「つまりどういうことかって言うとさ」
僕はとりあえず母さんを見下ろして溜息をひとつ吐き出す。母さんはごろごろと寝転がっていた床から視線だけを鬱陶しそうに僕へ向けたが、僕の構えた箒を一瞥してまたごろごろに戻ってしまった。誰だコイツをこの孤児院の院長なんて不似合い極まりない職業に据えたのは。僕か。
「母さんは仕事しなさすぎです。飯を作れとか掃除をしろとは言わないけどさ、でもせめて金を使わないくらいの配慮はできない?」
「えーなんのことか母さんわかんないなー教えてよハニー」
「ハニー言うな!ええいっ、証拠は揃ってるんだぞ!ティア!」
僕に呼ばれて扉の辺りをうろちょろしてた子――少女と呼んでいいくらいの、でも十代後半は過ぎたくらいの――がびくりと身をすくませた。涙目でこっちを見ている。ああ泣かせるつもりはなかったんだけど悪いことしちゃったな。でも母さんを懲らしめる為なので協力してくれ。孤児院の今後の為にも。頼む。僕は視線だけで訴えた。通じたかどうかは分からない。
彼女の腕にはいかにも手の込んだ作りのドレスが一着あって、要するに僕がこうやって床にごろごろ転がって基本的に何一つしない駄目な大人を見下ろしているのはそのドレスが原因である。
「ティアにあのドレスを買って遣ったのが母さんだってことはもうバレてんだよ!」
「えーなんのことー?母さんわかんなぁい」
駄目な大人はごろごろ転がって僕の足元でしなを作ってそんな風に甘ったるい声を出して見せた。可愛くないです母さん、ちっとも可愛くない。むしろ腹立つ。
「ちょっと一発殴っていい?母さん」
「ハニーってば。そうカリカリしなさんな。あのドレスはそんなに高い買い物じゃあないし、それにだな、ティアが可哀想だろう」
「ティアにはお祝いにドレスを用意しておくつもりでした!」
「お下がりだろ、イングの」
「仕立て直してありますっ!」
「…お前、乙女心が分からないとかよく言われんか?」
よく言われます、ここ五十年ほどあなたにずっと言われ続けてます。でもそれがどうした。かわいい娘の乙女心は確かに大切だけど、僕には彼女以外の13人の子供達の明日のパンの代金を心配しなきゃならない義務があるんだ。
「僕をそう育てたのはあんただろうが、『母さん』」
いやみたっぷりにそう言ってやると僕の育ての親はにやりと笑った。全然反省してないよこの大人。僕を拾ってここまで育ててくれたことには感謝してるけど、本当にこの人駄目な大人だ。我ながらどうして僕がこんなにしっかりした性格に育ったのか分からない。反面教師ってやつかこれが。
前述のとおり、僕の目の前で相変わらず寝転がって、掃除もせずに惰眠を貪っているこの物体は自称「悪党」で、僕の義母である。義母兼手のかかる姉兼、戦場では絶対敵にしたくないけど味方にしても困る関わりたくない傭兵No1(現地調査)にして僕の仕事上の相棒でもある。あと元魔女。肩書は他にもたくさんあるらしいが僕はあいにくそこまで知らない。別に知りたくもない。絶対ろくでもないことを山ほどやってるに決まってる。
あとそういえばついでに僕の恋人でもあったような気がする。そもそも僕を拾った時から彼女は僕を自分の恋人に据えるつもりだったらしい。「どこかの国で言うところの逆若紫という奴だなふふふふ」と得意げに言っていたことがある。ムカついたのでその場で魔物をけしかけてやった。何がムカつくって彼女の目論見にはまった自分が一番ムカつく。うっかり彼女に心奪われた自分が一番ムカつく。
まぁそんな話はどうでもいい。今は目の前のお金の話をしよう。
「シゥセ」
「あいよ」
僕が愛称で呼ぶと彼女は少し機嫌良さそうに、その灰色の猫耳をぴくりと動かし、顔をあげた。名前で呼ばれるのが好きなんだと彼女は常々言っている。だったら僕の事もきちんと名前で呼んで欲しい。そのふざけた呼び名じゃなくて。
「今日という今日はちゃんと話し合いするからな。前から言おうと思ってたんだけど、シゥセは金遣い荒すぎるんだよ」
「そうか?お前の財布の紐が硬過ぎると思うぞ、私は」
ほほう。ぬけぬけとよく言えたもんだ。僕がいなかったらこの孤児院、最初の一年で潰れてたぞ。
「…今の孤児院の貯金がいくらあるか、ちゃんと把握してる?」
「もちろんだ、私はいんちょーせんせーなんだぞ?」
ふふん、と偉そうに言って彼女はむくりと起き上がった。腰まである長い灰色の髪の毛は乱れ放題飛び跳ねて鳥の巣みたいにぐしゃぐしゃになっている。それを彼女は鬱陶しそうにかきあげて、その場にあぐらをかいて座った。あああの髪の毛誰が手入れするんだろうなーやっぱり僕なんだろうなー。
「えっと確か、先月の稼ぎが…」
そうやって彼女が指折りながら口にした金額は、意外な事に確かに正しかった。
「――こんだけあンだから、ドレス一着くらいで急に明日のパンに困るこたぁないだろ?」
どうだ、ちゃんと私だって考えてるんだぞ、と言わんばかりに薄い胸を張ってみせる。だが僕は溜息をついた。つかざるを得なかった。彼女ときたら毎度毎度肝心なことを忘れている。
