赤く淀む空の下、意思を亡くしたように沈黙する町の頭上を嘲笑するように、橙のレースと真珠の光沢を放つ白が舞った。足場のない虚空、淡く雨に煙る空気を泳ぐようにその姿はくねり、跳ねて、やがてある一画でくるりと円を描く。その円の中心には、人形染みた人影がひとつ。こちらも虚空に、身動ぎすらせずに停止していた。一刻も留まっていない白い影とは対称的に、呼吸さえしていないかのように動かぬ黒い姿は、ある意味では、町の沈黙とよく似ていた。人の意思というものをおおよそ感じさせぬ冷たい存在だけがそこにある。
「樒ぃ…」
 円を描いてその人影に纏わりつく橙の異形の影は、情けない声で冷たい人影に呼びかけた。反応は無いが、彼が決してこちらの声を聞いていない訳ではないと知っているから、橙の異形は更に続ける。それは甘ったるく甲高い、幼さの残る少女の声で、
「…ごめんなさい。また逃げられた」
 対して、樒、と呼ばれた影――満月の御子であるその人物は、日に透かした蜂蜜のような金の瞳でちらと異形を一瞥しただけであった。冷淡、とさえ呼べぬ、感情の無い視線。
「端からお前に左程の期待等していないが。それにしても使えないな、閼伽」
 一切の感情抜きに告げられる内容に、閼伽と呼ばれた異形は項垂れた。心なしか、レースの縁取りまでもが一緒に項垂れたように見える。
「ごめんなさい、樒。今度はちゃんとやるから、だから、樒…」
 消え入りそうな程に弱々しい声と共に、閼伽は姿を変えた。濁った赤い空を背景に、異形の魚の輪郭が解れて、人の形を構築していく。薄暗い空の下で底抜けに明るく場違いな、真珠色のワンピースに縁取りの橙のフリルが揺れていた。
「アタシを壊さないよね?」
 真赤い瞳に覗き込まれた樒はやや鬱陶しそうに、頭上から彼を覗き込む少女の異形を払いのけた。払いのけてもなお白い姿が纏わりついてくるので、それまで全くの無表情だった彼の眉間に僅かながら皺が刻まれる。いよいよ鬱陶しくなったらしい彼は、ようやっと口を開いた。
「…お前にはまだ価値がある」
「そう?」
 彼のたった一言で、どうやら彼女の機嫌は急激に上昇したらしく、その姿までもがふわふわと浮かび上がり始めた。さっきまで萎れていたレースの飾りまでもがふわりと、風もないのに揺れて蠢く。
 僅かに薄赤い不気味な夜闇の下、くっきりと映える白い腕が、するりと樒の首に回される。褐色の樒の肌の上をなぞる白い手が、後ろから彼を抱き締めるように合わさり、絡んだ。
 閼伽は、魔物である。魔物に体温は無い。だからその手の感触はただ冷たいもののはずだったが、樒はあえて振り解こうともせず、僅かに眉間に皺を寄せたきり、何も言葉に出さなかった。代わりに自分の首の前あたりで絡められた閼伽の白い指先に視線を落とし、そして自分の指を重ねる。応えるような所作が嬉しくて、閼伽は笑みを浮かべて、親猫にすり寄る仔猫の様に樒の首筋に自分の顔を埋めた。
「大丈夫だよね。これでおしまいだよね? あいつらは、もうこれでおしまいなんだよね、樒?」
 やがてその恰好のまま囁くように、閼伽が問う。樒から答えは無かったが、元々その辺りのことを閼伽は期待していなかった。樒は元々とても寡黙で、<満月の魔女>として言葉を発する時以外はあまり口を開くことが無い。――<魔女>としてではなく、本来の彼がきっとそういう人なのだろう、と、閼伽はそう納得している。だから、沈黙したまま動かぬ樒の代わりに、という訳でもなかったが、どうせ返ってこない答えなのだから、と、自分の問いを確かめるように、自分自身で閼伽は答えを口に乗せた。確認の意味もある。
 彼女は顎のあたりに指先をあてて、思案するように目線を上に向けた。その方向には空があり、薄く淀んだ赤い曇天が重苦しく立ち込めていて、それは丁度自分の瞳の色を同じだ――と一人得心して彼女は頷いた。
