その噂を耳にしたのはそれからどれくらい経った頃だったろうか。 仕事を求めて内乱の続くとある小国に逗留していたカリィシエラ達は、宿屋に併設された小さな酒場で他の地域から、矢張り仕事を求めてやって来た連中と情報の交換をしていた。そんな中で、実しやかにその噂は囁かれていた。 ―――鴉が、死んだと。 「…死んだ?」 常に微笑みを絶やさぬ彼女が突然、表情を喪ってしまったので、その噂を持ってきた少女は一瞬だけ黙り込んだ。一瞬のことで、次の瞬間にはカリィシエラが口元を扇で隠してしまったので、その表情をうかがい知ることが出来なくなってしまう。 「――噂、だよ。ただの噂。ほら、あいつって、東の方の組織に居たでしょ?」 慌ててそう続けた少女は、カリィシエラが面倒を見ている傭兵団のメンバーの一人の娘だった。名前を思羽と言い、鮮やかな金髪と、そこから生えた猫耳が特徴的な、まだ幼い少女だ。 彼女は大きな瞳をぱちぱち、と二度瞬いてから、カリィシエラを上目に見た。 「その組織を裏切ったとか何とかで。」 「本当に死んでしまったのかしら…」 「知らないよ、噂だもん。…でも、」 それをカリィシエラに告げるべきかを少女は暫くの間躊躇っていた様子だった。でも、ともう一度呟いて俯いてしまう。 情報交換の場に紛れて、「鴉」とあだ名された殺し屋の情報をカリィシエラに運ぶのは主に彼女の役目だった。ここ数年ずっとそうだったから、彼女は、理由はともかく、カリィシエラが酷く「鴉」に執着していることは知っている。 だからこそ、告げることが躊躇われたのだった。 「――でも、何かしら?」 ゆっくりと、けれど反駁を許さぬ、カリィシエラの声。 おずおずと、やっと彼女は口にした。 「…東の組織の連中って、裏切り者には徹底してるでしょ。鴉個人にはそれほど強いバックアップはなかったはずだし、…幾ら鴉が強くても…死んでおかしくはないよ。」 組織相手じゃどうしようもないもん。呟くように言ってから思羽はカリィシエラを上目に見遣った。口元を扇で隠していた姉代わりの美女は何も言わない。ただ、静かに少しだけ目を伏せる。 まるで何かを悼むようなその表情に、少女は居た堪れなくなり、彼女は「あ、じゃあ私、ディーに用事があるから――」と慌しく部屋を飛び出していってしまった。 ところが部屋に残されたカリィシエラは、飛び出していってしまった妹分を見送ってから密かに息を吐き出した。苦笑。 「……本当に父親に似ない娘ねぇ、あの子ってば。――娼婦の表情なんて素直に信じる物じゃ無くってよ?」 声をかけた相手はとうの昔に声の聞こえぬ範囲に居るのだから、届くわけも無い。 苦笑を吐き出し終えると、カリィシエラは扇をナイトテーブルに置いた。部屋に備え付けの小さな鏡を覗き込む。褐色の肌に、乾いた青磁の色の瞳は気だるげだ。変わることも無く。 「――鴉が、死んだ」 口に上らせてみて、彼女はく、と咽喉を鳴らすように笑った。常の微笑みよりもずっと、ずっと、娼婦のような笑い方だと、鏡を見ながらそう思う。 事実だろうか、と疑問に思いながらも、カリィシエラは直感で以って今までの噂とは違う、と感じていた。死体が上がった、というのは、単なる噂としては少しばかり、誇張が過ぎている気がした。 そこまで冷静に考えてから彼女は鏡に額をつけた。ひやりと皮膚に染む、秋の冷気を孕んだ鏡の表面の感触。あの夜から時は流れて、もう、月夜の滲むような暑さは何処にも無くなってしまった。 目を閉じて彼女は自分の表情を観察することを止めた。そうして、小さく、小さく呟く。 「勝ち逃げなんて、許さなくてよ。」 低い声は自分の耳に届く時には驚くほどに掠れていた。引き攣れて嗚咽の様になってしまった無様な声を聞きたくなく、彼女はそれきり口を閉ざす。 暫し、沈黙。 珍しく静かな夜で、外からころころと響く虫の音だけが部屋を満たしている。 思い立って宿を出たのはそれから数時間後だった。