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正しい赤ちゃんの作り方。


 外見だけならひどく幼いその女性が赤ん坊を抱き上げて必死にあやしている姿は、慣れない手付きと相まって、「歳の離れた妹の面倒を見ているお姉さん」くらいには見えたかもしれない。少なくとも、間違っても、「母親」に見えないことだけは確かだ。
 星原灯月は目の前の光景をそう分析し、困惑して、二度三度と目を瞬いた。幻覚でも見ているのではないかと思ったのだ。
 休日の早朝にチャイムが鳴って目が覚めた。
 ドアを開けたら、家族も同然の見慣れた女性が赤ん坊を抱きかかえてそこに立っていた。
 この状況をいきなり理解しろと言うのが無理な話ではある。
「…ええと?」
 お早う、と挨拶することも忘れて、寝巻き姿のまま、灯月はそんなことを口にしてしまう。秋の早朝の、冷え込むマンションの廊下に立っていた女性は、幼い顔立ちを苛立たしげに歪めた。
「ええと、じゃないです。」
 口調は、幾らか棘を孕んでいる。
 灯月はかなり身長の低い女性を見下し、片手で重たいドアを押えながら、必死に思考を廻らせた。何しろ寝起きなので、思考回路はそう簡単には動き出してはくれない。
 目の前の女性は、そこそこに長い付き合いのある相手だ。友人と言うよりは家族に近しく、恋人と呼んでしまうには残念ながら少し足りない。そういう関係の相手である。
 チョコレート色の(要は焦げ茶色なのだが、どうもチョコレート、と言ってしまったほうが彼女の雰囲気には似合う)柔らかな癖っ毛を肩まで伸ばし、同じ色の矢張り柔らかな光を湛えた瞳は今は、静かに彼を見上げている。見ようによっては睨んでいるようにも見えるが、子供のような可愛らしい顔立ちから、そういった負の感情を読み取るのは案外容易なことではない。
 彼女は赤ん坊を抱き上げた危なっかしい細い腕を、彼に向けて差し出した。
 ピンクのフリルを沢山使った可愛らしい服に包まれて、赤ん坊はきゃ、きゃ、と笑っている。
「――心当たりは?」
 彼女の鋭い声はそんなことを問いかけ、灯月は意図を理解できずにまたしても暫く、その場で硬直することになった。


 竜堂冬瑠は、星原灯月の住む同じマンションの、真下の部屋に住んでいる。互いの部屋の構造なんてよく知ったものだ。灯月に部屋に通されると、彼女は迷いもせずに真っ直ぐリビングに向かった。
 間取りは1DKのこのマンションは、駅から徒歩数分、近所には商店街とレンタルビデオ店とコンビニと郵便局、それから少し離れて大型のホームセンターがある。交番も近い。便利なことこの上無いのだがしかし、驚くほど家賃が安く、相場の半額近い。
 理由は一つ。
 ――『出る』、のである。
「…うっるさいなぁ、あたし今寝たところなんですけーどー」
 だからこそ、間延びした声が壁から聞こえたところで、灯月は一瞥もくれないし、冬瑠も驚くことはない。声の主、まるで壁から生えているみたいに、上半身だけ壁から出した女性は、ピンクの髪を揺らして冬瑠を見た。その身体は半透明で、向こう側の光景が歪みながら透けて見える。
 どこからどう見ても立派な「幽霊」である。
 が、二人に動じた風は全くなかった。あまつさえ、冬瑠に至っては赤ん坊を抱きかかえたままにっこり笑って見せた。
「お早う御座います、坂下さん。」
「うんおはよー。」
 にこにこと朝の挨拶を交わす幽霊と冬瑠。こんな光景も、このマンションに住んでいれば嫌でも慣れる。灯月は欠伸を噛み殺しながら、朝のニュースを流しているラジオを消した。
 冬瑠はまだ、壁から生えた女と会話を交わしている。
「…あれ、誰か居る?」
 幽霊である坂下蜜依は、生きている人間の姿がよく見えないのだそうだ。冬瑠はああ、と頷いて、抱いていた赤ん坊をそっとソファに降ろす。
「えと、赤ちゃんが。」
「赤ちゃん?」
 蜜依は大仰に眉を寄せて、腕を組んだ。するりと音もなく壁から抜け出して、灯月の部屋に入り込んでくる。
「おい、蜜、勝手に入るな」
 コーヒーメーカーに水を注ぎいれながら灯月が睨むと、蜜依は悪びれた風も無く舌をちらりと出した。灯月は「視線」を媒介にした精神操作系能力者で、その彼に睨まれることは非常に不穏な意味を含むのだが、それでも彼女は全く動じない。
「お邪魔しまぁす」
 挨拶すれば良いという問題でも、無いのだが。
 だが灯月はそれ以上の問答に無意味さを感じて、ため息を吐いてスイッチを入れた。今度本格的に、部屋に結界でも敷いてもらうか、プライベートな空間を保護する策を考えるべきかも知れない。知人の魔術師や魔女の顔を脳裏に浮かべて、灯月はそんなことを考えていた。
「誰の赤ちゃん?誰の?冬瑠ちゃんの親戚?」