「シゥセ。今月中にリオンの学費払わないといけないのは覚えてる?あと、ティアにドレス買ってあげた以上、せめてクルルにも同じくらいのプレゼントは必要だよね?」
ティアに買ってあげたあのドレスは、ティアがそろそろ成人するから――成人の儀式の日に、町で行われる小さなパーティのためのものだ。という事は、最低でも、同じく今年成人するクルルも同じだけのプレゼントをしなければ平等ではないだろう。
ちなみに、成人と同時に彼ら二人は孤児院を卒業することにもなる。お別れの時に贈ろうと思っていたプレゼントは、あのドレスとは別にきっちり用意してあります。僕だってそこまで薄情じゃありません――金がなくってもこれでも親代わりくらいのつもりではいるんだ。
「…あ。」
「何でそう考えなしなんだよ、あんたは…」
残念だけど、リオンの学費――あの子は孤児院の子供達の中でも飛びぬけて優秀だった。僕自身、結構苦労して学校に通ったクチなので、進学したいという子供達の希望は叶う範囲で叶えてあげている――はかなりの出費で、それを払ったらまたどこかで寄付を集めるか、あるいは僕か母さんが「出稼ぎ」に行くかしないと孤児院には食費を何とかまかなえる程度のお金しか残らない。
「あ、あの、あの、お父さん。やっぱり私、このドレス返品して…!」
ティアの健気な声が割って入る。ああこの子ってばなんて健気なんだろう。ティアは昔っからこういう性格で人に甘えるのがヘタクソだ。孤児院出てからそれで苦労しないか僕は心配なんだけどでもそこが可愛い。母さんとは似ても似つかない。良かったねティア、このド阿呆に似なくて。
「いいんだよティア。悪いのはこの腐れ猫だけなんだから、お前はなーんにも気に病まなくていい。イングのお下がりのドレスじゃあ、…まぁあれはクラシックな形だから流行遅れってことはないけど…、ちょっとみっともないものな。そこは気付かなかった僕が悪かったんだ」
「あの、じゃ、じゃあ、お父さん。あんまり母さんを怒らないで上げて?」
「ほら見ろ、ティアだってこう言ってるじゃないかハニー。怒らないでくれるといいと思うぞ」
「あんたは胸を張るな黙ってろ!!」
――僕は色々後悔していることがある。このクソッタレなバカ女に拾われたことも何よりだが、最大の後悔は、彼女が「孤児院とかいいなぁ、やってみたいなぁ」と言い出した時にそれを引き止めなかったということだ。引きとめるべきだったのだ――彼女の壊滅的な家事センスと、子供大好きで戦場で泣いてる子を見ればすぐに拾って来る癖に世話は全部僕に丸投げ、という最悪の性格を知っていたのだから。止めるべきだった。
過去に何度も胸中で繰り返した後悔を改めて噛み潰しながら僕は眼前で力の抜けそうな底抜けの明るい笑顔を浮かべた彼女を睨む。
「あのね、母さん。もう少し、もう少しだけ、物事をちゃんと考えられない?もっと落ち着いてさ」
「ふぅむ。そう言われてもな、ハニー。私に慎重とか、落ち着きとか、淑やかさとか、そういうものが欠片も無いのはお前が一番よく知ってるだろうに」
「知ってます知ってるから言うんですっていうか自覚があるなら自分で努力して直せ!」
「ヤダよめんどくさい」
「ああああもおおおおこの女あああああ」
最悪だった。
***
そう言う訳ですっかり腹を立てた僕はその二日後、「出稼ぎ」に出ることにした。僕が単独で「稼ぎ」に出るのは久々なので、いつも仕事の紹介をしてくれてる「姉妹」が変な顔をしている。
姉妹、っていうのは、別に血の繋がりとかではなく。僕らの間では同僚のことをそう呼ぶんだ、くらいに認識しておいてくれるとありがたい。ここに居るのは確か僕より年下だから妹、ってことになる。
「…で、ケンカしたの?レシィの金遣いが荒いのはいつものことじゃないのさ」
紹介所の妹はサバサバとした口調で言ってぷかりと煙草をふかした。
「いつものこと、でも、チリも積もればって言うだろ。せめて彼女に少しくらい反省の色があれば僕だって考えるよ」
僕の淡々とした受け答えに姉妹はふぅんと鼻を鳴らしただけだった。同情しろとは言わないが淡泊過ぎ。いやもういいよ慣れてるよこんな態度。こいつらの一族はどうひいき目に見ても男に優しくない。男女差別は良くないんだぞ。いずれ訴えてやる。
「でもレシィがそう言う性格だって知ってて一緒に居るのを選んだのは兄さんじゃない」
僕は溜息をつくしかない。今更他人に指摘されなくったってそんなこと僕が一番心得ている。
「惚れた弱みかねぇ?」
「断じて違う。強いて言うなら人としての義務感だ。あの人の犠牲者をこれ以上増やすのは、さすがに僕の小さな良心でも痛む」
「ああ、悪党の相棒が良心ね、説得力のない話だ」
くくくと笑ってから妹はカウンターの下にしつらえられた小さな戸棚を漁るべく身を屈めた。
ちなみにここは隣町に唯一の一軒きりの小さなバーだ。彼女はここで働きつつ、片手間で一族の仕事を仲介している――といってもこの辺りは都市部から離れているんで、この仲介所を利用する人間はかなり限られている訳だけど。
