰られても当然の身だったのだ、と。ずっと、頭のどこかでは理解できていたことを、今まさに目の前に突き付けられている。




 同刻――
 壁の壊れた殺人者の家で、血塗れた診療台と冷えて黒ずんで硬直した子供の亡骸を横に、静かに、夜中が口を開いていた。
「そう。お前が祭祀者を殺し、…たったそれだけのことで、この街の人間は『死者を<墓所>へ送る』なんて当たり前のことさえ出来なくなった。――それでも普通はそれだけでは死んだ連中はこんなにも淀まない、留まらない。何故って、<墓所>には死んだ連中を惹きつける――<墓所>の歌姫、新月の魔女が居るからな」
 告げながら夜中は淡々と、拳銃に弾丸を詰めていく。
「……こんなにも街に死人が留まったのは、<墓所>に彼女が不在だったせいだ。そして、」
 弾丸を詰め終えて、彼はその拳銃の撃鉄を上げた。銃口の向かう先には、返り血に赤く汚れた、最早白衣とさえ呼べぬ布(きれ)を纏った青年が居る。彼は穏やかな笑みを湛えたまま、不思議そうに首を傾げるだけだ。
「どうしたんですか、一体全体――」
 彼の問いを無視して、夜中は続ける。重たい鉛を呑み込んだ大型の拳銃を両手で構えた夜中の狙いには一点の揺れも無かった。だがその先を睨む、刃の色の瞳は陰鬱だ。
 ふぅ、と、壊れた壁の穴から生ぬるい風が吹く。
 覗く曇天は、ただただ赤く、それは眼前の人物の薄汚れた白衣を連想させた。
「…そして、そんな歪みに耐えきれなくなったこの街は狂った。街そのものが、<魔物喰い>と化してしまうほどに」
「あなたは、何を言ってるんですか?」
 重ねられた問いを夜中は無視して、逆に問いかける。銃口の向かう先へ、それは問いと言うよりは確認の、
「――ああ、分かった。それが、依頼なんだな?」
 確かに何者かに確認を得る言葉に、初めて辰砂の表情が僅かに揺らいだ。黒い銃口の先が自分を最早向いていないことに、夜中がそもそも自分に語りかけていないことにようやっと気付いたのだ。だが、誰に?
 ここには確かに、不定形な姿になった、かつて肉体を持っていた人々が居る。自分が肉体から解放した人々だ。だが、夜中の銃口はそのどれをもさえ向いていない。銃口の向く先を辿るように辰砂は視線を自分の背後へとゆっくりと動かし、そして。
「…それが客の依頼なら、応えるさ。俺は<店主>だ」
 辰砂の視線が夜中の言葉の先を捉えるよりも、銀の弧を描く銃弾が薄闇に放たれる方が速い。辰砂の頬を殆ど掠めるように、しかしその頬に熱よりも乾いた冷気さえ感じさせる銃弾は、辰砂の背後の何かを穿った。だがその着弾を確認さえせずに、引き金を引いた<店主>は低い囁くような調子で素早く何事かを呟いている。
 彼が<店主>だというのならば、その言葉は、この世ならぬ外法のものであろう。
「届かぬ言葉を虚しく紡いだ歳月ならば無くならない。不着の膨大な手紙達よ、宛先なら今俺が書き換える。さぁ、」
 銀の銃弾は虚空でひしゃげて、そこに形ならぬ波紋を産んだ。
「届け」
 淡白な夜中の言葉と同時、その波紋は、ひとつの姿を生み出した。人の形だ。不定形に輪郭は揺らぐがそれでも人の形だと認識できる程度には確たる人影だ。背後の薄赤い、月光と呼ぶにも悍ましい光を透かして、色彩こそ判然とはしなかったが、中年の疲れた女性の姿がぼう、と、そこに浮かび上がり、形を取る。
 ――辰砂には見慣れすぎるほどに見慣れた姿であった。悲しげな伏し目がちの目線と、やつれた頬を忘れようもない。
「母さん…?」
 何故、と、半ば呆然と呼びかけた先、――辰砂の母、花紺青は息子の声には応じずに、夜中に向けてまず一礼した。
「応じたぞ」
『…お手数をおかけしました。正式な召喚でもありませんのに、依頼を受けて頂いて感謝します、<店主>の方』
「ただの仕事だ」
 無造作にそう告げる夜中は詰まらない表情で花紺青を見据え、それから、恐らくここで初めて、真正面から辰砂を見やった。睨むような刃の色の瞳には微か、何か、侮蔑とも羨望ともつかぬ奇妙な色が一瞬浮かび、消える。
「母さん? どうしてこんな所に…だって、随分と前に、司祭達に消されてしまったはずなのに…」
 上擦り震える辰砂の声に応じるように、花紺青は薄く透ける手を伸べる。触れようとした指先は触れることなく、溶けるように消えてしまうが。
