「紅茶に何を入れたの?」 怜悧な声は、倒れたカリィシエラを庇う形で立ち上がった悪魔のものだ。人形のような身体を一瞬で成人男性のサイズに変化させてカリィシエラとフィカティアの間に立ちはだかる。背中の腐りかけた黒い翼を開いて、明らかに威嚇を仕掛ける深神に、フィカティアは引き攣った声で応じた。 「睡眠薬よ。貴方には効かなかったのね。」 「伊達に悪魔なんて呼ばれている訳ではないよ。…何のつもり?」 低く問い掛けると同時に、彼は嫌な予感を覚えて伏せがちな瞳を開いた。ふわ、と夜の闇に鮮やかな金色の光が彼の周囲を踊る。それは柔らかく霧の様に、カリィシエラの身体の周りを囲んだ。魔法の加護を見て取って、フィカティアが笑みに苦いものを浮かべる。 そのフィカティアの後ろの扉が、不意に開いたのはこの時だった。 「その術、貴様、矢張り『鴉』の仲間か!?」 現れたのは数名の武装した男達だった。剣や戦槌など物騒な品を手にした男達は十名にも及び、悪魔は少々どころでなく顔を顰めた。――単なる護衛のつもりで付いて来たが、これは少しばかり想定外の事態だ。拙いな、と胸中だけで呟きながら、 「…フィカティア、だったっけ。そっちの物騒な人達は、オトモダチ?」 答えはなかった。代わりに男達がぐるりと悪魔を、悪魔の庇っているカリィシエラを取り囲む。むざと彼女を相手の手に渡すつもりは無いが、不利を感じて悪魔は目を細めた。彼は本来「使い魔」である為、主であるオラディアから離れていては本領を発揮できない。第一、これほどの事態になることなど誰も想像していなかったのだ。 「彼女を傷付けるつもりは無いよ。」 いやにゆっくりとした調子で言ったのは、フィカティアではなかった。武装した男達の後ろ、一人だけ悠々とした足取りで部屋へと入ってくる人影がある。 男だった。まだ年若いようには見えたが、三十は過ぎているだろう。長身の男は足音を響かせるようにしてフィカティアの傍まで歩み寄ると、ぐい、と無理矢理に彼女を抱き寄せた。フィカティアは――笑う。 悪魔は人間の心を理解することはできなかったが、何しろ長いこと生きていたので、その笑みから事情を察するのは容易なことだった。 娼婦が客に媚びる時の笑顔だ、と。 「……君はまだ、娼婦を続けていたんだね。」 静かにぽつりと零すと、フィカティアは笑みをそのままに首を振った。横に。それは笑顔のままの行為だったが、諦めを含んで感じられた。 「違うわ。端から私には、娼婦として生きる以外に、生きていく方法が無かっただけのことよ。」 「そうそう。カトゥは有能な娼婦だよ、実にね。」 同意を述べた男は肩を竦め、改めて悪魔を見遣る。明らかな優越を含んだ視線。 「…で、どうするんだい。『腐食の黒翼』?その女性を素直に明け渡すか、それとも、抵抗するか。素直に明け渡してくれりゃア…」 「僕だけは見逃してくれる、とか?」 皮肉げに笑んで見せた悪魔に、しかし男はにやりと笑い返して、 「まっさか、そんな安い約束であんたが引き下がってくれるなんて思いやしないさ。ただ、素直にその女性を『貸して』くれりゃあ、明け方にはあんたらの居る宿まで送り届けるって言ってるんだ。」 「…それを僕に信じろって?」 幾らなんでも胡散臭すぎる、話にならない。悪魔は鼻を鳴らした。 「いきなり人様に一服盛るような連中相手に、信用しろって言うの?」 突き放すように言うと、しかし、男は引き下がる様子も無く、ますます笑みを深くするばかりだった。如何にも紳士を装った笑みだが、どことなく下卑た匂いが染み付いている。 「まぁ、そりゃ謝るさ。だがね、俺達としても、どうしても裏切り者をとっ捕まえたい一心でやったことなんだ。」 「―――」 「戦場鴉」のことか、と、悪魔は眉間に皺を寄せた。全くあいつはどうしてこう、ろくなことをしないのか、と、この場に居ない鴉に文句など付けてみる。 「ってことは、あんた達、鴉が裏切ったっていう例の組織の関係者?」 淡々とした悪魔の問い掛けには、男や周囲の武装した男達のにやにやとした笑みが返事の代わりに投げられるだけだった。沈黙は、彼の確認を肯定している。 そうして、男はまた勝手に語りだした。 