 興味津々と言った様子で幽霊の女性・蜜依は冬瑠を覗き込む。中途半端に体が透けて見える以外には、その仕草は生きている人間と変わりが無い。
 灯月はこれといって興味も持てず、会話を聞くともなしに冷蔵庫を探っているところだった。何かと世話を焼いてくれる冬瑠のお陰で綺麗に整頓された冷蔵庫の中、低脂肪乳のパックを引っ張り出す。賞味期限が気になった。
 冬瑠の声が、部屋から聞こえてくる。
「この子、マンションのエントランスに置き去りにされてたんです。」
 ――だからって拾って持ってくるヤツがあるか。灯月はそんなことを思い、眉を顰めながら紙パックを開いた。マンションはペット可なのだが、それをいいことに冬瑠は矢鱈と捨て犬捨て猫を拾ってきては世話を焼いている。悪い癖だ、と常々思っていたが――まさか人の子まで拾ってくるなんて。
「捨て子?こんな場所に?お母さん何考えてるんだろうねぇ、置いていくならせめて施設の前とかさ、あーあ、なんにしても酷いお母さんだ。」
「あたしもそう思ったんですけど。」
 低脂肪乳の賞味期限は、二日程過ぎていた。セーフか、アウトか。一人思い悩む灯月の耳に、その言葉は遠く響いて聞こえる。
「――この子、星原君の子みたいなんです。」
 灯月は次の瞬間、紙パックを握り潰してしまった。
「へぇ、灯月の―――えええええええ!?」
「俺!?」
 冬瑠は。
 紙パックからぽたぽたと牛乳を零しながらリビングに顔を出した灯月に向かってにっこりと笑った。
 そう、にっこりと。この上も無く。可愛らしい笑顔で。
「星原君」
 穏やかなその声に、しかし何故か有無を言わさぬ迫力を感じて、灯月はその場で足を止めて凍りついた。頬が引き攣る。
「あ、ああ」
「――もう一度だけ、訊いて上げるわ。」
 冬瑠の声はいつもと同じく穏やかだ。柔らかな口調、柔らかな視線で、彼女はにこにこ微笑みながら、小首を傾げた。その仕草それ自体は幼い外見と相まってたいそう可愛らしい。
 発される声だけが、剣呑だった。
「この子に、心当たりがある?」
「あっ…ある訳…」
 無い。そう断言できる、はずだ。だが灯月は口篭ってしまった。
 赤ん坊など見慣れている訳ではなかったが、首も据わっていない赤ん坊だ。生まれてからそう経ってはいないだろう。
(確か、妊娠から出産までの期間は――)
 寝惚け気味だった頭が高速回転して逆算を始める。妊娠は十月十日とか言うから十ヶ月か。
(じゅっかげつとすこしまえに『こころあたり』…)
 ―――非常に痛ましい事実だったが認めざるを得ない。灯月は凍りついた。一年くらい前になるか。胸に突き刺さる「心当たり」は、確かに記憶の中にあった。
「…………。」
 灯月の沈黙を、冬瑠がどう受け取ったのかは――推して知るべしと言ったところだ。笑顔のまま、冬瑠はそっとソファに置かれたクッションの一つを持ち上げる。
 そして一切の容赦無く全力で、それを灯月に投げ付けた。
「信じられないっ、最低!!!」
「な!?」
 その衝撃で我に返った灯月は、途端に慌てた。目の前の冬瑠は笑顔から一転して、大きな瞳を精一杯険しくしている。
「待て、多分何かの勘違いだ!」
「何が勘違いよ!心当たりがあるんでしょ!?最低ッ!」
 もう一つクッションを持ち上げて、今にも投げ付けようとしている冬瑠に、灯月は心底から慌てた。怒り心頭という様子の彼女に自分の言葉が届くとは思えないが、必死に言い募る。
「だから違うって…それに俺はその辺はちゃんとしてた!」
「ちゃんとって?」
「そりゃ避妊――」
 言いかけて、灯月はその声が後ろから聞こえてきたことに気付く。はっとして振り返ると、そこにはいつ置かれたのか、巨大な水槽があった。巨大な、大型の熱帯魚用の水槽。
 面白がるような低い声は、そこから聞こえてくる。正確には水槽の中で長い身体を悠々とくねらせる、青銀の鱗の見事な巨大な熱帯魚から。
「だよなぁ。やっぱりその辺は男として最低限の気配りだよな。」
「…ッ、てめぇアロワナ…!!」
 灯月は何かに耐え切れなくなり、水槽を思い切り蹴りつけた。その背中にばふん、と間抜けな音をたててクッションが投げ付けられる。床に落ちたクッションを拾って振り返ると、肩で息をしながら冬瑠がこちらを見つめていた。睨んでいるのだろう、多分。――何しろ顔立ちが幼くて、そうは見えないのだけれども。
「星原君の…星原君のばかー!!」
 子供のような捨て台詞を吐き捨てて、冬瑠は駆け出した。灯月が止める間もあればこそ、小さすぎるほど小さな身体で嵐のように駆け去っていく。
 ばたん、と玄関のドアが閉まる音がして、ようやく灯月はゆるゆると動いた。目の前には巨大な水槽。背後からは、あれほどの騒ぎにも関わらず穏やかな赤ん坊の寝息。
「……何なんだよ…!」
「痴話喧嘩に見えたな。」
 のんびりとした声は、水槽の中から相変わらず響き、更に追い討ちをかけるように蜜依の一言が部屋に落ちる。