「あの殺人者に人を殺させて、死んだ人を<墓所>へ送る祭祀者も殺させることで、死んだ連中を街に留めたのよね。そのお陰でこの街、淀んで腐って勝手に流行病なんてものまで引き寄せて、人が死んで、その癖に<墓所>へ送れないから、また淀んで。――そうやってこの街は歪んで、街ごと<魔物>になったのよね」
 ここまで合ってる? と問うように背後から樒を覗き込もうとしたが、これといって反応が無いので多分認識に問題はないのだろう。またひとつ頷いて閼伽は言葉を続けることにする。
「えーと、それで…この街は、<魔物喰らい>って言う珍しい魔物になったんだよね…」
 その名前を口に乗せながら再度確認するように頭上を見上げると、どろりと淀む赤い色が、まるでこちらを見下ろしているような錯覚を覚えて、彼女はぞわりと背筋の粟立つような感覚に慌てて視線を戻し、樒に縋る腕に力を込めた。苛立たしげに樒が腕をひとつ叩いたので少し力を入れ過ぎたかもしれない。
 だがこの恐怖はやむを得ないだろう。あれが魔物を喰らう<魔物喰らい>にまで「堕ちれ」ば、実際魔物である閼伽とて危険なのだ。
「…<魔物喰らい>は魔物を呼んだり、自分の体内のヒトを魔物に、追い落とすこともある、と」
「時間はかかる」
 小さく訂正が入った。
「…が、アレは元々狂気を抱えた身だ」
 アレ、と示されたのが何者なのか、その辺りは言われずとも伝わる。狂気を抱えながら<新月の魔女>と共にあり続ける道を選んだ、あの咎人。<店主>の青年を思い浮かべながら閼伽はそっと目を伏せた。
「そうだね。――うん、知ってる。アイツの狂気は、アタシと同じものだ」
 閼伽の独白には、樒は応えなかったが、これは特に肯定でも否定でもない――単純に興味が無いんだろうなぁ、と閼伽は内心で嘆息した。アタシにとっては大切なことなのになぁ、とも。
「だからまぁ、このまま放っておいてもアイツは勝手に<魔女殺し>にまで堕ちるかもしんないのよね。その辺、大丈夫なの、樒? 樒も魔女だけど」
「何の為にお前を連れて来たと思っている」
「あ、うん、そうだっけ、そうだね。えへへアタシ頑張るね。――えっと、でもどっちみち…」
 閼伽はふぅ、と細く息をついた。空から感じる圧迫感は、時を追うごとに強いものになっていた。最初の頃は気のせい、で済ませられる程度だったのが、ここ最近、特にあの咎人と<新月の魔女>が街に入ってからは殊に強さを増している。
(あの魔女は<死>の力を持ってるはずだから、この魔物が活性化する訳ないんだよなぁ)
 死の力は、眠りや忘却、それだけでなく「狂気の鎮静」といった効果も持ち合わせている。
 多分あの青年、咎人である彼の狂気に呼応しているのだろう。<新月の魔女>は肉体と記憶を失っている関係上、あまり強い影響力を発揮できないのかもしれない――というか彼女が万全の姿でこちらの世界に現出なんてした日には、触れたモノが片端から死んだ挙句に世界の生死の境目が反転して、世界の根本が壊れてしまいかねない。
「…もう少しでこの街、完全に、魔物に『堕ちる』し」
 僅か、腕を回した身体が首肯するような気配があった。そのくすぐったさに笑みを浮かべながら、閼伽は呟く。
「そしたらもうおしまい。魔物化した街にあいつら二人で閉じ込められて、それを外側から樒が<封印>して――それで全部、おしまい。新月の魔女は<墓所>に引き戻されるだろうし、<魔女殺し>は<魔物喰らい>に食われて終わりかなー」
 そうすれば、と閼伽は思う。
 そうすれば、樒はずっとあの静かな場所で静かに過ごすことが出来て、自分はその傍で静かに泳いで、たまに声をかけて、そういう平穏が戻ってくるのかもしれない。そう、<新月の魔女>が何を思ってか<墓所>を出奔するまでの長い長い時間、自分達はずっとそうして過ごしてきた。時間の感覚さえ凍りつくような、月明りの下で。