「しかし、あの殺し屋鴉が、たかだか女一人の為に危険を冒して、カトゥを訪ねてまで伝言を残そうとするなんて思いもしなかったな。お陰で、鴉を捕らえる算段も付けられた訳だが。」 「………あの馬鹿は、伝言残す相手の素性くらい、調べておけよな…。」 「無理無理。カトゥが俺の可愛い籠の鳥だなんて、知ってるのは一部の連中だけだぜ?裏を取られるようなヘマをした覚えはねぇな。――特に、鴉相手に。」 あいつにはいつ寝首をかかれるか分からなかったからな――そんなことをにやにやとしながら自慢げに言う男に、悪魔は少し長いため息だけで返した。視線はすっかり興ざめした様子で、男からフィカティアの方へと動いている。金色の瞳に睨まれた格好で、フィカティアは、嫣然とした笑みを凍らせた。 「…カァラさんはこんな人だから、あんたのことをどうこうなんて言わないと思うけどさ。カァラさんのお友達に一人、極悪の女が居るから、覚悟しておいた方がいいよ。」 捨て台詞である。 吐き捨ててから悪魔は自分の言葉に自分で眉を顰め、嫌悪を露にしながらも、すとん、と腰を下ろした。主に連絡を取ることを考えながらも、この場では下手に抵抗しない方がいいと考えたのだ。 相手は武装した男で、しかもまだ結構な数が居そうだ。 鴉が裏切ったという組織の情報を思い出して、悪魔はそのことを確信する。そういえばここから連中の拠点にしている街はそう遠くないし、人員も装備も資金も豊富に持っている筈だ。何よりも彼等は手段を選ぶことはしない。 下手な抵抗でカリィシエラを傷付けるような事態だけは、避けなければならないと彼は判断したのだった。 (まぁ、どうせ、カァラさんが帰ってこなければ僕のご主人様が黙っているはずもないし。) 悪魔は意外と気楽にそんなことを思って、両腕を挙げた。 「―――おっけー。今だけはとりあえず大人しくしておいてあげる。…でもカァラさんに傷一つでも付けたら、」 「分かってる分かってる。誰もお前さん達全員を敵になんかしたくないさ。この女性は可能な限り丁重に扱う。」 それで良いだろう、と、男は言って、何やら指示を飛ばした。倒れ伏していたカリィシエラを、数名の男が乱暴に引き上げて連れ去っていく。 悪魔は奇妙なほど静かな瞳でそれを見送り、ふ、と瞼を落とした。幸い、カリィシエラにかけた魔術の加護はそのままだ。最悪は何かあっても、あの魔術が彼女をギリギリの所までは護ってくれるはず。加えて、悪魔の居る傭兵団は小規模ながら敵に回すと相当に恐ろしい。幾ら相手の組織が大きくとも、好んで敵に回そうとは思わないはずである。 それに、と、悪魔は目を伏せたままで考える。 ディーならば何と言うか分からないが、少なくとも悪魔は「鴉」のことをある程度信用していた。信頼していたと言ってもいい。 (あいつが絡んでるなら、どうにかするだろうさ。――女を傷付けるほど落ちぶれちゃいない筈だ。) はぁ、とため息を一つ落とす。室内は静まり返っていて、先程までの騒ぎなど嘘のようだった。男達は部屋から通じているらしい「どこか」へ移動したらしい。魔術の気配はしていないから、足で移動したのだろうが、果たして自分で追いつけるかどうか。悪魔は自分の身体能力の低さだけはしっかりと把握していた。 追いかけたいのは山々だが、それよりも、と彼は床に散らばった、カリィシエラの飲んでいた紅茶のカップを持ち上げる。それは床に落ちた衝撃で砕けて、半分になってしまっていた。 白い陶磁器は月明かりをさらさらと弾く。 それを眺めるとも無く眺めながら、深神は、口を開いた。身体の回りに、月明かりとは異質な金の光が浮かぶ。 「…ディー、聞こえる?」 主の名前を呼ぶと、金の光が一粒、ぽーん、と跳ねた。 「うん、そう。…いや。ごめん、ちょっと面倒ごとになっちゃって。…え?うん。まぁそんなとこ。」 ぽん、ぽん、と、言葉を交わしている相手の感情を反映したかのように、金の光は慌しく動き回る。 「……お説教なら後で幾らでも聞く。……うん。防護魔術はかけてあるから、滅多なことにはならないと思うけど……うん。……分かった。じゃあ、僕はこのまま、カァラさんを追っかけるから。位置が割れたらまた連絡する。……分かってる、無茶はしない。」 最後にふわり、と光の粒は悪魔の周りを気遣うようにくるくる回って、そして夜空へと消えた。