誰かに呼ばれた気がして目を覚ます。途端に、空の青が眼前に広がって、あたしは軽い眩暈を覚えた。
…此処は… コンクリートに横たわったまま、あたしは寝ぼけ眼で、手を空へ伸ばした。届く訳は無い。そんなことはとうに知ってしまったけれど。 と。 「…月花?目、覚めたか?」 不意に名前を呼ばれてあたしは手を引っ込めた。 ごろりと横たわったあたしの傍らに、人影がある。顔は春の陽が逆光になって見えないが、 「…なんだ、由良」あたしは吐く息と一緒に彼の名前を呼んだ。身体を起こす。ひどく乾いた目をした少年が、無感動にあたしを見ていた。 「オハヨ」 「あー…うん。オハヨ。今何時?」 「11時半」 即答されて、あたしは肩を落とした。 この坂道…つまり、高校へ続く途中のこの道で、段々意識が薄くなってきた時に覚悟はしていたが…に、しても。 「また遅刻だよ…」 思わずあたしは呻いて、額に手を当てた。そして、舌打ちする。まるでこの身体は、学校に近づくのを拒んでいるみたいだった。坂を登ろうとするだけで、酷い頭痛で意識が揺らぐ。 そのあたしの様子に、気付いているのかいないのか、由良が言ってくるのが聞こえた。 「倒れるくらい嫌なら行かなきゃいいのに。学校なんて」 あたしは苦笑した。苦笑するしかないのだ。彼の言葉はあまりにも正しい。 視界に混じる、長い黒い髪。 「あんたに言われたくないわよ。そんなマトモなこと」 言うと、黒の混じる視界の隅、彼は幽かに笑ったらしかった。 それから、唐突に言う。 「…昼飯。出来てるんだけど…寄っていく?」 由良が住んでいるのは、あたしにとっては通学路の途中。線路沿いにある木造アパートだ。 日当たりが良いのが唯一の救いみたいな、狭い部屋は、不思議に生活観が薄い。片付けられすぎている所為かもしれない。 14歳の由良はこの部屋で、何時からか一人暮らしをしているらしい。 以前はお姉さんと二人暮しだったそうだが、そのお姉さんとやらについてはあたしは何も知らない。 「死んだよ」とだけ、由良は言っていた。 「ほらよ、昼飯。」 「…何これ。」 「ピラフ。冷凍のやつ。」 言いながら、由良が卓袱台の向かい側に座った。 「手抜き料理は身体に毒よ、少年」 ピラフを口に運びつつそう言うと、由良が不機嫌そうに返してくる。 「文句言うくらいなら、毎日毎日人んちで飯食うの、やめろよな…」 「あんただって、毎日用意して待ってるじゃない。」 「用意してなきゃ文句言う癖に。」 由良が形の良い眉を寄せて言った。そういう、拗ねたみたいな表情は…14歳という年相応に、見えなくも無いんだけど。 …けれど、次の瞬間には由良は常の表情に戻っていた。 乾いた目。あたしはこんな目をする子どもを、見たことが無い。 「由良、あんたさ…」 「何?」 あたしは、由良の乾いた目を眺め、問う。 「風呂。直ったの?」 由良の、答えは聞けなかった。遠くから、電車が近づいてくる音が響いたのだ。 轟音。 ガラス戸が揺れる様な音の中、春の陽を透かす硝子を睨んで、あたしは口をつぐんだ。 今あたしが何を言ったとしても、由良には届かない。 …それが、どんな感慨を産むという訳でもなかったが。 いつもより遅咲きの桜が満開になっている、その中をあたしはまた歩いていた。ほんの少し空気が振れるだけで、薄紅色の花弁が散る。アスファルトの上には、桜の大樹に寄り添うように散った桜が降り積もり、そしてその上には無数の無残な足跡。 (……ダレが掃除すんのかしら、これ…) どうでもいいことを考えてしまう。 「よう重役出勤。あと1時間で学校、終わるぞ」 不意に、車から声を掛けられた。 見遣れば、白い軽自動車から見慣れた顔がのぞいている。顔なじみの、保健医だった。 「まさかと思うけど…センセも、今来たの?」 「あ?お前と一緒にするなよ。俺は会議に行ってたの。」 