宿の一階、酒場や食堂を兼ねたホールを突っ切っていると様々な声をかけられる。 「カーリーどうした?こんな時間に」 「散歩なら俺、ご一緒したいなー!」 「ばっか、カーリーがお前ごとき相手にするかよ。俺だよな俺。一緒に永い夜を楽しもうぜ?」 「カァラ、外は危ないよ。そこらの狼は放って置いて、誰か一緒に連れて行ったほうが」 楽しい、と思う。カリィシエラはふと素直にそんなことを思っていた。彼等とは随分と長い付き合いで、勿論、戦場や危険な仕事を請け負ったりしている内に居なくなってしまった仲間も居るけれど。 そんな中、ジョッキのビールを煽っていた友人が駆け寄ってくる。親友は、最初にカリィシエラをこの傭兵団にスカウトした人物でもあって、そういう意味では恩人でもあった。 「ディー?」 「…カァラ」 薄い紫色の瞳の少女――の姿をした年齢不詳の女性――は、困ったように眉を顰めた。 「何処に行くんだか知らないけど、外は危険よ。」 「ええ、分かっているわ。…でも、出来るのなら、独りで行きたい場所があるんですの。」 先程部屋で独り思案している間に、思い出したことがあった。確か、この近くだったはずだ――と。記憶を辿りながら彼女は親友に視線を遣った。この国の治安は良くない。外は既に深夜に近しい時間だ。戦う術も身を護る術もほとんど持たないカリィシエラが独りで出歩くことを、親友が良しとする訳も無い。実際、ディーは睨むような、責めるような視線を投げつけてくる。 「…ディー。」 懇願の響きを捉えて、ディーは腕を組んで軽く唸った。それから、ふと、自分の肩を視線で示す。正確にはそこに腰をかけた、小さな使い魔。 「――せめてコイツを連れて行ってくれない?」 コイツ呼ばわりされた小さな悪魔は、軽く舌打ちだけをしてから、カリィシエラに視線を動かした。常に無表情で整った顔立ちは、よく出来た可愛らしい人形染みて見える。 感情を窺わせない声で、彼は低く淡々と告げてきた。 「どうしても独りが良いんなら、僕は極力、目立たないようにするよ。後ろからこっそりと護るくらいはさせてくれない?」 じゃないと、僕のご主人様が無理矢理付いて行っちゃうと思うし。静かにそう言い添えて、小さな悪魔は無表情なままにウインクをした。不似合いなそれに思わず笑って、カリィシエラは一礼する。 「それなら、お願いしようかしら。よろしく、可愛いサーヴァント。」 「じゃあ、せいぜいお邪魔にならないように努めようかな。…よろしく、レディ。」 カリィシエラはこの小さな使い魔とは、話が合う。悪魔と言うだけあって教養はあるし、何よりも、意外と紳士だったりする。そんな訳で、カリィシエラは思いもよらず、親友の使い魔を肩に乗せて夜の散歩に出ることとなった。 月は出ていない。静かな星明りと、魔力を籠めたカンテラだけが辺りをぼんやりと照らす夜だった。夜道を歩くカリィシエラの肩で、悪魔は一度だけ口を開いた。 「何処へ行くのか、尋ねても?」 カリィシエラは少し自嘲を、した様子だった。く、と咽喉を鳴らす声は笑ったのだと知れるまで少し時間がかかる。――寧ろ、何か、怪我でもしたかのような表情。口元は確かに微笑んでいるのに引き攣っているようで。 「…昔馴染みに会いに行くのです。」 そう言われれば、悪魔は思い出さざるを得ない。 カリィシエラは確かに、この辺りの出身で、しかも当時彼女は、親に売られて娼婦をやらされていたのだ。良い思い出であろうはずもないそのことを思い出して、悪魔はらしくもなく慌てた。 「…悪いことを聞いたね。ごめん。」 「いいのよ、謝らないで頂戴?」 答えたカリィシエラの声は微かに強張っていた。 「……憐れまれたくは、無いの。」 凛と夜闇を睨む視線の青磁の色は、硬質に星の光を弾いて消えた――目を閉じたのだ。次に彼女が目を開いた時にはもう、あの硬質な色は見えない。青とも緑とも付かぬ瞳は悪戯っぽく細められて、 「それにしても貴方は本当に悪魔らしくないのね。」 