溶けるように消えていく金の光を見送ってから、悪魔はふぅ、と小さく息を吐く。そうして、次の瞬間には輪郭を夜闇に溶かした。 ぐにゃり、と歪んだ姿は、一瞬にして一匹の黒猫に転じている。黒い毛並みに金色の瞳で、妙に淡白な目つきをした猫は、窓からふぅわりと地面へと降り立った。 ****** 時間は少しばかり遡る。 世間では「鴉」と呼ばれているその殺し屋の元へ、仕事上の相棒が慌てふためいてやって来たのは、まだ真昼間のことだった。彼はちょうどその時、街を出て、とにかく「組織」の連中をどうやって撒くか、そんなことを隠れ家で算段していた所だった。 「お前、口開けてぼーっとしてる場合じゃ無さそうだぞ。」 「失礼な。お前と一緒にするな。考え事だ。」 つっけんどんに言い放ってから、彼は声をかけて自分を覗き込む相手を見上げた。(鴉は床に寝転がっていたのである。) ――見上げた顔は、眼帯の位置が左右逆なだけで、そっくり鴉と同じ顔立ちをしている。向かい合わせに顔を合わせると鏡を覗き込んでいるようだった。 「紅月」 名前を呼ぶと、彼とそっくり同じ容姿の相棒―双子の弟は、眉間に深くしわを寄せた。 「まーったく、どうしてお前はこの状況でそこまで暢気かな、緋月」 「…慌てたって状況が変わる訳じゃ無いだろう。状況が悪いからこそ冷静にならないと立ち行かない。……本当にお前は殺し屋に向かない気質だな、紅月」 双子なのに、という呟きは飲み込んだ。弟が、眼帯に隠されていない方の目にひどく剣呑な色を浮かべたからだった。 「向いててたまるかそんなもん。第一、お前だって、今や追われる身じゃねーか」 「そうだな。…全く、僕も焼きが回ったな…。」 「元々お前も向いてないんだよ、殺し屋なんて。何、裏切った理由。『子供だから殺すのが忍びなかった』ってお前、それ、殺し屋の台詞じゃないじゃん。」 「ああ、全くだ。僕も心底そう思う」 「じゃあどうして、」 「言ったろ?美人の妖精に会ったから気が変わったんだ。」 答えた鴉――緋月は、あくまでも面倒臭そうな表情で、弟に同じ説明を繰り返した。裏切りの夜から何度と無く交わされた質疑応答は、一字一句変わることが無い。結局、弟・紅月には、あの夜、殺しに失敗して戻ってきた兄が何を見て殺しを止めてしまったのか、全く分からないままだ。 分かっているのは兄が、どうやら殺し屋の稼業自体を辞めようとしているらしいという。…兄弟としては、非常に望ましいその事実だけ。ただし、望ましいのだが、「組織ぐるみで追われている」なんて事実までセットでは素直に喜べない。 「……ホントに、何があったんだよ。俺や愛璃が何を言っても、辞めようとしなかった癖に。」 ぽつりと呟けばとぼけた顔で、緋月は微かに笑って言った。 「僕はいつでも辞めようと思ってた。キッカケがたまたまあの瞬間だった。それだけのことだ。」 「俺、一生かけても緋月は理解出来ない」 「他人を理解することなんて誰にも出来ないだろう、幾ら僕らが双子でもね。」 口調は、恐らく今が昼間――本来なら殺し屋稼業の彼が眠っているはずの時間だからなのだろう。どこか眠たそうにぼんやりとしていて、とぼけた表情からその言葉の真意を窺うことは出来そうに無かった。 相互理解の努力は早々に放棄して、紅月は代わりに、本来の用件を告げることにする。 「…ちょっと拙いことになったぞ。例の組織の連中、お前がこの街に居ること嗅ぎつけたみたいだ。戦力をこっちに集中させ始めてる。」 「ふぅん。」 が、有意義な情報に対する彼の反応はたったそれだけ。――付き合いの長い兄なので予想はしていたが、それにしてもひどく淡白過ぎて、紅月は口を尖らせる。褒めろとまでは言わないが、苦労して情報を収集していることを考えると、少しくらい報いて欲しいのが人情である。 「お前なぁ。せめてちょっと礼を言うくらいは出来ないのか?円滑にコトを運ぶ為には挨拶だって大事なんだぞ?」 「それ、愛璃の受け売りだろう。…ああ、悪かったよ。睨むな。」 うんざりとした様子で手を振って、緋月は静かに上半身を起こした。眼帯に覆われていない目は少しピントがずれている。―――やはり眠たいらしい。 「…考え事、してたんだ。」 