「あたし、皆に話してこようっと」
「蜜!」
 こちらも止める暇は無かった。灯月が鋭い制止の声を上げた時には、蜜依の姿は壁の向こうへと消えている。隣室へ行ったのか、それとも。
 どちらにしてもろくなことにはなるまい。
 それだけを確信して、灯月は頭を抱えてその場に座り込んだ。冷たい牛乳が服に染みたが、もう気にもならない。
「とうとうお前もお父さんかぁ。オレは嬉しいぞ、息子よ。」
 水槽から響く声に、灯月は今度こそ怒りのままに水槽を殴り倒した。横倒しになった水槽から、びちびちと巨大な青銀色の巨大熱帯魚――アロワナが飛び出したが、これは無視して立ち上がる。
 ――とりあえずは着替えて掃除をしなければならない。赤ん坊のことは、その後で考えよう。

 床で跳ねていたアロワナは、次の瞬間には長身の男性に姿を変えていた。銀髪に青い瞳、日本においては目立つことこの上も無い色合いの男性は、にやにやしながら床を拭く灯月を眺めるなり、一言。
「お早う、我が息子よ。そしておめでとう。」
「何がどうめでたいのか言ってみろよ詩律」
 アロワナから人間に変化するこの常識外れの生き物は、現在、灯月の戸籍上の父親――養父である。
 更に常識を外れたことに、この生き物はこう見えても、いわゆる「水神様」であるらしい。
 世界は間違ってる、と灯月はしみじみと思う。こんな馬鹿が「神様」だなんて、世も末だ。
「お父さんになった気分はどうだい、息子よ。」
 息子息子と連呼されるだけで額に青筋が浮かぶような気がして、灯月は腕組みをしている詩律を睨みあげた。ちなみに養父ではあるが、灯月は彼の養子になったことを「俺の人生十九年で最大最悪の不覚。多分未来永劫これ以上の後悔はしない。」と公言して憚らない。
「もう本当にお前どっか消えてくれないか」
 心からの本音だったのだが、何を勘違いしたのか水神様はにこにこと微笑んだ。
「相変わらず照れ屋さんだなぁトーゲツは」
「相変わらずてめーは頭も目も耳も悪いな詩律」
 言い捨てると、灯月は立ち上がった。一先ず床を拭いた雑巾を洗おう、と風呂場へ向かう。
 その背後から、全く唐突に赤ん坊のぐずる声が聞こえてきたのはその瞬間だった。ぎょっとして足を止めた灯月を余所に、詩律は臆した風も無くソファへと向かう。赤ん坊を覗き込んで、彼は穏やかに笑った。
「おーおー、なかなかお前に似て美人の赤ん坊じゃねぇか」
 その一言にはとりあえず灯月は無言で雑巾を投げ付けることで返答し、自身も赤ん坊を――こちらは恐る恐る――覗き込む。
「てっめ、何しやがる!」
「その雑巾で脳細胞拭き直して出直せクソ野郎」
「こんなもんで拭いたらオレの脳細胞が大変なことになるだろうが!」
「言ってろ」
 会話の合間にも、赤ん坊のぐずる声は次第に不穏な空気を帯びてくる。灯月は困り果てて、傍らを見遣った。――この男に頼るのはどうにも癪に障るのだが。
「……詩律。どうしたらいいんだ?」
 相手は、子供と女性の守護神も勤めるン百歳の「神様」である。悔しいがこの場合は彼を頼る他に手段は無い。
 問い掛けられた詩律は何とも腹立たしいことに、にっこりと嬉しそうに笑うと、赤ん坊を慣れた手付きで抱き上げた。或いはこの男なら子育てくらいは経験しているのかもしれない。アロワナだし―――アロワナはオスが子育てを行う生き物なのだ。
「そうだな。おむつじゃなさそうだし、腹が減ってンのか、そうでなきゃおかーさんが居ないんで寂しいのか…」
「の、割りにはさっきまで大人しかったな。母親が居ないのが不安なら、最初から泣き叫んでそうなものだけど。」
「じゃあミルクだろうな。ほれ、さっさと行って来い」
 言いながら詩律はしっしっ、と追い立てるように手をひらひら振った。
「は?」
 意味が分からず眉根を寄せた灯月に、彼は少し呆れたように、
「ドラッグストアならもう開いてるだろ。おむつとほ乳瓶とミルク。買って来い。」
「な…」
 一度ぱくりと空気を飲み込む間を置いて、灯月は思わず声を強くする。
「何で俺がっ!?」
 詩律はと言えば、即答だった。
「お前の子供だろうが。」
「それは冬瑠さんが、勝手に――」
「ほれ」
 ひらり。一枚の紙切れが、眦をきつくした灯月の眼前に差し出される。意表を突かれて瞬いて、灯月はその紙片を受け取った。赤ん坊が握っていたものか、くしゃりと一部が皺になって、その上涎で文字が滲んでいる。確かに、乱雑だが秩序を保った綺麗な文字が並んでいた。
 ――見覚えのある文字だ。
 灯月はそのことに気付いてまず、眩暈を起こしそうになった。
『灯月へ。この子をどうかよろしくお願いします。』
 差出人の名前は無い。けれども直ぐに灯月は小さく呟いていた。どんなに急いでいても綺麗なこの文字を、見間違えることなどきっと無い。瞠目して、思わず呟いた。