そんなことを言うので、悪魔はそれきりその話題を忘れることにした。 「僕は女性には優しくする主義なんだよ」 あら、それは素敵――そんなことを言い合ううちに、カリィシエラは目的の場所を見つけて足を止める。 路地を深く入った場所にあるそこは、周囲に胡乱な目つきをした酔っ払いが倒れていたり、此方をじろじろと無遠慮に眺める男なども居る。が、カリィシエラは特に気にする様子も無く、ひとつため息だけを吐き出してその建物のドアを開いた。 ―――そこは。安普請の集合住宅だった。階段にはどこかの住人か、或いは秋口の寒さを避けるためか。子供が二人、座り込んでいる。 ちらりとそちらへ視線を流してから、彼女はワンピースの汚れるのにも構わず膝を付いた。子供二人に視線を合わせる。びくり、と身を竦ませた二人は少年と少女、兄妹に思われた。 彼等の緊張を解すように微笑みかけて、カリィシエラはゆっくりと口を開いた。 「此処に、棲んでいるの?」 二人は顔を見合わせ――やがて、兄と思しき少年が口を開いた。こちらを警戒する視線は緩めないままに、 「そうだけど。」 「…そう。カトゥ…フィカティア=クレイルという名前の女性が居ないかしら、この長屋に。」 問われた二人は怪訝そうに再び顔を見合わせあった。そうして、またゆっくりと兄が口を開く。 「あんた誰?」 「カリィシエラ。」 それから彼女は少し、口の端に――珍しく苦笑染みたものを浮かべて、 「昔、此処に棲んでいた者です。…そう告げて頂ければ、カトゥには通じますわ。」 肩の上の悪魔は一度だけ首を傾げたが、何も言わない。 そこは、遠い昔は娼婦宿だった場所だ。ただの娼婦宿ではない。少女の、高級娼婦の専門宿だった。 今や別の建物が代わりに在るその場所の階段を、カリィシエラは苦い想いで上った。先導してくれる二人の幼い兄妹に、目的の部屋に到着して直ぐに、「有難う」と指輪を抜いて渡す。「お礼よ。」 ―――本物の大粒の真珠が填められた指輪は、彼女がもしもの時の護身用に持ち歩いているものだ。 「…売れば多少のお金にはなります。ただし、売る店は選ぶように。」 静かに言い渡すと、大きく頷いて、兄は走り去った。妹の方はその後を追い、一度だけ振り返って「お姉さん、有難う」と大きく一礼。 「良かったの、カァラさん。」 「わたくしにとって宝石は『使う為にある物』なんですのよ、深神?」 「豪気なことで。」 軽口を交し合ううちに、立て付けの悪い扉が開いた。ふわりと甘ったるい笑顔を浮かべてカリィシエラを出迎えたのは、昔馴染み――かつて同じように娼婦宿に居た、幼馴染とでも呼ぶべき相手である。カリィシエラは微かに懐かしそうな笑みを浮かべた。 「カトゥ、久しぶり。」 「本当に!近くまで来ているとは聞いていたけれど、訪問もしてくれないなんて酷い親友だと想ってしまうところだったわ。…お久しぶり、カァラ。」 「ええ、ごめんなさい。少し落ち着いてから訪問しようと思っていたのだけれど…突然、ごめんなさいね。」 肩を抱き合い、ここいらの育ちの女性たちの挨拶として頬と額にキスをする。そうしてから二人は静かに微笑み合った。カリィシエラは少しだけ苦い顔。 「『聞いていた』と言った?カトゥ。誰から、聞きました?」 カトゥ――フィカティアは静かに、笑った。カリィシエラに似ている、と、横でそっと見守る悪魔はそんなことを思う。同じ環境で育てられた故なのかもしれない。 そうして彼女は一端部屋へ戻ると、カリィシエラにそっと、何かを手渡した。 一輪の、造花。 紫色の菫である。 カリィシエラは、数秒の長い間を瞠目していた。カトゥはその手に紫の花を握らせて、じ、っと彼女を覗き込む。 …いつか遠い遠い、幼い日の夜に彼女と、仲間と、そうしていたように。 「――右目に眼帯をした男の人が、置いていきました。…近いうちに必ず貴女が此処へ来るだろうから、その時に渡して欲しいと。