ディアマイハニー

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 ベッドの中でごろごろとしていた義母が、傍で本と睨めっこしている彼の服の裾を引いた。彼女が口を開く気配を感じながら、それでも文字の列からは目を放すことなく――しかし確かな予感を覚えて彼は彼女の言葉を待たずに先にため息をつく。どうせため息をつきたくなるような馬鹿げたことを言いだすに決まっている。
 そうして彼女はやっぱり、馬鹿げたことを口にしたのだった。




「なぁハニー、お前、デートってしたことある?」
「その問いかけってどう答えるのが正解なの、母さん? もしくはどこに突っ込み入れればいいの?」

 何だデートって。
 気の抜ける単語に、ヨルはうんざりしながら義母の顔を見た。猫科の獣染みたふさふさの耳が枕の上に少し潰れた格好で乗せられていて、要するに寝起きだ。継ぎ接ぎだらけのカーテンの向こう側からは薄らと朝日が差し込んでいる。――まだ、夜は明けたばかりだ。裏庭の鶏の鳴き声さえ、まだ聞こえてはこない。
 変な時間に目を醒ますんだな、と、ヨルは質問とは無関係などうでもいいことをちらりと考える。平穏な日常においては彼女は昼過ぎまで惰眠を貪っているのに。――尤も、旅をしている間や戦場の仕事を引き受けている間などであれば、彼女は逆に殆ど睡眠を必要としないようだったが。ああいう場所では、彼女が寝ている姿すら見たことが無い。

「何だ、したことないのか? もしかして知らないのか、デートだよデート。東方風に言うと逢引き。男と女がこう…いちゃいちゃしたりするアレ」
「何だろう…なんかすっごく釈然としないことを言われてる気がする…」
「? 変な奴だなぁ。とにかくさー、デートをしたことがあるかないか、イエスかノーで答えろよ」
「お前自分の胸に手を当てて考えろよ」
「は? お前何言ってんだハニー。何で私の話になるんだよ、お前の経験について訊いてるんじゃないか」

 会話が全くかみ合わないのでヨルはもうこれ以上言い募るのはやめようと思った。変な墓穴を掘りそうだ。と言うか全体的に釈然としない。僕に経験が無かったとしてその責任の何割かはあんたにあるんじゃないのかと言いたかったがやめておいた。真顔で「え、だってほら色んなとこ行ったじゃんあれデートにカウントできるだろ」とか言われそうだが彼女に連れられて行った場所は半分が戦場で残り半分は血なまぐさい事件の現場だった記憶しかないのでそれはそれで納得がいかない。
 この女に甘ったるいものを期待するのはとっくに諦めてはいるのだが。
 ベッドの中で眉を顰めていた彼の義母、兼、仕事と人生の相棒でもある女は、むくりと起き上がって折れた猫耳をぴこぴこと動かしている。

「うーむ。そうか、お前、デートしたことないのかー。詰まらん奴だなぁ」
「……ちなみにこれも墓穴掘りそうだなぁと思ったけど興味は湧いたから一応念のため訊くよ。シゥセはデートしたことあるの?」

 シゥセ、と、彼にだけ許されている愛称で呼べば、布団の中の尻尾がぴくりと動いたのが分かった。まだ少し眠たげな瞳をとろんと幸せそうに細めて、彼女は笑って答える。

「そりゃあ、デートの1回や2回、あるに決まってるじゃん。お前最近忘れてるのかもしれないけど、私はお前より年上で経験豊富なんだぞ?」
「そりゃ初耳だ」
「え、何それ、お前ときたら毎日毎日飽きもせずに私のこと嫌味ったらしく『母さん』なんて呼ぶ癖に私の年齢も知らなかったのか!? ダーリンって呼んでくれてもいいっていつも言ってるのに!」
「そっちじゃないよ。あんたが『デート』だなんて、そんなごく当たり前の男女交際の手続きを取ったことがあったのを知らなかったって言ってるんだ。あと最後の台詞については全力で断る死ね。」
「えー。まるで私が、正しい男女交際の手続きを全力ですっ飛ばして『とりあえず押し倒して後のことは後で考えよう!』って言い出すような女みたいじゃないかー酷いなー」

 言いたいことは山ほどあったがヨルは押し黙った。「正しい男女交際」なんて言葉を義母に使われると全力で頭にチョップをぶち込みながら「お前が言うなああああああ!!」と叫びたくなるが堪える。多分やったらすごくスッキリするとは思うのだが。――残念ながらそんなことをしても何も解決しない。