そう言って、彼はあたしを手招いた。車に乗れ、と、仕草で告げる。あたしはそのお言葉に、甘えることにする。正直、この坂道はきつかった。頭痛は酷くなるばかりだ。 「あ、水無月。帰ってたの?」 保健室に入るなり、そんな呑気な声がした。保健医が顔をしかめる。 「…浅葱深海。先生様を呼び捨てにするなと、何度言えば分かるんだ」 大きく開けた窓に、女子が一人腰掛けている。茶色の髪を揺らして、彼女は笑った。 「おはよ麻生、今日は早かったわね。授業まだやってるわよ」 「…あと一時間だけね」 あたしはそう応えて、一度下ろした鞄を持ち上げた。 深海の背後で、満開の桜が散っている。微かな空気の揺れにも答えて、ひらひらと。 ドアを開けようとした手を止めたのは、保健医の淡々とした質問だった。 「…麻生。病院は行ってるのか?」 それは――何と言うか、結構、不意打ちだった。あたしは軽く息を詰める。 「…どっちの病院?センセ」 振り返らずに、あたしは問い返した。口元が引き攣って、まるで笑っているみたいだ。痛みの中で、焦点がぶれた。 「どっちも。…その様子だと、行ってないんだな?」 あたしは少しだけ、口をつぐんだ。ゆっくり、振り返る。 「…センセ」 「ん?」 「センセは優しくないから、結構好き。」 「何だそりゃ」 あたしはただ、笑って手を振った。授業を受けに行かなくては。 …教室へ向かいながら、あたしは思い出していた。 母のことだ。 2ヶ月前、とうとう破綻した蒼い夜の底。 雪が降って、あたしは、ただ惨めで、死にたいとばかり思っていた… (…いや、違うか) あたしは苦笑する。死にたくは、なかったのかもしれない。 夜の底、雪の下で、あたしは。 「…あんた、死にたいの?」 唐突に、不躾な質問をぬかしやがったのは、あたしの隣に立った少年だった。 むっとして、あたしは答える。 「んな訳ないじゃない。何よ、あんた」 「俺?ただの通りすがり。ここ、俺の家の近くなんだよね。死ぬなら別の場所にしてよ」 「…だから、別に死のうなんて」 してない、そう言いかけて、あたしは口をつぐんだ。 …あたしはその時、踏み切りのど真ん中で座り込んでいたのだ。冷静に考えてみれば、確かに自殺以外の何にも見えまい。 「…ま、何でもいいけどね。」 と、不意に少年が、興味無さげにそう言った。 酷く、乾いた目をして。 …あぁ、これは夢だ。あたしはそんな事を思いながら、黒板の文字を追っていた。 そうだ。確か、由良に会った日。 …あたしが死に損なった日の。 これは、夢だ。 乾いた教室の空気の中、響く古典教師の声はひどく遠かった。 乾いた目をしたその少年は、あたしの横に立ったまま、しばらく動かなかった。あたしも、動かない。膝を抱えて夜空を見ていた。 まだ、冬の只中だった。 「…自殺志願じゃないんだったら」 寒さに耐かねたのだろうか。一つ、身震いした由良が口を開いた。 「なおさら。とっととどっか行きなよ」 「…そう、ね」 半ば放心状態で、あたしは答えた。 「でも、何処にも行けないのよ。あたし。」 しゃがんだ姿勢で空を見ていたあたしは、その時由良がどんな顔をしたのかは知らない。 雪を降らせる曇天は、ネオンに照らされて薄赤くひかっていた。まるで、血の滲んだ跡の様。 …そして、あたしはそのまま意識を失った。 …母は。 あたしの母は、その日、その夜、2月の真夜中に、あたしを放り投げて救急車で運ばれていった。 あたしが幼い頃から、母は時折あたしを認識出来ないことがあった。あたしを見て、悲鳴をあげる母を、もう何度も見てきた。 …そしてその夜、とうとう全てが破綻したのだった。 目を覚まし、あたしは見慣れぬ天井に困惑した。 (…どこ、ここ) 少なくとも、ついさっきまで閉じ込められていたあの部屋ではなかった。 染みの浮いた木の天井。 (…死んだのかしら) 意識が覚醒するにつれて、身体が痛みを訴え始めていた。