「あー、あんま楽しそうなのはないかな」
「楽しみなんか要らないよ、それより払いのいい仕事ない?てっとり早くお金を稼ぎたい」
「それだったらリィングエルにでも行けば?戦争始りそうな感じだって聞くわよ」
戦争の場所で傭兵として自分の命を売りに出すのは、確かに稼ぐには一番手っ取り早いかもしれない。でも僕は首を横に振っておいた。人を殺すのが嫌だだの戦争が嫌だだのって綺麗事は僕は口にしないし綺麗事は大嫌いだ。へどが出るほど。でも戦場に行って自分の命を売るのがイヤだと感じてしまったのは単に面倒くさいからだった。確かにかなりの額を一息に稼げるんだけど、割はいいんだけど。でもさ、面倒なんだよね、戦場行くのって。人殺すのも結構面倒なのに、その上、戦争で踏みつぶされてる人たちが否応なく目に入るのが面倒で、イヤだった。――何のことはない、戦場に行くたびに戦災孤児を犬猫みたいに拾って来るシゥセを咎めているはずの僕も、やっぱり彼女と同じで、そういう子供を見捨てることができない性質なのだった。彼女に育てられたせいか、それとも僕自身が親に捨てられた子だからか、理由を突き詰めて考えるのはもうとうにやめてしまったから分からない。
「ああ、なんか適当なのがあった。兄さん、<レガスの仕事>が一件来てんだけどどうする?他に回そうか?」
とかつらつらと考えていたら姉妹がそんな風に声をあげた。一枚の紙切れをひらひら振り回している。
「――内容次第」
「悪魔退治。もしくは捕獲。<神喰い>の類じゃないから殺してもいいってさ」
「ふぅん」
僕らの所属している<レガス>という一族(血縁ではなく、師弟関係を重視する形で発展しているので、一族というよりも組織と呼んだ方が相応しいのだが、トップの意向でこのように呼ぶのだ)は、<神喰い>という名を持つ悪魔を集めることを共通にして唯一の目的として掲げている。
「どういう悪魔なの」
「…正確に言うと悪魔かどうかはっきりとはしてないな、恐らく悪魔の仕業だろうってウチの調査部が結論づけてるだけで」
「あー、あいつらの仕事たまにすごい杜撰なんだよね信用できんのそれ」
「レスティの報告だし、大丈夫じゃない?あの子は<神喰い>憑きの魔女だし、そうそうミスはしないでしょうよ」
「うーんーレスティねー。あの子たまにすごいドジ踏むんだよね信頼できんのかなぁ」
よりによってレスティか。イレイズ・スティールとも言う。昔強盗、今は魔女、という、実にロクでもない経歴を持っている短命種の女の子だ。昔一時期だけウチの孤児院で生活していたことがあるんで僕も面識がある。
僕の呟きに、姉妹はふぅと細い溜息をついて見せた。
「いやだねぇ、いつまでも保護者面してると、レスティに蹴られるよ」
「…それは痛そうだな、勘弁してほしい」
レスティの足技はよりにもよって一族最強と誉れ高い僕の義母仕込みである。
「…まぁいいや。とりあえず話を詳しく聴かせてくれる?レスティが片をつけてないんなら、保護者の僕が出向くのが筋ってもんだしね」
「だから保護者面をしない、って言ってんのに。あんたら長命種には分かり辛いかもしれないけど、レスティはもう立派に大人なんだよ」
「親にとっては何年経ったって子供は子供だよ」
僕が肩を竦めてそう応じると、姉妹は再び溜息をついて、僕の頭を小突いた。
「――そういう台詞はせめて、外見年齢だけでも成人してから言ってくれない、兄さん。いつまでたっても外見年齢12歳なんだから」
さて、ハーフエルフという血筋ゆえに成長の異常に遅い僕の外見が成人するのなんて一体全体何十年先のことやら。
**
――案内された場所はごく普通の寒村だった。僕らの孤児院のある町も決して裕福ではないんだけど、特に二十年くらい前なんかは戦争が近くであったもんだから傭兵崩れの連中なんかが強盗紛いなことをして荒らしまわってたせいで酷いもんだったけど(ちなみにその傭兵崩れの連中は、ウチの孤児院出身の女の子をかどわかそうとしたもんだからウチの駄目院長の逆鱗に触れて死ぬより酷い目にあった。あの人はぐーたら駄目人間だけど怒らせると本当に怖い。伊達にレガス最強の称号、「レシゥシェート」を名乗っていない)、まぁあの二十年前の一番酷い頃と雰囲気は似てたかも。
村は昼日中だってのにしんと静まり返っていて畑で作業している人の姿もない。畑は荒れ始めていた。今年の収穫は絶望的だろうなぁ、冬越せるのかなこの村、なんて僕は他人事みたいに考える。――ま、この辺の領主は割と人がいい奴だからどうにかなっちゃうんだろう。
僕は嘆息して、懐から取り出したメモに目を落とした。見慣れた筆致がある一件の、村外れの家についての報告をしている。
ここで起きている異変はひとつ。
僕はその場で呪文を詠唱する時みたいに少し腹に力を入れて声を出してみる。
――その声は僕の口から放たれた瞬間に、冗談みたいにかき消えた。僕の頭蓋を僅かに震わせた音だけ、それだけ。外には一切音が漏れていない。
(【言葉】が出せない…か)