「……で? デートが何だって言うんだよ」

 読んでいた本に栞を挟んでサイドテーブルに置く。ベッドの中で上半身だけ起こした格好の義母を見やると、大欠伸した彼女は思案げに、灰色の瞳を揺らした。同じく灰色の髪の毛が、彼女が俯いた拍子に肩をさらりと流れていく。
 斜めに微かに差し込む柔らかい朝日が、そこだけ色褪せたかのような、全身灰色の異形の姿。
 ――その異形から、デート、なんて単語が出て来るだけでも十二分にこれは奇妙な光景なのかもしれない。

「うーん。ちょっとね。困っていることがあって」
「…あんたが困るなんて珍しい。何かあった?」

 ベッドの端に、ヨルはすとんと腰を下ろした。――見てくれは12歳程度のヨルの体重などたかが知れているが、それでも古びたベッドは不服げに軋みを上げる。

「ユウリがなぁ」
「…ユウリ? 一年前に帝都に行ったユウリがどうかしたの?」

 出された名前は、一年前までこの孤児院で生活していた彼らの「子供」の一人のものだった。活発で闊達な少女で、ここからは随分と離れたある国に遠縁ながら援助をしてくれる親戚が見つかり、一年前にそちらに引き取られていったはずだ。
(あの親戚と言う人たちは随分とユウリを可愛がっていたはずだけど…)
 一体何があったのだろう、と眉根を寄せていると、

「…珍しく手紙を寄越すから何かと思えばさ、デートスポットを教えてくれと言うんだ」

 言いながらレシゥシェートは這うような動きでサイドテーブルに手を伸ばし、引き出しから一通の手紙を取り出す。見慣れた筆致は自分が読み書きを教えた彼女のものに間違いなく、ヨルは半眼になって手紙を取り出す義母のしなやかな細い腕を睨んだ。薄い光の中で白い肌はやたらに映え、そのせいで僅かに残る傷跡が目立つ。

「何でよりによって母さんにそんなことを?」

 最初にヨルが問うたのはそんなことだった。
 ――この孤児院で育つ子供たちは、院長であり全員の「母親」であるレシゥシェートの経歴を知らない。知らないが、それでも彼女がマトモではないことはよく知っているはずである。

「何でよりによって母さんに…? 娘に恋愛相談された時に真顔で『そうだな、お前たちは戦闘訓練をしていないから、相手の不意を突くところからだな…』って何故か相手を力尽くでモノにすること前提でアドバイスするクズみたいな人だぞ…」
「いやーだって私、他の方法って言ったら、小さい内に拾ってきて自分の好みに育てるとかそういうことしか思いつかないし…」

 その方法は普通誰も実践しない。と、「小さい内に拾われて育てられた」ヨルは心底そう思ったが黙っておいた。それよりも今は気になることがある。

「…しかしデートスポットって。何だってそんなこと母さんに訊くんだろう? ユウリに恋人でも出来たの?」
「ユウリではないな。ユウリの良くしてもらってる親戚の娘さん、ほら、ユウリより少し年上の子がいただろう。彼女に好きな子が出来たらしいんだが、あの子が随分な引っ込み思案らしくてな。…ユウリは世話焼きだったからなぁ、世話になっている家の子に、何かしてやりたいんだろうなぁ」
「それでデートスポットって話になるの…?」
「うむ。デートのお膳立てをしたいが、自分だけの意見では不安なので、周りの意見を聞いてみたい、だそうだ。ユウリらしいな」
「周りの意見を聞くのが好きな子だったよね。それをまとめるのも上手かった。今回は微妙な内容だから、身近な人に訊くのを控えたのかな」

 成程とようやく納得し、苦笑を落として、ヨルは受け取った手紙に目を落とす。几帳面な文字は自分が教えた時のそれより、少しばかり帝国風の言い回しが増えていた。――寂しくはあるが、向こうに馴染んだと、そういうことなのだろう。

「成程ね。ちゃんと最後に一言添えてあるじゃないか、『母さんの経験談と見解は当てにならないとは思いますが、手紙を出さなかったことがバレると後が面倒くさそうなので一応聞いておきます。返答には期待していませんので』って」

