別に、『鴉』こと本名を緋月という青年は、義妹との約束を違えたわけではない。――と、本人は白々しい顔で主張するだろう。 右目を眼帯に覆った青年は屋敷の最上階の一室へ案内され、ギークと「取引」とやらを交わしていたのだ。 革張りのソファはともかくとしても、室内の装飾はお世辞にも趣味が良いとは言えない。そういう部屋だった。壁にはずらりと動物やモンスターの首が剥製として並んでいる。飾られた絵画は、生首を胸に抱いて踊る神話に出て来る巫女の姿で、主題はともかくとしても、生首や飛び散る血痕、生々しい巫女の半裸の姿などが目に付く。 (大したモンじゃなさそう) ぼんやりとそんなことを考えて、緋月はようやく向かいに座るギークに目を戻した。得意げに自分の殺した先代の幹部のことを語っていた男は、やっと本題に入ろうとしていた。 「――どうだ、裏切りは不問にしてやる。お前の殺し損ねた娘はどうせ大した情報なんざ握っちゃ居ないんだ。そんな餓鬼一人と組織の面子とやらの為に、お前のような有能な殺し屋を失うのは俺達にしたって痛手だしな。…だから、俺の下に付けよ。」 悪ぃ話じゃねぇだろう?と問う男の呼気は微かに、煙草の匂いがしている。 ぼんやりともう一度、緋月は視線を巡らせる。 ソファの傍らにはギークの最近お気に入りの元娼婦の美女が一人。奇妙にあの元娼婦に似て見えるのは、その女性の肌の色も褐色で、立ち居振る舞いが似ていたからだろう。 そして室内には武装した男が数人。そこらのチンピラではない。魔術や体術、正規ではなくてもそれなりの訓練を受けた連中だ。 ふと、彼の脳裏に囁くように小さな声が吹き込まれる。自分とそっくり同じ色をした声は、自分と全く違う苛立ちで尖っていた。 『おい馬鹿聞こえてるか』 勿論、聞こえている。 緋月は室内に入るときに、武器や危険物を片端から取り上げられ、更に魔術を使えないように封印式までかけられたのだが、幸い、魔術をかけた小さなカフスは取り上げられなかった。声は、そこから緋月の意識へ直接語りかけている。空気を震わせる類のものではなく、彼ら双子以外にこの声を聞かれる心配は無い。 (…お前より馬鹿になった覚えだけは無いが、聞こえているよ。こいつを取り上げられなくて幸いだった。) 脳裏にそう答えながら、緋月は緩く口元を笑ませた。にこりと、ギークに微笑みかける。 「…ま、悪くは無いかもね。少なくとも、その話に乗れば、そっちでお世話になってる彼女は死ななくても済むわけだし。」 穏やかな口調から飛び出す言葉はどこか剣呑だ。 ギークの傍らに居た女性が、ふ、と微かに身動ぎをした。確か――そうだ。フィカティア、という名前だったか。 「死ななくても、なんてとんでもない話だ。お前さんが手を貸してくれるんなら、相応の待遇で持成すぜ?服も宝石も好きなだけ買ってやりゃあいい。」 「宝石、ね」 思わず緋月は――場違いは心得ていたのだがそれでも――笑いを殺しきれずに声を立てた。無論、彼等はカリィシエラの情報など「鴉のオンナ」程度にしか認識していないのだろうから、無理からぬことではあるのだが。それにしても。 (あいつに宝石を好きなだけ?何処へ行ってしまうか知れたものじゃない。) ――羽衣を奪った天女に翼を与えるようなものだ、と態々指摘してやることだけは控えて、緋月は胸中で言葉を押し込めた。そうして、笑みの残滓を引き摺ったまま、答える。 「ああ、本当にそれは悪くない話だ。」 唐突に機嫌の良くなったらしい「鴉」の様子に、周囲は少なからず驚いた様子ではあった。ギークですらも瞬間、呆けたのだ。しかし彼はその反応を自分に都合の良い方へと解釈したものらしかった。すぐに気を取り直したように、笑う。 「…どうやら余程、あの元娼婦にご執心らしいなァ。なら尚更だ、俺の条件を呑めよ、『鴉』」 『部屋の外と両隣の部屋にそれぞれ、魔術陣とヤツの部下が5人』 二つの声は同時に響いたので、緋月は微かに顔を顰めた。脳が受け取った情報を処理するのに一泊の間が空いてしまう。 「まぁ、執心は事実だから否定はしないけど――」適当にギークには答えを濁しつつ、意識の水面下は忙しい。