「…どうしてあの魔女は、<墓所>を出たりしたのかな。あそこに居れば、永遠だったのに」
 静かに、誰にも侵されぬ永劫に静かな場所。
 ――閼伽は<漆黒墓所>を薄らとではあるが覚えている。
 魔物である彼女の本体、魔物としての本性は<水子>だ。すなわち、母の胎の中から生まれることが出来ずに<白夜揺籃>――全ての生きとし生けるものが、生まれる前に過ごす揺り籠へと押し戻された魂の集合体である。
 生まれることも出来ずに死ぬ<水子>の魂は、通常ならばきちんと浄化され、<漆黒墓所>へと向かう――のだが、自我の弱い<水子>は稀に、同じ境遇の魂同士が集まり、曖昧な自我が溶けて混ざり、現世に留まったままで魔物と化することもある。
 閼伽は、こうして自我を得た魔物だった。閼伽と同化した魂の中にはどうやら一時期は<漆黒墓所>へと送られていた魂もあったようで、彼女の中には断片的にではあるがかの<墓所>、全ての死人を抱きとめる静謐なあの場所の記憶もある。
 その閼伽の記憶にある<墓所>は、ひやりと冷たく、さりとてそれは不快ではない。寝苦しい暑い夜に冷たい手で頬を撫でられるような、不思議な優しさを感じさせる場所だった。音と言えば泡のように浮かんでは消える死人達の声であったり、或いは――
 ――歌、であったり。
 乾いた白い月明かりに満たされた、しかし闇の帳に覆われたその場所に、新月様の加護を受ける限り、永遠に居られるのに、と閼伽はちらりと考えてしまう。
 あの魔女はどうして、わざわざ出奔したのであろうか、と。
 全ての月神様から睨まれて、更にはこの街のように、死者を溢れさせるような切っ掛けまでもを生み出して、恐らく今後世界中の人から恨まれるだろうに、それでも尚、彼女は出奔した。あの<魔女殺し>と、手を取り合って。その代償に、身体と記憶を失い、更には、
(どう足掻いたっていずれ、あの<魔女殺し>に殺されるのに――)
 死は避け難い終幕であった。全てとの忘却、離別、一度は死を経ているとはいえ、閼伽はそれをとても恐ろしいと思う。魔物と化した身の上で、更には樒に、利用価値を認められたから、という理由付ではあるが傍に置いて貰えて、今この身には死はとても遠いものになっていることを、彼女自身は幸運だ、と信じていた。
 だからあの<新月の魔女>の選択は理解できないなぁ、と思うのだが、一方、不思議と閼伽はあの<魔女>に共感できるものも感じている。矛盾してはいるのだが。
(…何だろうな、羨ましい、ってのは違うかなぁ…)
 よく分からない。閼伽は<水子>ゆえ、あまり頭を使うのが得意ではなかった。ただ、感情として、何か不思議な共感を覚えている。
(…誰かと一緒に居たい、って気持ちは、分かるからなのかな)
 それだけでは足りないようにも思えたが、彼女の中ではその辺りが結論としては限界だ。これ以上は考えても、なかなか答えが出なかった。なので閼伽はあっさりと疑問は放棄して、また樒にしがみつく手に力を込める。今度は叩かれなかったので、力加減がきちんと出来たのだろう。
「ね、樒はどう思う?」
 樒は嘆息し、じろりと金の瞳で閼伽を睨んだ。
「…お前は何度も、同じことを訊くな」
「だって分からないんだもん」
「罪人の考えなど、理解する必要もない」
 返ってくる答えはいつもと同じ、切り捨てるような口調だった。それでも毎回、この疑問にだけは、樒は律儀に答えてくれるので、閼伽は折に触れて口にすることにしていた。彼の反応があるだけでもなかなかに彼女にとっては嬉しい。鋭い視線で肩越しに自分を睨んでくる樒の眼前で閼伽は赤い瞳を細めて蕩けるように笑む。嬉しくて仕様が無い、と言うような笑みは、彼女の本質が生まれて来なかった「赤子」であるが故なのだろう、どこまでも無邪気に見える。が、冷たい視線でその笑みを一瞥した樒は、それきり、また沈黙と共に視線を街へと戻してしまった。