 納得して一人頷くヨルのシャツの裾を、不服そうにぐいと細い指先が引いた。――この細い指先は、男の頭蓋骨を握り潰すような馬鹿力を発揮することもあるのだが、今は子供が甘えるようにシャツを引っ張るだけである。だからヨルはそれを無視して、手紙をサイドテーブルに投げた。

「…で、返事はするの?」
「するさ。当たり前だろ。しっかし、何でウチの子達は大人になるとみんなして私を常識知らずみたいな扱いにするんだよー、小さい頃はみんな母さん母さんって可愛いのにさ! あ、ハニーは今でも可愛いよ」
「……。何でユウリは僕には手紙を寄越さなかったんだろ」
「ああ、私も不思議に思ったんでユウリと仲良しだった桜実に訊いてみたら『…父さんの恋愛経験はイコール母さんだから、やっぱりあんまり当てにならないと思ったんじゃないかなぁ』って遠い目をして答えてくれたぞ」

 頭を抱えたくなった。そんな目で見られてたのかと思うと物凄く複雑な気分になる。違う、と大手を振って否定するのは簡単だが、否定したらしたで面倒な事態になるのが目に見えている。え、何、父さん浮気したことあるの、とか根掘り葉掘り訊かれた挙句それを全部レシゥシェートに報告されるに決まっているのだ。面倒くさい事態にしかならない。

「それにお前の恋愛経験なんて全力でねじ曲がってるに決まってるしなー」
「誰のせいかな」
「お前のせいだろ?」

 この女は真顔で、恐らくは本気の本気でこう問い返しているのだ。腹立たしいのを通り越して、呆れの感情すら最早湧き上がらず、ヨルは無表情のままで彼女を睨んだ。灰色の髪がシーツの上でぐしゃぐしゃに絡まっているのをぐいと引っ張ってやると、痛い、と小さな声をあげてレシゥシェートがその手を弾く。
 弾かれた手をヨルは今度はサイドテーブルに伸ばした。テーブルの上に置かれたブラシを手に取る。

「しかしどう書いたものかなぁ。デートのお膳立てって言ってるし、男の落とし方にアドバイスでもした方がいいかな?」
「母さんの言う『落とし方』ってつまり、『首を絞めて意識を落とす』的な意味で言ってるんだよね?」
「何言ってるんだ、首を絞めて落とす場合は素人が下手なことすると危ないだろう? 素人の、しかも女の子がやるなら私は薬物をお勧めするな、量を間違えなければ何とかなるだろうし。媚薬の類は使いどころが難しいが、睡眠薬なら入手もそう難しく…痛いなぁ、もっとゆっくり梳けよ」

 言葉の途中で、枕を抱きしめるような恰好でうつ伏せになってこちらに背を向けていたレシゥシェートが、振り返って口を尖らせたのは、ヨルがいささか乱暴な手つきで彼女の寝癖をブラシで梳いたせいだ。灰色の髪は縺れて絡まっていて、それを舌打ちして見下ろしながらヨルは呻く。

「母さんが馬鹿なこと言うからだよ。薬物の使用も素人知識でやると危ないんだから――って、そうじゃなかった。返事はいつ書くの。郵便屋さんが来るのはもう少し先だし、急ぐなら僕が『送る』けど」
「んー、それじゃあ頼もうかな。ハニーも何か書いておけば? ユウリ、喜ぶと思うぞ」
「何を書けってのさ…。…他人の世話を焼く余裕があるならユウリは元気なんだろ。別に、いい」

 ブラシで梳いた髪の毛に、強くなってきた日差しが当たる。――「色を失う」という呪詛を受けた彼女の身体の上では、朝日の色さえもごそりと欠けていたが、それでも僅かに光を弾いている。ヨルはこぼれた光を追うように彼女の灰色の髪を撫で、ひと房手に取った。昔は金色だった髪の毛は今ではすっかり様変わりしてしまってはいたが、手の上を滑る絹のような感覚だけは変わっていない。
 腰まで届く長い髪は、持ち上げると背中の傷跡が露わになった。それを見下ろしながら、ヨルは呟く。