意識へ直接響く双子の弟の声は、何処からか屋敷の状況を偵察して彼に伝えてくれる役目をおうているわけだが、 (…ちょっとはタイミングを考えて喋れ馬鹿) 『知るか馬鹿!』 吐き捨てられる声に、人目も憚らずに舌打ちをしたくなる。 (魔術陣?内容、解るか?) 『俺がそういう細かいのニガテだってお前知ってて言ってんだろ?』 (信じてるよ紅月) 『俺お前のそういうとこが心底嫌いだよ緋月』 それでも、少しの間待てば、紅月の声は返って来た。渋々、と言った風ではあったが。 『…多分、召喚系。悪魔じゃねぇな。悪魔だったら俺でも解る』 (となると精霊か。面倒だな。――) 魔術陣、とは、部屋をひとつ丸々利用して作られる魔術の一種だ。呪文を刻んだ室内は巨大な魔術の装置となり、大きな魔術(一般には天候に作用するような大規模なもの)を使う補助をしたり、或いは、この世界よりも魔術的に高次な世界とこちら側を繋いで異世界の存在を呼び出し、使役するために準備される。「召喚系」と紅月は言ったから、この場合は後者。相手が「悪魔」であれば紅月も緋月も恐れは無いのだが(何しろ、悪魔(・・)の(・)力(・)は(・)彼ら(・・)に(・)も(・)馴染み(・・・)の(・)深い(・・)ものだから)、「精霊」となると話が違ってくる。「精霊」は高次世界の存在であり、同時にこの世界の存在でもあり、自然物を司る神にも等しい相手だ。一介の人間如きが自在に使役することは不可能に近く、一度呼び出せば魔術の効果が切れるまで荒れ狂う力がその場を蹂躙する。呼び出した人間にできることは一つ。呼び出す前にある特定の魔具や護符を身につけて、破壊の被害を免れることだけだ。 使用者と使用者が定めた人物だけを避けてくれる、特殊で性質の悪い巨大爆弾、と言ってしまったほうが説明は早いかもしれない。 それを呼び出す準備をしているということは、 (この屋敷ごと僕を潰す気だろうな。) だとしたら随分とまぁ、買いかぶられたものだ、と緋月は他人事のように考え、実際、 『他人事か!』 と弟に叱られた。ちらりと舌を――周囲に気付かれぬ程度に――出して、彼は意識をまた目の前に戻す。 目の前のギークは此方のうんざりした気分など知る由も無く、下種の勘繰りとしか言いようの無い質問を投げている。 「にしても『鴉』ともあろうものが女一人を見捨てることもできねぇとは、面白い土産話になりそうだナァ?あ?」 「女子供には優しく、と、親の遺言でね。」 「よぉく言うぜェ!お前が殺した女がどれだけ居る、子供は!忘れた訳じゃねぇだろ?」 「――憶えている」 ふん、と鼻を鳴らして緋月は、「鴉」は笑った。それはどれだけ懺悔しようと消える過去ではない。だからいざとなれば笑おうと、彼は心に決めている。 「だがそれがどうした?」 腹の底から響く低音に、詰問されてギークは思わず、ふ、と息を吐いた。 「お前のそういう所が俺もボスも気に入ってるんだよ、『鴉』。命じられれば誰だって殺す、どんな相手でも殺してみせる。」 この言葉には答えず、緋月は目を微かに伏せた。 「…そうだな。姉の命と引き換えだから、誰だって殺せた。」 呟きは誰に聞かれることもなく、届いていたであろう紅月が脳裏で「馬鹿か」と毒づいただけだ。「なんか言ったか?」と眉を顰めたギークに、緋月はまた笑みを浮かべて「いや、」と首を振った。 「僕はつくづく女運に恵まれないらしいと思ってね。」 「そうかい。何て言ったか、あの元娼婦、イイ女じゃねぇか。カトゥ程じゃねぇが、同じ宿の出自だろ?随分良く仕込まれているんだろうな」 下卑た笑いに含まれた問いを無視して緋月は目線を、上げた。 「で。その彼女は何処に居るんだ?」 ――それが本題だ、と言わんばかりに真剣な目をする緋月に、にやりと得意気に、ギークが笑う。取り巻きどももにやにやと一様に笑みを浮かべていた。 「教えると思うかい?『鴉』?」 「思わないね。でも、無事かどうかの確認はさせてくれるんだろう?」 そうでなければ取引の意味が無い。緋月の問いは完全な確認だった。ギークもそれは肩を竦めて認める。 「勿論だ。俺はそこまで狭量じゃあねぇ。」 言って、彼は部下に何事かを命じた。