ぽつん、とそれだけ言って、彼は弟にその寝惚けた目を向けた。 「組織の幹部の男で、最近、先代を上手いこと死なせて後釜に座ったヤツが居ただろ。」 「ああ、ギークか。それがどうした?」 「あいつ殺したら上手いこと内部抗争になりそうだし、どさくさで僕も逃げ切れるな、と。」 ――一瞬、呆気に取られる弟を尻目に、戦場鴉と怖れられる殺し屋の青年は大きく欠伸をした。 「ギークの愛妾ってやつを調べてくれ。この街によく通ってたのまでは突き止めたから、ここらに居るんだと思う。…上手くすれば利用できるかもしれない。」 「女使うのかよ?…緋月らしくも無い。」 隠れ家は窓を板で打ち付けているから、昼間でも薄暗かった。板の隙間から真っ直ぐに差し込んでくる光だけが辺りを照らす。最低限生活に必要なもの以外は持ち込めなかったし、持ち運び出来ないようなものは持っていても仕方が無いから、部屋はひどく殺風景だった。 斜めの光の中を揺れる埃を目で追いながら、寝惚けた風の口調が続く。 「さぁ…僕が利用するのはそっちじゃなくて、別の女性かもしれないな。」 「例の『妖精』?」 揶揄を含んだ弟には笑みだけを返す。 「とにかく頼む。僕に対しては連中、無駄にガード固いから。まぁ、いつ裏切るか知れたものじゃないとか思われてたんだと思うけど。…でも、紅月は僕じゃないから、どっかからどうにか調べようもあるんじゃないかと思う。」 「……でも組織の連中だろ?緋月の面が割れてるなら、俺の顔だって警戒されるんじゃ…」 「愛璃使いなよ。」 そのくらい常識だろう、と言わんばかりに指摘されて、紅月は怒りも通り過ぎてため息だけを落とした。 「…お前、俺の奥さんをなんだと思ってるんだよ…。」 「こういう時に使える人だから、惚れたんだろ、紅月は。」 そりゃそうだけど、と妙なところで言葉に詰まる弟を、ふ、と緋月は優しく見遣って今度こそ立ち上がった。埃を被った服を払いながら、 「じゃあ僕、ちょっと出かける」 その手にはいつの間にか、紫の造花が握られていた。呆れた顔をする紅月。 「…何処に?」 「野暮用。僕が死んだ、なんて噂も流れてるし…どっかの誰かに、勝ち逃げした、なんて思われてたら癪だしな。」 そして口元に、不敵な笑みを浮かべた。元より人形染みて顔立ちの整った緋月がそういう表情をすると、一種の凄みがある。 「――それにコトによっちゃあ、利用出来るかもしれない。」 紅月は何かを諦めるように肩を竦めて、「勝手にしろよ」と兄の背中に吐き捨てた。 夜になって弟が憮然とした顔で訪問した時も、兄は何を考えているのか分からないような笑みで「あ、そう」と頷いただけだった。 「何だよこれ。緋月!」 「…見ての通りだろ。僕の女とか言うのをとっ捕まえてるから、ハナシアイとやらに応じろだとさ。」 弟――正確には情報屋をしている弟の妻――が持ってきたのは、彼が追われている「組織」の幹部からの手紙だった。脅迫状と言った方が正確だろう。 いわく、裏切りに関しては、自分が他の幹部に口を効いてやってもいい。 だから是非とも話し合いに応じて欲しい、と。 追記としてまるでオマケのように、「君の知人の女性をお預かりしている」と書かれて居なければ何を馬鹿なことをと、紅月はその場で破り捨ててやっただろう。 「もう突っ込みたい箇所が山ほどあって俺どう言えばいいのか分からないんだけど!?」 地団太を踏んだ紅月は、頭を掻き毟った。本当に腹を立てているらしいのだが、緋月はそ知らぬふりだ。 「お前何考えてるんだよ!もしかして全部わざとなのか!?ギーグのオンナにあの造花渡して、自分にオンナが居るようなフリして見せて…そんでその子を攫わせたんだろう!?」 「未必の故意ってやつになるのかなぁ。ま、運が良かったよ。ギーグの飼ってる女が彼女の昔馴染みで。」 「ん、の、馬鹿!」 ひとさまを巻き添えにして何のつもりだ―― そう叫んだ紅月に、緋月は鮮やかに笑う。 「他人だったら、まぁ、そういうことになるんだろうけど」 「他人だろうが!何度かすれ違っただけの女なんだろう!?」 「ああ、そうなんだが」 相変わらずの笑顔でさらりと緋月は爆弾を落とした。 「賭けに負けたら結婚する相手なんだ。それなら他人じゃないだろう?」 