「…髪を洗ったら寝る前に乾かせっていつも言ってるのに、全く」

 咎めるように告げると、レシゥシェートはまるで猫みたいに心地よさげに咽喉を鳴らして、伏せているのでヨルには表情が分からないが、多分にんまりと笑いながら、

「手紙に書くネタも欲しいし。ハニー、どっかデートにでも行こうか?」
「……。血なまぐさいトコと訓練場はイヤだからね」
「…………。……あれ、じゃあどこに行けばいいんだ?」
「知らないよ、自分で誘ったんだから自分で考えなよ」

 やっぱりコイツ、あれが「デート」とやらに入ると思っていたのか。と、ヨルはもううんざりしてため息さえ零せず、何故だか逆に笑いが漏れてきたのを、伏せっている彼女に気付かれぬように奥歯の辺りで噛み殺した。うーん、と真面目に考え込み始めたらしい義母の背中を見つめて、今傷跡なぞったら悲鳴あげるだろうなぁ――などと馬鹿なことを考えてしまって、首を横に振る。普段から呆れるほどに堂々としている彼女の悲鳴を聞くのは楽しいのだが。それはそれは楽しいのだが。
(…そろそろ子供達が起きてくる時間だしなー)
 裏庭の鶏達が小さく鳴き始めたのも聞こえている。今日の予定は、と考え始めてヨルは苦笑した。

「…まぁ、でも、今日も忙しそうだし、遠出はやめておいた方がいいかもね」
「えー。つまんないなぁ」
「――子供達とピクニックにでも行く?」
「それはデートって言わない。家族で遊びに行くって言うんだ」
「似たようなもんだろ」
「えええええ…」

 不服げな声をあげる義母をベッドに残したまま、ヨルはよいしょ、とベッドから立ち上がる。朝ごはんの準備をしなければ、とそのまま立ち去ろうとする彼の背中に、うーん、とまだ何か考え込んでいるらしい義母の声が突き刺さった。

「――ああ、でも、私はハニーと一緒だったらどこに行っても楽しいし。デートなんてそんなもんだよなぁ」
「……母さん、時々一周してすごく正しいこと言うの、ホントにやめてくれない」

 不意打ちは、いちいち心臓に悪い。思わず振り返ってしまったヨルの視線の先で、朝日を浴びてもなお灰色の、相変わらずの姿でレシゥシェートはにっこり笑った。

「言い忘れてた」
「何を」
「おはよう、ハニー」
「………」

 そうだね母さん、挨拶って大事だよね。子供達にも言い聞かせてることだもんね。と、ヨルは押し出すように息を吐いた。ため息と呼ぶほどには、ネガティブでもポジティブでもなかった。

「…うん、おはよう――シゥセ」

 瞬間だけ迷って、彼女の名を呼ぶ。案の定、彼女は嬉しそうに、腹立たしいくらいに嬉しそうに笑みを広げた。





「…んで母さん。起きたらさっさと服着てね」
「…うーん、私の服どこやったっけ?」
「知らないよ…!!」








**********


「それでユウリ、故郷のお母さんからの手紙って何だったの? ――それにしても吃驚したわ。起きたら部屋の中に大きな青い狼が居て口に手紙くわえてるんだもん」
「父さんの特急郵便よ。あれ便利なのよねー、どこに居ても一瞬で手紙届けられるから。こっちから届けたい場合は父さんから貰ってる『呼び出しベル』を鳴らせばいいだけだし」
「…。いつも不思議なんだけど、ユウリのお父さんとお母さんって…」
「いや、私達も詳しい経歴は知らないわよ? なんか、現役の魔女と元魔女のコンビらしいわ。何で教会の異端狩りに捕まってないのか不思議よねー」
「………。まぁいいや、とにかく、手紙にはなんて?」
「内容の九割が惚気で一割が現状報告っていうシロモノだったわ…。惚気の途中で読むのやめて破ろうかと思ったくらい」
「あらあら、ユウリの両親って仲がいいのねぇ」
「……あれは仲がいいって表現していいものなのかしら…。ちなみに惚気の内容が『庭先でじゃれあってたらハニーに殺されかけた』とかそんな内容で個人的にどういう顔していいものなのか分からなくなるわね」
「………。それは惚気って言っていいものなのかしら」
「母さんにとっては惚気なのよ、困ったことに」
















ブログに掲載した時に頂いた感想に「夜明け前にベッドでだらだらとかマジ熟年カップル」とあって、「言われてみたら確かになんか事後っぽい」と妙に納得した。タイトル「後朝」とかにしてやればよかった(レシィさんは服をどっかにやってしまったようだが)


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