「…雪希(セツキ)さん」
 詩律は彼の口から漏れたその名前に瞬間、目を上げたが、すぐに何事も無かったかのように赤ん坊へと視線を戻す。抱き上げた赤ん坊を微かに揺すってあやしながら、彼はただ、「さっさと行け」と灯月を追いやった。
 ――何よりも、目にしてしまったその女性の文字が灯月の毒気を抜いてしまっていた。あっさりと詩律に従って、彼は部屋を出た。





 さよならを言ったのはもうずいぶんと前のことのような気がしていた。
 雪希はとても良い人だった、と今でも灯月は思う。好きか嫌いかと問われれば今でも、好きだ。冬瑠への感情さえ整理できれば、多分、彼女と今でも一緒に居ただろう。
 それでも、別れを告げたのは。


(…結局、)
 ドラッグストアの帰り道、大量に抱えた荷物とすっかり軽くなった財布に想いを馳せてため息を空に向けて吐き出しながら、商店街の路地を歩く灯月はじっと空を見た。狭い路地と電線で区切られた空。
  ドラッグストアの店員は、若い灯月が嫌に真剣な表情でオムツの商品棚に食い入るように見入っていたのを見て、好奇の視線を交えつつも親切にオムツ選びからほ乳瓶の洗い方まで丁寧にレクチャーしてくれたが。
(一体俺は、何してるんだ…。)
 最早、現実と理解が解離してしまっている。状況を把握できないまま、灯月は足を止めた。抱えたおむつが、重くは無いものの嵩張って、苛立たしいことこの上ない。何で俺こんなことしてるんだろう。疑問は一度覚えると、どこまでも彼に付きまとった。
 小さく吐き出した愚痴は誰に聞かれるとも無く、路地の上に転がって消える。
 代わりに――でも無いだろうが、遠くから何やら自分を呼ぶ声が聞こえたのはこの時だった。ふっと目を上げた灯月の視界、抱えた荷物の隙間から、見慣れた癖毛が映る。
 ――朝、怒り心頭の様子で部屋を出て行った冬瑠である。
「…?」
 あれ、もう怒ってないのか。等と暢気なことを考える灯月の傍まで駆け寄ってきた冬瑠は、肩でぜぇぜぇと息をして足を止めた。余程慌てて走ってきたのだろうか。トレーナーにジーンズ、加えて足元は健康サンダル(三百円)という実にラフな恰好である。
「先輩?」
 大丈夫、と問い掛けようとしたのだが、がばっと勢い良く顔を上げた冬瑠の様子に圧されて灯月は思わず言葉を飲み込んだ。冬瑠はその勢いのままに、まだ荒い息で吐き出すように、
「星原君!だいじょーぶ!?」
 いや、大丈夫じゃなさそうなのはそっちなんだが。
 眉根を寄せた灯月に、彼女は苛立たしげに眦を上げた。荒い息の隙間から、必死に言葉を搾り出している。
「違うの、だいじょうぶ、だった?…じゃないや、ええと、大丈夫になる…あれー?」
 灯月は時系列の整わない彼女の言葉に、す、と目を細めた。意識の中で、冬瑠の言わんとすることが一瞬で組み立てられる。こんな状態の彼女は、彼にとって馴染みのあるものだった。
「――先輩、なんか『見えた』のか」
 慌てていた様子だった冬瑠が、その言葉にぱっと目を輝かせた。
「そう!それ!!」
 それが言いたかったのよ、と彼女がぐっと拳を握るのを見て灯月は胡乱な目で冬瑠を見遣った。
「…先輩、あのさ前々から言おうと思ってたんだけど。予知した後に時間の感覚がぐちゃぐちゃになるのどうにかした方がいいんじゃないか?」
「し、仕方ないじゃない。時間の感覚引き摺られちゃうんだもの。星原君だって『見えた』ものの区別が付かなくて時々変なこと言ったり何も無い場所で転んだりするじゃない!」
 言ってから余程、恥ずかしかったのだろうか。彼女は口早に付け加えた。
「…あたしのは、別に誰かに迷惑をかけたりしないんだから、いいのよ別に。」
 無論、冬瑠に深い意図などあったはずがない。だが、この言葉に、まるで自分の能力が迷惑なものだとでも言われた気がして灯月は思わず、目を逸らした。
「……先輩。用が無いならさっさと帰れよ。」
 その言い草に、流石にむっとしたのだろう。冬瑠が眉根を寄せて険しい表情になる。
「んもう、人が心配して来てあげたのに!」
「頼んでないだろう?」
 冷ややかに言い放つと、灯月は早足に歩き出した。その背中に、どこか慌てた様子の声が掛かる。
「ちょっと!そういう言い方は良くないって、あたし何度も――」
 お説教なら沢山だ。灯月は意図的に言葉を聞き流し、更に足を早めた。当然ながら身長差の分、歩幅の差も大きいので、冬瑠は置いてけぼりを食らう格好になる。
「待ってよ!待ってってば!」
 ぱたぱたと自分を追いかけてくる軽い足音を遠く聞きながら、灯月は軽く息を吐き出した。ため息と呼ぶ程軽くは無く、どこか怒りを孕んだ調子で。
 この場で彼女に腹を立てるのは勿論見当違いだと、灯月自身気付いてはいる。