呆気に取られて、紅月はとうとうその場にへたり込んだ。もう何を言う言葉も見つからない。その弟の姿など気にした風も無く、緋月―鴉と呼ばれる殺し屋の青年は、手紙を片手に踵を返した。 「…どこ行くんだよ」 昼間にも同じようなやり取りがあった――忌々しく思い出しながら、それでも紅月が問う。 「ハナシアイとやらに応じて来ようかな、と」 やはり緊張感無く、悪戯っぽい口調で緋月はそう答えると、足早に部屋を後にした。 「あ、愛璃に連絡、つけといてくれ。僕が用事があるからって。」 「お前、なぁ…」 ***** かちり、と。低い音がして、カリィシエラは目を覚ました。 周囲は薄暗い。微かに物音が聞こえてくるので、何となく、どこかに閉じ込められているらしいと気付いた。 (やられてしまいましたわねぇ…。) 両手首は拘束されている。ため息を吐いて、彼女はごろりと体の位置を動かした。まだ身体には僅かに麻痺が残っていたが、動けないほどでは無さそうだ。 埃っぽい空気をすぅ、と鼻で吸う。次第に暗闇に目が慣れて、周囲の様子が見えてきた。 使われていない倉庫か何かだろうか。木箱が積まれており、それが埃を被っている。窓は無く、部屋の造り自体が無骨で飾り気の無いものだった。 どうにか立ち上がって、服についた大量の埃にカリィシエラは顔を顰める。 ふぅ、ともう一度深い息を吐いて、カリィシエラは足音も無く扉があると思われる方へ歩み寄った。微かに物音と、そして人の声が聞こえて来る。ほとんどが他愛も無い雑談であったが、その中から拾い出した単語でようやっとカリィシエラは自分の状態を知った。 ――あの鴉が、女一人に釣られるなんてことが… ――だが、奴からは返答があったそうだぞ。 ――たかだか娼婦一人の為になぁ? ――あの女も、元娼婦だとか言うが、どうやってあの鴉を… あとはほとんどが下世話な話に終始したので、カリィシエラは興味を無くして、扉から離れた。壁を背にして座り込む。 少なからず驚いたのは事実である。昔馴染みに会いに来ただけなのに、まさか「鴉」をおびき出す餌に使われる羽目になろうとは。 昔馴染みに会いに行こうと思ったのは、勿論、あの用意周到で抜け目の無い「鴉」が自分の経歴なぞとうの昔に調べているだろうと踏んでのことだった。あの男なら先回りして伝言を残すという嫌味な真似くらい平然とするだろうと、カリィシエラはそう読んでいたのである。果たして読みは当たり、カリィシエラは彼からの伝言――紫の造花を受け取ることが出来た訳だが、その副産物としては少々、予想外に過ぎる展開だった。 雑談の中にはそういえば、フィカティアの声は無かった。 そのことにささやかながら安堵している自分を見出して、カリィシエラは苦笑する。 ―――籠を出された小鳥に端から自由など無い、と、彼女は言った。苦く、苦く、吐き捨てるように。 それは事実だ。 娼婦宿という籠を出されたところで、娼婦としてしか生きてこなかったカリィシエラ達が生き延びられるほど世界は優しくは無かった。満足に食べることも出来ず、病気で死んだ仲間達が居た。 フィカティアとは何年も前にはぐれてしまったが、恐らく彼女は、あの後、「組織」の連中の愛人紛いなことをして生き延びてきたのだろう。 (わたくしだって、ディーに出会えていなければ同じだった) 目を閉じた。胸中に走る痛みはどうしようもないエゴで、浅ましくて、カリィシエラは情けなくなってしばらくそうして目を閉じたままで居た。 目を開いたのがどれくらい経ってからだったのか。体感時間では長かったように感じるが、案外そうでもなかったのかもしれない。 やがて決然と顔を上げて、カリィシエラは薄暗い闇を睨んだ。 (…別にいつ殺されたって、わたくし、後悔はいたしませんけれど。) いつ死んでもおかしくなかった命だ。カリィシエラは元々、自分の命に対する執着は極端に薄い。 (でも、あの男が助けに来るのを待つなんて、) それは非常に癪に思えることだった。ただでさえ、どうも状況を整理して考えてみるに、自分は彼に利用されているらしいというのに。この上あの男に助けられるのは屈辱と言っても良かった。 幸いにして彼女の最大の「武器」の一部はまだ手元にある。