一人が部屋を出て、戻ってきた時にはその手に硝子の羽を握っている。映像を中に留めておくことの出来る魔術装置だった。 緋月が眉根を寄せる。 「…声でも聞かせてくれるかと思ったのに。」 心底から残念そうな呟きであった。 『お前は何を期待してたんだ』 (喋るのも久々なんだぞ。そりゃもう綺麗な声なんだ、彼女。) ――思春期の餓鬼かお前は、という言葉は幸い、紅月も飲み込んでおくことが出来た。よもや殺し屋稼業で一生を終えるかと思われた兄が他人に恋をしているなどと。 だって恋だぜ恋。 『愛璃とよく話し合おうと思う、俺』 兄について何かを勘違いしていたようだ、と、紅月は心底からそんなことを呟く。 ――一方で、緋月の前に翳された魔術装置はゆっくりと光を放ち、ほんの数分前の映像を映し出した。 それは、薄暗い倉庫の様子だった。横たわっていた女性が静かに暗闇で息をしているのを視認して、緋月はゆるく息を吐く。―傷付けるわけが無いと理解していても尚、こうして映像としてみることが出来ると安堵した。 だが。 その映像に、光が差す。どうやら扉が開けられたらしい。そこから、にやにやと笑いながら男が数名倉庫内へと入ってくる。 その男達の会話は聞き取れないが(音声までは再生出来ないのだ)、男の一人が唇を舐めて、女性の褐色の肌に手を――― ギークは最初、あいつ等は、と呆れて顔を顰めたが、鼻を鳴らした。 「まぁ、傷は付けちゃいないだろう?何、多少の味見くらいは、アレだって元は娼――」 …言葉は最後までは紡がれなかった。笑顔で立ち上がった緋月の拳がその顔面にめり込んだのだ。 ぐぎ、とか潰れた蛙みたいな声を出して、ギークは鼻血を出して吹っ飛んだ。 「て、てめぇ!」 「何しやがんだ!?おい、てめーら、人呼んで来い!」 鼻血のついた拳をテーブルクロスで拭いて、緋月は矢張り笑顔のままだ。一斉に動き出した男達の最中に自分から飛び込み、ナイフをかわし、拳を叩き込んで足元を払う。 乱闘状態の中へと魔術を放つ訳にもいかず狼狽する男の一人は、突然天井から降りてきた人影が一撃で昏倒させた。 「な――!?」 「貴様、誰だ!って、鴉…ッ」 『鴉』とそっくり同じ顔、同じ容姿、違うのは左右の瞳の色だけ、という人物の乱入にその場が混乱する。 その人物は、矢張り「鴉」とそっくり同じ声で呆れたように言った。言いながら彼も手にした短剣で乱闘に参加しているが。 「おい、馬鹿鴉、予定が狂ってるぞ!」 ちなみに彼の位置からは、魔術装置の映し出した映像は見えていない。彼は何が緋月を唐突な行動へ駆り立てたのかを、知らなかった。 「知るか黙れ。僕は珍しいことに怒ってるんだ。」 乱闘の隙間から腕を伸ばす緋月に、紅月は無言で彼の「武器」を投げ渡す。夜の室内、照明に煌く光跡を描く、それは。 人の髪の毛ほどの細さの、鋼の糸。 受け取った瞬間、緋月はその糸を振るった。途端、室内に赤い花が咲く。鋭利な刃物に斬られた様に、男達の腕や指や足が飛んだ。 その緋月も、手から血を流しながら、それでも血の真ん中で微笑む。凄絶な光景に、慣れているはずの紅月すらも息を呑んだ。「怒っている」というのは本当らしい。 「おい、お前等」 ひぃ、ひぃ、と悲鳴を上げる男達の誰かの指を踏み潰し、微笑んだままで緋月は告げる。 「――命が惜しければ屋敷を出ていけ。さもなくば殺す。いいな?」 凄絶さに、誰もが息を呑んだ。だが。 その瞬間、――隣室に接した壁が、耳を劈くような異音と同時に吹き飛んだ。 荒れ狂う暴風に悲鳴と怒号が上がる。ギークが顔面を血塗れにしたまま声を荒げた。 「おい、どいつだ!?魔術陣を解放しやがったな!まだ早いだろうが――!」 風で壊された壁の向こう、破壊の中央に、水色のワンピースが翻ったのはこの時だった。群青の髪が風に嬲られて居る。 「カトゥ…?」 何か信じられないものでも見たかのようにギークが眉を寄せたのと、同時。ぐちゅり、と言う、生々しい肉を裂く音が響いた。男達の一人が悲鳴を上げる間も無く、何か見えない力に圧迫されて肉塊と化す。 「…死んでしまえ」 低い、何かざらざらとした音を含んだ声が誰のものなのか。その場に生きて立った人々の誰もが瞬間理解出来ず、ただ逃げようと出入り口へ殺到する。 