成程、悪魔の仕業という訳だ。
悪魔と呼ばれる存在にはいくつかの定義がある。ひとつ、「人を喰らうもの」であるということ。ふたつ、僕らの生きている領域とは全く異なる法則の適応される、この世と重なり合った別の場所に存在しているモノ――「精霊」と呼ばれる、この世界に充ちている力そのものと同次元の存在である、ということ。そしてみっつ目。人と契約を交わすことでこの世に対して絶大な力を振るう事が出来る存在である、ということ。
悪魔と契約した人間のことを「魔女」と呼ぶ。僕ら<レガス>の間では、この「魔女」を二種に定義していて、悪魔に自身の人格を貸し与える<憑依者>と、独立した自我を持った悪魔を従える<使役者>という分類もある。
――そして僕は後者の魔女だ。つまり、悪魔を使役する側の人間である。
(やれやれこれは参った。呪文詠唱ができないってなるとなー。…めんどくさいなぁ)
呪文っていうのは別に声である必要はないんだけど、でも「声」が一番媒介としては面倒がない。何せ前準備が必要無いからね。
(いざって時の為に準備はしておくか…)
懐に手を突っ込んで、母さんから、護衛用にと持たされている小型の拳銃を見おろした。
村外れの家というのがまた酷かった。廃屋?と僕は瞬間首を傾げたくらいだ。壁はぼろぼろ、扉はがたがたで扉としての用を成していない。屋根にも所々に穴があった。窓なんかガラスも全部砕けている。
雨露しのげないんじゃないの、この家。
僕はそんな感想を抱きながら、扉をノックしようと思ってやめた。迂闊にたたいたら「そこに置いてあるだけ」といった風情の扉が倒れてしまいそうだったからだ。かといって発声もできないのではさてどうしたものか。
――なんてつらつらと考えていたら僕の背後からすぅと影が差した。
振り返る。振り返りながらそのまま僕は懐に入れていた腕を抜いた。拳銃を引き抜きそのままぶっ放す。僕の片手でも引き金を引ける程度の口径の小さな銃は、がぁん、と重たい音を響かせて、鉛玉を吐き出す。
その鉛玉を。人の反応速度ではとらえられないくらいのスピードで迫ったそれを。
――僕の背後に居た「モノ」はがきん、と、その牙で噛み砕いた。
反応速度もさることながらそもそも鉛を噛み砕くという時点で人間ではない。僕の母親じゃあるまいし(あの人は素手で銃弾を叩くくらいの芸当はやってのける)悪魔か、と、咄嗟に誰何の声をあげそうになったが、声が出ない事を思い出して言葉を飲んだ。代わりに僕は人差し指を自分の首にあてて引き裂くような仕草をする。同時、砕け散った鉛玉が膨らんだ。破裂。そこに居た「モノ」はその爆発に巻き込まれた、ように見えたのだが、
「…何者だ。教会の悪魔払いにも見えん」
声が、聞こえた。
声と同時、弾丸が破裂した辺りに黒い影が湧いた。その影から白い腕が伸び、白い姿がぞろぞろと湧き出す。白いそれは、人の骸骨のように見えるだろう。錆びた鎧と錆びた短剣を装備した、無数の白い骸骨の群れ。
――<群れる>という特性を持った悪魔。僕の使役する内のひとつ。名を「レギオン」という下級の悪魔だ。
「…悪魔遣い。まさか、<レガス>の」
独白のように呟いて僕の背後の影は、群れに呑まれる前に大きく跳躍した。じゃらん、という音がしたので僕が目をやると、屋根の上、ぼろぼろのその場所に、一頭の巨大な狼がこちらを見据えている。群青色の毛並みにナイフのような色をした瞳、その後ろ脚には足枷と、途中から引き千切られたような鎖が見えた。
僕の知識の中には、この姿と合致する悪魔が一体だけ存在する。
僕は眉根を寄せた。
だが、確かその悪魔は――主を殺した咎で、<レガス>の同朋に封印されていたはずでは。
実際、あの鎖は確かに封印術式の名残のはずだ。という事は、あの悪魔は、封印を引き千切って逃走したということか?
僕は一度レギオンを引っ込めた。腕を振っただけでぼろぼろと骸骨は崩れて風の中に溶ける。
群青の狼は無言だった。ただすぅ、と溶けるように姿を消す。
――確か彼の能力は、と僕は思い出して、即座にその場を飛びのいた。次の瞬間、先ほどまで僕の居た場所を、狼の顎が粉々に食い潰す。その衝撃に押されて体勢を崩し地面に叩きつけられながら、僕は指先で首をなぞり髪を一本引き抜いて投げ上げる。それを追うように僕の頭上を、騎馬が、飛んだ。
骸骨騎士の乗った骸骨の騎馬が、狼の脳天を狙って槍を振り下ろす。
(【距離】だったな、こいつの能力)
厄介な能力だ。
「距離」を自在に操るこの悪魔は、一声吠えただけで、悪魔の振り下ろした槍を僕の頭上へ転移させていた。慌てて転がってそれを避け、立ち上がり、僕は極力足を止めないように走りながら事前に仕込んでおいた手順で指を組む。魔法陣のひとつも準備出来ればもっとマシだったんだろうけど贅沢は言えない。影が持ち上がり、そこから再び、骸骨騎士の群れが現れる。
「同じ手を」
(さて、どうかな)
出現したのは先程の下級悪魔、レギオン。ただ群れることしかできない悪魔だが、群れるってのも案外怖い効果があるんだよ?