服の裏地に縫い付けた小さな宝石の原石までは、彼女を捕らえた連中は目が向かなかったようだ。もとより無力な女一人と、侮っていたのに違いなかった。(ブレスレットとして身に着けていたほうは奪われていたが、用心の為と言うよりは単に金目のものだから奪われたのだろう。) 不自由な両腕で苦労しながら、ブラウスの裏地を探る。 石の欠片に触れた指先から語りかけるようなつもりで意識を研ぎ澄ませれば、毀れた力が風を生んだ。幸いにして、彼女を縛めていたものが麻縄だったので、手首に傷がつくことを厭わなければ千切ることは容易い。 ぶつり、と微かな音と共に解放された両手を摩って、カリィシエラは思案した。さて、どうやってこの場を逃げ出したものだろう。 幾ら宝石の力を借りられるとは言えカリィシエラはこと荒事に関してはほとんど素人である。得物を持った男に囲まれれば逃げる術など無い。下手な抵抗で相手の神経を逆なでするのも面倒だ。 タイミングを見計らうべきだろうかなどと思案に暮れていると、突然、扉を開く音がして、慌ててカリィシエラは両腕を後ろに回し、目を閉じた。 扉を開いたのはどうやら見張りに置かれていた男の一人らしかった。紐を解くのはもう少し待つべきだったかしらねぇ、と、カリィシエラはどこか暢気にそんなことを考えている。 「…なるほどなぁ、エルフ族か?美人じゃねぇか。」 下卑た声は、けれど、そのカリィシエラの神経を逆なでするのに十分なものだった。背筋が粟立つ感覚を覚えて、彼女は微かに身じろぐ。 知っている。 この声の調子を。知っている。 これはかつて居た場所で嫌になるほど聞いた、客達の声と、同質のものだ。 「元は娼婦だって言うからな。少しくらい味見したところで、どうということも無いだろうさ。」 「あのフィカティアと同じ娼婦宿で仕込まれてるんだろ?きっと良い具合なんだろうな…」 その言葉が、とうとう、カリィシエラの意識を貫く。目は閉じたまま、彼女は軽く唇を噛んだ。 フィカティア――カトゥ。 遠い昔にはぐれてしまった友人は、娼婦宿から焼け出されて尚、娼婦であることしか出来なかったというのか。 (――わたくしは、) 男の一人の手が衣服にかけられるのを感じても、カリィシエラは抵抗する気にはなれずに居た。 首筋に生暖かい息がかかる。肌が粟立つその悪寒を、抑え込んで生きていた頃の記憶が、彼女の脳裏を掠った。 いっそこのまま嬲られてしまおうか。などと、望んだ訳でも、無かったが。 それでも抵抗しようと、思えなかったのは事実だ。 ―――唐突に、場違いな声がしたのはこの時だった。 「…あなた達、何をしているの?ギーク様が呼んでいらっしゃるわよ。」 いっそ平坦な声色は間違いなく聞き知った友人のものだ。驚いたらしい男達の声に、カリィシエラも薄く目を開く。 ふわりとなびく、水色のワンピース。長い群青色の髪。切れ長の瞳を見て、カリィシエラは小さく息をついた。 「へっ…フィカティアかよ、驚かせやがって。」 「…ギーク様に言い付けるわよ。あなた達、その女が『鴉』の餌と知っての行動?」 傷一つでも付ければただでは済まない、と言外に含ませた言葉には、悪態を付きながら男達はその場を下っていく。 その場から人の気配が無くなるのを察して、安堵に笑みをこぼしカリィシエラは目を開いて。 フィカティアに向けて、首を傾げた。 「―――貴女、カトゥではないわね?」 言われて、フィカティア――の姿をした何者かは、軽く肩を竦める。その仕草は、カリィシエラの知る限りでは、フィカティアの仕草とは全く違っていた。 「…オトモダチに懺悔のつもり?今、あの豚共に嬲られても構わないかなぁなんて思ってたデショ?」 口から毀れる言葉もまた、全く違う声色。 けれど何よりも、その言葉の孕んだ毒にこそ、カリィシエラは少し息を詰めた。思わず苦笑する。 「……そんなつもりではなかったのですけれど。何だか、抵抗しようという気が無くなってしまって…。」 「ふぅん?裏切られたのがショックだったとか?」 「いいえ」 首を横に振り、カリィシエラはただ、静かに呟いた。頬に手を添えて、 「わたくし繊細に出来ているものですから、あのように下品な方に触れられて、気が遠くなってしまって。」 「………。