 閼伽も、樒にすり寄るような恰好のまま、街へと視線を戻す。
 街は淀んだ闇の中、耳が痛くなるような沈黙に覆われている。誰かが呼吸をしていることさえ、誰かが鼓動を打っていることさえ信じられなくなりそうなほどの静けさだった。否――
その時、不意に、意識だけを引きずられるような異様な感覚に襲われて、閼伽は身を竦めた。視界が暗くなり、酷い耳鳴りまで聞こえてくる。
「――来たな」
「うぅ…何、が?」
 樒が空を見上げて告げるのを曖昧な意識のままで聞いて、閼伽は彼にしがみついたまま問い返す。揺れる視線の先、赤い空が、はっきりと揺れていた。眩暈のせいかと思っていたが、――違う。ぐらり、と、空が傾ぐ。
 落ちて来る。
 背筋が凍る、等と言うものではない。本能的な恐怖に、頭の中が真っ白になり、閼伽は呆然と空に目を奪われるしかなかった。街そのものが引っ繰り返っていくような――奇妙な光景を、歪む視界に、閼伽はしかと捕えていた。
「<魔物喰い>が…生まれ、た?」
「予想より早い、か」
 淡々とした調子の樒の口調が今は有難い。冷静な様子で、樒は閼伽にしがみつかれた格好のまま、僅かに目を眇めた。
「こうなれば、最早、止めようもない」
 その言葉に何か僅か惜しむ様な響きを耳に捕えて、止まって欲しいの、と、閼伽は問おうかとも思ったが、縫い止められたように口がきけない。
 目の前、薄赤い雲のような、霧のような、茫漠とした塊が街を覆い始めていた。



 一方の夜中も、「それ」を目撃していた。空が落ちる。赤い闇が、街に落ちて来る。足元から粘ついたものに絡め取られるような感覚にぞっとして足を浮かせると、足元を浸す霧がべったりと、まるで意思あるもののように彼の足に絡みついていた。見やった足元、石で舗装され固められていた道路は、少しずつ輪郭を崩し溶けて交じり合っている。その様を目の当たりにして眩暈を覚え、夜中は反射的に銃口を向けていた――が。その手が、止まる。
「…」
 冷徹な銀の刃を想わせる鋭い視線が、銃口の先を睨み据え――震える。彼の視線の先、固いはずの石が小刻みに揺れ、赤い霧とも液体ともしれぬ何かが辺りを浸す中、彼の視線の先には、小さな人影があった。ヒト、という形をかろうじて保っているような、滑った表面と口と目を表すらしい黒い点が穿たれているだけの塊にしか彼の目には映らなかったが、それでも夜中には分かった。彼は銃口をおろし、目を瞑る――あまり周囲を眺めていると頭がどうにかなってしまいそうだったし、多分実際、「どうにかなってしまう」のだろうとも思えたのだ。
 目を閉じた夜中の前で、それこそ目を閉じて耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなか細い声が響く。
「助けて。街を、助けて…」
 僅か、細目を開けて夜中は銃把を握り直した。いつの間にか、掌には酷い汗をかいている。
「…すまん。間に合わなかった」
 苦々しく呟いた言葉に、しかし小さな黒い人影は首を横に振る。
「まだ、」
「――まだ?」
 答えは――
 無かった。石畳の地面がぐにゃりと歪み、引っ繰り返って、石畳の裏側に人影が呑まれたのだ。ぞくりと背筋が粟立って、夜中は一歩を飛びずさり、着地した場所の不確かさにまたぐらりと倒れそうになる。見れば足元は、先まで壁だった場所だった。建物の壁が地面に――いや、全てが歪んでそういう風に見えているだけなのだろうか。歯を食い縛って夜中は不確かな足元に力を入れて、今度こそ銃口を足元へ向けた。自分自身を撃ちぬくことも考えたが、