 だが、少しは気を遣え、等と思ってしまうのもまた事実なのである。何しろ彼はこの時、大変神経質になっていた。久方ぶりに見てしまった昔の彼女の文字だとか、突然現れた赤ん坊だとか、苛々する材料には事欠かない。
「待たない!」
 言い捨てて、灯月はいよいよ走り出そうと足に力を籠めた。目の前の横断歩道で、青信号が明滅している。チャンス。
「先に帰るからな。」
 駆け足で渡った横断歩道の向こう側、おろおろとしている冬瑠に言い捨てて、灯月は踵を返した。両腕にオムツとミルクとほ乳瓶を抱えて、後ろから突き刺さるような冬瑠の視線も無視して足早に歩き去る。
 冬瑠は何やら言っていた様子だったが、ちょうど過ぎったトラックのエンジン音にその声はかき消され、灯月に届くことは、無かった。
 
 


 さて、灯月はまず帰り着いて直ぐ、マンションのエントランスで管理人室から非常に冷ややかな声を浴びせられることと成った。甲高い子供の声だ。
「――これだからオトコってイヤよね桃」
「…えっと、よくわからない…」
「つまりねあそこに居る馬鹿が」
 と、声と同時に灯月は否応もなく背中に視線を感じ取る。視線だけで、灯月はそれがどういった感情を含んだ視線なのか、知人なのか知らない相手なのか、大雑把に把握が可能、という変わった特技を持っている。今回彼に突き刺さっているその視線は、良く知った知り合いのそれであり、口調と同様に非常に冷ややかな感情を含んでいた。灯月は、溜息を吐いて抱えた紙おむつの隙間から、管理人室をじろりと睨みやる。
 甲高い声が続いた。
「あそこに居る馬鹿が、可哀想なオンナの人をダマくらかして、こども作って、トンズラしたのよ」
「………わるいひと?」
「そうよ桃、あれは悪い人」
 ――管理人室からエントランスに繋がっている小さな覗き窓には、小さな頭が二つひょこひょこと見えている。
 一つは黒髪。肩口で切り揃えたおかっぱ頭に、今時滅多に見ないような着物姿の、小学校にあがったばかりくらいの少女だ。
 おかっぱに着物と言う、ひどく古めかしいその恰好に反して、彼女が片手で弄んでいるのは実に現代的な携帯ゲーム機である。
 もう一人、その黒髪の少女の言葉に熱心に耳を傾けているのは、こちらはもっと幼い少女だった。幼稚園の年長さん、と言ったところだろう。白いというよりも青白い顔色に、天然パーマなのだろうか、ふわふわとした髪が背中まで伸びている。フリルたっぷりの水色のワンピースの裾が、座って足を揺らす彼女の動きに合わせてゆらゆらと大きく揺れていた。
 その姿は、半透明だ。向こう側の光景が透けて見えている。――この幼い少女もまた、このマンションでは珍しくない「幽霊」なのであった。
「…とうげつはわるいひと?」
 その幼い幽霊少女が、管理人室の窓越しに、首を傾げて舌足らずの口調でそんなことを言うので、灯月は頭を抱えたくなった。――彼はこのマンションの住人の中でも特に、この幼い少女達が大変苦手である。女だというだけでも苦手なのに、その上子供なのだからいっそ卑怯だと彼は心底思う。幽霊だからとか生きているとか死んでいるとかいう理屈はこの場合適用されない。(すべからく、全ての事象において『女性である』という事実は非常に重たい。)
「…いや、あの、わるいひとでは無いつもりだ。」
 弱々しくそう答えていると、
「嘘おっしゃい悪人。」
 横からぴしゃりと言ってのけたのは、着物姿の少女の方だった。
「悪人って…俺か?」
「オンナを泣かせるオトコはあまねく全て悪人よ」
「その意見は尤もだと思うんだがな。」
 女性と子供は泣かせてはいけない。この辺り、どれだけ嫌おうとも、彼に「女性と子供の守り神」な養父の影響は案外強い。
「…だが少なくとも、ここ最近で女性を泣かせた覚えは無いぞ。」
「見苦しい。言い訳するつもり、オトコの癖に。」
「……いっちゃん、なんか、口悪いよな。」
「余計なお世話よ、若造。」
 にやりと――そういう表現しかしようの無い――口元だけで笑うと、「いっちゃん」と呼ばれた着物姿の少女は携帯ゲーム機を突き出した。
「あたしの経験から言わせて貰えばね、若いの。早い所過ちは認めなさい。」
「…だから。俺の子供じゃないって。」
 ちゃんと避妊してたし。
「馬鹿ねぇ避妊したって出来る時にゃ出来るわよ」
 しかし灯月の内心の呟きなど見透かしたように、着物姿の少女はそう吐き捨てた。いやそれはそうかもしれないけど、と灯月はもごもご口の中で呻く。呻くしかない。世の中、この手の話になった時、立場が弱いのは九割くらいは圧倒的に男性である。ちなみに残り一割は男の性格が最低である場合。善良な一般市民であればこういう場合は百パーセント立場が弱い。そして灯月は、それなりに善良な市民であった。
 目の前の幼い着物姿の娘は、そんな灯月を見てからにやにやと口角を上げて、携帯ゲーム機でトン、と自分の肩を叩く。
「とりあえず謝っておきな、冬瑠ちゃんにね。」