よく言うわ、なんかあったら反撃しようとしてたでしょ。指先が宝石握ってたわよ。」 フィカティアの外見で、そうずけずけと砕けた物言いをされると何やらひどく違和感を覚えてしまう。カリィシエラは苦笑を深くして、その問い掛けには答えずにその場に礼をした。 「…助けて頂いて感謝します、通りすがりの王子様。宜しければお名前を伺っても?」 「愛璃。ただの変装好きなお節介よ。あなたは?」 「カリィシエラ。しがない元娼婦です。」 にこやかに言われて、フィカティアの姿を借りた愛璃は苦笑したらしかった。それから、声を潜める。 「…にしても、私がフィカティアじゃないってよく解ったね?」 変装、完璧なはずなのに――不服そうに口を尖らせる仕草は子供染みている。ふと思い出した子供の頃のフィカティアに、その仕草は似ているように思われて、そんなことを思う自分をカリィシエラは深く戒めた。馬鹿馬鹿しいと笑うのはきっともっと後でも良いはずだ。 ただ、肩を竦めて彼女に笑う。 「だって貴女は、娼婦の目をしていませんでしたもの。」 むしろ彼女の瞳は悪戯を仕掛ける、無邪気な子供のように煌いている。 「……成る程、ちょっと勉強になった。」 その愛璃は静かに呟き、水色のワンピースをはためかせる。じゃら、と重たい音がして、スカートの中から何かが落ちた。銀の腕輪。宝石の沢山入ったネックレス。それに幾らかの指輪。 「これはプレゼント。貴女が宝石遣いだって聞いたから、急いで集めたの。…使える?」 「ええ、十分です。力のある子を沢山選んでくださいましたのね。」 「選んだのは私じゃないよ。」 愛璃の言葉にカリィシエラは目を上げた。乾いた咽喉に唾を流し込んで、その名前を口にするのはひどく骨が折れた。 「――『鴉』には協力者が居ると、耳にしたことがありますが?」 愛璃はその言葉に鼻を鳴らして、微か、笑んで見せる。応えは無くとも、無言の肯定。カリィシエラは深く息を吐いて、床に無造作に散らばった宝石を指と腕に填めた。触れた指先に、返る手応えは優しく、強い。そこに確かな力を感じる。ただの宝石ではない――かなり強い魔力を内に秘めた代物だ。 「…用意周到も度が過ぎて嫌味だと伝えて頂けます?あの男に。」 「承りました、素敵なシルフィード。」 その言い草。カリィシエラは天井を仰いで、もう一度呟いた。あの男。 本当に、気に食わない、癪に障る、その癖にこの心を魅了して止まない、その事実こそが一番腹立たしい。 しかしそのカリィシエラに、おどけて答えた愛璃は急に真面目な顔をして 「…で、さ。私もお手伝いするから、ここから脱出してくれるかな?」 真摯な声にカリィシエラは否を言うことなど出来ないことを悟る。加えて、愛璃は続けてこうも言ったのだ。 「あのね、貴女が捕まってるって聞いて、『鴉』は馬鹿正直にギークと取引の現場に行っちゃったの。…この場合、裏切り者の彼がどうなるか、解るよね?」 成る程、とカリィシエラは静かに静かに頷いて、立ち上がった。愛璃にひとつ、ウインクしてみせる。 「――そこまで聞かされてわたくしが大人しくしている訳が無いことも、彼は計算済みなのでしょう?」 「…『用意周到も度が過ぎて嫌味』な男だからね、あいつ。」 愛璃の答えは矢張り肯定だったので、カリィシエラは遠慮なく、声を荒げることにする。呪文の発声は――熟練の術師であればともかく――大きな声で無ければ効力を強く発揮できないのだ。 スカートの裾を摘み、自分の周囲に積もった埃につま先で円を描く。円は力の安定と結界。自身の身を異質な力で傷付けない為のもの。 カリィシエラは円の只中、歌うように踊るように、堂々と声を張り上げた。 「夜よ、星よ、地に置かれて尚、深く暗く刻みこまれた記憶の子供達。わたくしの歌が聞こえるでしょう?貴方達の愛し児が呼んでいます。顕しなさい、現れなさい。わたくしの歌がそれを許します。」 凛と通る声は古い祭儀の歌のように抑揚が少なく、愛璃は口笛を吹いてその様を見守ることにする。良く通る歌声に似た声に、怪訝そうに扉を開いて男の一人が顔を出したのを、彼女は笑って手招いた。姿形はまだフィカティアのそれなので、存外あっさりと疑いもせずに男は近寄ってくる。 愛璃はやはり笑顔のまま、その顎に一撃を叩き込んだ。 