そのせいだろう。ぼんやり、そんなことも考えた。が。 次の瞬間、鼓膜に叩きつける様な轟音が響き、あたしははっとした。 違う。どうやら、あたしはまだこの世に居るらしい。 「…め、さめた」 …無感動な、しかし声変わりを終えたばかりのような、かすれた声が聞こえたのは、その時だった。 「此処…?」 あたしの困惑を察してか、少年が淡々と言っってきた。 「俺の部屋。…いきなり倒れるから、あのまま放っとく訳にもいかなかったし」 「…あ、ご、ごめんなさい」 反射的に謝ったあたしに、返されたのはよく分からない言葉だった。 「いや、助かったよ。正直。」 意味が分からずきょとんとするあたしに、少年は、ようやく、表情らしいものを見せた。苦笑…したのだろうか。 「この部屋、幽霊が出るから。」 「は?」 「だから…一人じゃ、居られないんだ。幽霊が、うるさくて。」 この言葉に、あたしは…正直、こう思った。この人、大丈夫だろうか。…もしかして、薬とかやってるんじゃないか、と。 そして同時に、皮肉な気さえして笑いがこみ上げてきた。 薬でおかしくなった母から逃れて、薬でおかしい奴に助けられるのか。あたしは。 だが少年は、別段、幻覚を見つめるでも幻聴に答えるでも無く、あたしを見て、 「この部屋、暖房無いから。これでも飲んでて」 いつの間にか片手に湯気の昇るカップを持って、彼はそう言った。 「あ、…ありがとう」 と。手を伸ばそうとしてあたしは、腕に鋭い痛みを感じ、ぎょっとしてその手を引っ込めた。 …傷が、開いたらしい。薄青のパジャマに、じっとりと血が滲んでいるのが見えた。 見る間に赤く染まる布地を見、あたしは慌てて少年に言った。 「ごめん、悪いんだけど」 「何?」 マグを差し出しかけた中途半端な姿勢で動きを止めていた彼は、きょとんとしていた。 あたしは微かに苛立つ。普通、この血を見れば焦るなり、顔をしかめるなり、何らかの反応をするだろうに。 「あ〜…救急箱とか…貸して貰える?」 すると、少年は一瞬奇妙な表情になった。 乾いた目に、瞬間、暗い熱が宿ったような。 そして唐突に、彼は言った。 「悪い、俺…見えないからさ。」 見えない。意味が一瞬分からず、腕を押さえたまま、あたしは戸惑う。 「…血。見えないんだ。匂いも分からない。」 …あるんだろうか。そんなことが。やはり彼も、何か他とずれたものを見ているのか。 ぼんやりと、救急箱を受け取りながらあたしは外を睨んでいた。 窓のすぐ外に、線路が見える。先の轟音は、電車の音だったらしい。 ネオンが照らす曇天は、やはり赤い。 「…そら」 あたしは、何とはなしに呟いてみた。 「は?」 「そら。…血のいろみたい。」 「…」 少年は沈黙し、やがて。 「もっとあかかったよ。」 「…それもそうね」 あたしは包帯を巻きつけ、自分でも驚くくらい淡々と答えていた。 …電車の、轟音が近づく。 音が過ぎていった後、不意に、少年が尋ねてきた。 「…傷。広いんだな。」 「まぁね。…刺されたのよ」 少年が何かを尋ね返してくるより早く続ける。吐き出すように。 「母親よ。あたしが何に見えたのかしら?…いきなり、切りかかってきて。…」 口を押さえた。じとり、と身体を汗が這う。部屋の寒さだけではない悪寒に、あたしは薄ら泣いた。痛い。傷が。胸の下、横隔膜を引き攣らせて、痛い。 「…?どうした?」 「ごめん、吐く。」 嘔吐感を堪え、あたしはようやくそれだけ言った。 「トイレ…貸して」 「あ、玄関の横…」 言われるまでもなく、(大体この手の部屋の構造なんて似たようなものだ)あたしは玄関横の小さな扉に飛び込んだ。 …トイレで一息ついて、あたしが「それ」を見てしまったのは、単なる好奇心などでは無かった。 曇り硝子越しに見えたその場所―――恐らく風呂場だ―――は、何故か、「黒」っぽく見えたのだ。 (…なんだろう…?) 何気ない行動を、後悔したのはその直後。 あたしが、見たのは。 …タイルの壁一面に、乾いて変色した…血痕。 トイレから出たあたしは、吐くものは胃液まで吐いて、多分、真っ青になっていたに違いない。 「…うわ。大丈夫か、あんた」 少年が、そう聞いてきたことでもそれは分かった。 「『あんた』じゃない。…あたしは月花って立派な名前があんだから…ぅっ」 言いながらも嘔吐感がせり上げてきた。 「それより、あんたこそ、何なのよ…あの、風呂場…」 「あぁ」 だが、あたしが思わず発した問いに、少年は軽い口調で答えた。 「壊れてんだよ。今。」 その表情はやはり読み辛く淡々としていたが、それだけに、彼の本気を感じさせた。 「あと、俺は『由良』だよ。…立派な名前かどうかは置いといてもな。」 あたしは彼の名乗りなど、聞いては居なかった。気が、遠くなりそうだった。 ただいま、などと言ったところで誰が出迎えてくれる訳でも無かった。昔から、あたしには「ただいま」を言う習慣が無い。 慣れない臭いのこの部屋は、あたしの叔父が借りてくれたマンションの一室だ。…二月前に引っ越してから、未だ荷解きも済ませてはいない。 鞄を投げて、あたしは薄暗いままの部屋に座り込んだ。フローリングの床が冷たくあたしを冷やす。膝を抱えて、あたしはうずくまった。 白い部屋を、窓から差し込むネオンが照らす。自動車のライトがずるずると天井を這った。 あたしはうずくまったまま、自分の長い髪に指を這わせた。掴んで、手に力を込めてみる。途端に指に絡む黒い塊を、あたしは床に投げ捨てた。こうして落とした髪の毛で、部屋のあちこちには黒く渦巻くわだかまりが出来ていた。 …どれくらい、そうしていたのだろうか。あたしは、暗さを増した部屋で、一点ちかちかと光る赤い光点に気付いた。息苦しそうに点滅を繰り返している。 抱えた膝の隙間からそれを覗き見て、あたしは、しばらく息さえ止めた。 躊躇は長かった。天井を這う影を睨みつける。 フローリングが冷たく足を冷やした。感覚が消えそうだ。 結局、今日は学校へ行って無駄な居眠りに悪い夢を見ただけだった。最近はこんな日ばかり。教師側も、諦めている感がある。いや、保健医から伝達が行っているのかもしれない。まだ、あたしは通院を必要とする身だ。身体では無く。ココロが。 …馬鹿なことを考えた後、あたしはようやく手を伸ばしうざったい点滅を見せる再生ボタンを押す。押す前から、中身には想像が付いていた。くだらない。あたしはまた、髪を抜いて捨てた。 無機質な女の声が、一件の伝言の在中を告げた。 ピーッ。再生が始まる。あたしは膝に顔をうずめた。フローリングは冷たい。身体が震えた。 『月花。私だ。』 …あたしは眉を寄せ、天井を睨みつけ、胸のリボンを掴んだ。クソったれ。息苦しいったらありゃしない。 『…元気に、しているか。最近病院に行っていないらしいが…』 らしい。「らしい」か。他人事かよ。あたしは心中だけで父親の声に毒づいた。 『病院に行かなければ、病気だって良くはならないぞ。そんなことは…分かってるんだろう?だから…。先生も、心配してらした。あまり迷惑をかけるものじゃないぞ』 今更だろう?何言ってやがる、くそ野郎。あたしはリボンを引き剥がした。息苦しいったら。 『…母さんの方だが、最近は少し調子もいいようだ。』 …それはあたしへのあてつけか。くそ野郎。あたしは繰り返した。 『お前のことを心配しているよ。…後悔も、しているようだ。許してやれとは言えないが、たまには顔くらい見せてやりなさい。』 そうだ、その通り。たまに会えば、あの人は忌々しい程に優しいのだ。「愛してる」?クソ喰らえだよ、オカアサン。あたしは髪を抜く。鈍い痛みは慣れてしまえば単なる快楽にしかならなかった。 ピーッ。其処で伝言は途切れる。