(あれは負担が大きいからな…)
 彼なりにこの間で多少懲りていたのだった。そうして、言葉に出さぬまま、彼は瞳を伏せて思案する。
(『まだ』、か。何を言おうとしたんだろうか――)
 等と考える間にもまた、足元が歪み、それだけでなく目の前も歪む。一時たりとも同じ場所に留まることは出来ないらしい。まるで街そのものが、ここに居る夜中を喰らおうとしているかのようだ。壁であったはずの場所にまた足をかけ、夜中はとりあえず、自分の後方へと飛んだ。着地した先は、恐らく本来は窓だったのだろう、カーテンがかかっていて穴が空いており、着地した夜中に抗議するように硝子が足元で軋んで夜中は先までとは違う意味でぞくりとした。慌てて足元を見る。カーテンでぴっちりと閉じられた窓の内を窺うことは出来ないが、一瞬、――中の人間と、目があった。
 ――中の人間の、赤い眼と。目が合った。
「…!?」
 頭を殴られたような衝撃が、足元を覚束なくさせた。悲鳴をあげる余裕もなく、夜中はそのまま足元の硝子を砕いて、室内へと落下していく。身を小さくして衝撃を弱めようと咄嗟に動いたが、しかし、落下の浮遊感は訪れなかった。背中に柔らかなものがあたっている感覚があって、彼は眉根を寄せて起き上がる。
 見渡せば、そこは寝台の上であった。どういう状況かは分からないが、窓の外と、この室内では、天地の位置が違うものらしく、天井はきちんと頭上にあり、足元には床がある。当たり前のことと言えば、そうなのだが。
 頭を振って先程までの眩暈を打ち払っていると、背中の辺りにヒヤリと冷たいものを感じ、反射的に夜中はその場で身を起こしていた。立ち上がりざまに振り返り、背後を確認する。
 先程「街」に飲まれたと見えた黒い小さな人影が、まだそこにはあった。安堵と驚きを綯交ぜにした感情を抱きつつ、夜中は拳銃を握る手だけ緩めずに、しかし膝をついて人影に視線を合わせる。
「…依頼人が消滅したら、俺はもう何も出来ないぞ。ひやりとさせてくれるな」
 大丈夫、とでも言うように、小さな人影は首を横に振った。
「――依頼は、…この街の死人、全員のもの、だから」
 だから容易には取り消されない、ということだろうか、そう考えてから夜中は僅かに視線に険を含ませた。
「俺と会話が出来る程に自我を保った死人が、ここに一体どれだけいる?」
 答えは無く、だから、恐らくそう多くは無いのだろうなと簡単に想像がつく。肺の中身を押し出すようにして夜中は少しだけ長く息を吐き出して、それから顔を上げた。小さな人影に対してではなく、その向こうに居る人物に向けて目線を合わせる。唖然、とした表情で、そこには人が立っていた――輪郭の定かではない死人達とは違う、明確な温度を持った人間が。恐らくこの家の人間だろう。夜中は自分の立場をどう説明したものか迷い、迷ってから面倒臭くなって説明することを放棄した。ずかずかと無遠慮な足取りで、立ち尽くしている男を押しのけて廊下へと出る。
「お、おい、あんたは一体――!!」
 何事か背後で男が叫ぶのを気にも留めず、そのまま外へ出ようかどうしようかと一瞬思案した夜中はふと、目の前の扉に目をとめた。急に足を止めた彼に何を感じたか、家人が声を強くする。
「誰だか知らないが、早く出て行けよ! こんな夜に、折角何も見ないようにしてたってのに…!」
 詰るような、しかし強い怯えを含んだ叫びに、夜中は一度青年を睨みやる。その表情は不機嫌を通り越し、怒りというよりも強い蔑みを浮かべてさえいた。吐き捨てる。
「…俺も胸を張れる身の上ではないが、この街の連中は悉く救い難いな」