「――死んで…しまえっ、誰も彼も皆…!!」 金切り声。もう一度響いた低い音と同時――その出入り口に、見えぬ力がぐっ、と凝縮した。少なくとも、紅月と緋月の目にはそう映る。 「待て、――!」 状況も忘れて声をあげたのが、双子のどちらだったのか。両方であったかもしれない。 しかし忠告が届くことは無い。次の瞬間には、その場が赤く、潰れた。湿った音と同時に肉と血が、熟れた果実のようにあっけなく床に壁に、飛び散る。 「…どういうことだ…!?精霊は俺たちを攻撃できねぇんじゃなかったのか!」 誰かが上げた疑問の悲鳴に答えは返らない。 「ギーク様、助け…助けて…」 「ひぃぃい、痛ぇよ、死にたくねぇ…!」 鼻を麻痺させるほどの強い血腥い臭いの中で、運良く――或いは運悪く――潰された肉塊の中で生き延びていたらしい数名の呻き声が響き渡っている。その声を、まるで悦ぶかのように、低い女の声がくく、と――響く。 緋月の見遣った先で、女は血を孕んだ腥風の中央、両手を広げて笑っていた。先程まで陰鬱にしていた目がぎらぎらと、愉悦に輝いている。 間違いなく、彼女は、この惨状を――悦んでいる。 ――流石の緋月も、その光景には背筋が粟立った。あれが本当に先程まで、存在しているのか居ないのか分からないほどの希薄さで目の前に座っていた女性なのだろうか。 「…おい、これは…どうなってるんだ…?」 紅月の呟きにふと彼は我に返る。室内に満ちた異質な、空気中に混じりこんだ「何か」に肌がざわざわと異変を訴えるのが分かる。 …金の色を宿した右の瞳が、痛い。 「紅月」 「おう」 呼ばれた双子の弟も同じ痛みを覚えているらしい。金の左目を手で押えながら応じる。 「とりあえず逃げる。」 「…だな。」 双子の弟も同様の判断をしたのだろう。二人は同時に窓へと駆け寄り――ぞっとして、これまた同時に一歩分を飛びずさる。 途端、窓が凄まじい圧力にぐしゃり、とへこみ、砕けた。 「――皆、みんな死んでしまえば、いい…」 「お、おい、カトゥ…!」 哀れっぽい声を上げたのはギークだった。床に座り込んでいた男は砕けた壁へと這いながら近付き、女に向かって手を伸ばす。 「おい、お前まさか、俺までま、巻き添えにしたりはしないよな?お、俺の為にこいつ等を殺そうとしているだけだよなぁ?」 フィカティアは彼を見下し、にこりと微笑んだ。艶を含んだ媚びるような、娼婦の微笑。しかし、血塗れの光景の中でそれはあまりにも異質過ぎた。魔術陣の中央、スカートが風を含んで蠢いている。 「ギーク様、」 呼ぶ声も恍惚とした色を含んで居た。ギークがほっとしたように卑屈な笑みを浮かべる。 「お前が魔術陣を動かす才能があるなんてよ、知らなかったぜ。」 「――学びましたから。」 涼やかに答え、彼女は恍惚とした表情になった。両腕で身体を抱き締め、風に蠢く薄布のスカートがその肢体に纏わり付く様は妖しく、美しくすらあったかもしれない。 「そう、あなたが鴉に取り入ろうとしているのは知っていたもの。だからいつかこんな機会が来ると思って、ずっと学んで、待っていた!」 「僕を殺す時を?」 「いいえ、」 割り込んで問い掛けた緋月――鴉にも、フィカティアは微笑を向けた。 「誰も彼もを、殺すの。」 そして彼女は指を、静かに、動かす。 場の空気が歪んだ。緋月と紅月がそれぞれに身構えるその目の前で―― 「――――ぃああああああああ!!!」 凄まじい悲鳴と共に、ギークの両の指が、潰れた。 その悲鳴に、声を上げて、フィカティアは哄笑した。可笑しくてたまらないと言う風に。 「先ずは指――それから、そうね、足も…邪魔ね。」 歌うような声だけがひどく美しく無邪気だ。空気中に混じるその力の気配は、彼女の歌と言葉に従うかのように集合し離散して、再びギークへと降り注ぐ。 左の足が、内側から膨れ上がり、そうして破裂した。皮膚の破れる音、血管の筋の千切れる音までもが辺りに響く。 最早声も無く気絶したギークを愛おしそうに見てから、彼女はぐるりと首を廻らせた。視線が双子に注がれ、止まる。 「…次は、貴方。」 世において「鴉」と呼ばれる殺し屋は、一瞬、酷く痛ましいものでも見るかのように目を伏せた。 