ディアマイハニー

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小さな辺境の町の外れの丘の上には、首のもげた聖母像が守る墓地と、おんぼろの元・教会だった建物がある。
改築を繰り返したせいで余計にバランスの悪い、今にも崩れそうな建物の周囲では、子供達の声がこだましていて、屋根の上では彼らを見守りながら釘とカナヅチを振るう見目の幼い少年の姿がある。少年は子供達と比しても大人びた物腰と落ち着いた目をしていて、実際、彼が見た目以上の年齢であることを、町の人々はみんな知っていた。何しろこの十年、変わらぬ外見のままなのだ。

「おーい、ヨルー!」

その屋根の上の少年に向けて声を投げたのは、パンを配達に来た若い女性だった。町の人間らしい彼女は、屋根の穴をふさごうと奮闘している少年をちょいちょい、と手招いた。





「…はぁ。病気の治療?」
「そそ。ヨルならそういうの詳しいかなと思ったんだけど」

何事かと近づいてみれば、そんな話だ。ヨルは少し歪なパン――店の息子が練習用に焼いたものらしい――を口に放り込みながら適当にふぅん、と鼻を鳴らした。
場所は移って元教会、現在は孤児院になっている建物の中である。おんぼろながらも掃除だけは丁寧に行われているので、それなりに清潔感のあるソファの上だった。

「ぱぱ、コーヒー持ってきた!」

子供達の運んできたコーヒーを客人に勧め、自分も口に入れつつ、彼は興味もなさそうに冷淡な瞳で相手を一瞥する。

「僕は怪我なら詳しいけど、病気は専門外。悪いけど他当たって」

大体あの人が病気をしそうに見える? 彼が言ったのは、この孤児院の、一応は名目上院長ということになっている女性のことだ。猫耳と、何よりも全身が色彩を失って灰色をしているのが特徴的な女性で、名を「レシゥシェート」、という。
何故かこの町を通りすがるロマや行商がその名を聞くたびにビクリとするのだが、町の人間はあまり深く詮索しないことにしていた。元傭兵だというし、それなりに実力もあるというから、色々と事情はあるのだろう。
そんな彼女は色々と豪快かつ、大変元気な女性で、確かに病気のひとつもしそうには見えない。

「…まぁ、そーなんだけどさー。なんか川向うの町ではやり病が出たらしくって、医者がこっちまで手を回せないって言うんだよ。ね、ちょっと診てくれるだけでもいいからさ」
「僕、医者じゃないよ」
「知ってるよ。でも、元は医療兵なんでしょ?」

―― この孤児院の事実上の経営者であるヨルの経歴は、有名だった。院長であるレシゥシェート、歴戦の傭兵の彼女につき従う「医療傭兵」だったらしい。どんな怪我でも「死ななきゃ治せる」と豪語した、とは、風の噂に過ぎないが、あながち的外れでもあるまいと町の人間は思っていた。
が、そう呼ばれるなりヨルは眉間に皺を寄せる。

「…人を壊して直して、壊させるために出撃させて。そういう、非建設的な仕事だよ。医者と一緒くたにしちゃ医者に失礼だ」

嘆息してソファを立とうとする少年を、慌ててパン屋の女将は引き留めた。

「頼むよー、謝礼も出せるだけ出すし! ほんとに困ってんだって」
「おいハニー」

そこへ、のろのろと現れた人物がいた。件の孤児院院長、レシゥシェートだ。
相変わらずそこだけ色がごっそりと欠け落ちたような奇妙な錯覚を起こさせる、モノクロームの姿。どうやら今の今まで寝ていたのか、寝癖で跳ね放題の髪の毛をがりがりとかいて、どこにあったのか男物のシャツ一枚というだらしない姿である。

「朝ごはんはぁ?」
「今は生憎昼過ぎだよ母さん。あと客が来てるんだからせめて服着替えて。それが出来ないなら死んで」
「やーだもう、相変わらずハニーは朝から激しいなァ。しゃーない、なんか適当に食べる。あ、コーヒーちょーだい」