「どうして…」
『私は<墓所>に居て、あなたを見守っていたのよ、辰砂』
「嘘だ。祭祀が母さんを<墓所>へ送ったと言って、それっきり、母さんは消えてしまったじゃないか。祭祀が母さんを消したんだろう?」
『いいえ。――私は死んだのよ、辰砂』
 やつれた顔に虚ろな笑みを浮かべて、花紺青は優しく告げる。触れられぬ我が子の頬を愛おしげに撫でながら、
『あなたが殺したのよ、辰砂』
 糾弾する訳でもなく、ただ静かな言葉に、辰砂は僅かたじろいだように後ずさるが、花紺青の動作はそれを許さない。まるで幼子を抱き締めるように優しく、しかし確たる動きで辰砂との合間を埋めようとする。
『そう、あなたが殺したの。――私の病が不治の病と知って、あなたは言ったのよ、』
「僕は、母さんを楽にしてあげたくて――だって――『そう』なれば、もう痛くも苦しくもないから」
『…ええ、そう言って、あなたは私を殺したの』
 花紺青はそう返して力なく腕を下げた。
『思えば私が間違っていたのね。――あなたが<視て>居るものを、幻の類だと思っていた。…感受性の強い優しい子だから、それ故にそういうものを<視て>居るのだと。…あなたが見ているものの正体を私が知っていれば、幼い頃のあなたに、それが<死んだ人>なのだと。正しく伝えていれば、こんなことにはきっとならなかったのね』
「違うよ、母さん。母さんだってここに居るじゃないか…死んでなんか…」
『違うわ。辰砂。死んだのよ。あなたが殺したの』
 噛んで含めるように、幼子に諭すように、静かに優しくしかし断固とした調子で花紺青は繰り返した。
『祭祀様は、私を<墓所>へ正しく送って下さっただけで、私を殺したのは、私をこの世から消したのは、あなたなの』
「違う、僕はそんなことしていない! 司祭が母さんを消したんだ! なのに何でこんなこと、言うんだ…!」
 辰砂の言葉が、次第に駄々を捏ねる幼子のような口調を帯び、そしてやがて彼は夜中の方へと視線を向けた。虚ろな、瞳が夜中を前に焦点を結ぶ。
「あなたは、一体何をしたんだ」
「…何も。お前の母親、その女の依頼に応えただけだ」
「依頼!?」
「<死人>は視える癖に、生前に縁があれば誰にでも見える<残留思念>は視えなかったのか。お前の後ろで、お前を咎めるようにずっとずっとお前を見ていたのにな」
 それまで淡々とした調子だった夜中の表情に僅か、侮蔑の笑みが浮かぶ。唇に薄い笑みを佩いて、彼は口調だけは淡々としたままで続けた。
「…それとも単に見たくなかっただけか? 自分の罪から、目を逸らしていたかったか。母親を殺したことを、母親を『助けた』とすり替えて」
「…っ!」
 否定の言葉か、それとも別種の感情か、激高を呑む様な間を置いてから、しかし、すぅ、と辰砂は息をゆっくりと吐き出した。
「母の苦しみを終えたことを、あなたに責められる謂れはありませんよ、魔女殺し…!」
 その言葉に、夜中はただ嘆息する。忌々しい響きがこの殺人者の口から飛び出してきたことは、それでもまだ、予想の範疇ではあった。樒と接触していたのだから、それくらいは有り得るだろう。だが、
「あなたも同じだ、私と。魔女を苦しみから救うために、魔女を殺す、あなたはそういうものなのでしょう?」
 ――感情を感じさせない、その言葉に、夜中は眼光を鋭くした。刃の色の瞳を眇め、堪えきれずに小さく唸る。
「やめろ」
「…ふ、ふふ、御笑い種だ。私を殺人者と糾弾するのなら、あなたも責められなければならないだろ…!」
『辰砂、やめなさい――』
 咎める母の声も、辰砂を止めるには至らなかった。彼はただ壊れたように叫ぶだけだ。
「黙れ! 僕が、僕が母さんを楽にしてあげたんだ! なのに何で、母さんが…そんな責めるような眼で見るんだよ!!」
『辰砂…?』
「違う、違う違う、母さんは…楽になったはずだろ…何で…責めるなよ、僕を責めるな!」
 裏返り、悲鳴染みた声がまき散らされる中、表情を消した夜中は無言で銃口を持ち上げていた。銃口の向かう先は頭を抱えて駄々っ子のように喚く、辰砂。今装填されている銃弾は、先に花紺青の姿を露わにするために使った、外法の力の媒介である<月鉱片>の銃弾ではない。至極当たり前に人を傷つけ喰らう鉛の銃弾だ。引き金を引けば、辰砂の脳を撃ちぬくことが出来る。