(群れろ)
僕の命令に白い骸骨の群れは群青の狼へと殺到する。狼は一瞬で群れの後方へと転移し、僕の眼前に現れたが、次の瞬間引き摺られるように白い骸骨へと鼻先を向けていた。――これが「群れる」ってことの意味だよ、と僕は胸中だけでちらっとそんなことを思ったりする。あれは悪魔を引きよせて群れを構築しようとするという癖を持っている。その力自体は大したものではないが、一瞬気を逸らす程度なら十分に使える能力だ。
驚いたようにナイフ色の瞳を僅かに動揺させた狼に、僕は銃口を向けた。引き裂け――と命じながら引き金を引く。
吐き出されたのは銃弾ではない。最初から拳銃の中に仕込んであった術式装填型の銃弾。着弾と同時に展開された魔術はその場に霧を生み出した。正確にはあれは霧ではない。霧をまとった骸骨騎士の群れ。それが群青の狼に襲いかかる。群青の狼は、今度は自分ではなく、相手を転移させようとしたらしいが、――お生憎様。考慮の上だ。再び僕の背後へ転移されて現れた「霧」の悪魔を僕は瞬時に「送還」して消し去る。消し去るのと同時に再度召喚。今度は狼の頭上と、真下と、二か所に。
「……お前は」
ぼそぼそと喋る狼がふいに口を開いた。その場を飛びずさり、出現した槍と錆びた剣をかわすと、僕の方をじっと見る。
「敵意も悪意もないな。…声を出せ、今は喋れる」
「ん? …お、ホントだ」
「呪文は使うな。使おうとすれば室内の人間は、死ぬぞ」
「脅しにしちゃあ陳腐だし、その脅し、<レガス>の人間に通用すると思う?」
僕は肩を竦めながら、ひとまず召喚していた悪魔を全て「撤退」させた。警戒は崩さないが、この狼からはこれといった悪意を感じない。
「…それも、そうだな。お前達は<悪党>だった」
彼は小さく嘆息して、ぶるりと――大型の犬が濡れた全身を振るう時のように――身体を震わせた。途端に狼の巨大な輪郭が溶け崩れ、代わりに人影が現れる。毛並みと同じ群青の髪の毛、ナイフの色の瞳。何だか整った顔立ちなのは悪魔が人型を取った際にはありがちなことである。ちなみに人型を取った際の姿が美形であればあるほど、器用な悪魔である、という一種の目安にもなる。
彼は、<レガス>の記録が正しければ、僕の母さんより年上の悪魔だ。それなりに自身の魔力の取り扱いにも慣れているのだろうと思われた。
「…悪意がないのではな、俺の食事にはならん…」
「そりゃ悪かったね。正直めんどくさいなーって意識しかなくて」
食事、と彼は言った。恐らく彼は、敵対者の悪意や憎悪を糧とするタイプの悪魔なのだろう。
悪魔は「人を喰らう」と僕は説明したけれど、その「人を喰らう」の内容がこれだ。彼らは人の感情や、感情の発するエネルギーのようなものを食べているらしい。らしい、っていうのはそれが僕らの次元では理解できない話だからなんだけど。
しかし、ということは――
僕は改めて首を傾げて廃屋、もとい、一軒家を見やった。
あの中に別の悪魔が居るのか。もう一匹。
――この村で起きている異変、「人の言葉が消える」という現象は、恐らく僕の見立てでは――そして<レガス>の調査部の見立てでも――悪魔の仕業だ。それも、恐らく、「人の言葉に込められた感情」といったものを糧にするようなタイプの悪魔の、だろう。それがこの村に居着いて根こそぎ人の言葉を食べているのに違いない。
そして目の前の悪魔は「人の敵意や悪意を食べる」悪魔だという。恐らく食事作法はこうして誰かと対峙し戦う事だろうと推測できる。
ということは、「犯人」は彼ではない。
悪魔達の食事作法は一定で、これは絶対に変化しないのだ。
「レガスの魔女。ここに何をしにきた」
「知れたことだろ、悪魔を退治するか捕まえるか適当に見逃すか、どれかだ。それに、余計なお世話とは思うけど、ここであんまり長いこと迷惑かけてると、そのうち<教会騎士>が来るよ」
「………近々移動しようとは、思っていた」
僕ら<レガス>は基本的に悪魔に対して寛容だ。適当にあしらって見逃したり力を貸してもらったり、まぁ性質の悪い相手だと退治することもたまにあるけど、結構扱いが適当である。
一方、教会関係者は悪魔に対して容赦ってもんがない。彼らにとっては悪魔は即退治の対象となる。
ついでに言っておくと、困った事に、彼らは悪魔に憑かれた人間も即、退治しようとする傾向がある。
「その前にお前達と接触がしたかった。間に合ったようだ」
「…ウチの調査部の連中が来たはずなんだけど、ここに。そいつとは接触しなかったの?」
「恐らく、俺ではなく、『もう一人』が先に接触したのだろう」
元狼だった青年は、ちらと眉を寄せて溜息をついた。おやま、随分と人間臭い仕草だ。
「あれは、人を好いていないから」
「まぁ、基本的には悪魔なんだし」
「……俺は嫌いではないのだが」
「お前、主殺しなんじゃないの?」
僕の問いは少しばかり不躾に過ぎたかもしれない、と、後になってみれば思う。彼は眉間に険しい色を浮かべて呻くように僕の問いに答えてくれた。
「――幼子を殺すのは俺の主義には、反する。そんな命令は主のものといえど、従えん」
…成程。こいつ、子供好きなのか。
僕は妙なところで納得した。たまに居るんだよな、こういう悪魔。