「精霊をその身に降ろしたのか。何てことを…。」 精霊を制御することは、出来ない。 だがかろうじて制御に近いことが出来るとすれば、それは精霊をその身に直接降ろす――という術が存在する。人の肉体では精霊の力には耐えられ無いから、いずれは内側から食い破られることになるが、それまでの僅かな時間、精霊を降ろした肉体の持ち主はその力をほとんど己がもののように扱うことが出来る。捨て身の術だし、何より、精霊を降ろされた人間の精神は正気では居られなくなるから、禁忌の術と呼んでも差し支えは無いだろう。 紅月が苛立たしげに呻く。 「全く、何でお前の買った恨みに俺まで巻き込まれなきゃならないんだよ」 独り言は幸いにして誰にも届くことは無かった。緋月が静かに、息を吐き出す。 「……恨まれるようなことをした覚えが無いんだが」 「貴方はそうかもしれませんわね。でも――、貴方が、貴方が余計なことさえしなければ、皆死なずに済んだ!私だってこんな輩に身を売らずとも、済んだのに…!!」 血を吐くような絶叫。いや、実際に彼女は吐血していた。――彼女の限界が近くなっている。 「じゃあ、」 それら全てを冷淡な目つきで眺め遣りながら、緋月はゆっくりと口を開いた。 「――あの時、宿の主人と纏めて、お前も、あの女も、誰も彼も殺し尽くしておいたほうが良かったとでも?」 問い掛けに、女は口の端から血の泡を吐きながら答えた。 「いっそ、そうしてくれれば良かった!」 何故、永らえさせた。 「私達のような、たかだか娼婦が、生きていけるほど容易い世界ではないと知っていて…それで何故!永らえさせたのですか!」 「面倒だったんだよ」 いっそ、突き放すような緋月のその返答は怜悧ですらあった。女がぴたりと動きを止め、紅月が何かに呆れたような顔を見せるが緋月はコメントを返すことなく、一歩、フィカティアに歩み寄る。 「…めん、どう?」 意味が分からない、と言わんばかりの唖然とした表情に緋月は初めて、笑った。 「人を殺すのは、ひどく疲れるからな。…女子供を殺すとなると尚更」 フィカティアの表情が呆気に取られたものから一瞬、どす黒い怒りを浮かべて激昂へと変わる。 「う、あ、」 苦しげに呻いて胸を押えてまた、彼女は血を零す。零しながら掠れる声が、激昂を示して響いた。叩き付けるように。 「――殺して、やる…殺してやる殺してやる殺してやる!殺してやる!!」 空間が歪む。空気中に散在していた力は次々に縒り合わさり、無差別に辺りを破壊して行った。最早焦点も定かではないフィカティアの目を見、紅月は舌打ちしながら荒れ狂う力を避け、早口に何事かを呟く。左の目と同じ金の色が彼の身体に纏わり付いて、彼に直撃しようとしていた力を逸らした。 「緋月!何考えてるんだ!」 そうして一息ついた彼は、双子の兄を見やって思わずそう叫んでいた。何処から遅い来るかも分からない状態になっている力の嵐の中で、彼は、自らを護ることもせずに立ち尽くしている。 「おい―――」 あまりに無防備なその姿目掛けて、肌の粟立つような気配が迫る。空気が歪んで、彼に見えない力が迫っていることを示していた。ぞっとして叫びかけた、紅月の眼前。 ――翠の色の光が、駆けた。 何が起きたのか。紅月は暫し状況の把握が出来ずに硬直する。間違いなく兄を目掛けて飛んだ力が、間に飛び込んできた翠色の物体に遮られたのだ。逸れた力が翠の色の物体を破裂させ、それに気付いた緋月が訝しげに部屋の外へと視線を向ける。翠の物体はそこから飛んできたのだ。 紅月も誘われるように彼と同じ方向を見、そうして、ほっと息を吐いた。良く見慣れた相棒が、見知らぬ女性を従えてそこに居たからだ。 銀灰色と黒の斑に混じった、肩までの長さの髪に、赤茶色の瞳が鋭く室内を覗いている。小さな体躯に群青色のローブを引き摺っているのは、間違いなく、彼の妻・愛璃であった。 「愛璃!」 「あー、くーちゃん無事だった!?良かったァー。」 だが彼らの緊張感に欠ける会話など耳に入らぬかのように、愛璃の後ろに居た長身の女性が動いていた。血塗れで歩くたびにぐちゃり、と粘つく床を、まるきり無視して優雅な足取りで、彼女はすたすたと室内へ進む。