「何で冬瑠さんに。…先に雪希さんじゃないか、この場合?」
「だってすっごい怒ってた。ねー、桃?」
 問われた幼女は二人の会話が半分ほども解っていなかったのだろう。一瞬きょとん、と目を丸くしたものの、直ぐに満面の笑みを浮かべた。話に入れて貰えたのが嬉しかったのである。
「うん、おこってた!とうる、ばるたーなげて、すっごくおこってたよ。とうげつ、わるいことしたの?」
 「ばるたー」とは、冬瑠愛用の白熊のぬいぐるみである。いい年して――とっくに成人している――彼女はぬいぐるみが大好きなのだ。子供みたいだなどと本人に言うと猛烈に怒るので灯月はその評価を直接当人に伝えた事は無かったが。
「わるいことしちゃ、めーなのよ、とうげつ。ごめんなさいしなきゃ。」
「…うん、そうだな。」
 力無く灯月はそう答えた。両手が空いていれば彼女の頭を撫でてやる所だ。全く、幼子というのは正論を言う。ああ全くその通りだよ、桃。お前は偉い。
「それとね、灯月」
 着物姿の少女は頬杖をついた。携帯ゲーム機を放り出し、足をぶらぶらと揺らす。普段は初老の管理人が座っているスチールの椅子は、幼い彼女には大きすぎた。
「ん?」
「多分その、何だっけ。あの赤ちゃん置いて行った…セツキさん?その人に謝る必要無いと思うわよ。ホント多分だけどね。」
 彼女は言って、子供らしくも無い仕草でひょいと肩を竦めた。その隣で、水色のワンピースをふわふわ揺らして、幽霊の少女が首を傾げる。
「…とうげつ、わるいことしてない?」
「してないのかも、ね。…でもね桃はあんなオトコに引っ掛かっちゃ駄目だからねー?」
「うん、ひっかからない!」
「……。いっちゃん。蜜が騒ぐから、桃に変な言葉、教え込むなよ?」
 この幽霊少女、「桃」こと坂下桃乃は灯月の隣人であるあの幽霊――坂下蜜依が溺愛する、彼女の妹なのである。
「しっかし意外だったのは」
 踵を返してエレベーターを待つ灯月の背中を追って、管理人室から身を乗り出した着物姿の少女の声が響く。
「――灯月、あんたドーテイじゃなかったのね。冬瑠ちゃん一筋みたいな顔して」
「余計なお世話だ!」
 灯月は罪悪感と半々で、そう返すので精一杯であった。俺だって四年も片思いしてりゃいい加減諦めようかなんて考えることだってある、とは胸中だけの呟きに留める。あまり饒舌に言い訳をするのは、彼の美意識に反した。何よりも言い訳するたびに、朝、冬瑠が叫んだ「星原君のばか!」という幼稚な罵倒が脳裏を過ぎるのである。
(我ながらなんつーか…)
 参ってるよな、と、彼はエレベータに乗り込みながら顔を覆いたくなった。何でよりにもよって俺、あの人なんかに、と、不思議に思ったり口惜しくなったりすることもまた、四年の間に何度もあったことではあって、だから今更ではあったのだけれども。
 エレベータを出ると、四階の廊下には先客が居た。隣人――406号室の住人である、田村氏である。今年四十二歳で厄年のこの男性は、「幽霊マンション」では数少ない、常識的な一般人であった。
 その彼は、エレベーターから出て来た灯月を見るなり、明らかにはっきりと、「お悔やみ申し上げます」とか「気持ちはわかるよ」とかそういうことを言い出しそうな顔をした。灯月が厭な予感を覚えて口を開くより先に、田村氏は首を横に振り、そして一言、
「…星原君…どうするんだい?」
「……うん、すっげーヤな予感がするけど。何を?」
「矢張りね、星原君、子供には父親が必要だと思うんだ。…竜堂さんには申し訳ないが、此処は責任を取るべきじゃないかと…」
「…………もうヤだ……」
 灯月は抱えている大量の荷物を投げ出してその場に座り込みたくなった。更に追い討ちをかけるように、その背中に甲高い声がかけられる。階段を駆け上がってきたらしく弾んだ声は、これまた覚えのある女性のものだ。(視線も覚えのある物だった、嫌と言うほど。)
「星原!あんた、冬瑠ちゃん以外の女の子に手ぇ出したってマジ!?だからさヨッキューフマンになるから気をつけたほうがいいってあたし散々」
「お前マジで帰れ竜花!」
 駆け上がってきたのは、ジャージ姿の女子高生だ。三階の住人で、立花竜花と言う。このマンションで(幽霊と正体不明の人を除けば)最年少の住人だった。高校生ながらしっかりと一人暮らしをしている彼女は、実はさる名家のご令嬢なのだが、その家に反発して家出してきたという実に勝気なお嬢さんである。
 その勝気なお嬢さんは、強気に腰に手を当て、彼に怒鳴りつけられても一歩も引かずにに言い放った。
「蜜ちゃんと詩律ちゃんがすんごい嬉しそうに言いふらしてたわよ、『灯月に子供が出来た』って」
「私は坂下さんのお姉さんの方から、『星原君に隠し子が居た』と聞いたんだけど。『別れた彼女が妊娠してたらしい』って。」
「あの幽霊今度こそぶっ殺す」