彼の案内で室内に入ると、外の戦闘の音に怯えてしまったのだろう、布団にくるまってがたがた震えている女の子が居た。涙目でこちらを見上げている。その女の子を守る様に男の子が一人、こちらをきっと強い目で睨んできた。
「なにしにきやがったんだよ!」
「それはこれから決めるよ。…あれ、君は声出せるのか」
「うるせぇ、帰れよ! 妹は絶対、俺が守るんだから!」
はて。
僕は首を傾げてから、説明を求めて背後の元狼さんを見やった。彼は幼い少年を見ていたが、僕の視線に気づいていたのだろう、淡々と応じてくれる。案外いい奴だ。子供好きに悪党は居ても悪い奴はいないというのが僕の母さんの持論だが、今ならそれを信じられそうな気がする。
「…この娘は領主から招聘を受けている」
「名誉なことじゃないの」
「…娘は綺麗な歌声の持ち主で、その歌声の評判を聞いた領主が、是非にと声をかけたらしい」
「ふーん、良かったね」
「お前、正直どうでもいいと思っているだろう」
「思ってるけどそれがどうかした?」
元狼さんは何だか疲れたみたいに溜息をついた。
「…まぁいい。話を続ける。…問題なのは招聘を受けた後だった。…娘は声が出せなくなった」
「…それ、お前と別の悪魔の仕業じゃないの?」
瞬間苦々しげに。
彼は呻くように言った。
「否――人の子の仕業だ、魔女。人の声を奪う法を、お前なら百も知っていよう」
「…まぁソフトなのからハードなのまで。どっち寄り?」
人の声を奪うなんてのは戦場じゃ必須の技術である。
先にも言ったけど、魔女や魔術師ってのは「声」を媒介に魔術を扱う事が多い。それは単に、声が一番準備に手間を取られないから、なんだけども、要するに声を奪ってしまえば、魔術師や魔女の選択肢を大きく狭めることができるのだ。
例えば魔術による音声を撹乱する場の構築――これは割とソフトな方だね。
拷問によって声帯をぼろぼろにしちゃう方法――これなんか割とハードな方かも。
「外道の所業だ」
彼はぽつりとそれだけ言った。何となく僕は察する。後者に類するような方法でこんな村の人間でも出来ることって言ったら多分あんまり多くない。
――精神的に、肉体的に、大きな大きなショックを与えれば、人は言葉を失う事もある。
僕らの孤児院にも、目の前で親を殺されたり、親しい人間を犯されたり、その他諸々の事情で「声を出せない」状態になってしまった子供がいた事があるから、何となく分かった。
さて、声を失ったという当事者、毛布にくるまって震えているのは女の子だった。10歳かそこらだ。栄養状態が悪いのか痩せぎすで見ていて痛々しいくらい。鮮やかな青い瞳も恐怖で強張っている。痩せこけた腕に痣があるのを見てさすがに僕も少しばかり眉をしかめてしまった。しかめつつも狼さんに問いかける。
「そんで。お前は何してんのさ」
「……俺達が村へ来たのはこの娘がこの状態になってからだ。話を聞いて、何となく腹も立ったし、連れが腹を空かせていたので、しばらく滞在させてもらう事にした」
あー。こいつ子供好きなんだっけかそういえば。
悪魔の癖にと思われるかもしれないが悪魔に子供好きは多いんだよ、意外と。何でも彼ら曰く「子供は感情を遠慮なしに放出するから『とっても美味しい』」んだそうだ。
そう言う訳で、子供に対して悪事を働こうとした輩が、通りすがりの悪魔にブチ殺されるなんてのは実は結構、良くある話だったりする。
…まぁ問題なのは彼らが悪魔であるが故に手加減を出来なかったり、肝心の子供にも怖がられて逃げられたり、逆に肝心の子供まで殺してしまったり、なんてことも多い、ということなんだけどね。
「で? その連れってのは、どこにいる訳?」
「それを聴いてどうする、魔女」
「…まぁ、この村の一件をどうにかしろってのが僕の引き受けた仕事だからね…。交渉させて貰いたいんだけど」
「それは無理だな」
狼さんは首をふるふると振った。そして震えている女の子を指差す。人を指さしちゃいけませんよって誰かコイツに教えなかったんだろうか。…無理か。前の主はどうも外道の類だったみたいだし。
「連れはこの娘に憑いている」
「んじゃ、呼び出してよ」
「出られなくなったそうだ」
「…………」
頭痛がしてきた。
悪魔は、人に憑くことがある。それがどういう感覚なのか、独立型の悪魔を使役している僕は同じ魔女だけどよく分からない。元悪魔憑きの僕の母曰く、「うーん、頭ン中に同居人が居る感じ?」とか言ってたがあの人はものすごくバカなので、この証言はあんまりあてにはしていない。
「…どうもこの娘は神性精霊のお気に入りらしくてな。相性が、悪かったようだ。この村中の【言葉】を喰っても、まだこの娘から離れるだけの魔力を練れない、らしい。最近までは何とか姿を現していたんだが、ここのところ悪化したようでな。…すまない」
神性精霊――別名を天使、とも言う――は悪魔と相性が悪い。とにかく相性が悪い。
この少女はその神性精霊に好かれる体質だったらしく、悪魔が憑いたことでおかしな反応でも出てしまったのだろう。…可哀想に。段々とこの娘が哀れになってきて僕は思わず頭を抱えた。とにかく、そう言う理由で、彼女に取り憑いた狼さんの「連れ」の悪魔は、そこから離れることができないような状態になってしまったらしい。多分、神性精霊に囲まれて閉じ込められてる、ってところかな?