長いワンピースの裾が血で汚れようと肉塊を絡めとろうとお構い無しだ。 「…カトゥ」 「カァ、ラ…?」 壊れた隣室との壁に立って、彼女は青とも緑ともつかぬ不可思議な色の瞳を哀しげに歪めた。目線がふい、と周囲の惨状を示して、 「……こんなことをする為に、貴方は生き延びたの。」 問い掛けは感情を窺わせない。それが余計に、哀しげな彼女の佇まいを強調する。 「――貴女には分からない。幸せ、なのでしょう…?」 「そうね、」 掠れた言葉に彼女は頷き、矢張り哀しげなまま、 「………わたくしはきっと、望外の幸運に、恵まれた…。」 それだけ言って、彼女はそれきりフィカティアに、かつての友人に興味を失ったようだった。緑がかった銀の髪を翻して、立ち尽くす緋月へ今度は向き直る。 そして。 彼女は、どこか獰猛に笑った。猫を思わせるその表情。 「――勝ち逃げなど許さなくってよ。」 「あんたならそう言うと、思ってたよ。シルフィード。」 緋月は微かに顔を歪めてそう告げ、足元の血だまりを踏み躙るようにして身体の向きを変えた。――フィカティアの方へ。 「…悪いな。殺されてやる訳にはいかないんだ。……これ以上あんたの仲間を、不幸にはしたくない。」 言われたフィカティアはただ、微笑んだ。口からまた血を吐いて、にこりと微笑む。そして。 次の瞬間。 彼女の身体は、内側からぶわりと膨れ上がり、三倍にも膨張した。耐え切れなくなったように皮膚が裂ける。血管が筋が千切れ飛び、血と臓物を撒き散らして、それ、は床へと落ちていった。 元はフィカティアという名の娼婦だった、その肉体。 四散してカーペットに、壁に、そして立ち尽くすカリィシエラの頬にもその肉片と思しき物体が飛び散った。 「…カトゥ…ッ」 流石に小さく悲鳴を上げたカリィシエラの手を握り、緋月は鋭く叫んだ。部屋の窓へと一直線に駆けながら、弟へ向けて、 「逃げろ!――精霊が制御を失った、ここは崩壊する!」 **** 窓から飛び出した緋月に抱きかかえられる恰好になって、落下しながらカリィシエラは息を吐き出した。頬についた肉片は、とうの昔に温度など失っているが。 それを指にとって、口に含む。 ――味など分かりはしなかった。ただ僅かに、血に吐き気を催しただけだ。それでも彼女はそれを飲み下した。 「…弔いのつもり?」 「…せめて共に、と。」 カリィシエラは応じて、それから鴉と呼ばれる青年の胸に頭を預けた。 「あの子がああなってしまったのはきっと、貴方の所為ですわね。」 「そうだな。」 恨むか、と端的に問われてカリィシエラは男の顔を見上げる。表情などろくに見えはしなかったが、その目はどこか、哀しげにも見えた。 「…恨むと答えたら、貴方は、きっと気が楽になるでしょう?」 呟くように囁くように。そう告げた時、突然、落下速度が緩んで、カリィシエラは思わず目を閉じた。 恐る恐る目を開ければ、身体の周囲を、金の光が廻っている。 「…さっきのどたばたで封印式も壊れたな。助かった。」 「あ、そういや兄貴、術封印されてたんだっけ」 「………忘れてたのか」 隣を見遣ると、「鴉」とそっくり同じ容姿をした男が、小柄な女性――愛璃を横抱きにして同じように金の光に覆われている。 すとん、と地面に付く足音は予想外に、軽いものだった。だが、同時。 どん、と腹まで響くような重低音と共に、屋敷の最上階がまるごと、圧縮されて潰れた。 「…お尋ねしたいことが山ほどあるのですが。」 カリィシエラは言って、「鴉」を見、隣の双子を見、肩を竦める。 「今は逃げましょうか。幸い、わたくしの迎えも来た様子ですので。」 彼女の視線の先には一匹の黒猫。金の目をした猫は、その場の三人の視線を受けて、ふわりとその姿を変化させた。輪郭が歪み、次の瞬間には、黒いローブに艶の無い黒髪、金の目の青年が立って居る。その背中には、腐りかけて骨の覗く黒い翼。 「深神」 カリィシエラに名を呼ばれた悪魔は、うんざりしたように息を吐いて屋敷の最上階を睨みやった。 「また随分派手なことになってるけど。…とりあえず無事?カァラさん」 「ええ、見ての通りです。