その方が仰っていたのよ、近くに貴女が来ている、って。」 友人のさやかな声で告げられた内容に、迂闊にも、カリィシエラは口元を覆ってしまった。ただ、花を握って思案するように黙り込む。 無言の旧友を、フィカティアはそっと部屋へと招きいれた。 「お茶でも如何、カァラ?そちらの小さい方も。」 …誘い文句がカリィシエラと同じなもので、悪魔は思わず、吹き出した。間違いなく、彼女はカリィシエラと同じ環境で育った幼馴染だ。 夜の紅茶はそう美味しいものではなかったが、カリィシエラの口には酷く馴染んだらしい。そうね、懐かしいわ。それだけをぽつりと零して、紅茶を飲んでいた。 部屋は大して広くも無いが、子供の文字の書き込まれたノートや玩具が時々転がっていて、 「…今は、何を?」 カリィシエラの問い掛けにフィカティアは眉を顰めた。 「子供を相手に学校の真似事よ。…あの時、教養だけは叩き込まれて、…あんな時代に助けられるなんて、感謝しなくちゃいけないなんて、皮肉な話だけれど。」 彼女たちは「高級娼婦」だったのだ。レベルの高い教養を要求されるし、立ち居振る舞いに至るまで躾けられた。実際、親に売られるほど貧しい家庭の出身にも関わらずカリィシエラは貴族のパーティに紛れ込んでも違和感が無いし、フィカティアもまた、立ち居振る舞いの細部まで優雅だった。お茶を淹れる指先は滑らかだ。それがどれだけの痛みを伴う記憶であっても、染み付いた振る舞いが身体から離れることは無い。 薄い水色の瞳を細めて、フィカティアは息を長く、吐き出す。 「貴女は、何をしているの?カァラ。」 目が。瞳が、フィカティアの視線が縋るように、眇められて注がれる。 「傭兵団にお世話になっていますの。…子供の世話係という点では貴女と同じかしらね。」 カリィシエラはそう言って小首を傾げた。月明かりに映える銀髪が一緒に揺れる。 「傭兵?…危なそうね、大丈夫なの…?」 不安げに眉を顰めたフィカティアに、彼女はいつものように優しく微笑んで見せた。 「戦場へ行ったりはしないから、平気よ。時々宿まで大騒ぎになって大変だけど、退屈だけはしなくて良いわ。」 大騒ぎ、と聞いて、思わず苦笑する悪魔である。先日など殺し屋に部屋に侵入されたというのに、彼女にかかればそのたった一言で片付けられてしまうらしい。 「じゃあ、あの眼帯の方は、傭兵の仲間?」 「さぁ?どうかしらね?」 口元に手を当てて、可笑しそうにカリィシエラは笑った。 「…右目に眼帯、というだけでは、知り合いかどうかも分からないですもの。」 「とても綺麗な人だったわ。」 言外に含みを持たせて問い掛けて来るフィカティアに、カリィシエラの笑みが深まる。だが一方で、彼女の胸中はざわめいていた。あくまで顔には出さず笑みを浮かべたままで、 「男の方に『綺麗』だなんておかしな話。」 「でも、本当よ。黒くてとっても綺麗だったわ。」 「真っ黒?」 「真っ黒。」 「―――まるで、鴉の様に?」 「そうよ。鴉の様に。」 その言葉は。 多分、引き金だった。 一瞬より長い間、けれどほんの短い間、二人の間に沈黙が落ちる。月明かりの降る音すらも耳に届きそうな、決して見過ごすことの出来ない沈黙。 フィカティアは音も無く、笑みを消した。 カリィシエラはそっと、目を伏せた。 「…そう。やっぱり、そうなのね、カァラ。…あの人が此処へ来たときに、そうじゃないかとは、思ったのだけれども。」 フィカティアの声はどこか、信じられないような響きを湛えている。 「―――あれは、鴉だったのね?殺し屋の。」 カリィシエラは沈黙だけで応じる。 無言の肯定。 「…私達の家を焼いた、鴉なのね。」 フィカティアの声は遠く、海の底のように静かで抑揚が無かった。視線を上げて、カリィシエラは彼女の表情を窺う。 静か過ぎて、フィカティアの顔からは何一つ読み取れはしなかった。 肩の上で、小さな使い魔が身じろぐ気配がする。