二件目も大体似たようなもんだろう。そう思い、何だかんだでうんざりしたあたしは再生を止めようとした。 ピーッ。 『よう、元気か小娘。薬も切れてさぞ疲れてるんだろうな、ざまぁミロ』 …あんまりといえばあんまりな出だしのメッセージに、あたしは思わず手を止めた。思わず小さく舌打ち。伝言を止めるわけにはいかなくなったらしい。この声は…保健医だ。 『あのな、浅葱深海から聞いたんだが』 一体何の用なんだ、と先程とは違った意味で眉を寄せていたあたしは、次に続いた言葉に唖然とする羽目になる。 『水城由良に会ってるってのは、本当なのか?水城白百合のおとーとの。』 は? 『だとしたら、わりいがちょっと話しておきたいことがある。…ま、留守録じゃ難だし、今度な。…何にしろ、あまり関わるなよ。お前みたいに不安定な小娘が関わっていーよーな奴じゃねえぞ』 眉間に皺が増えるのが自分で分かった。 『じゃ、それだけだから。…お節介言ってすまんな。…ちゃんと眠れよ?薬無しでも』 ひたすら無責任な言葉を残して伝言が切れる。 …由良の名を、深海に漏らしたことはあった。しかし。 (水城…由良?) 苗字なんて、教えたどころかあたしも初めて知った。…確かに、アパートの入り口にそんな表札を見たことがないでもない、が。 (…センセイ。由良のことを、知ってるの?てか、何よ今の伝言。) あたしは髪を抜く代わりに頭をかいた。暗く寒い部屋が阿呆らしくなり、電灯のスイッチに歩み寄る。 明るくなった部屋には、ネオンも自動車のヘッドライトも侵入はしない。 あたしはつい、小さく呟いた。 「んなこと言ったって…あいつがやばいのなんて、分かってるよ。最初から…」 その日も、朝から気持ちの良い青空だった。毎度のことながら遠い空に、毎朝のことながらコンクリートの上で仰向けのあたしは強い溜息を吐き出す。 「よ。オハヨ」 由良の、少年染みた声。乾いた目をしてあたしを見下ろす彼に、あたしはうんざりしながら問う。 「今何時?」 「11時23分」 が、毎朝変わらぬあたしの質問に、妙に的確に答えてくれたのは、由良の声ではなかった。ハスキーな女性の声だ。 身体を起こすと、由良の隣に女性が一人、佇んでいた。垂れ目がちの、印象の優しいなかなかの美人さんだ。 「えーと…?」 一瞬困惑するあたしを置いて、由良はその女性に向かって、 「悪いね、沙羅。もう大丈夫みたいだから」 「いえいえ、どういたしまして。どうせ、今日は夕方からだから、暇だったし」 砕けた口調で応じる女性は、趣味のいいスーツ姿。どう考えても、由良より6つ7つは年上…社会人だろう。 二人は一言二言、会話を交わすとやがて、 「それじゃ、またね。由良。」 「ん。また。」 そんな会話を最後に、女性は去っていった。 しばし、あたしと由良の間に沈黙が残る。 「…お客さんだったの?」 「まぁね。…誰かさんのお蔭で、今月の食費が高くついちまってねぇ」 皮肉か、それは。 しかしあたしが何か言うより先に、彼は更に続けて言った。 「それにしてもお前も飽きないよな。毎度のことながら。…人がいい気分で帰ってきたってのに、入り口でぶっ倒れてるし。…それとも、まさか嫌がらせじゃないだろうな」 「あほか」 長い黒髪が煩わしい。かき上げながらあたしは即答してやった。 由良に会うことを期待していない、と言えば嘘になるのかもしれない。気分の悪くない時でも、あたしはたまに此処で寝転んでいることも、あった。 「あのな」 いつにもまして機嫌の悪い様子で、由良はあたしを見下ろして言い放った。 「…倒れるのは月花の勝手だけどな。いつでも俺が居るわけじゃねえんだからな。」 「分かってる…分かってるよ、そんなこと」 言い訳がましいと、自分でも思いながら言う。 そんなあたしを由良はしばらく、乾いた目で見ていたが、 「…今沙羅から金も貰ったし。