…ごめんなさい、わたくしの我侭の所為で。さぞディーに叱られたでしょう?」 「叱られた叱られた。そりゃーもう。」 肩を竦めて、悪魔はじろりと彼女を抱いた青年と、その隣の夫婦を見遣る。金の瞳は剣呑に眇められていた。 「…カァラさん、その連中は?」 「ああ、此方、殺し屋の鴉さんですわ。」 にこやかに言われて流石に鴉も苦笑するしかない。彼女を地面に丁重に降ろしてやりながら、彼は悪魔に向けて一礼した。 「…上に『元』って付くけどな。そろそろ殺し屋も廃業だ。」 そして彼はカリィシエラに向き直った。隣でなにやらひそひそと密談を交わす夫婦を目線で示し、 「ちなみにこっちは僕の協力者。双子の弟とその奥さん。」 「紅月です。兄が迷惑かけて申し訳ありません。」 「あ、あたしは愛璃です。…ね、貴方はもしかして、『始祖の黒』?」 始祖?と初めて聞くその呼称に首を傾げるカリィシエラを余所に、深神は軽く肩を竦めた。どこかうんざりしたような仕草で、 「…不出来な子孫のお陰で苦労をする。」 「あー。やっぱりあんた、俺達のご先祖様!?」 「……そうじゃないかと思ったんだ。」 双子は全く同時にそう言った。 「……ご先祖…ですの?」 流石にコレには目を瞠って、一人話題に取り残されたカリィシエラが問い掛けると、深神は静かに頷いた。金の目が何か、遠いものを見るように細められて、 「…昔、人間の女性と結婚していたことがあるんだ。もう何百年も前の話だけどね。」 「で、俺達がその子孫って訳。」 「この金の目と、僕らの魔術が少し特異なのは、この悪魔の血の所為らしい。」 なるほど道理で、初見の頃から、金の瞳が似ていると思ったのだ。カリィシエラはひとつ納得をした。同時に、彼らの魔術の力の振るい方にデジャヴュを感じたのも。 「ねー、ちょっとちょっと」 いっそ和やかにすらなりつつあったその場の空気を、不意に愛璃の緊迫した声が壊す。誰もが思わず彼女へ目を遣ると、愛璃は虚空を睨むようにしていた。正確には先程まで彼らの居た場所、既に潰れて跡形も無い屋敷の最上階を。 其処では相変わらず、空気が歪んで見えていた。まだ精霊の力が荒れ狂っていたらしい。 だが見守る彼らの視線の先、それは次第にゆらゆらと陽炎のように揺らいで、存在感を薄めさせ始めていた。 「――消える」 ぽつりと呟いたカリィシエラに、緋月の低い声が応じた。 「精霊は、長時間あの姿で居ることは出来ないからな。時が経てば自動的に、ああして世界へ戻っていく。在るべき姿で。」 「…」 何を思ってか沈黙したカリィシエラの目は、遠くを見つめてどこか悲しげですらあった。 「――カトゥは、」 やがて彼女は小さくそう呟いたが、結局、何も続けることなく口を閉ざす。 少し間を置いて、その彼女の姿を見ていた緋月は、結局、これだけ言うことにした。 「結局、あの場に居た連中は全滅。肝心の標的だったらしい僕は殺せなかった訳だけど。でも…無意味ってコトは無かったんじゃないか。」 するとカリィシエラは、くすりと笑って見せた。どこか嫣然とした色を含んだ、その笑みは、あの瞬間のフィカティアに似ているようで、その癖全く異質なものだ。 「それは慰みのおつもりですの、鴉さん?」 もしそうだったら許しはしないぞ、と言わんばかりのその口調。 緋月は答える代わりにため息を吐いた。 「…悔しいけど、いい女だよ。あんた。」 「お褒めに預かりまして。…それで、賭けはどうしましょう?」 「今回は僕があんたを利用した訳だから、ドローにしておいてくれると助かるんだけど?」 するとカリィシエラは意外にも安堵した様子だった。にっこりと、今度はひどく素直に微笑んでみせる。 「矢張り自力で貴方を捕まえるのではなくては、勝負がつまらないですもの。」 そう言われて、今度こそ緋月は深いため息を吐いた。その様子を見ていた愛璃と紅月が、傍で笑い出す。 「――いいね。良かったら俺達はあんたに協力するけど?」 「…お前。兄を売るつもりか。」 「兄の幸福を祈ってるんだよ。」 白々しく言い切った紅月に胡乱な視線を遣ってから、緋月は再び、カリィシエラに向き直る。金と黒の瞳は静かに彼女を見つめていた。 「それじゃあ、ここらでお別れだ。