嫌な予感に後押しされて、カリィシエラは言葉を捜した。 「…自由をくれた人です。」 「そうね。自由になった。私たちの鎖を見るなり、何も言わずに斬って『逃げろ』だもの。…ばかなひと。」 く、と微笑んだフィカティアの気配にカリィシエラは今度こそ、ぞくりと背筋を粟立たせる。 ――鴉は確かに、彼女達に自由をくれた。でも。 「籠から出された小鳥に、端から自由などありはしないのに。」 「カトゥ、」 「貴女は良かったのかもしれない。仕事を得ることが出来たのでしょう?幸せなんでしょう?カァラ。でもね、」 震える指先。フィカティアがぎゅ、と拳を握ったのが卓の上、白々と、月明かりに照らされて見えた。 「…あの籠から焼け出されて、生きていけなくて、その所為で死んだ娘も居たのよ。それを知らないとは言わせない。」 「勿論よ、カトゥ。忘れはしないわ。…エルクル、ミスティア、ファータファーラ、シェスト。」 静かにカリィシエラは頷く。挙げた名前は、あの火事の後、寄る辺もなく彷徨ううちに殺されたり或いは、病気に倒れた友人達の名前だった。 ――娼婦として生きていた時間が、思い出すのにも苦痛を伴う時間であったのは事実だ。鴉がそこから彼女たちを解放してくれたのも事実。 だがそこから解放されたが故に、彼女達が死んでしまったのも事実だった。 「鴉はあの子達の、仇なのよ。」 いっそ抑揚も無ければ感情と呼べる程の揺らぎも無い。水のように静かに、フィカティアは呟いた。 カリィシエラは頷いた。 「それも、事実ね。」 そして彼女は、立ち上がる。 決然と、微笑んで呟きを返した。 「…その鴉をわたくしが想うのも、事実だわ。」 握り締めた紫の菫。匂いなどしないそれを口元に寄せてキスをした。固い感触に、笑みを深める。 「………嫌なことを思い出させて、嫌な相手からの伝言を伝えてくれて、本当に有難う、カトゥ。」 別れの挨拶は決別の挨拶でもあった。フィカティアが視線を微かに上げる。 夜闇にも明らかな翳りを、その時になってやっとカリィシエラは彼女の瞳の中に見出していた。暗い、酷く暗い、重たい感情を抱えた瞳だった。 娼婦としてしか生きられなかったあの頃の自分の瞳の色と、同種のものだ。 フィカティアはあの頃から、何一つ変わっては居ないのだと気付いて、カリィシエラは唇を噛む。 ディーに出会うことが出来て、彼女のような仲間に恵まれた自分は、多分、相当に幸運だったのだ。そのことに改めて気付かされた。 ―――眩暈を覚えたのはそうやって立ち上がって、直ぐのことだった。 ぎょっとしてカリィシエラが咄嗟に掴んだテーブルの向こう。友人は何故か微笑を深くして、カリィシエラを見つめていた。 立って居られなくなり蹲ったカリィシエラに、そして、彼女の笑み含んだ声が届く。 「……貴女だけ幸せになるなんて、許さない。」 夜の影から響くような低い、暗鬱な、それでいて酷く愉快そうな声だった。 「許されてはいけないのよ。カァラ。まして、鴉と一緒にだなんて、私は絶対、許さない。」 「…っ、カトゥ、貴女…?」 やっと開いた口は痺れて、上手く言葉を紡ぐことができない。歯痒いような想いでカリィシエラはそれでも、重たくなる首をもたげてフィカティアを見ている。 「――私は鴉を許さない。…その鴉を慕うなら、貴女も、許さない。」 (……ああ、) そういうことか。 と気が付いたのは少し遅すぎたようだ。カリィシエラはしかし、その状況でも思わず笑ってしまいそうになった。麻痺が身体中に及んでいて、口を引き攣らせる事も出来はしなかったのだが。 (…わたくしとしたことが、…上手く使われてしまったわね。) 全く、厄介な男に惚れてしまったものだ。 ――暗転する寸前の意識は、そんな場違いなことを考えていた。 >NEXT <PREV >MENU ****** 後書きならぬ中書き 「シルフィード」は娼婦の隠語、という設定。 勿論現実にはそんなコトないので信じちゃ駄目です。 |