買い物してくるけど、何か食いたいものあるか?」 「つくづく思うんだけど。あんた本当にお人好しよね」 「いらないならいいんだぞ」 「はいはい。」 あたしは苦笑して、「ゼリーお願いね。」とリクエストをしておいた。 「出来れば果肉入りのやつがいいな。桃か蜜柑の」 「甘えんな。」 「いいじゃない、ケチ。どうせ収入あったんでしょ?ニ万?」 「三万だ」 自慢するわけでもなく、彼は淡々と応じて言った。 …ちなみに、自称十五歳の彼の収入源はいたってシンプルだ。逆援助交際(もしくはヒモとも言うかもしれない)である。 当人曰く、十二歳からやっているらしい。 最初この話を聞いたときは…呆れるよりも先に感心してしまったものだった。 「あんたさ、由良」 ふと、思いついてあたしは、由良の背に声をかけた。もう出かけようとしていた由良が振り返る。 相変わらず酷い、乾いた目。涙どころか瞬きまで忘れたみたいな。 「…やっぱいいや」 「何だよそれ」 微かにむっとしたらしい由良に、あたしは笑って応じた。 「…何でもないの。気にしないで」 由良は釈然としない顔をしていたが、すぐに立ち去った。 …その背中を見送り、一人残されたあたしは、膝を抱えてコンクリートに腰を下ろした。ぼんやりと、昨夜の留守録の意味を考える。 保健医は、何を言おうとしていたんだろうか。あの口ぶりでは、どうやら、由良がけして語らない、彼の姉のことも知っているようだったけれど。 …もしかしたら。あの、風呂場の血痕のことも。何か知っているんだろうか。 (…学校、行かなきゃな。…今日は。) 見上げた空は遠く、青く。何処かで咲いているらしい桜の花弁が、揺れる空気の中でふわふわと流れていた。 「おう。よく頑張ったな麻生。今日は何と二時間も授業を受けていた様だぞ。」 「何かの嫌味ですかセンセイ。あたしだって好きでやってんじゃないのに」 言いながら、あたしはベッドから身体を起こした。長い黒髪が白いシーツの上で流れる。 学校である。授業を二時間受けて、あたしは保健室へと運び込まれた。我ながら、今日は頑張ったと思う。 「ま、無理はまだ禁物ってこったな。医者だって、まだ無理だって言ってるんだろう。…それとも、何か?真面目に学校来れば、何かいいことでもあんのか?」 …どいつも、こいつも。 あたしは保健医を睨み上げる。 「…あんな女のためにあたしが身を削ってるとでも?」 「別にてめえの母親のことなんざ聞いてねえ。…それよか。聞いたぞ?」 保健医は煙草をくわえてあたしの横、小さな丸いすにかけた。あたしの顔を覗き込みながら、 「医者に行ってねえらしいじゃねえか。ここ最近。」 「…別に。治す必要があるとも、思ってないから。」 「どうだろうな、それは。」 煙草には火をつけないで、保健医は立ち上がり、棚からカップを取り出す。そうしながら、続けて言った。 「そのまま、でいいのか?人込みに入れずに。頭痛抱えて。…そろそろ薬だって切れただろ。睡眠とれてるか?」 口うるさい奴である。あんたはあたしの親かっての。 「どうでも、いいわよ」 「あぁ。そうか」 けれどあたしのその答えに。あっさりと保健医はそう応じ、 「コーヒー紅茶緑茶烏龍茶。どれがいい?」 「…紅茶。」 「おっけ。」 しばらくすると、保健室の薬臭い臭いに、紅茶のそれが混じりだした。あたしは保健医の手元の湯気を眺めながら、髪を抜いた。 「…別にお前の所為じゃ、ねえだろ。母親のことは。」 ふと、保健医が言った。あたしは手を止め、考える。そうだろうか。 …あたしの所為でなければ誰の所為だ。あの女のか?馬鹿馬鹿しい。 「それで、自分を痛めつけて、贖ってるつもりか?…それとも自滅してえのか?」 あたしはきょとんとする。贖い?それこそあほらしい発想。 あたしは此処に居たい訳じゃない。 「だったらとっとと首でもつれよ」 さらりととんでもないことを、それもあっさりと言い切ったのは保健医だった。