「もう死んでるじゃない。あ、あと戒利兄ちゃんから伝言。『変な下心で女と付き合うからバチが当たったんだ』だって」
「よりによって戒利にだけは言われたくねぇな、その台詞…」
 ――ここで更に灯月に追い討ちをかけたのが、廊下にまで響いてくる赤ん坊の泣き声だった。何処からこんな声がと思うほど、力いっぱいの喚き声だ。竜花がぎょっとして半歩下がり、田村氏は落ち着いた様子で「ミルクかなぁ」と腕組みしてからはたと気付いた様子で灯月を急かした。
「そうだ。急いでそのオムツやらミルクやら、持って行った方がいいだろうね。引き止めて悪かった。」
「…うん、そだな、そうする」
 もう何でも良いから、誰にも何も言われない安全地帯に逃げ込みたい灯月であった。驚異的なまでに素直に頷くと、彼はよろよろと自分の家のドアを開いた。
 途端に響き渡る、赤ん坊の泣き声の盛大なこと。
 一瞬ぎょっとして足を止めてから、灯月は顔を顰めながら、こんなに大きな声をあの小さな体のどこから絞り出しているのだと不安になった。こんな泣き方を続けては、小さな赤ん坊が壊れるんじゃないかとさえ思えたのだ。
「おい、詩律!」
「あああ、助かったぁ!遅いよばか!」
 詩律の怒鳴り声すら、赤ん坊の泣く声にかき消され気味である。――と、赤ん坊をあやしているらしい声が僅かに聞こえてきた。これは、と、些か驚いて灯月は室内を見遣る。
「ああ、もう、何だって私がこんなこと…」
「…白鳥!?」
 何で彼女が此処に居るんだ。灯月は思わず声を上げ、ソファに座って赤ん坊をあやす人物の名を呼んだ。
 真紅に染めた背中まで届く髪と、デニム地のジャンパーに縫い取られた赤い蝶の刺繍が目立つこの人物は、このマンションの住人ではない。灯月の階下の可愛いご近所さん、竜堂冬瑠の幼馴染だ。名を、白鳥火蝶、と言う。派手な名前の通り見た目も派手な人物だった。
 この辺りではそこそこ有名な「情報屋」でもある少女――そう、まだ彼女は少女なのだ――は、灯月を一瞥するなり、一言。
「帰ったのか浮気男」
「俺と先輩はまだ付き合ってないから『浮気』は該当しないぞ。」
 「まだ」などと口にしてしまう辺りが非常に情けない。
「同じことだ!」
「いや全然違うだろ」
「お前は冬瑠一筋だって信じてたのに…その点だけは!その点だけは信じてたのに!!いやだからってお前なんかに私の冬瑠は譲らんがな!冬瑠が欲しければ私の屍を超えて行け!」
 先輩の父親か、お前は。
 灯月のあきれ返った視線がはっきりそう告げていたのだが、本当ならば冬瑠より年下のはずの彼女は赤ん坊を抱いたままで嘆いた。その口から、流れるようにして「情報屋」白鳥火蝶の得た情報が零れ出て来る。
「…まさかお前に、昔、三ヶ月も付き合ってた女が居たなんてな…。しかも何だ話聞く限りえっらい仲が良かったらしいじゃないか。名前は雪野雪希。お前が高三の当時大学二年。…ホントに年上趣味なんだな、お前」
「――!……しら、と、り。お前、まさか…」
 調べたのか。とは尋ねなかった。天下の「情報屋」相手に、さすがに愚問だと思ったのだ。果たして、火蝶は得意気に胸をそらせ、赤ん坊の頬を優しく撫でた。手際よく詩律にミルクを与えられて、赤ん坊はどうにか泣きやんでいたが、まだぐずぐずと言っている。
「ふん。万全を期し、事に挑む。情報屋として当然の心がけだ。」
「人のプライベートとか個人情報とかそういうのを何だと思ってやがる!」
「存在自体が個人情報スルーパスのESP持ちの分際で何をほざくか阿呆」
 酷い言い様である。世のESP能力者が聞いたら能力者保護特例法違反だと騒ぎ出しそうな台詞であった。
「…。あのな。俺以外にその理屈、使うなよ。」
「それこそ愚問だな、灯月。お前は気にしないだろうと踏んだから口にしたまでのことだ。」
 火蝶は堂々たる口調で言うと、赤ん坊を少しだけ揺すった。


 雪野雪希は、白鳥火蝶の調べた通り、確かに、星原灯月のいわゆる「元彼女」という奴であった。灯月が高校三年生の頃である。
 火蝶の、半ば脅しにすら似た情報開示により、灯月は赤ん坊を横に正座して詩律と火蝶に事情を説明することとなった。
「いやまぁなんつーかほら、四年…あの頃は三年だったかな。望みのない片思いなんか続けてるといい加減嫌気が差すこともあって、さ」
 まして当時受験生で、それなりに神経の削れていた灯月は、ある時ふらりと、知り合いの紹介で知り合った女子大生とお付き合いを始めてしまったのだ。全くくだらない動機であったし、相手にも失礼なことではあったのだが、しかし意外とこのお付き合いは長く続いた。
「だって雪希さん、何となく冬瑠さんに似てたし」
 灯月の告白にその場に居合わせた詩律と火蝶が思わず頭を抱えたくなったのは秘密である。やっぱり彼は冬瑠に一途であることに変わりは無かったらしい。