言うなり、ヨルの返答も待たずに彼女は少年の前にあったカップを取り上げてしまった。そのままのろのろと部屋を立ち去ろうとして、くるりと振り返る。
シャツの裾から伸びた灰色の尻尾が、ゆらゆら、楽しげに揺れている。

「ねぇハニー、その仕事は引き受けといてやりなよ」
「母さんまでどうしてそういうこと言うんだ。大体ね、僕が怪我治療にばっかり特化しちゃったのは誰のせいだと――」
「私への愛のせいだよな、分かってる。そんなことより、まぁ、悪い予感は大体当たるっていうかー。多分、パン屋のおっちゃんの病気、お前の専門だと思うから」
「……レシィ、ウチの人の病気のこと知ってたの?」

ぽかん、として女将が問いかけると、眠たそうな顔でコーヒーを飲んでいたレシゥシェートはうん、と子供のように頷いた。勢いよく飲んだせいでシャツの上にコーヒーがこぼれているが、当人はあまり気にしている様子もない。

「だって通りすがるたびに変なにおいがすんだもん。ハニー、あれに気付かないんじゃ、お前魔女を廃業した方がいいぞ」

言うだけ言うと、彼女はひらひらと手を振ってその場を後にした。取り残されたヨルは苛立たしげに息を吐いて、それでも、女将へと向き直る。

「…母さんの命令も出たことだし、引き受けるよ。ただし、あんまり期待しないで」







「……相変わらずっていうか、何であの人魔力も悪魔もなくなって色覚までないはずなのに、現役魔女の僕より先に悪魔の匂いに気付けるんだろう。やっぱバケモノなんじゃないの?」

――結局パン屋へやってきたヨルだったが、彼は病人だというパン屋の主を見るなりそうぼやいた。笑いながらそれに応じたのは、いつの間にか少年の背後に現れていた一人と一匹である。
部屋は人払いをし、熱病のような症状の出ていた主をクスリで眠らせているから人目を気にする必要はない。それで、ヨルは自分の従えている悪魔達を呼び出していたのである。
「一人」の方は幼い少女。淡い緑色の髪に、背中には小さな申し訳程度の羽が生えている。幻想的なその姿は、ともすれば妖精や天使にも見まごうほどだ。
「一匹」の方は、小さな部屋には少々大きすぎる、群青の毛並みを持った狼。四肢には千切れた鎖が絡んでいて、「彼」が動くたびにそれらがじゃらじゃらと音を立てていた。

「だってバケモノでしょ、あれ。どう考えても」
「バケモノだろう、あれは。魔力もないくせに素手で俺達のような悪魔を殴りとばすような女性だぞ」

悪魔達の批評に不満げに眉根を寄せていたヨルだが、すぐに我に返ったらしい。腕組みを解いてベッドに横たわる人物を覗き込む。

「…やれやれ、確かに母さんの言うとおりだ。気付かなかった僕が迂闊だったなぁ。こりゃどこかで何かに目をつけられたね」
「何かしら。おじさんのパン美味しいから、それかしら」
「そんな理由で瘴気に充てられるのは勘弁してほしいなぁ…」

少女の方の悪魔に真剣な顔でそんなことを言われ、ヨルは溜息をついた。きょろきょろとあたりを見渡し、一点で目を止める。
彼の眼には部屋の隅に僅か、灰色のモヤのようなものが見えたのだ。

「あー。悪霊かな」
「っぽいね。引き摺りだしちゃう? それともあたし、食べていい?」
「お前は少し悪食過ぎないか、『かわせみ』。『よなか』も何とか言え」
「…育ち盛りだから仕方あるまい」
「悪魔に育ちざかりとかあんの!?」

狼の言葉に思わずそんな風に問い返しつつも部屋の隅に近づいたヨルは、膝を折ってそのモヤを覗き込む。じっと見ていると、次第にそれは人の形を取り始めた。
――ヨルよりもはるかに年下に見える、幼い少年の姿に。