(駄目だ、こいつは魔物じゃない。俺が裁いちゃいけない相手だ)
 理性はそう囁くのに、夜中の脳裏では別種の感情が暴れ狂っていた。それを吐き出すように、夜中は低く叫ぶ。誰に向けてでもない。強いて言うのなら、自分自身へ言い聞かせるように。
「俺とお前を一緒にするなよ殺人者。俺の<それ>は、もっと――!」
 焦がれる。
 心臓が跳ねる。
 脳裏に浮かぶのは刃が皮膚を破り肋骨に触れ心臓を抉る、その瞬間の、断末魔の、吐息のような囁くような彼女の声で、夜中はその記憶の中の光景に打ちのめされるように顔を伏せた。
 この手は、彼女の心臓を貫いた感触を忘れようが無い。断末魔の声も。忘れようなく、記憶に焼き付いている。
 そして、その瞬間。
 間違いようなく、自分が感じていた、恍惚も。
 忘れようが、無いのだ。
「――もっと浅ましくて、醜いものだ…!」
 そして理性の制止を振り切るように、夜中は引き金を引いた。
 夜の底を撃ちぬくように重たい銃声が響く。だが。
「…っ!」
 覚悟していた悲鳴もなく、血飛沫さえもない。
 辰砂が呆然としたままその場にへたり込むのを見ながら、夜中はひとつ、息をついた。安堵の、と呼ぶには幾らか軽いそれは、辰砂と自分の間、ちょうど銃弾が飛んだであろう軌跡の途中に向けられている。
「…亜鉛。落ち着け、あれでも急所は外していた。魔物でもないのに、殺す訳にはいかないだろう」
 そこまで頭に血が上ってはいない、と彼が語りかける先には、鉛色の小さな塊が蹲る様に床にへばりついている。辰砂と夜中の間に飛び込んできたそれは、銃弾を抱えるようにして床に落ちたのである。辰砂を庇ったというよりは、夜中に殺させまいとしてそうしたのだろう。
 床に落ちたそれを拾い上げ、夜中はまた元の冷淡な視線で、床に座り込んだ辰砂を見下ろした。
「ともかく、俺にお前を裁く権利は無い。せいぜいそこで、母親の言葉を受け取ることだ。…それは、お前の後ろで、ずっとお前に届かせようとしていた言葉だったんだからな」
 言葉には最早、感情を窺うことはできなかった。先の激情が嘘のように、彼は手に乗せた鉛の塊と共にくるりと踵を返してしまう。
『<店主>様――』
 その背にかけられた弱々しい女の声にも、夜中はちらりとも振り返らない。ただ、歩み去りながら、
「…依頼は果たした。あんたの言葉がどれだけそいつに届くかは知らないが、…後は俺の問題じゃ、無いからな」
 その言葉に、花紺青は軽く頭を下げたが、その様子もまた、夜中が見ることは無かった。



「…悪かったな、亜鉛。心配をさせた。…ああ、そうだな」
 そうして歩き去りながら、夜中は手の上でゆっくりとながら小鳥の形を取り始めた鉛色の塊に向けて呟く。
「……この街を助ける。それが依頼だから、な」
 確認するようにそう言って、彼は目線を空へと投げあげた。
 薄赤い空は時折ぐるりと淀み、蠢く。まるで意思を持ち始めたかのように。その様に小さく舌打ちをして、夜中は目線を街へと戻した。異様な静けさに沈み込んだ街はまるで、人の意思など存在してさえいないかのようだ。
「…樒は、端からこうなるように仕向けていたんだろうな…」
 あの殺人者は、樒に唆されたかのようなことを言っていた。だとすれば。
 祭祀者の不在による、この街の歪みも。翆を自分が連れ出したことによる死者の淀みも。樒の計算の内なのだろう。
(この街を街ごと魔物にして…街ごと、『封印』する積りだろうな)
 「満月の御子」である樒の力は、翆とは真逆だ。翆のそれはありとあらゆるものを「死」へと向かわせる「変化」の力だが、彼は逆に「変化を拒否」することが出来る。
 それは通常であれば、死に至るものを逆に生かし、滅びたものを再び蘇らせることも出来るのだが、
(魔物に対して『変化の拒否』を与えることで、その魔物の存在が一切周りに影響しないようにすることが出来る)
 それがすなわち「封印」だ。周りに影響を与えず、周りから影響を与えられることも無くなれば、それはこの世に存在していないのと同じことになる。
(樒のことだ。この街に俺達が『呼ばれる』ことまで想定内、か…そうして街ごと、俺達を「封印」する積りなんだろう)
 嘆息して、夜中は今一度空を見上げる。多分、どこかで樒は、この「魔物喰らい」が成長し、完全に魔物化するまで見守っているのに違いなかった。