「その前に気付けよ神性精霊ってお前らの天敵だろ! 気付けよ憑く前に! この娘の体質にくらい!!」
「うむ。すまない。迂闊だった。連れのことだから滅多な事もなかろうと踏んだのだが、そういえばあれは生まれて二か月しか経っていないので、魔力の扱い方にも不慣れだった」
「最悪だ。…って二か月!?」
悪魔ってのは基本的に死なないんだけど、たまに「生まれ変わり」のような現象が起きることがある。あまりに大きなダメージを負ったりすると、長い長い時間を――それこそ人には想像できないくらいの時間を――かけて自身を修復し、以前の悪魔とは別個の自我を持った、新しい個体として生まれ変わるのだ。
「生まれて二か月」というのはつまり、そうやって生まれ変わってから二か月、ってことなんだろうけど。
…基本的に悪魔だって人間と変わらない。生まれてから試行錯誤を重ねて自分の魔力の扱い方に慣れていくんだ。なのに二か月って。事実上生まれたばっかりじゃないか。
「…ああもう頭痛くなってきた。帰る」
「待て」
「うわちょっと待ってよ、あんた話聴いてたら魔女なんだろ、悪魔の専門家だろ、どうにかしろよ!?」
と、女の子にへばりついてた男の子にまで縋りつかれて僕は踏みとどまる。僕のローブの裾を握る指先はぞっとするほど細くて冷たかった。それで思わず口をついたのは、
「…君さ、この村の子なんだよね。…食事とかどうしてんの、親は?」
こんな質問だった。――あああこんな質問絶対したくなかったのに。ずっと避けてたのに。
「居ないよ、親は。…村の人は…こんなことになってから…」
「…悪魔憑きの子、お前達のせいだ――ってか」
声は奪われているだろうからそんな罵倒を直接聞く事もなかったんだろうけど、家の荒れ具合を見れば、この村で二人の子供がどんな目に遭っているのか想像するのは簡単だった。訳の分からない事態に対して村の人たちも明確な攻撃対象が欲しいんだろう。集団心理って嫌だねぇ、と僕は出来るだけ他人事みたいな感想を軽く述べてもみたが、ああ、もう駄目だ、と感じてもいた。
…決まりだなぁ。ああ。何の為に僕ここに仕事しに来たんだっけ、「孤児院の家計を守るため」だったっけ。…もうどうでもいいや。
「良かったらウチに来なさい」
「…は?」
「悪魔を追いだしたところでもうこの村じゃ暮らせないだろ。ウチに来なさい。孤児院やってるから」
僕の言葉に、男の子は無論、狼さんまで目をぱちくりさせていた。
女の子が初めて、ぴくりと反応したのもこの時だ。
彼女はぱくぱくと口を動かしたが声にはならない。そのことに失望したように肩を落とす。
「…は? だって、孤児院って、え」
「元悪魔憑きと現役魔女の経営してる孤児院なんて、胡散臭さで言えばどうしようもないレベルだけど、まぁそれで良ければね。…何驚いてんのさ、二人して」
「いや、だって…」
「…お前はこの子供達に、興味がないのかと思っていた」
「興味なんかないよ、これっぽっちも。僕は――」
僕は、息を吐きだした。
「――クソ。やっぱり僕はあのバカの息子で相棒なんだ」
全部あの女のせいだ。
こんな金にならない選択をしてしまったのは絶対にあのバカ女のせいだ!
さて。
今後のことが決まったところで、この子に憑いている悪魔とやらをどうにかしなきゃならない。僕は腕を組んでしばらく考え込んだけど、仕方ないなーと思ったので、あんまりやりたくない方法を取ることにした。
…それにしても今回、やりたくない選択を選んでばっかりだな。何かもうあの女のせいでいいや全部。帰ったら絶対夕食に嫌いなもの混ぜるとか、あの女の部屋の掃除だけ無駄に長々やるとか、地味に地味に嫌がらせをしようと決める。
部屋から狼さんと少年を追いだして、僕は毛布にくるまった女の子の前に膝をついて視線を合わせた。そして目の前に居る少女にではなく、その奥にいるだろう悪魔に向けて告げる。
「――出て来るなら今のうちだぞバカヤロウ。僕だってこんな方法使いたくないんだからな」
僕の契約している悪魔は、実は一体だけだ。
普段召喚している下級悪魔達は、その「たった一体」から借り受けているだけ。
――自らも悪魔でありながら他の悪魔を従える力を有しているそれは、世間では「魔王クラスの悪魔」とか呼ばれている。爵位持ち、と称される高位の悪魔の中でも、数体しか確認されていない、それだけの実力を備えた悪魔である。
がりがりと部屋の床に油臭いクレヨンで魔法陣を描く。それを終えてから指先を少し切って血を落とした。目を軽く閉じて朗々と、僕は歌い上げるように呪文の詠唱を開始した。出来るだけ万端の準備をしておかないと、「あれ」を呼ぶのは少しばかり骨が折れる。
「君も目を閉じていなさい。すぐに終わる」
僕の言葉に、女の子はこくりと頷いて目をきつく閉じた。素直でいい子だ。あのバカ女の傍に置いて影響を受けない事を心から願う。
「――腕でも足でも頭でも目玉でも好きなものをくれてやる、魔王。出て来い」
「相変わらず色気のない呪文だこと」
呪文に応じて――軽い口調と裏腹に爆発的な魔力が辺りに満ちる。僕は呼吸を整えながら女の子の様子をうかがった。震えながら毛布の端を握りしめている。その指先に力がこもって白くなっているのが分かった。