水色のスカートから取り出したのは、ウォーハンマー。一撃の重さは推して知るべしと言った所か。骨の砕ける手応えを残して、男は吹き飛んだ。 声を出す間も無く倒れた男を余所に、カリィシエラが円の中で一つ、ステップを踏んだ。 宝石遣いは仰々しい儀式と手順と、それから派手な呪文を好む、と噂には聞いていたが―― (全く、本当に派手だこと。) 彼等の力の源たる「宝石」が派手で大仰なものを好むからだ、という説が正しいのかどうか、機会があれば確かめよう、と愛璃は心に誓って、水色のワンピースを短く破いて端で結んだ。ウォーハンマーで倉庫の扉を叩き壊し、ぎょっとした顔の男達を一瞥する。 ――見張りに残された人数は十人にも満たない。女一人と侮ってくれて、本当に助かった、と愛璃は笑った。娼婦の女の美貌には不似合いな、獰猛な微笑。 「フィカティア!?てめぇ…!」 「昔の仲間だからって、変な情でも湧いたか!」 くっ、と咽喉を鳴らして愛璃はウォーハンマーをぶん、と振り回した。 その背後で――夜闇に慣れた目には痛いほど、鮮やかな光がきらきらと輝き始めた。 「お行きなさい、わたくしの命のまま、名のまま、踊りなさい。淑女の様に淑やかに。騎士の如く勇敢に――星のように、煌びやかに。」 歌が終わる。 踊りを終えた元娼婦の慇懃な一礼と同時に、彼女の周りを巡った光は、彼女を害する全ての「敵」目掛けて、飛んだ。 足元に蝶の翼の生えた猫と瞳の矢鱈と大きな半透明の魚、それに巨大な獅子を従え、カリィシエラは堂々と監禁されていた倉庫を出た。足取りは軽いものだ。後ろをウォーハンマー片手についてきた愛璃は、心底から嫌そうに呻いた。 「…いっそ卑怯だわ…。」 「宝石遣いがどれだけ希少な存在か、解って頂けました?」 にこやかなカリィシエラは「久々に全力を出してしまいました」等としれっと言ってのけた。彼女が一つ手を打つと、彼女の周囲の霊獣達はぱちん、と音を立てて弾けて、消える。彼女を取り巻いていた光が突然失われて、愛璃は光量の唐突な変化に目を二、三度瞬いた。 微かに光が残っている――と視界をめぐらせると、彼女の頭上に一羽だけ、小さな小鳥が残されていた。キラキラ光る、翡翠色の綺麗な小鳥。 まるで、御伽噺の生き物のよう。 「…成る程ね。宝石って要は大地に何万年ってかけて圧縮されてきた、高純度の魔力の塊だもの。――霊獣くらい、簡単に作って使役出来るわよね…。」 霊獣は、本来なら熟練した魔術師が、高純度の魔力を練って練って練り上げてやっと一体作ることの出来る、強力な使い魔の一種だ。宝石遣いのカリィシエラは、これを宝石の力を解放してやることで、簡単にやってのけた訳である。 その強力さたるや――男十人を気絶させ、倉庫を半壊させるのに一分も要さなかった、と言えばわかるだろうか。 「とはいえ、一度これをやってしまうと、宝石が駄目になってしまうものですから…」 苦笑するカリィシエラの手の中、確かにブレスレットもネックレスも指輪も、悉く全てが濁り皹が入っている。――金額的な損失が大きすぎるから滅多には出来ないのだ、と、彼女は朗らかに言ってくれた。他人からのもらい物だから、遠慮しなくて済みました、などと。性格の悪さでは、全く、あの「鴉」に劣らない。愛璃は呆れて苦笑すら出なかった。あの義兄を相手に出来る女性というからどんなものかと思ったが、どっちもどっちだ、ロクでもない。 ふと一つだけ光っている指輪を見とめて、愛璃は頭上の小鳥と見比べた。翡翠で出来たその指輪は、小鳥と全く同じ色をしている。 「鴉さん、無事かしら。」 ぽつり、とカリィシエラが頬に指を添えて零す。愛璃ははたと義兄のことを思い出し、舌打ちをした。 まさかその舌打ちのタイミングを計っていた訳でも無いだろうが―― 倉庫の隣接していた、大きな一軒の屋敷――そう、倉庫は屋敷の敷地に建てられたものだったのだ――の最上階で、派手な爆音がしたのはこの時、全く同時だった。 「うわわわ、あのバカ!私が妖精を助けるまで大人しくしてるって約束…!」 慌てた様子で愛璃がワンピースの裾をからげて走り出す。カリィシエラは少し悩んでから、その後ろをついて走ることにした。 >>next <<prev <<top |