 唐突な侮蔑の言葉に、青年は呆気にとられたようだった。当然だろう。見ず知らずの侵入者に、いきなりそんな風に言葉を投げつけられる覚えなどあるはずもない。眉を寄せて何かを言い返そうとする家人を無視して、夜中は足を止めていた目の前の扉を開く。
 ツン、と鼻をついたのは、紛うことなき腐臭であった。
「やめろよ!」
 青年が掴みかかってきたが、飛びかかってきた彼を夜中は僅かな動きと足払いで部屋の中に倒れ込ませ、自身も一歩部屋に入り込んだ。途端に鼻を襲う耐え難い腐臭に顔を顰めこそするが、死した人の形を捉え、人よりもずっと死に近い場所を生きている彼の足を止めるには至らない。
 不愉快を隠そうともせず鼻の頭に皺を寄せた夜中が睨む先には、湿気に傷み腐り落ち、蟲に喰われるばかりの、最早ヒトの形すら真っ当に保ってはいない骸がひとつ。
 そして夜中の視界には、その骸の傍に蟠る小さな闇も見えていた。人の輪郭すらまともに保っていないが、恐らく「死人」だろう――目の前の骸に魂を宿し、かつては生きていた筈の。
「弔いひとつ、まともに出来ないのか」
 苛立ちを目の端に刻んで夜中は床に倒された男を睨みつけた。目を逸らしたまま、しかし悲鳴をあげるように、血を吐くように男が叫ぶ。
「祭祀が死んだんだぞ! しかも一家揃ってだ…! あの<殺人鬼>のせいで、俺達にはもう、弔う手段が無くなっちまってるんだよ!」
「…いなかったよ。<殺人鬼>なんて、この街には」
「そんな訳ないだろう、人が死んでるんだぞ!」
 床を叩きつけ、男が立ち上がろうとする。夜中はとうとう目を逸らし、部屋の奥の骸を見遣った。弔いは祭祀者に押し付けられ、死の責任は魔物に押し付けられ、そうして死者の魂の安寧は――多分、<漆黒墓所>の墓守である魔女に。こうして押し付けられてしまっている。
 夜中は次いで己の手を見下ろした。ここで目の前の死者の魂を、彼自身の異能、「送る」力で<漆黒墓所>へと届けることは容易だろう。だが。躊躇う。
(俺達はこの街にはとどまらない。いずれ出て行く。その後の死者はどうする…?)
 人が死ぬ、というのは、避けられない運命なのだ。いずれ誰もかれもが死にゆくとすれば、それを弔う力を持たないこの街は、今この時を凌いだとてまた何れ同じ災禍を呼ぶに違いない。
 逡巡は、さして長い時間ではなかったはずだ。だが、この街に猶予があまり残されていないことを、迂闊にも夜中はこの時失念していた。気が付いた時にはぐらり、と足元が揺れ始め、強烈な耳鳴りで辺りの音さえ聞き取れなくなる。眼前の男が何かを叫んだようだが、この時には既に夜中には何も聞こえなかった。その代り、音ならぬ声――「死人」の声だけ妙に鮮明に彼の脳裏に届く。助けて、助けて、助けて――ひとつひとつは泡のような小さな声は、無数に響いて、夜中は脳裏で小さな泡が無数に弾けるような感覚に頭を抑えた。掻き毟りたくなる衝動を堪えながら、拳銃の銃口を上げる。
「眠りは、遠く」
 倒れ込む体に逆らうように口を開く。
「夢を見る、近く。夜はここに、この場所に、いつか来る朝を座して待つ…、…っ」
 言葉を繋ぐ間にも、薄赤い霧のようなものが、部屋に満ちはじめていた。部屋を侵食する霧がやがて骸に触れ、そして部屋の隅の「死人」に触れる。キリキリと、形にならぬ悲鳴のような音が夜中の臓腑を引っ掻いて、それきり霧に呑まれていく――
(喰われる)
 間に合わない、と。夜中が諦めて銃口を下ろそうとした、その時だった。

「…いつか来る朝を座して待つ。ここは夜の底、暗く静かに夢を見る。眠りは遠く、夢は近く、…いずれ来る朝を待つために」

 歌声だ。
 夜中は赤い靄の中で、顔を上げた。どこからか、耳鳴りに侵された彼の聴覚にさえ沁み込んでくる、歌声。
 ――それは月の無い夜の静謐な闇に似て厳かで、間違いなく夜気の冷たさを帯び。清冽な水の匂いを纏い、聞く者全ての脳裏に鮮やかな色彩の羽根を広げていく。