「…お前、この人を連れて行こうとか思ってんだろうけど」

その姿に向けて、淡々と、冷やかな目をしたヨルの言葉が投げられる。

「無理だからな。お前程度の悪霊じゃ、熱を出させてうなさせる程度がせいぜいだ。人を殺したきゃ、自分の側に引きずり込みたきゃァ、もっと同じような境遇の奴でも喰いあさって強くなるか、もっともっと世の中を憎むかしないと」

冷淡な言葉に、幼い影は首を傾げるばかりだ。そしてゆっくりと口を開く。
こぼれた言葉は僅かな物音にもかき消されそうなくらいに弱弱しいものだった。

――ねぇ、おなかすいたよ。

「…おなかをすかせて死んだ子供の幽霊ってとこか。どこでこんなの拾ってきちゃったのかしらね、おじちゃんったら」

少女が腰に手を当てて思案げに呟いている。

「こっちの言葉も聞こえてないのか。自分が死んだことも理解してないんだろうな。…何かもう説得したり浄化したりとかめんどくさいなー、お前食べるか、かわせみ」
「何よ、悪食とか言った癖に面倒くさがりなんだから」
「冗談だよ。…しかしどうするかな。力づくで解決してもいいんだけど」
「それは拒否させてもらう」

牙の並ぶ恐ろしげな口を開いて真っ先に反論したのは、狼の姿をした魔物だ。彼は銀色の瞳で主を見下ろしながら、

「…幼子だろう。自分の死んだことさえ分かっていないようだ。力づくというのは気が進まん」
「パパが言うんなら、あたしも反対ってことで。ま、別に食べても美味しくなさそうだもんね」

―― そういえばこの狼は子供好きだったのだ、と、ヨルは思い出して、頭を抱えた。(それなり程度に年を経ているはずの『かわせみ』が幼子姿のままを貫き通しているのは、この狼の趣味に合わせているかららしい。)正直に言えば力づくで無理やり解決してしまう方が余程面倒がない。
第一、だ。
幽霊の説得やら、浄化やら。そんなのは坊主のやることで、魔女たる自分にはそれこそ専門外なのだ。

「どうしろっていうんだよ」
「魔王陛下呼べば? 『色欲のアスモデウス』。あの人の言葉なら届くでしょ、自我のない幽霊だろうとなんだろうと」

確かに、無機物すら魅了するかの「魔王」の能力ならば、幼い幽霊を魅了し、言うことを利かせるくらいは朝飯前であろう。が、ヨルは心底から気が進まないという顔をした。ひとつには魔王を呼び出すことが彼にとって大きな負担となる、ということもあるが何より最大の理由は、

「…やだよなんかもうあれ見てるといたたまれなくなってくる…」
「まぁ、レシィの姿そっくりだしな。お前にとってこの世で一番魅力的なもの、という条件で、どういう訳だかあの姿になってしまった訳だからな。そりゃ見たくないだろう」
「……我ながらどうしてあのバカ女の姿を思い浮かべたのか、魔王を召喚して契約した時の自分をくびり殺してやりたい本当に」

若かりし日の過ちという奴である。しばし思案して、彼は肩を落とした。

「仕方がない。これでいこう、魔女らしからぬ方法だけども」
「どうするのー?」
「だから、魔女らしくない正攻法だよ」

小さく遠くを見るような不思議な目をしてから、彼は首を振り、灰色のモヤに向けて手を伸ばす。口の中で幾つかフレーズを試してから、ひとつしっくりくるものを見つけて、すぅと息を吸い込んだ。

「無垢な子供が雨の日に道に迷って泣いていた。道案内は誰がする?」
「天国だったら天使の迎え、地獄だったらあたし達が牙をむいてお出迎え」

応じたのはかわせみだ。鈴を振るような声が、即興の歌を紡ぐ。後を引き継いで落ち着いた低音の声が、牙をむいて続けた。

「ここに居るのは悪魔達だ。さぁ小さな子、喰われたくなけりゃ一目散に逃げなさい、振り返ってはいけないよ」

狼がぐるると恐ろしげな音を立て、牙をむいて見せる。脅しに似たその所作に灰色のモヤはびくりと震え、黒目がちな大きな瞳でじっとヨルを見た。

「『決して振り返ってはいけないし、何を抱えてもいけないよ』」

視線に応じるように念を押す様にヨルが呟く。
――灰色のモヤはこくりと、頷いたようだった。狼が低く咆哮したことも原因だろう、たっと駆け出し、壁にぶつかってそのまま、消える。きっとこの部屋から一目散に逃げたのだろう。それを確認して、少年は油汗のにじむ自分の額を拭った。