シルフィード。」 呼ばれた女性は、青とも緑ともつかぬ瞳を一度瞬いた。まだ、夜明けは遠い。月夜に銀の髪が流れて光る。その一房、手に取った緋月は恭しく、口付けた。(周囲のギャラリーなどお構い無しである。当然、兄の行動に双子の弟とその妻は硬直した。深神だけは妙に冷静に場を見守っていた。) 「――今回利用した詫びはこれで足りるかな。」 「そうですわね、」 カリィシエラは少女のように頬を染めて、何だか嬉しそうに笑った。そして鴉の手を取って、血の止まりかけている生々しい傷痕に、キスを返した。 「…これで赦して差し上げます。」 顔を上げたカリィシエラの目の前、緋月は少し目を瞠っていたが、やがて微かに笑うと、 「さよなら、シルフィード。…また、いつか。」 「ええ、さようなら鴉さん。またいつか。」 ひらりと手を振って、それきり振り返らなかった。慌ててその後を、弟夫婦が追いかける。 「じゃ、またね」 「勝利を祈ってるから、頑張ってねー!」 こちらは軽い調子でそれぞれ勝手なことを言うと、カリィシエラにめいめい手を振った。深神にも何度か手を振っていたが、これには深神は淡々とした表情ながら手を振り返していたから――意外に、こんな場所で出会った子孫のことを可愛いと思っているのかもしれない。悪魔の思考回路など、カリィシエラには計り知れないのだが。 **** 朝陽の出る前に宿へ戻ったカリィシエラは、親友と仲間達に散々説教され、その二倍は抱き締められ、大変な歓迎を受けた。本当に心配させてしまったらしい。 深神は――ディーにこってりと叱られたらしいが、これはカリィシエラが庇ったので大したことにはならなかった。その後も、彼は現在の主であるディーと、喧嘩しながらも上手くやっている。 ――――そして。 **** 「で、それから一体、どうなったの?」 寝台から身を乗り出して尋ねる少女に、カリィシエラは苦笑いを返した。 ひょんなことから傭兵団で預かっている幼い娘である。彼女の世話を任された際に、カリィシエラはせがまれて、昔の恋の話を聞かせていたのだった。 「さぁ、どうなったのでしょうね。」 「えー!?誤魔化さないでよぉ。じゃあカァラさんのその指輪っ、何?何?」 左手の薬指――既婚者の証であるリングがそこに輝いている。目敏くそれを見つけた少女に問い詰められ、カリィシエラは肩を竦める。 「…秘密、です。さ、もう寝ないといけませんわ。明日は早いのですから。」 えええええ、と盛大に非難の声を上げる少女の額にキスをして、カリィシエラはランプの明りを落とす。しばらくぶつぶつと愚痴をこぼしていた少女は、それでも矢張り数日続いた旅の疲れもあったのだろう。直に寝息を立て始めた。 それを聞いてカリィシエラはふ、と息を零す。そして。 窓をこつん、と叩く音。 目を上げたカリィシエラは、苦笑して窓を押し開く。 「――ドアから入ることを、いい加減覚えたら如何です?」 宿の庭には、黒と金の双眼が真っ直ぐに彼女を見上げて居た。 「無理言わないでくれ。入り口からなんて廻っていたら、あんたのお仲間にまた巻き込まれちまう。」 「この間は大変でしたわねぇ。全員に呑み比べ勝負を仕掛けられて。五人目で潰れたのでしたかしら。」 「見ていたのなら助けてくれても良いもんだと思うが?」 非難を僅かに含んだ言葉を投げながら、その人物は器用に樹を伝って、二階の窓辺へ飛び移る。 「だって、楽しそうでしたもの。」 間近に迫ったその人物は――過去に鴉と呼ばれていたこともある青年は、カリィシエラの言葉に笑いながら、彼女の長い銀髪にキスを落とした。 「こんばんは、僕のシルフィード。――こんな夜半だけど、お茶でも如何?」 「喜んで、わたくしの鴉さん。」 ――二人は末永く幸せに暮らしました――それが御伽噺の終わりの定番だけれども。 まるでゲームを楽しむような今の時間もまた、二人にとっては代え難いものだ。 末永く幸せに暮らす、なんて時は、きっと当分、先でいい。 だからこの物語の終わりはこれで良いのだ。 ――その後二人がどうなったか、二人の賭けの行方がどうなったのかは―― それはまた、別のお話。 <<PREV *** 050827 |