 「死人」の声は聞こえていなかったはずの街の男でさえもが、先までの恐怖を忘れたように顔を上げ、唖然とした様子でその歌声に聞き入っている。
 夜中の目と耳には、死者達が歓喜と安堵にさざめくのが見え、聞こえた。脳裏を乱していた泡のような悲鳴は引き潮のように引いて去り、ただ優しい歌声だけが残る。
 だが歌声の美しさが響けば響くほどに、夜中の顔色は血の気を失っていった。
 知っている。この声の主を彼は知っている。死者達を慰め、間違いなく<墓所>へ送り届ける奇跡のような歌の主を、その力を、そして。
 それがもたらす破綻を、彼は知っていた。絶望の滲んだ声で、夜中は叫ぶ。最早届かぬことを承知の上で、肺の中身を全てぶちまけるように。

「駄目だ!! 歌うな、翆…!! 俺はまだ、お前を――!!」」

 夜中の叫びに応えは無く。歌声だけが、響き渡る。
 ――そして異変は起きる。
 歌声に慄くように。ゆっくりと、赤い霧が消えていく。夜の曇天を地に落としたかのような、狂った街の輪郭も次第に消えていく。
 そうして消えたその後に、しかし元の街の姿はどこにも無い。ただ暗く、だが不思議に白く乾いたような印象を与える地面だけが広がっていく。遠くに川のせせらぎを響かせて、夜空も地面も溶け合ったようにただただ、暗い。そこは。




 <魔物喰らい>を恐れて樒にしがみついた格好で街を見下ろしていた閼伽もまた、その異様な状況を眺めていた。引き攣った悲鳴を上げる彼女を余所に樒が僅かに瞬き、呟く。
「あれは――<漆黒墓所>そのものだな…?」
 珍しくも、眉根を寄せた表情には困惑がある。
「な、何でよぉ!? 何で<墓所>が現世に出現してんのよぉ!?」
「…死を。飲み過ぎたか、この街は」
 ぽつり、と落とされた樒の言葉に、閼伽は目を丸くした。恐ろしい程に珍しい――樒が後悔めいた感情を見せている。だが、すぐに彼は元の、感情を窺わせぬ無機質な表情に戻っていた。
「死人が増えすぎちゃったの? そこにあの魔女の『歌』であんなことになっちゃった?」
 能天気な調子で閼伽が問うのを、樒は常の冷淡さで無視して、ただじっと街を――街を飲んでいく「暗さ」としか表しようの無い異様を見つめる。しばし金の瞳でそうやっていたが、やがて、彼はくるりと空中で踵を返した。虚空を地面のように至極自然に踏みつけ、歩き去って行く。慌てた様子で閼伽がひらり、ひらりと宙を泳ぎながらその背中を追った。
「待ってよーう、樒ぃ、どうするのあれー!?」
 樒は答えず、一瞥しただけだった。一人納得いかぬ様子で後ろを振り返り振り返り、それでも閼伽は樒の後ろにつける。
「…放っといて、いいの?」
 とうとう樒の長い黒髪を掴んでまで問いかけてきた閼伽に、彼は振り向きもしなかった。ただ鬱陶しそうに、やっと彼女に説明を始める。
「<新月>の意図が読めない」
「新月様の?」
「…あれは昔からそうだ、と満月様も仰っている。いくら街が大量の死を飲んでいたとはいえ、そうそう容易に<墓所>が現出したりするものか。…あちらの干渉があった可能性が高い」
「ふぅん…? …変なの。新月様、自分の魔女を返してほしくないのかしら」
「分からん」
「他の月神様は、自分の魔女を大事にしてるのに。…自分の魔女が<魔女殺し>に殺されちゃっても、いいのかなぁ、新月様…」
 後半は閼伽の完全な独り言だった。樒が一度踵を鳴らすと――何もない虚空なのに、確かに靴を地面に打ち付けたような、それも金属にぶつけたような澄んだ音が響いて、夜空の一角に光が差し込む。満月の灯りだ。
「戻るぞ」
 ただ一言告げて、樒はちらりと閼伽に視線を向けた。それだけでも嬉しそうに閼伽は尻尾のように長いレースのリボンを揺らして、彼の首に抱きついた。