「……うぁー」

漏れた声は何やらひどく掠れている。かわせみがくすくすと笑った。

「魔女の癖に聖句なんて口にするからよ。――いくらアレンジしたって、今あんたが口にしたの、ベースは聖職者が葬式の時に口にする『聖なる言葉』じゃない。お祈りの言葉聞いただけで頭痛がする癖に何してんのよ」
「だからアレンジしたんだろ…、ああ痛い」

喉をしきりにヨルがさする横で、ベッドに横たわった店の主人がううん、とひとつ唸った。慌てたようにかわせみとよなかの姿が掻き消え、部屋には一人、少年だけが残される。
ゆっくりと目を開いた男性に、少年はいつもの無表情で淡々と尋ねた。

「調子はどう?」
「――おや、ヨルかい? 何だか小さい子がいたような気がしたんだけど」
「気のせいでしょ」

さらりとそう応じて、ヨルは男の額に手をあてる。――彼はエルフの血が混じった混血種族なので、人間とは基礎体温が実は違うのだが、一応は長いこと医療に従事していたこともあり、熱の有無くらいはこれで分かる。

「…少し熱がひいたかな。念のために薬湯を置いていくから、飲んで」
「ヨル、治療に来てくれたのか」

問いには彼は答えなかった。はたしてあれが治療と呼べたものか、全くもって疑わしい。
だがふと気になって、ヨルは部屋を出る際にひとつ、主人に尋ねていた。

「――ねぇ。もしかして最近、飢え死にした子供とか、死んだ子供にお供えとかしなかった」

主人はん、と怪訝そうに首を傾げていたが、

「…俺じゃないが、この間行商に来た連中が、街道のどっかで行き倒れた子供を見たとか言ってたよ。可哀想に、パンのひとつも供えてやりたい、とは思ったが、実行はしてないな」
「……機会があったら、してあげるといいと思う」

――常が冷淡とさえ見えるヨルの、珍しくも感傷的な言葉に、パン屋の主はますます怪訝そうな顔になったが、少年はそれ以上は構わなかった。








「おー、お帰り」

孤児院では、いつものように怠け者の大きな猫みたいな義母が、本を広げて日向ぼっこしながら読書に興じていた。その傍には昼寝にいそしむ子供たちが鈴なりになっている。義母の膝を膝枕にしている者も居た。
ひたすら何もしないし、何もできないろくでなしの母親だが、不思議と子供達には好かれるのだ。まことに、ヨルにとっては不思議でならない事実だが。

「どうだった?」
「……別に、どうも」

掠れた声で応じて、ヨルは自室へふらふらと向かう。レシゥシェートはその後ろ姿を見送った後、自分の膝を占領する子供の髪を撫でながらくすくすと、珍しく控えめな笑い声をこぼした。

「まだまだ、魔女としちゃ半人前だなぁ」
「――あなたと比較されちゃ形無しですよ、『レシゥシェート』」
「そーよー。あたし達とちゃーんと契約できてるだけでも褒めてあげなくちゃ」

いつの間にか彼女の背後には、一人と一匹の悪魔が並んでいる。レシゥシェートは振り返りもしない。子供の髪を優しく撫でながら、自慢げに言うだけだ。

「でもさ、あいつすごくいいオトコだろ?」

悪魔達は顔を見合わせただけで、惚気ともとれるその呟きには答えなかった。名も知れないどこかで死んだ子供のために、ほんの少しだけ喉を傷めることくらいはできる少年のことを、互いにそっと思い浮かべただけである。


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