 しかしまぁ、何しろ動機が不純であったし、それに何よりも、灯月の冬瑠への一途な片思いっぷりは周囲の人間もよく知る所である。三ヶ月で、「お付き合い」は事実上の破局を迎えた。
「…雪希さんとは…たまに連絡は取ってるが、ここ半年くらいは直接会うようなことはなかったな」
「ふむ。それが突然、赤ん坊を送って寄越したと。」
「やっぱりさぁ、オンナの人が一人で子供育てるのって大変だしさー嫌気が差したんじゃないのー?」
 能天気に言ってのけたのは詩律で、これには灯月は硬い口調ではっきりと反論した。
「いや。そもそも雪希さんは、子供を投げ出すような無責任な人じゃない。」
 またしても、詩律と火蝶は目を見合わせあって肩を竦める。詩律は半分は苦笑しながら、やっぱこいつもオレの子だなぁ、などと暢気なことを考えていた。子供に優しく女性を敬え。星原家の、鉄の掟である。
「…くそ。その子が本当に俺の子だってんなら、何だって、今になってこんなこと。」
 言いながらも、彼はソファに寝かされた赤ん坊をあやすのを忘れない。あまり子供を相手にするのが得意ではない灯月だったが、しかし、あの盛大な泣き声を聞いていれば赤子の機嫌を維持するのに必死にもなろうというものである。
(ありゃ音響兵器だな…)
 心底彼はそんなことを思ったとか。
 赤ん坊は無邪気に、彼の指を掴んで笑って居る。
「やっぱりお父さんが居ると落ち着くものなのかな、赤ん坊でも」
 その様子を見守る火蝶がぽつりとそんなことを言ったので、灯月は溜息混じりに反論した。
「だから父親は俺じゃないって………多分」
 多分、の辺りが非常に弱々しい。火蝶は彼に睨みをくれ、詩律は心密かに息子に同情した。こういう時の人間の男って本当に立場弱いよなぁ、と、子沢山なアロワナ様はそんなことを思っている。
 ただし、彼は口に出してはこう言った。
「あ、でもそしたらこの子、オレの孫ってことになるのかな」
「帰れクソ魚」
 彼の息子の返答は、非常に冷ややかな物だった。それでも指先を握る赤ん坊に対しては彼なりに優しく接しているのだから、全く迫力と言う物は無い。赤ん坊の柔らかい頬を突いて笑わせながら、彼は父親に対してのみ冷淡な目を向けた。
「第一、お前なんで此処に居たんだ?鹿児島に行ってたんじゃなかったのか?」
 いっそそのまま帰ってこなくて良かったのだが。
「うんイッシーに呼ばれてねー。でもほら、可愛い可愛い一人息子のことが心配になって。いっしょーけんめー仕事終わらせてきたよ?オレ偉いでしょ。」
 褒めて褒めて、と言う詩律を見、赤ん坊を見、それから灯月は嘆息して、ああ、と頷いた。どこか投げ遣りに。
「…俺一人じゃ赤ん坊の扱い方なんて分からなかったからな。…礼は言っておく。助かった。」
「おや珍しく素直。」
「この間俺の『舞王』を一升瓶丸ごと飲み干した件はこれでチャラにしておいてやる」
「お前まだそんなこと根にもってたのか!何ヶ月前の話だッ!?」
「あ?俺があれ手に入れるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ詩律!?」
 味覚音痴の分際で酒には五月蝿い灯月は、以前、貴重な日本酒を詩律に飲み干されてしまったことがある。それを未だに根に持っていたらしい。恩義は忘れず、仇も忘れず、そして食い物の恨みも忘れるな。これもまた、星原家の鉄の掟である。
「な、何だよ、お前だって前にオレのプリン食ったじゃねーかっ!」
「あれはちゃんと返しただろうがこの魚頭。てめぇに都合の悪いこと忘れてるんじゃねぇよ。第一あの時は俺、腕折られて大変だったんだぞ。」
「ちゃんと治療もしたじゃねぇか!オレがわざわざ野郎の治療をするなんて二百年ぶりくらいだぞ!」
「そーか、二百年ぶりに貴重な体験が出来て良かったな。」
 言い捨ててから灯月はそれきり養父の方には一瞥もくれずに、赤ん坊に向き直った。どこもかしこも柔らかいので触るのには躊躇があったが、指先で突いたりして機嫌を取っている。背中を向けられてしまった詩律は、途端に大袈裟な仕草で火蝶に抱き付いた。
「カチョウちゃぁん、とーげつがいぢめるー!」
「……ああ、はいはい。」
 お前らの愛情表現は本当に分かり難いな、等と無粋なことを火蝶は口にしたりはしなかった。非建設的に過ぎると理解していたからだ。代わりに口にしたのはもう少しだけ建設的な内容だ。
「ところで灯月。お前、冬瑠を見なかったか。血相変えて飛び出して、それきり戻ってこないんだが。」
 灯月はこの時初めて、漸く、自分が冬瑠を置き去りにして帰ってきたことと、そして――
 ―――何故か彼女が未だに帰ってこないことに、気が付いたのだった。



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