そうかもしれない。あたしは渡されたティーカップを覗き込み、琥珀の色の内でゆらゆら揺れる自分の顔を覗いた。酷い顔だ。暗くて乾いた目。瞬きさえ忘れたみたいな。 「あたしが死んだら…どうなるのかな。」 「…俺はとりあえず葬式くらい出てやるぞ。深海は泣くんじゃねえの?」 そう。あたしは頷いて、紅茶をすすった。深海なら、泣くより先にあたしを殴りそうだけど。 あの父親は泣くだろうし、母親はそりゃヒステリックに泣くだろうが、それは何だかどうでも良かった。 熱い紅茶の表面を吹き冷ましながら、あたしはふと、二ヶ月前に出会った少年のことを思い出していた。 「…由良は、どうするかな…」 あたしが、死んだら。 それは馬鹿げた感傷だったのだが。 「その、由良なんだがな…」 咥えていた煙草をスチールのテーブルに投げ出し、保健医が自分のカップに紅茶を注ぎなおした。 「…水城由良。姉の名前は白百合…、で、間違いないんだよな?」 「…多分。表札は水城だったし、お姉さんのことは白百合って呼んでたみたいだし。…姉弟揃ってここまで変わった名前、なかなか無いと思うけど」 保健医の態度が、何だか妙だ。紅茶をあたしが啜る音が春先にしては冷え込む部屋に響いて、 「センセは由良と知り合いなの?」 「いや。…あいつの姉貴は俺の前の生徒でな」 スチール机の上で、保健医は机の表面を見つめて呟くように言った。 外で咲いた桜は今が満開で、散るのを待つばかりの花弁はひらひらとここにも舞い込んでくる。 「センセの前の学校って…」 「あぁ。養護学校。…知的障害、ってやつだった」 あたしはじっと紅茶を凝視する。波紋を目で追っていたら、次第にアタマがくらくらし始めて、慌てて目を閉じた。 「白百合さんは、」 瞼を閉じたまま、あたしは口を開いた。 脳裏を離れないのは血塗れの浴室だった。死んだ女性と、由良が壊れたと主張する、血塗れの浴室。 「どうして死んだの?」 「…自殺。」 ぽつん、と保健医が答えた。 「…自ら死を選んだんだ。あいつ。」 「理由は?」 「知らない。が、予想はつくかな…」 言って、保健医は紅茶をいっきに飲み干した。 「白百合は、父親が蒸発しちまってて。母親もロクに仕事もしねぇで、子供を放り出して昼間からパチンコやってるような人でな。まぁ、娘のコトでストレスもあったんだろうけど、俺は同情出来ない。 ……で。白百合の面倒は、大体、弟が見ていたんだ。 白百合はだから、弟にべったりだった。物凄い依存で、な。弟も姉を溺愛してるようなトコがあったよ」 保健医はぽつりぽつりと、語り始める。 「……俺達の施設で預かろうって話も出てたんだけどな。母親がごちゃごちゃ五月蝿いんで上手くいかなくて…。…って、これは言い訳だな。悪ぃ、忘れてくれ。 で、姉と弟でどうにか生活してたみたいだったんだが…俺が辞める頃に、な」 言いづらそうに、保健医がカップを睨みながら続けた。こちらをあえて見ようとしない。 「白百合の心に、致命的な問題が起きたんだ…俺が丁度、止める頃だから…春の終わり、か」 ふ、とこちらを見、それから窓の外を見て、保健医は硝子窓を閉めた。桜の花びらが二つ、遮られて硝子にぺたりとへばりつく。 「桜が散る頃に雪が降った日。」 「あ…。覚えてる。二年前だ。…そっか。センセがうちに来たの、あの年だったんだ」 季節を大きく外れた突然の大雪に、街の機能が麻痺して大騒ぎになったことがある。あの頃はまだ、それなりにマジメに学校に通っていたあたしは、よく覚えていた。学校に行く電車が途中で止まったのだ。 「あぁ。あの日、怪我人がこの県内で6人。…死亡者がひとり。で、…その死亡者ってのが…」 次に保健医の口にした言葉が、一瞬、うまく飲み込めなかった。 「水城由良。白百合の、弟。」 *next *menu |