神性精霊に好かれる性質だということは、悪魔の魔力は毒にも近いだろう。舌打ちして僕は僕の背後に現れて、わざわざ僕の背後から抱き締めるように腕をまわしてくる「魔王」に毒づいた。
「垂れ流しの魔力ひっこめろクソバカ」
「ハハッ、相変わらずいい顔すんじゃないのさ、ハニー」
「――死ね」
呼ばれた瞬間にほとんど反射的に身体が動いた。拳銃を向けて発砲、しようとしたところでさすがに思いとどまる。傍には小さな女の子が居るのだ。怯えさせるのは僕としても本意じゃない。
「…その名前で僕を呼んでいいのはこの世に一人きりだ。お前じゃない」
「ハイハイ。面白くないなぁー」
ぶつくさ言いながらも、魔王サマは魔力を制御下に入れてくれたようだ。辺りに充ちていた魔力が潮が引くように消えて行き、女の子の震えが少しだけ納まったのを見て、僕は小さく安堵の息をついた。それから改めて背後を見る。僕の背後で僕にべたべたくっついてくる魔王を。
――それは何というのか。
――僕の義母と、そっくり、同じ姿をしていたりする。
違うのは色彩だろう。今の彼女は呪詛の為に全身が灰色をしているけれど、彼女は全盛の頃の義母の姿をしているのだ。背中まで伸びた少し癖のある金髪と、切れ長の青い青い瞳。頭のてっぺんには猫みたいな、黒っぽい灰色の耳が生えている。
…何で魔王がよりによってこんな姿なのか、については、どうか訊かないで欲しい。
惚れた女に勝てる男なんてどうせこの世には居やしないんだ。後はどうか、察して欲しい。
「…はぁ。そこに居る悪魔とやらを引きずりだせる?」
「はいな、お任せおまかせ。って何だ、そんなことのために呼んだの? 神性精霊追い払えばいいだけなのに」
「あの下級どもで出来るの? そんなこと」
「出来るわよーう。ご主人サマってば勉強不足ゥ」
うふふ、とあの女とそっくり同じ声で全く違う風に笑われるとどうも居心地が悪い。話はあとでゆっくり拝聴するとして、今はさっさと用事を済ませるとしよう。
「――はいはい、じゃあでてらっしゃい、そこのかわいこちゃん」
ぱん、と魔王が手のひらを叩く。それだけで僕までふらりと脳髄が痺れるような、えもいわれぬ感覚に襲われた。眩暈を振り払うように強く目を閉じてその感覚を追い払う。そうしている間にも、どうやら作業は終わっていたようで、僕が目を開くとそこにはもう一人――もう一体の悪魔が、出現していた。
――生後二か月とか言っていたか。姿もどこか幼い。毛布にくるまっている子と変わりがないくらいの年齢にも、見えた。
「お仕事完了。ご褒美はー?」
「さっさと帰れクソバカ」
戯けたことをぬかす魔王を早々に撤退させる。辺りに充ちていた魔力が霧散し、僕は知らずつめていた息をゆっくりと吐きだした。胸に圧迫感を感じる。――正直少し苦しい。胸を押さえながらも、僕は目の前に現れた悪魔に、どう声をかけたものかと迷った。呆然とした様子で目をぱちぱちと瞬いている悪魔は、先の魔王の魔力に中てられているんだろうと思われる。
が、僕が口を開こうとした矢先、その悪魔は我に返ったらしい。
彼女は第一声、こう叫んだのである。
「パパ!? パパはどこっ!!」
「………。パパ?」
前述したとおり悪魔というのは「生まれ変わり」によって生まれたり死んだりする存在である。血縁なんてものが存在する訳がない。パパって何だ。僕は唖然として彼女を見ていたが、答えはすぐに出現した。
例の元狼さんの青年が、多分、声に応じて転移してきたんだろう。唐突に目の前に現れて、唐突にその女の子型の悪魔を抱き上げていたのだ。女の子の悪魔も嬉しそうに彼の首に腕をまわしている。背中の羽根がぱたぱたと動いた。
「パパー、どこ行ってたのよぅ、びっくりした!」
「驚いたのはこちらだ。…腹は膨れたか」
「うんっ、これでしばらくはだいじょーぶ!」
「そうか」
頷いた狼さんの表情は分かり辛いが少しだけ微笑んでいたようである。パパって何。どういうこと。問いかけようとした僕に、彼はちらと眼をやって、
「この子供達には迷惑をかけたようだ。――感情に任せて行動すると、我々悪魔では加減が出来ん。ろくなことにはならんな」
小さくそんな所感を一方的に勝手に述べて――
――「距離」を移動したのだろう。消えてしまっていた。
二度と会わない事を願うよ、子供好きの狼さんとへんてこでドジな生後二か月さん。
僕はそう思ったのだが、残念ながら、数カ月後に僕は彼らと再会する羽目になる。
とはいえ、それはまた別の話だ。今はこの子供達のお話に戻るとしよう。
**
孤児院に子供を二人連れて帰ってきた僕に、義母はニヤニヤと楽しそうな笑みを向けただけだった。
「お金作りに仕事に行って、子供拾って帰ってきちゃうんだ、ふーん?」
「うるさいなもう。大体お前のせいだ!」
「そうだよねー、ハニーは私の息子だもんねー、困ってる子供は見捨てられないんだよねー?」
「とか言いながら頬ずりするなやめろ鬱陶しいィィィ!」
…全力で抱きしめられて頬ずりされた。
もう当分、「出稼ぎ」になんて行くものか、と僕は心に誓った。
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